入学試験問題と私(一)

 入試シーズンが近づいている。私の文章もしばしば入試問題に使われる。これは名誉なことなのか、不名誉なことなのか分らない。オヤと不審に思う使われ方もあるからである。

 内容の一部に手を加えて使われても、入試問題に限っては、多分法律できまっているのだと思うが、何も文句が言えない。出題したことを私に伝えてくるケースもあれば、何も言ってこないこともある。何年かして入試問題収録集を出版する会社から知らされて、初めて出題されていたことを知る場合もある。

 入試に使用したことを感謝してお礼にお菓子を送ってきた大学もあったが、最近はそういう例も少くなった。農学部で製造したスパゲティソースの缶詰を謝礼だといってドンと大量に送ってきた大学もあって、そういうのは微笑ましい。

 私の本で出題例が一番多いのは『ヨーロッパの個人主義』からである。1969年刊の処女作で、何回使われたか調べることもできないほどに多く、ほとんどあらゆるページが利用されたのではないかと思うくらいである。

 二、三年前に国立法科大学院の第一回の試験問題に採用されてからは、各種の問題集やテキスト集への収録がまた数を増した。これは一般の出版物だから必ずそのつど2000円か3000円かの使用料が支払われる。

 しかし、愕然とした出題例もなかにはある。出題者の常識をちょっと疑わざるを得ないというのは平成16年度の上智大学のケースである。

 読者の皆さんはどう思うか、ここに問題をその侭ご紹介する。

上智大学(2006年度)
入試種別:海外就学経験者入学試験(1月実施分)
学部学科:総合人間科学部 心理学科

1.以下の文章を読んで、各問に答えなさい。

 数年前、私は近所の小学校の運動会を見物していて不思議に思ったことがある。

 「駆けっこ」の競争で一等賞になった子供に賞品が与えられない。子供はなにか紙切れのようなものをもらって、それでお仕舞いである。不思議に思って、そばに立っている先生のひとりにわけを尋ねたら、賞品を出すと生まれつき足の遅い子供にかわいそうだから、あとで生徒全員にノート2冊の参加賞を与えるのだというのである。私はおかしくて、傍に人がいなかったらたぶん涙が出るほど笑ったことだろう。

 私自身、「生まれつき足の遅い子供」であった。運動会が嫌いで、いつも劣等感に歯を食いしばっていた思い出がある。私が敗戦を迎えたのは小学校四年だが、したがってそれまでは、運動のへたな子供は良い兵隊になれない子供とされ、どれほど惨めな、つらい思いをさせられたかわからない。だが、人間とはそうやってだんだんに育っていくものなのではないか。私とは逆に、運動会は大好きだが、学芸会や展覧会のときには隅のほうで小さくなっていなければならない子供もいる。

 こういうさまざまな経験をつんで、子供はしだいに自分の適性を知り、自分の能力の限界を知り、現実に耐える訓練をつんでいくのである。

 たとえ「平和で民主的な社会の担い手」を作るというのがいまの教育の徳目であっても、子供は国家間の「平和」のために具体的に何をしたらよいのかわかるわけがないし、「民主的」とはせいぜいホーム・ルームの話し合いぐらいの意味にしか理解できない。つまり、それは「忠君愛国」という抽象的な終身の徳目とたいした変わりはないのである。子供の生活とかけはなれた、上から与えられた抽象的な徳目であるという点では同じことだからである。

 だが、じっさいの子供の世界は、現実世界の縮図である。スポーツやけんかの能力が子供の世界に序列をつけている掟である。これは今も昔も変わらない。大人の世界よりもっと原始的な弱肉強食の法則が支配している。こういう子供の世界に対して、生まれつきの頭脳の差、体力の差、才能の差をことごとく抹殺したきれいごとのことばを並べたところで何の意味があるだろう。賢い子供ならそういう大人の甘やかしに虚偽を感じるだろう。だが、それほど賢くない子供は、学校社会という温室がそのまま現実の社会だと思いこんで、いかなる保護の手も差しのべられない現実社会に出たとき、困難をひとりで切り抜けていく忍耐力をもうもってはいないのである。そういう教育は洋裁店をやめてくにへ帰ってしまうような子供をふやすだけである。

 運動会に賞品を出さないとか、優等制度をやめるとか、先生と生徒は人格的に対等であるから友達のように接するべきだとか、受験競争は子供の精神を歪める社会悪であるとか、こうした一連の戦後教育家の、子供に被害妄想を与えまいとまるではれ物にさわるような気の遣い方は、それ自体、教師の被害妄想のあらわれでしかない。その結果、先生は自信を失い、子供は気力を失う。なんの得るところもない。

 毎月三月になると「受験地獄」のことが飽きもせずにジャーナリズムの話題になるが、競争をまるで悪であるかのように書き立てていることは大きな間違いである。試験の内容や制度に問題はあるにしても、競争それ自体はけっして悪ではない。むしろ門閥や権閥が崩壊して、社会階層の平均化が進めば進むほど、「試験」への必要度はましてくるし、戦後の大学や高校への競争の激化が、民主主義観念の普及のせいであることは明瞭であろう。民主主義が進めば進むほど、競争は激化する。どんな世界にも指導する人間と指導される人間との区別が存在する。階級差がなくなり、人間が平均化すればするほど、エリート養成法としてもっとも安易で人工的な「試験」への要求度が高まるからである。一部の民主教育理論家がいうように、試験によって人間の能力を判定している価値観は、人格に格差をつけようとする思想の反映である、などという理屈はまるで民主主義の正体がわかっていない。民主主義というものは、どこかで、いつか、「完成」するものだという思いつめた信仰があるからである。愛の原理だから完成すると思っている。とんでもない思い違いである。

(西尾幹二「ヨーロッパの個人主義」講談社現代新書1969年より)

問1 この筆者が主張したいことを要約して下さい(300字以内)。
問2 この筆者の主張に反論して下さい(800字以内)。

「入学試験問題と私(一)」への11件のフィードバック

  1. 私の高校は県内一の進学校で、多分にもれず、国語(現代文)の授業では様々な評論家や作家の文章を入試用に使っていました。慌しい中で、様々な受験技術論が語られていましたけれど、私はある国語教師の言葉、「現代文は、その作者や著者が解答者になっても、半分の点がとれないことなどざらなんですよ」と繰り返し私達に説いていたことを今でも特に鮮明に憶えています。受験勉強に忙しいながらも、その言葉にどうしてもひっかかりました。受験国語に「自分の文章」が登場したときの困惑や懐疑については、今回の西尾先生のブログ文をはじめ、小林秀雄さんや桑原武夫さん等も言われていますが、共通しているのは「自分の意図」というものは何か、ということだと思います。「本人」が、この模範解答は間違っている、と直接受験会場や受験授業に来て主張したら、その主張は正当なものなのかどうかということは、作者のみならず、受験国語に真剣に取り組んだことがある受験生なら、一度は考えたことのある問題だと思います。受験国語がフィクションだ、と言えばそれで済んでしまう問題ですが、しかしこの問題は実は案外深い問題をもっているようにも私には感じられます。
      受験国語がフィクションである、という修辞には、一つの作品に一人の作者の意図が単一しか存在せず、それ以外の読解は「誤読」である、という読書論の図式が存在しているように思えます。しかし読書や読解というものをそういう図式で考えること自体がフィクションなのですね。かつて西尾先生が言われたように、シェイクスピアの劇作は、シェイクスピアの作品だけでなく、その作品を演じ続けてきた様々な俳優達の幅の広い実践によって形成されるものです。そこには大変な数の「誤読」ももちろん存在したでしょう。むしろ誤読に挑むことこそ、シェイクスピアの本を読みこなし演じる本質なのだ、ともいえます。あるいはシェイクスピア自身が一人でなかった可能性が指摘されるように、作者と作品の関係というものもそもそも固定的なものではありません。作者が定かでなく、書き換えられてきたプロセスそのものが「作品」という例ならば、「平家物語」なり「老子」なり、文学史や思想史には無数に見あたります。私にはこれらの古典の世界の事情と、現代文の事情は全く同じだと思います。つまり受験国語というのは、フィクションでなく解釈という実践行為なのであって、それは「誤読」と言われようが、あるいは作者本人と対決することがあろうが、独立性をもったものなのだ、ということですね。つまり、「本人」が現れて、「違う」と言っても、反論するだけのロジックを持ち合わせなければならない、ということになるでしょう。その文章をつくった本人が半分しか点がとれないという国語教師の言葉は、必ずしも間違いではない、というふうに、私は思います。
      しかし「誤読」という解釈も作品の実践を形成するのだ、ということが正しいとしても、何でも許されるのかということではありません。西尾先生のブログ文の意図はそこにあるのだと思います。西尾先生が引用されているこの問題、「反論しなさい」とあります。果たして「反論」というものに、模範正解があるのか、ということを先生はおっしゃりたいのだ、と思います。つまり、「作者の意図」というものは解釈によって幾つも成立し、その中で誤読・正読のせめぎあいが起き、それ自体が実践ということがいえるとしても、「反論」においてそれが成立すると考えるのはあまりにも読書・読解の実践を逸脱しているといわなければなりません。「反論」は「作者の意図」のようには成立しません。「シェイクスピア解釈の歴史」というものはあっても「シェイクスピアへの反論の歴史」は少なくとも独立して存在しえないのではないでしょうか。アメリカのディベート授業あたりでは「反論」についての正解の世界というのもあるのでしょうが、「反論」が成立するためには、その反論に対応するような正論、つまり幾つもの成立の可能性のある「作者の意図」をとりあえず確立する必要があるでしょう。にもかかわらず、この問題文は、「作者の意図」についても述べなさい、とあるわけです。すべてが受験生の前に投げ出されてしまっているのですね。先生がおっしゃるように、やはりよい受験問題とはいえないと思います。  

  2. なるほど。数年前のセンター入試の「従軍慰安婦」事件と通底するものがありますね。

    この時期は受験生及び大学にとって微妙な時期ですので批判は差し控えておきましょう。そこで私はこの「良問」に2つの問を追加することを提案します。

    問3 この出題者が主張したいことを要約して下さい(300字以内)。

    問4 この出題者の意図に反論して下さい(800字以内)。

  3. これは「海外就学経験者入学試験」というのがミソなんですかねぇ。
    海外で”進歩的”、”リベラル”な知識を仕入れた人が対象で、その”リベラル”な視点から、うまく反論できた人が合格点を貰えるのでしょう。

    世の中の欺瞞が見えてる人にはこの出題文章に反論しようとすると”屁理屈”しか思い浮かばず、難儀してしまいますが、リベラルな受験生なら何も躊躇せずに回答出来るでしょう。出題者も確信犯的なリベラルだとしたら、大学はそういう人たちが集まるところとなってしまい、構造的にみても、非常に質の悪い問題といえます。

    それとも、心理学科なので他に意図があるのでしょうか(笑

  4.  今回の入学試験と私(1)についての先生の問い掛けにたいして、私は馬鹿正直に『反論』だけでなくて『賛意』とペアで問題を作成すれば結構いい問題になるのになあと考えました。しかし、①出題の大学が上智大学、②入学種別が海外就学経験者入学試験(帰国子女?)、③入試問題が西尾先生の文章となるとこれは落語の3題噺ではないか。この日録読者ならピーンときます。①第3次小泉改造内閣(2005年10月)猪口邦子内閣府特命担当大臣(少子化・男女共同参画担当)②当時は上智大学法学部教授 ③日録 猪口邦子批判(旧稿)2005年9月11日~同年11月29日の12回分と見事に対応します。恐らく試験問題作成委員会に何等か猪口氏と関係のあるか興味を持った人物がいたのだろうと推測するのは的を得ていると思います。敢えて下種の勘繰りをしてしまいました。まあ、雑誌に(中央公論1987年3月号)に『当節言論人の「自己」不在』で夫と共に批判され著作に再録されまた著作集にも再録されたのだから頭にきたのかもしれません。しかし、先生がおっしゃるとおり言論人なら反論することができますから、批判が不当であれば反論すれば足りることです。しかし、この夫君は先生の出版元で八つ当たりで憂さを晴らしたそうだし隠微に入学試験で江戸の仇を長崎でとったのかしら。大学ともあろうところがこんな非常識な試験問題を作成するとは良識を疑います。

  5. 果たしてどういう反論が出たのか興味がありますが、
    というよりどう反論したらいいのでしょうか?
    反論できないと不合格か?と無理やり反論を作るわけですね。
    私が受験生だったら
    「全く正論。反論はない!!」
    と書いて上智大学に入ることを
    あきらめますね。(笑)

  6. 私は楽観的なので、これは難しい意図ではなくて、法学部等の弁護士になるための訓練のデイベートのように、論理推論力を見るもので、本人が本心から賛成していようと、いまいと、関係なく、賛成側と反対側にわかれて、デイベート力を見るもののようにも見えますが。

  7. 西尾先生の出題趣旨とは違うけど、制度と試験内容が不一致ではないでしょうか。
    海外就学経験者入学試験(いわゆる帰国子女ですな)の2007年の総合人間科学部心理学科の出願基準を見ると英語では英検準一級やTOEFLのこれこれである数字以上で出願させています。そして2002年の心理学科の試験結果では50名定員で受験者数25名、合格者8名だそうです。

    1.制度の趣旨・概要
      青少年期における異文化体験で身につけた個性、各国固有の教育制度下で培われた教養・知識など、国内の学習環境では修得し得ないさまざまな能力を評価する入試制度です。

    と書いてありますな。それならばなぜ出願基準に沿った外国語でかつ外国人の論文で試験を行わないのでしょう。制度の趣旨を読むと「異文化体験で身につけた個性、各国固有の教育制度下で培われた教養・知識など、国内の学習環境では修得し得ないさまざまな能力を評価する入試制度です」と書いてあるのだから試験官は各国固有の教育制度下で培われた教養・知識など、さまざまな能力を評価する能力があるはずです。

    確かに西尾先生の比較文化論的な話は各国固有の教育制度下で培われた教養・知識などを基礎にしたものでしょう。しかしそれはあくまでも日本語で書かれたものであって、帰国子女が一番得意はずの外国語で表現させるのが一番いいと思うが。まさか日本語の理解のテストじゃあるまいし。
    評価がしにくいのかしら。問題を作るのは大変だが、制度の趣旨概要であれだけのことを書いたらその趣旨に沿った試験をすべきでは。

  8. 私は全くの少数派ですか?
    上智大学の「反論ーーー」は良い試みだと思います。しかしまっとうな反論の文章を書ける学生が何人いることやら。しかしいつも反論されても困るし、機械的に同調するのも困る。

  9.  受験生であれば、合格したい一心から、問2を可能な限り書こうとすると思います。そして合格した暁には、ああ、あの問題で、見事反論して見せたのがよかったのだ、と思うかもしれません。ならば、大学の問題作成者の勝利ですね。ただ悲しむべき、卑しむべき勝利です。
     不合格になった受験生の中で、あんな論文に反論なんてできやしない、と思えば筋の通った感性の持ち主であり、反論しようと思えば反論できたのだがあえて書かなかったのだ、上智大学は嫌いになったと、思えば、彼も一角の人物でしょう。

     ヨーロッパの個人主義は、私が学生の頃手にした本であり、戦後汗牛充棟の如く書かれた文化論中で、唯一これは!と感じた一冊です。啓蒙的書物です。なつかしい文章を読んで、若かりしころを思い出しました。私もドイツへ何度も行き、したたかなドイツ人を見てきました。

     それで、当問題ですが、18才の若者が800字の文章で及第点を取るには、相当な推理力・文章構成能力と併せて日頃から反日本文化論、或いは少し突飛ですが、反日的書物を読んでいることが必須と考えます。問題作成者に反日本文化論を読んできた受験生のみ入学させるという意図があるのならば、彼らは最初に述べたような、卑しむべき考えの輩でしょう。また、受験生がそのようなものを受験勉強に加えて、高校もその準備をさせたのならば、「罪」は重いと言うべきです。

      (マンガ原作者)

  10. トラックバックが上手く送れなかった様です。
    楽天のブログからは受け付けないのでしょうか?

    受験競争の終着点に、競争の否定が待っているのなら、それはかなりシュールな情景でしょう。
    現在の大学教育の一端がかいま見えたような気がします。
    トラックバックに代わり、URLを貼り付けて置くことにします。

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