謹賀新年

謹 賀 新 年 

 

平成19年(2007年)元旦

 私は今年の夏72歳になります。年末の病院での血液検査で数値上悪い項目は何ひとつなく、いたって健康です。しかし昨年同級生(旧友)を二人失いました。

 今年の冒頭には例年とは異なり、まず自分の喜びを語りたいと思います。それから野心を告知し、そしてその後にひしひしと訪れている内心の空虚感をさらけ出してみたいと思います。

 約2年半前の夏、当日録に「私は今夜ひとり祝杯をあげています」(平成16年7月23日)と怪気炎をあげた臆面もない次のような一文を認めたことを覚えていて下さる方もいるかもしれません。

2004年07月23日
私は今夜ひとり祝杯をあげています
昨夜応援掲示板に書いたものですが、こちらにも転載します。

====================

1408 私は今夜ひとり祝杯をあげています 西尾幹二 2004/07/23 01:54
 2004年7月22日、正確には23日午前1時、「江戸のダイナミズム」第20回完結稿の最後の数枚のゲラがファックスで諸君編集部に流れました。すぐに受領の電話が入りました。 

 今回は題して「転回点としての孔子とソクラテス」54枚でした。これで完結です。もう毎月、月の半分を苦しまなくて良くなったのです。

 ああ、なんという解放感!

 第一回は2001年7月号でした。3年間の断続連載でした。

 ついに終わったのです。嬉しくてたまらない。壮大なテーマで、
私には蟷螂に斧でした。 

 この5日、7時まで書いて、睡眠薬を呑んで、午後1時に起きだす
生活でした。一気に10枚くらい書くのは夜中でないと出来ないのです。昼間は文献調べです。

 いつまで出来るか分かりません。皆さん、せめて今夜だけ私のために
祝ってください。本は1000枚にもなるので急ぎません。

 いまひとりウィスキーの乾杯をしています。暑い日々、皆様もおげんきで。

 最後に「急ぎません」と書いたのが仇をなして、本当に時間がかかってしまったのです。この前後に『男子、一生の問題』を出したのを皮切りに、『民族への責任』『日本人は何に躓いているのか』『人生の深淵について』『新・国民の油断』(共著)を相次いで出版して、それから小泉総選挙にぶつかり、『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』を書いたことはまだ皆さまのご記憶にも新しい処だと思います。

 ほかに再刊本二冊(『日本はナチスと同罪か』『人生の価値について』)をワック出版から出し、ショーペンハウアーの主著の旧訳も中公クラシクスで刊行してもらいました。正直私は『江戸のダイナミズム』の完成には研究のし直しの必要もあり、整理と修文が簡単でないことを予感していて、しばらく他の仕事に逃げていたいという思いも多少はあったのです。

 あの本はいつ出るのかという期待の声を八方から耳にしました。「つくる会」内紛よりもずっと前に作業を再開していましたが、やってみると、もう一度書き直すくらいの労力を要することに気がつきました。新しい難問に次々とぶつかり、補説の必要も生じ、膨大量の注の作成その他にも手間を取り、担当編集者にも苦労をかけ、溜息の出る思いのすることが何度もありました。

 すでに昨年末にご報告している通り、本は完成しました。全640ページ、図版25枚、注(二段組34ページ)、参考文献一覧(二段組12ページ)、そして索引は人名・書名・事項の三種類です。本は1月26日に店頭に出ます。表紙は16世紀の世界地図。定価は2762円です。文藝春秋刊。すべては作品をご覧いたゞく以外になく、どうか宜敷くお願いします。

 まず目次をご紹介します。

登場人物年表  4

第一部  前提編

第一章    暗い江戸、明るい江戸 10
第二章    初期儒学者が見据えた「中華の『華』はわが日本」 27
第三章    日・中・欧の言語文化ルネサンス 48
第四章    古代文献学の誕生――焚書坑儒と海中に没した巨大図書館(アレクサンドリア) 66
第五章    ホメロスとゲーテと近代ドイツ文献学 88
第六章 探しあぐねる古代聖人の実像 111
第七章    清朝考証学・管見 137
第八章    三段の法則――「価値」から「没価値」を経て「破壊と創造」へ 164
第九章    世界に先駆ける富永仲基の聖典批判 187

第二部 展開編

第十 章   本居宣長が言挙げした日本人のおおらかな魂 216
第十一章   宣長と徂徠の古代像は「私」に満ちていたか 241
第十二章   宣長とニーチェにおける「自然」 269
第十三章   中国神話世界への異なる姿勢――新井白石と荻生徂徠  295
第十四章   科挙と赤穂浪士 325
第十五章   十七世紀西洋の孔子像にクロスした伊藤仁斎 353
第十六章   西洋古典文献学と契沖『萬葉代匠記』 383
第十七章   万葉仮名・藤原定家・契沖・現代かなづかい 414
第十八章   音だけの言語世界から誕生した『古事記』 456
第十九章   「信仰」としての太陽神話 489
第二十章   転回点としての孔子とソクラテス 519

注 549
あとがき 583
参考文献一覧
人名索引 /書名索引 /事項索引

 「登場人物年表」という日中欧の思想家の名の年代差を示す表が興味を引くはずですが、本を開いてみていたゞくしかありません。代りに、広告帯の裏面にのせられた「あとがき」からの短い抜粋文を掲示しておきます。

 限りなき神の世界の探求

 地球上で「歴史意識」というものが誕生したのは地中海域とシナ大陸と日本列島のわずか三地点です。そこで花開いた「言語文化ルネサンス」は文献学の名で総括できますが、それは単なる学問ではありません。認識の科学ではありません。古き神を尋ね、それをときには疑い、ときに言祝ぎ、そしてときにはこれの背後に回り、これを廃絶し、新しき神の誕生を求めもする情熱と決断のドラマでもありました。

(本書・あとがきより)

 この本は可能な限り学問的手続きを踏んでいますが、学者の研究書ではありません。私は学者という存在を信用していないのです。学者は「評価」を逃げるからです。歴史上の人物を列記して、記述していく場合に、大抵の学者は歴史上のどの人物をも平等に扱おうとし、どれをも良しとし、良し悪しの価値のアクセントをつけません。

 私はこの本で新井白石、荻生徂徠、僧契沖、本居宣長の四人に例外的特権を与えています。さらにその中でも徂徠と宣長を上位に置きます。それ以外の思想家もたくさん扱っていますが、価値の上で明らかに差別しています。例えば伊藤仁斎には低い評価を与えています。勿論その理由を明記しています。

 ヨーロッパと中国の古代をどう評価し、どう理解するかもこの本の眼目の一つです。ギリシア・ローマの古典古代はアラビア人の歴史に属するのであって、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアに独自の古代はありません。他方、中国に近代はなく、中国はいまだに古代専制国家体制のまゝなのかもしれません。

 ここでいう「近代」というのは丸山真男が荻生徂徠に託して「主体性」の名において語った単眼的な内容のものではありません。近代性は神秘の反対語ではないのです。神秘を信じ、かつ否定し、神の背後に回ってこれを懐疑し、しかるのちさらに神を探求し、模索し、新たな神秘を決断する精神のことです。

 宣長にも徂徠にもそれがあります。ニーチェやドストエフスキーのような人神思想が日本にはあって、中国にはありません。たゞし明治以後の日本にもそれらはありません。明治以後の日本に存在を許されたのは思想の教師であって、思想家ではありません。江戸に比べると明治以後の日本は恐ろしく平板で、見窄らしいのです。

 まあ、そんな説明をいくらつづけても仕方なく、本を読んでいたゞくしか方法がないのですが、私はこの本で日本の思想界に一つの新しい価値の標識を掲げようと企図しているのです。

 それがどれくらい分ってもらえるか判然としない不安が私を捉えているのではありません。私が先に暗示した「空虚感」とは、世間から理解し、評価してもらえるかどうか分らない不安なのではなく――そんなことを私はこの歳でとうの昔に卒業しています――私の指し示す神がまだ不確かで、私の目指した価値がまだ歴史の岩盤に届いていないのではないか、という不安なのです。

 私はまだ到底覚束ない身なのに、仕事のできる残された年月は短くなり、この本を起点に次をどう探求したらよいのか、次第に選択の可能性が小さくなっている昨今の不明が私を迷わせているのです。

 道なお遠く、歩みは遅々としていて、目標だけが見えるがゆえの不安なのです。

「謹賀新年」への10件のフィードバック

  1. 新年明けましておめでとうございます。

    本年もよろしくお願いもうしあげます。

  2. あけましておめでとうございます。待望の大著の刊行心より楽しみに致しております。

    「この本は可能な限り学問的手続きを踏んでいますが、学者の研究書ではありません。私は学者という存在を信用していないのです。学者は「評価」を逃げるからです。歴史上の人物を列記して、記述していく場合に、大抵の学者は歴史上のどの人物をも平等に扱おうとし、どれをも良しとし、良し悪しの価値のアクセントをつけません。」

    恐らく、単なる大学の教授と評論家とを分かつ点はここにあるのではないかと思います。すなわち、評価することを躊躇しない勇気でしょうか。ときにそれは蛮勇となることもあるかもしれません。しかし、蛮勇を恐れていては果敢な精神活動はできない。
    ただし、評論家が常に大学教授よりも優れているわけではないでしょう。評論家は左右問わず俗耳に入りやすい瑣末な問題しか自らの課題としないという悪癖があるように思われます。瑣末な問題しか課題にしないから精神的な奥行きが何もない。
    現代の保守派はこの評論家の悪癖に染まっているのではないか。それゆえに、深く深く思想を続けたい人には「保守」は物足りないのです。保守派が勝利したと凱歌をあげている一方で大学、大学院の中で勉学をし続ける人々の強烈な極左化が起こっています。日本の「右傾化」を嘆く文系アカデミズムの世界では近代国家そのものを敵視する姿勢が顕著であり、天皇への敵視は常識となっています。

    保守派の中から政治、哲学、文学の領域における「反左翼」に留まらない深奥な「非左翼」である論考が待たれる所以です。昨年、別冊正論に掲載された長谷川三千子先生の「三島事件とは何であつたのか」は、大変な力作論考でした。田中英道先生の『新しい日本史観の確立』もまた力作でした。ただし、夥しい論考、著作の中で思想的に光るものはこれらしかなかったのではないでしょうか。
     西尾先生の反左翼に留まらない、先人の精神の奇跡を描いた大著を拝読することを楽しみに致しております。

    本年もよろしくご指導ください。

  3. あけましておめでとうございます。今年も時々感想を掲載させていただければとても嬉しく幸いです。 
     西尾先生も今年で72歳になられるのですね。私は西尾先生の年齢の半分くらいの年齢の人間ですが、西尾先生の本を読み始めてまもなくの頃、西尾先生が還暦を迎えられたときの複雑な感情を伝えられた文章を、どこかの新聞に掲載執筆されていたことを憶えています。あれから10年以上が過ぎたわけですが、「邯鄲の夢」ではないですが、本当にいろんなことがおありだったと思います。私がいつも驚くのは、これは小林秀雄さんが言っていたことだと思うのですが、「駒」は回りながらある意味で一番早く動き、ある意味で動かないようにみえる、それが考えるという行為なのだ、といわれたことを、西尾先生の著作を読んでいるといつまでも感じられることですね。つまり世界の動きを敏感に吸収しながら、あるいはその他の知識量を大きく増やされながら、たえず一貫した問題意識を考えられている、ということですね。実践活動に振り回されてしまっている思想家には「新しさ」しかないし、実践や知識を常に重ねられない思想家には、追求しつづける主題に時間的緊張がない。ところが西尾先生の思考の「駒」は常にめまぐるしく新しく、しかし同時に美しくとまっているように見えます。10年という歳月が、西尾先生の著作の世界の中では、まさにこの駒のように流れていると私は思います。
      西尾先生の本を読んでいつもゾクゾクする問題意識の提示が、このブログの紹介文にもたちまちいろいろと予感されてきて、新著が楽しみになってきます。たとえば「ニーチェやドストエフスキーの人神思想が日本にはあって、中国にはありません」というくだりですね。もちろん、「人神」の意味はニーチェの哲学やドストエフスキーの文学とは違う形で明治以前の日本にあるのでしょうが、神秘や神を巡る様々な激しい思想的実践、ニーチェ的に言えば「血の言葉」を語る世界ということにおいては、全く共通している何かが、西尾先生が対象とされる思想家達にはあるのでしょう。私達は明治時代を偏重すると、明治時代の視点から「平和にすぎなかった」江戸時代を、平板な世界と見つめがちです。しかし、近代化や戦争といった政治的事件に思想家が影響されるとは限りません。あるいはそういう政治的事件が思想家の内的経験化されるときの生々しさをつい、私達は忘れてしまいがちになってしまいます。何気ない日常への驚きや絶望ということが思想家の終始の原点なのですから、政治的事件の時間の流れにあっても、思想家の実感に肉薄して語ることが必要になる。このことが、文字通りに思想史を読む人間にはなかなかわからない。下手をすると、思想家が受けた外的条件を比較することだけが、「比較」だと言うようなことになりかねないし、そういう類の書は箒で掃いて捨てるほど、毎年この世界にあふれかえっています。「比較」ということは、「似ている」とか「違う」とかという二者択一とは本来的には関係ないのでしょうね。そしておっしゃるように、明治期以降は、思想研究家(学者)があたかも思想家であるかのような誤解が定着し、本質的な思想家はほとんど見当たらなくなってしまうことも、江戸時代に「過去の死」を与えてしまったのでしょう。そこには安穏とした「比較」の世界しかありませんね。西尾先生の世界はいつも、これらのことに関して、私達に厳しい自省を促してくれるものなのですね。
       結論的な言い方かもしれませんが、「西尾学」の世界を一言で言い表すと、「血の言葉」を語った思想家達を、西尾先生が、「実感」をこめて比較考察していく世界だ、といえると思います。たとえば、宣長とニーチェの「自然」というくだりに、私はもう知的興奮といっていいくらいの予感をおぼえます。そこにどんな世界が展開されているのでしょうか。「実感」ということには、西尾先生がこれまで歩んできてこられた人生の経験、この10年間の実践のこと、あるいは21世紀になっても依然として「神」の問題から離れられない私達の日常世界、そういったものが、行間にびっしりと控えています。めまぐるしく動いているのですね。反面、彼らのとらえようとした問題というのは普遍的なことなのですから、根本的な意味では、真新しいものではありません。それを普遍的な問題として抉り出すためには、それを抉り出す人間が絶えず普遍的な問題意識にとらわれていなければなりません。たとえばWAC出版の「人生の価値について」の冒頭文、ギリシア哲学の世界から「放棄する」ことについて語られた文章を読んで、私は西尾先生のすごさは全く健在だな、と思いました。新潮社版の同著からこのWAC出版の再出版まで、やはり10年間が過ぎているのですが、その10年間の様々な西尾先生の実践の時間が、この冒頭文にあますところなく感じられ、かつ普遍的な感銘も受けることができました。これこそが西尾先生の世界の知的な醍醐味なのだ、と私は思います。そしてそれは思想を実践する、ということの本当の意味を教えてくれます。
     新著も必ず拝読させていただきます。小生の分まで長く健康であられて、私達にとって必要な思想を残されていってくださることを切に願っております。
       

  4. 長谷川様

     先の投稿、メールアドレスを間違えていたようです。
     処理方、宜しくお願い致します。
     新年早々、申し訳ありません。

  5. 明けましておめでとうございます。

    >……近代性は神秘の反対語ではないのです。神秘を信じ、かつ否定し、神の背後に回ってこれを懐疑し、しかるのちさらに神を探求し、模索し、新たな神秘を決断する精神のことです。

     この文章には、心を洗われるように感じました。
     新著を心待ちにしています。
     (1/1再投稿)

  6.  明けましておめでとうございます。昨年は色々不愉快なことにも出会いましたが、今年も御教導の程賜わりたく、何卒宜しくお願いいたします。
     『諸君!』聯載分から大幅に増補・改訂された『江戸のダイナミズム』、いよいよ拝読できるのかと思うと、本当に心躍るここちです。「自分は学者ではない」とは、先生がつねづね語られておられることですが、この言葉の奥にはすべてを等価値に置いて論じようとする傾向に対する、先生の強い憤りがあることを再認識させられました。普段、二流・三流の「思想家」を研究対象に取り上げがちな小生にとっては耳に痛いことなのですが・・・。

  7. ピンバック: kyuji22.com
  8. 教科書問題の一環として、必読の書をご紹介します。
    両書とも、南京虐殺なるものの虚構を暴く、極め付けの本です。「南京虐殺」ではなく「南京占領」が正しいのですね。

    『南京事件研究の最前線』(東中野修道編著/展転社/2000円+税)
    『南京事件発展史』(冨澤繁信著/展転社/2000円+税)

  9. 突然で失礼します。
    ワールドフォーラムご案内です。奮ってご参加ください。

    今回は東中野修道先生を中心に、各先生から歴史の真実を研究・追及貴重なお話をいただきます。今回は「歴史の検証」がメインテーマで真実情報を得る貴重なシンポジウムです。 
    ご友人をお誘いのうえご参加ください。
     

    http://worldforum.jp/  をご参照ください。

    新春特別歴史シンポジムのご案内・・・2007年1月20日(土)

    第二次世界大戦とはどのような歴史だったのか ?
    前 駐日インド大使 ・
     慶應義塾大学グローバルセキュリテイ研究所教授 
     アフターブ・セット 氏
    国際情報誌「真相の深層」編集長・発行人
     木村 愛二 氏
    亜細亜大学教授 東中野 修道 氏
    国際ディベイト学会会長 松本 道弘 氏
    弁護士 南出 喜久治 氏
    ネット・ジャーナリスト リチャード・コシミズ 氏

    ワールド・フォーラムでは、久しぶりに近代史を取り上げて、新春1月の 歴史シンポジウム として昭和史を取り上げて、 「 世界史の真相追究 」 を行ない 「 第二次世界大戦史の検証 」 を歴史の見直しの観点から行ないます。欧州ナチスドイツ・ヒトラーの台頭とその正体、これに対抗勢力としての英米アングロサクソンのチャーチル・ルーズベルトの果たした役割、中国大陸に進出した昭和日本の真意と実態、世界の近代史に果たした日本の国家的役割といった広い観点から、本当は , 「 第二次世界大戦とはどのような歴史だったのか ? 」 という、 『 歴史の検証 』 を行なってみたいと思います。

    日時・場所・詳細
    日時 : 2007年1月20日(土) 13:00 – 17:00
    場所 : 主婦会館  地下2階会議室 「クラルテ」
    千代田区六番町15番地    TEL(03)3265-8111
    交通 : JR四谷駅  麹町口前
    地図 : http://www.plaza-f.or.jp/information/otoiawase/otoiawase.html
    参加費 : 5,000円(予約前払い 4,000円) 
    振込先 : 三菱東京UFJ銀行 田無駅前支店/普/3826681/口座名義 さそう くにお 

    連絡先
    ワールド・フォーラム例会にご出席いただける方は、下記宛にご連絡下さい。
    ワールド・フォーラム代表幹事 : 佐宗邦皇
    FAX : 03(3353)6499
    携帯 : 090(7234)9792

      E-mail : aikokusha-daiasiarengo@hotmail.co.jp

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です