秋の嵐(四)

 余りにも課題は巨魁で、探査の行方は深海に下ろす錘のごとくである。われわれは水面に浮んでいる浮標のごとく呆然とするのみである。第一次資料を読むなどという処へはとうてい行かない。他人の研究成果を追いかける以上のことはできない。

 それでも二つの裁判を重ねて見る、という方法と問題意識だけは最初から、そしてこの後も見失うまいと考えている。

 幾つかの新しい疑問にぶつかったので、ここに簡単に個条書きにしておく。

(1) 「戦争犯罪」と「人道に対する罪」は別の事柄であると今ではやっと広く認識されるようになってきた。前者は戦勝国にもあり、後者はホロコーストを指す。ところがニュルンベルグ裁判ではこの二つは必ずしも明確に区別されていなかったのではないかと疑われる。

 初期のナチ犯罪、テロ、人種政策、ユダヤ人迫害は、明かに「人道に対する罪」に結びついているが、戦争と直接結びついていないので、裁きの対象にはしないというのがニュルンベルク法廷の意見だった。この点は後日歴史判断にどう影響してくるだろうか。

 そもそもドイツの再軍備はベルサイユ条約に違反していた。しかし再軍備も、オーストリアやチェコの奪取も、「侵略戦争」のうちに入れられず、「侵略行動」とされたのみだった。

(2) 共同謀議、国際法が認めていない個人の責任、戦争は犯罪ではないのを無視した侵略戦争の概念、侵略の定義の不可能、遡及法(条例の事後律法的性格)、等々の国際法上の矛盾として知られる東京裁判の諸問題は、ことごとくニュルンベルク裁判にすでに同じ矛盾した問題として提起されていた。

 東京裁判はニュルンベルク裁判の結論をそのまゝ押しいたゞいている。前者は後者によって基礎づけられ、決定づけられている。

 ニュルンベルク裁判は「ジャクソン裁判」といわれたほど一人のアメリカ人の検察官の理念と活動に支配された。東京裁判ではそれがキーナン検事に引き継がれた。そしてマッカーサーが最終決定権を握っていた。アメリカによる「人類の法廷」の性格は両裁判にきわ立っていた。

 東京裁判ではフランスやオランダなどの欧州法との食い違いがたびたび露呈したが、ほとんどつねにアメリカによって押し切られた。人類の名における「アメリカの法廷」であったといっていい。

 私が気づいた疑問の根本は、ドイツの戦争犯罪を戦後裁判で裁くという計画が最初に意識されたのは1941年秋であったことだ。真珠湾より前である。

 日本が参戦するより前に、戦勝国による敗戦国に対する「裁判」が計画されていた。これは驚くべきことではないだろうか。

(3) 罪を問われた被告は両裁判ともに国家の行った戦争の正しさを主張し、個人に責任のないことを唱えたが、ニュルンベルク裁判の被告人には例外があった。

 シュペアー軍需大臣(判決20年)は裁判の正しさを認め、「裁判は必要である。官僚制度の下でもこのような恐るべき犯罪に共通の責任がある」と語り、ナチズムとナチスの指導部をこき下ろした。シャハト財務大臣(判決無罪)もゲーリングを面前で批判した。

 ドイツ人弁護人の中には犯罪の大きさと恐ろしさにショックを受け、被告のために最善の弁論を尽くせない人もいた。東京裁判ではこのような光景はみられなかった。日本人弁護人はけなげなまでに戦闘的に最善を尽くした。アメリカ人弁護人も、東京裁判の不成立である所以をくりかえし熱弁した。

 ホロコーストは「自然法」に反する。それゆえに「人道への罪」という概念が出て来たといっていいが、ニュルンベルク裁判で初めからホロコーストと戦争犯罪を区別する意識があったかどうかは上記(1)(2)からみても不明である。

 当時は勝者が敗者を裁くことに急だった。それは東京裁判だけでなくニュルンベルク裁判においても同様だった。

 裁判にかかった巨額の経費を負担したのはアメリカ一国だったという記載をどこかで読んだ――未確認だが――おぼえがある。これが案外問題を考える決め手かもしれない。

つづく

「秋の嵐(四)」への4件のフィードバック

  1. 東京裁判

    期間は昭和21年5月3日から23年11月12日までの2年6か月間、925日。開廷日数417日。裁判官は11か国11人、検事団500人、米国人弁護士23名をふくむ日米の弁護団118人、証人419人、宣誓供述書779人の4,336通・9百万語。総費用は27億円(当時)

    この費用は、全て日本政府の支出とさせられました。

    ネット上のソースとしては、東海大学教養学部人間環境学科助教授、鳥飼行博さんのHP
    http://www.geocities.jp/torikai007/war/tokyotrial.html

    また、朝日新聞法廷記者団による、1963年の「東京裁判」にも記載されています。

    Wikipediaにも載ってはいるのですが、これはソースとしてはあまり信用が置けませんので、除外します。

  2. 軍需大臣のシュペアが連合国のリンチ裁判で殺されずに済んだのは、(恐らく)連中が彼の代わりに労働大臣のザウケルを殺す事にしたからだと思います。
    シュペアはエセ裁判の最中から、「反省」とブルジョワ出身の優雅な立ち居振舞いで、連合国側の人気者になっていたらしい。
    シュペアも、大川周明と同じく、正気を貫徹したんでしょう(笑

    ナチス党は労働者階級の党でしたから、ヒトラーも(恐らく意図的に)粗野な労働者的マナーで振舞っていた。
    労働大臣のザウケルは、もともと労働者階級出身で、マナーは典型的な労働者の粗野なものだったらしい。
    「そんな理由で?」というのは後世の感覚で、当時の戦勝国は血に飢えていたんだと思う(笑

    そもそもブルジョワ出身のシュペアが、労働者階級の政党=ナチスに入党した事自体、興味深い。
    戦時中のドイツでも、ナチス党は必ずしも圧倒的な支持を得ていたわけではないらしい。
    ナチス党が宣伝や力(ゲバルト)で反対派を押えていた面があって、昭和天皇のもとに一致団結していた日本とは大違い。
    それは終戦後、連合国がナチス糾弾にドイツの反ナチ派を大いに利用できた事情から伺えます。
    日本でも「戦後殉難者」と「戦後利得者」が発生したが、ドイツほど顕著ではなかったようです。
    (「ナチスの人々」、p.105-111,『ドイツ留学記(下)』渡部昇一・講談社現代新書、ご参照)

    あるイギリスの百科辞典の「シュペア」の項では、ヒトラーとの関係を述べた後、シュペア自身について、こう締めくくっています。
    〝The story of the life of the man himself, well-born, brilliant, charming and handsome, is itself the stuff of Faustian drama.〟

  3. >日本が参戦するより前に、戦勝国による敗戦国に対する「裁判」が計画されていた。これは驚くべきことではないだろうか。

    昔、私は『シオン長老の議定書(プロトコール)』を読んでいたので、驚くことはありませんでした。

    この議定書、偽書だとも言われ、しかし誰が書いたにしろ100年後の現在、世界情勢はこのとおりに進んでいる。しかもそのほとんどが実現している、これは驚くべきことではないだろうか。

  4. 本日の先生の文章で少し驚きました。
    自分の理解力、記憶力の無さのなせることなのですが、
    『異なる悲劇日本とドイツ』のハードカバー版が出た昔、今もなのですが、私はニュルンベルク裁判が最初から、戦争犯罪とホロコーストを法的に区別して裁いたものだと誤読していたようです。だからこそ、不当な戦争犯罪を作り上げた東京裁判と比較する議論が誤りだと強く認識していたのです。そもそも日本にナチス犯罪はない、と。
    しかし、今日の先生の文章でもう一度、御本を読み直してみようと強く思いました。とにかく敗戦国を裁いた、という論理しかなかったのなら、東京裁判の解釈もまた論争的になるのかもしれませんね。先生のお仕事に期待しております。

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