秋の嵐(三)

 東京裁判が最近も日本の国会では、首相答弁に出てくるほどホットなテーマであるのに、ニュルンベルク裁判のことは、ドイツ人の大半が問われて学校でさえ習った記憶がないと答えるそうである。ましてや東京裁判についてほとんどのドイツ人は存在自体すら知らないらしい。ドイツ在住のエッセイスト、来日中の川口マーン恵美さんから10月3日に聞いた話である。

 日本では東京裁判については今でも新刊本が相次ぐ。ニュルンベルク関連の本はたまに出るが、これはこれまですべて翻訳ものであって、日本の研究者によるニュルンベルク裁判の秀れた研究書が出たとは寡聞にしてきかない。東京裁判に関するアメリカ人の研究書はあるが、ドイツ人の研究書はこれまた私は耳にしていない。(間違えていたらどなたか教えてほしい。)

 戦争責任や戦後補償をめぐって世界の目はかってドイツにのみ厳しく、今は逆転して不当なまでに日本に厳しくなった、そしてドイツに優しくなった、とどなたかが書いていた。しかし本当にそう言えるのかどうか、まだ私にははっきりは分らない。新聞のトピックスに出てくる話題では多分そうなのかもしれない。中国人ロビーがアメリカ政府内で暗躍していろいろなことが起こっているということはあると思う。

 ニュルンベルク裁判では三人無罪だった。東京裁判では全員有罪だった。しかし終身刑まで含めて日本人のA級戦犯は講話締結後に釈放されている。

 国内でこれは国民挙げての要望であった。外交手続きを踏んでの措置ではあっても、不満や非難が国際的に起こって当然であった。なのに、不可解という声は少しは起こったらしいが、海外から目立つ批判や抗議は起こらなかったようだ。

 このことは謎である。東京裁判そのものへの戦勝国側の後めたさが反映しているのではないかと私は推量している。ニュルンベルク裁判の法的手続きと同じ鋳型を嵌めるような、「共同謀議」などといった乱暴な措置をしたのは間違いだった、という内心の気まづさが作用したと考えるのはいささか甘いだろうか。

 釈放のときの不問が今頃になってまだごたごた言われる原因になっていると考えることが出来るかどうかもよく分らない。ニュルンベルク裁判がナチスの犯人を裁いてナチズムを弾劾し、国家としてのドイツを免責したのと違って、東京裁判は「一億総懺悔」の日本人を問責し、国家としての日本を裁いている。その不当さに日本人は納得しないから、裁判に対する不服従はドイツ人よりも頻繁に表に出る。それが今でもごたごた言われる原因だろうか。

 とにかくドイツと日本は歴史上後にも先にもない異例中の異例の国際軍事法廷の裁きを受けた。東京裁判史観の克服をとかくに口にする人が多いが、ニュルンベルク裁判をよく知り、両裁判を比較研究しなければ、われわれの認識が新しい地平を拓くことはこのあと決して起こらないだろう。

 私は『異なる悲劇 日本とドイツ』の著者としてずっとそう思ってきた。しかしどこから手を着けてよいか分らなかった。

 私は1992年を最後にドイツに行っていない。98年を最後にDer SpiegelやDie Zeitや Frankfurter Allgemeineを読まなくなってしまった。信頼できるドイツ在住の、同じ問題意識を持つ日本人の協力を得なければドイツの州立図書館や公文書館の窓を開くことももうできない。

 そう思いつつ半ば諦めていた処へ『ドイツからの報告』(草思社)の著者川口マーン恵美さんと出会う機会に恵まれた。われわれはたちまち肝胆相照らし、共同研究への意志が固まり、メイルで文献や書物の情報交換をした。

 そして10月3日に二人だけの第一回の討議を行った。

つづく

「秋の嵐(三)」への8件のフィードバック

  1. エントリーに関連しませんがドイツといえば連想するのがユダヤ人
    昔、家内がどこかで手に入れたマーヴィン・トケイヤー(ユダヤ人)著『日本人は死んだ』と
    いう本を読んだ記憶がありますが、その書籍も処分して内容も忘れてしまったのですが・・・
    偶然、辿り着いたサイトです^^お手すきの折にでも観て下さい^^

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    ■ゲッベルスは戦後日本の予言者だったのか
    <以下抜粋>
    ゲッベルス宣伝相が挙げたこの超国家的勢力の狙いとする心理戦、神経戦とは次の如き大要である。

    「人間獣化計画」
    愛国心の消滅、悪平等主義、拝金主義、自由の過度の追求、道徳軽視、3S政策事なかれ主義(Sports Sex Screen)、
    無気力・無信念、義理人情抹殺、俗吏属僚横行、否定消極主義、自然主義、刹那主義、尖端主義、国粋否定、享楽主義、恋愛至上主義、家族制度破壊、民族的歴史観否定

    以上の19項目をつぶさに検討してみた場合、戦後の日本の病巣といわれるものにあてはまらないものが
    ただの一つでもあるだろうか。否、何一つないのを発見されて驚かれるであろう。
    ゲッベルス宣伝相は、戦後の日本に対する予言者だったのであろうか。

    「日本人に謝りたい」
    〜 あるユダヤ長老の懺悔 〜
    ──ユダヤ長老が明かす戦後病理の原像──より
    http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_he/a6fhe801.html

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  2. 「裁いた側」の良心の問題は、どうなんでしょうか?

    キリスト教的には、悔悟の念を告白するドイツ人は立派なクリスチャンで…
    他方、(世俗の裁判で罪をドイツ人に押付け…)己は罪を告白せぬアメリカ人なんぞは、良心不在の「不信心者」ということにならないでしょうか?

  3. ニュルンベルク裁判において処罰の根拠となった「人道に対する罪」と東京裁判で処罰の根拠となった「平和に対する罪」とは中味において決定的に異なるのではないでしょうか。
     人道に対する罪は、その凶悪性・重大性からして実定法がなくとも自然法に背く罪でたとえ実定法としては事後法でもそれ以前に「書かれざる法」として自然法として存在したという言い方ができるかもしれません。
     しかし、「平和に対する罪」は、言い換えれば「戦争を始めた罪」ということになり、戦争そのものが禁止されていない(今日でも戦争自体は国際法で禁止されていません)国際社会において、これを犯罪とすることは本来できなかったはずです。
     それでも裁判を行ったのは、それまで例をみない犠牲の多い大戦争だったために多数の犠牲を出した自国民を納得させるための「けじめ」として必要だったからだと思います。
     その欺瞞性は、当時の連合国の指導部もわかっていたと思います。
     その意味では、東京裁判は国際政治そのもので、東条英機らの死刑の執行とその後の冷戦の進行で欧米にとって裁判の政治的な意味がなくなると、禁固刑を受けた「戦争犯罪人」の復帰も問題がなくなったのだと思います。
     また、ドイツ人がニュルンベルク裁判に触れたがらないのは「人道に対する罪」の重大さから、今でも客観的にこの問題を正視できないからではないでしょうか。
     
     

  4. 欧米ユダヤキリスト教徒は、善悪の判断を自分で出来ない。
    よって、己の行動を恥じる感覚が欠如している。

    法なり、教義が許せば、それで良いのである。
    近代に入って、合理的論理で納得すればそれで構わないとなった。
    (その典型は、原爆投下の正当化)
    (ちなみに合理的論理展開は自己中心でなくては出来ない)

    彼らは、人間として欠陥があるというしかない。

    東洋人の思惟方法について名著を残された中村元先生は、
    西洋人については、他人に任せたいとして旅立たれた。

    新聞のコラムを中村元先生と交代で担当されていた西尾先生の
    「西洋人の思惟方法」を読んでみたいものだ。

  5. 前の投稿に付け加えます。
     これは推測ですが、ニュルンベルク裁判では、被告人の選定もナチスの「ユダヤ人問題の最終的解決」政策の立案・実施に関与が疑われた者はもれなく起訴されたのではないでしょうか。無罪判決を受けた者が3人もいるというのはそのことを思わせます。
     ことが自然法に対する罪(そのことは世俗的な犯罪というよりは宗教上の罪とも関係する)であり、ドイツ自体は分割占領され政治的配慮を加える必要がなかったからだと思われます。
     これに対して、東京裁判は国際政治における戦後処理の道具でしかなかっために、被告人の選定は極めて恣意的でしたし、何よりも政治的配慮で戦争をその名において開始した昭和天皇は訴追されませんでした。
     私は、東京裁判の長編記録映画を見たことがありますが、弁護人が事実関係を明らかにして無罪を得ようという「裁判」として戦っているのに対し、検察官や裁判長の姿勢は裁判と言うよりは「最初に結論ありき」で、弁護人の反対立証自体を認めないという姿勢で臨んでいるのが印象的でした。
     これに対して、ニュルンベルク裁判は例えば暴力団が起こした犯罪を裁くように証拠と事実に基づいて、少なくとも東京裁判よりは「裁判」らしく行われたのではないでしょうか。
     

  6. 西と東の2つのエセ裁判を通じて、一番正気だったのは大川周明でしょう。

    これは間違いない(笑

  7. 逆=ニュルンベルク裁判を開いて、連合国の指導者を被告とし、暴力団の犯罪を裁くように裁いてみる…
    逆=東京裁判を開いて、連合国を被告とし、国際政治の戦後処理として裁いてみる…
    こ~れをやるべきだったですね… 
    松井やより女史は(笑

    NHKテレビは、当然、これを放映しなければならない… 
    「真相はかうだ!」の罪滅ぼしにね。

    こうすれば、『戦後とは何か?』が良く分かったと思いますよ。

  8. 川口マーン惠美女史の『フセイン独裁下のイラクでくらして』、『国際結婚ナイショ話』、『禁断』いずれも草思社刊を読了しました。なかなかの才女と感服いたしました。エッセイも小説も楽しく読ませていただきました。タイ王国チェンマイ在住の身としては蔵書はこれだけですので『ドイツからの報告は』読書かなわぬ身ですが、ドイツ人との婚姻や彼女の帰化をしないと言う意思、ドイツ滞在といった彼女の取り巻くあり方に感心を抱きました。今後のお二人の論考が楽しみです。また、エドモンド.バークを凌ぐというゲーテの保守主義とはどんなものなのか興味津々です。ドイツの思想家はとても問題がある人か功罪半ばする人がほとんどのように見受けられますが、バーキアンを自称する中川八洋筑波大教授との見解の相違などが出てくるといいなあなど独り言しています。

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