秋の嵐(一)

 晩夏から秋に入っても、今年は雨が多かった。10月6日には関東は嵐に襲われ、ある会合に出ていた私はタクシーを拾えず、ずぶ濡れになって帰った。

 9月は月の半分を軽井沢で過したが、雨ばかりだった。一夕知人を迎えて草津の温泉宿に遊んだ。が、その日も強い雨だった。

 浅間山の稜線がくっきり美しく明晰に見えたのは滞在も終りに近い最後の二、三日だけだった。私は山荘で独居し、読書ばかりしていた。選んだのはゲーテだった。暫らくして当「日録」のゲストコーナーに伊藤悠可さんが登場して下さって、書かれた文章の主題をみたらゲーテだったので私は偶然に驚いた。

 このところ私が日々何を勉強し、誰と会い、どういう会合や対談に参加しているか、「日録」らしい記録を提示していなかったので、9月末から10月6日の嵐の日までに身辺に起こった毎日の出来事を少し丁寧に語って、報告を兼ねて、近事の感懐を述べておきたい。

 今年の6月イギリスを旅行したときにエミリー・ブロンテ『嵐が丘』の古跡を見る予定になっていたので、この長篇小説の新潮文庫訳を持参し、往路の機内とバスの車内で全巻を読み切った。むかし子供向きのあらすじを綴った簡略本でしかこの小説をまだ読んでいなかったからである。

 しかし感動は乏しかった。30歳で病死した若い女性の頭の中の妄想がこの小説の内容のすべてではないかとさえ思った。最後まで読ませるのは構成がよく出来ているせいである。登場人物がすべて異常人格で、語り手の老女だけが僅かに人間としてまともである。こんな世界はどうみても不自然である。

 昭和の初期に西洋の長篇小説に対抗できない日本の文壇は、「私小説」は小説でないといって自嘲ぎみに自信を失っていたが、誰かある作家がこう言ったものだ。「西洋の長篇小説は要するに偉大な通俗文学である。」

 『嵐が丘』は復讐ドラマとしてみても観念的で、一本調子で、この世にあり得ない話である。あれだけ長い作品の中に、人間や人生に関する深い観察のことばがまったくといっていいほど出てこない。全篇これ若い女の妄想の域を出ていない、と言ったのはそのような意味をこめて言った積りである。

 軽井沢で読んだゲーテはドイツ語の格言集や日本語翻訳の長編小説などいろいろあるが、『親和力』を望月市衛訳で久し振りに読み直した。私も年をとって発見したのだが、小説の上手下手、出来映えの良し悪しではなく、人間や人生に関する含蓄のある観察のことばが随所にあるか否かが、作の魅力のきめ手である。

 ゲーテは人間をよく観ているな、とたびたび思う。が、意地悪な眼でじろじろ見ているのではない。何処を引用してもいいが、こんな例はどうか。


 「それはたいへん結構なことです。」と助教は答えた。
 「婦人はぜひとも各人各様の服装をすべきでしょう。どんな婦人も自分にはほんとうはどんな服装が似合い、ぴったりするかを感じ得るようになるために、誰もがそれぞれの服装を選ぶべきでしょう。そしてもっとも重要な理由は、婦人が一生を通じてひとりで生活し、ひとりで行動するように定められているからです。」

 「それは反対のように考えられますわ。」とシャルロッテは言った。
 「わたしたちはひとりでいることは殆どありませんもの。」

 「確かに仰しゃるとおりです!」助教は答えた。
 「他の婦人たちとの関係においては、そのとおりです。しかし愛する者、花嫁、妻、主婦、母親としての婦人をお考えになって下さい。婦人はいつも孤立し、いつもひとりであるし、ひとりであろうとします。社交ずきな婦人もその点では同じです。どの婦人もその本性からして他の婦人とは両立できません。どの婦人からも女性のすべてが果さなくてはならない仕事の全部が要求されるからです。男性にあってはそうではありません。男性は他の男性を必要とします。自分がほかに男性が存在しなかったら、自らそれを創造するでしょう。婦人は千年生きつづけても婦人を創造しようとは考えないでしょう。」

 よく日本の小説について女が描けているかどうかが取沙汰される。例えば漱石の『明暗』は男を全然描けていないが、女は良く描けている、などと。しかしゲーテが何げない登場人物に語らせているこの対話は、女が描けているかどうかの話ではない。

 私は詳しく解説する積りはない。読者はオヤと何かを感じ、考えるだろう。ことに女性の読者は大概納得するだろう。否、男性の読者もわが母、わが妻、わが娘を見て、あるいは職場における同僚の女性の生活を見て、正鵠を射ているなときっと思うだろう。

 女性の強さも、悲しさも、けなげさも、そしてその確かさも全部言い当てていると恐らく思うだろう。女性を突き離しているのではなく、包みこむようにして見ているゲーテの大きさをも感じるだろう。

「秋の嵐(一)」への1件のフィードバック

  1. 自分にはゲーテがあまりにも男性的な作家に感じられると申しますか、
    確かに言い当てている部分があるとはいえ、
    ここまで書かなくても良いではないか、
    あばきたてる感じで身もフタもないではないか、
    との印象があります。
    このような論理的な直截さは、
    おそらくゲーテのみならずドイツ文学の気風なのでしょう。
    ただ自分には、ここまでずけずけっと女性論を語るゲーテと
    初恋の人グレートヒェンの名を『ファウスト』に登場させてしまうゲーテとが
    どうも一致しないと申しますか、
    そこがまたゲーテの魅力なのかも知れませんけれど。

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