つぎに黄文雄先生、ひとことご挨拶をおねがいいたします。
日本を呪縛する「反日」歴史認識の大嘘
黄 文雄 (2007/04)
徳間書店この商品の詳細を見る黄先生は台湾ペンクラブ賞でデビュー以後、次々と文明論、歴史論を発表され、旺盛な著作で知られます。黄さんからは、日本文明と中華文明の差異は、西尾先生の文明観とどこが違うのか、などについてお話が伺えるかと思います。
黄文雄氏のご挨拶
西尾先生、本日はまことにおめでとうございます。
私が初めてこの『江戸のダイナミズム』を手にしたとき、江戸のダイナミズムというよりも、どういう感じがしたかと言いますと、西尾イズムの宣言ではないかと思いました。しかし、それは集大成ではなくて、これから江戸のダイナミズムについて、どういう考えで、それから進化していくかということです。
私はこの本を読みながら、他の方とは若干違う感想を二つ述べさせていただきます。一つは、私は実は、江戸の儒学に対してものすごく興味を持っています。それはどういう理由かといいますと、私は儒学専門ではなくて、歴史哲学をやっている者ですが、高校時代から国文の方も、歴史の方も宋の、理学―りきのがくですね、学校の履修として、かなり関心を持っていました。
どういう感想を持っているかといいますと、江戸儒学と朝鮮の儒学と中国の儒学を比較してみると、儒学の中でとくに朱子学というのは、どちらかといいますと全体主義思想なんですね。そして、儒学というのはマルクス主義とそっくりなところがいっぱいあります。だから中国の儒学というのは、マルクス主義と非常に近いのではないかと思います。
だからその実証として、アジアの共産主義革命の中で、なぜ儒教文化圏だけが成功して、そして今も崩壊しないのか、ということを考えながら分析すると、マルクス主義というのは、儒学とほとんど同じイデオロギーではないかと私は思います。その特徴としては、全体主義なのです。それは感想なのですが、しかし、なぜ江戸時代で、江戸のダイナミズムが出てきたかといいますと、同じ中国の方も、朝鮮の方も、日本の方も、儒学を国教としました。儒学は最初中国では宋の時代では禁学だったのですが、モンゴルの元の時代になってからオープンになったのです。
しかし、同じ中国の方でも、朝鮮の方でも、日本の方でもなぜ江戸の儒学だけが違うのかといいますと、私の分析では、儒学というものは、原則、つまりたてまえと本音を使い分けるような学問なんですね。日本だけがなぜ、江戸ダイナミズムが出てきたかといいますと、それは日本の約300年間に渡って、江戸儒学以外に、伝統的な仏教思想の基盤、その土台があって、そして江戸中期から国学が出てきた。
そして中国、韓国では絶対見られない陽明学が出てきて、そういうような多元的な思想、多元的な学の交流というのがあって、ダイナミズムが生まれたのではないか。確かに、西尾幹二先生の方が、ダイナミズムのコア、中心、その中心というのは、学問と言語だと。私はその学問の中で、いろんなものが入ってきて、江戸儒学は確かに国教だったのだけれど、その中に国学があって、仏教思想の土台があって、また陽明学が非常に広がってから初めてこれが生まれたのではないかというふうに思います。
これから何年後、四年後、五年後、十年後、西尾イズムの集大成を私は期待しております。どうもありがとうございました。
黄先生ありがとうございました。それでは8時10分までまたしばしご歓談くださいませ。
つづく
前回、拙文の総論の「中段」において、その締め括りとして、西尾先生の「吾が民族の神話と天皇と国家のつながり」を闡明する卓抜かつ大胆な辞立(ことだて)を掲げさせていただいたが、同時に西尾先生は「宣長の「皇国日本」の優越性につながる日本神話の信仰にはどうしてもついて行けないと、ここで袂を分かつ人が少なくないのです」と冷静に省察することも忘れてはおられない。
そして「私自身は格別に抵抗も反感も抱きません」と勇気ある感想を表明されながら、「ただ宣長のこの素朴なまでにまっすぐな太陽信仰、日本人のアニミズムの神をことさらに世界を支配する普遍価値として拡大する大胆さは、いったいどこから来るのか、これはあな不思議とあらためて立ち止まって考えてみたいという気になります」と、この最も難解な問題に焦点を合わせ、御自身の若き日の読書体験の中からある連想的エピソードを語りつつ問題を象徴的に理解する方向をさぐるというアプローチを試みられた。
そして、トインビーの偽物の臭気と対比しつつベルジャイエフに本物を見出され、この篤信のキリスト教哲学者の純粋な考察の中に真実を感得し、次のように抄出しておられる。
「歴史は客観的経験的な所与ではない。歴史は神話である。神話というものは架空事ではなく、一つの実在である。(中略)それは外的客観的な世界の限界を超えて、一つの理想世界、主観=客観的な世界を開示する。神話はシェリングの深遠な見解に従えば、人類の根源史である。しかし神話は太古の世界にあるだけではない。さまざまな歴史の時期が神話創造の要素に富んでいる。(後略)」
而して、西尾先生は、それを「キリスト教哲学者のこの言葉は、そっくりそのまま本居宣長の言葉だと言っても違和感がないように私には思われます。歴史は神話であり、神話は経験世界において現実に与えられる実在とは「別の秩序に属する実在」だ、と宣長と同じような「次元の違い」ということを言っています。神話は民族の記憶の中に保存された、出来事の報告で、一つの理想を物語っているとも書かれています。宣長が「古事記」に見たものもまさにこれです。
天照大皇神の御業は、ほかでもありません、「人類の根源史」なのです。しかし神話は太古だけにあるのではありません。奇異の思えるのは神代で出来事だけではない、人代においても奇異なことばかりではないかと彼は書いていました(後略)」と承け、「私はトインビーを嫌って、ベルジャイエフやプルトマンに真実を予感した若い日の感覚が、いまここであらためて宣長によって喚び起こされた思いがいたします。民族の神話の中に永遠を読み解く鍵があり、民族の信仰の特殊性がそのまま普遍性であることを語ることを、どうして日本人だけがためらう必要があるでしょうか」と結んでおられる。
西尾先生のこの瑞々しい感性とその透徹した直観力には只々驚嘆するの外はないが、流石に凡庸な私も「民族の信仰の特殊性がそのまま普遍性であること」の真実性を疑いのないものであると確信する。何故ならば、この「人類の根源史」は、それぞれの「民族の神話」という姿によってしか未だ実在せず、その一つ一つが「民族の信仰の特殊性」を自己において完成することによってのみ「普遍性」を具現することが可能になると考えるからである。
而して、世界に実在するさまざまな「民族の神話・信仰」の中で未だ完全な姿で生命(命脈)を保持するもの、その祭祀が存続するものは吾が民族・国家におけるそれ以外に、即ち「神道」以外に見当たらないのであるとするならば、少なくとも当の日本人は、ためらう必要がないのみならず、ためらうことは却って自らの責務を放棄するものに外ならないものと、何故に本末転倒を自らに強いなければならないのか、そのように思えてならないのである。
さて、西尾先生は、この大著の「あとがき」において「そもそも学問は古代との緊張関係によって動機づけられ、維持されるべきものです。「歴史の欠乏」の自覚が近代史(16世紀より以降のことです)のいわば必然だからです。(中略)明治と江戸の間に断層を認めるべきではありません。明治で何か新しいことが決定的に始まったというのは幻想です。逆に明治でなにか大切なことが見失われ、一時的に衰弱期を迎えたと考えるべきではないでしょうか。そして、その代りに、昭和の時代は江戸からの精神の地下水脈を汲み上げ、あらためて古代との緊張関係を復活させたのではないでしょうか。
正確には大正の後半から昭和の戦争を経て戦後史をもつつみこんで、国家の苦難の時代に、民族の精神の興隆のエネルギーはかえって高まったように思えます。「歴史の欠乏」があらためて自覚し直され、古代との対話が江戸とは違った形ではありますが(儒学の代りに西洋学が血肉化します)、また始まったのではないでしょうか」と問い掛けられ、ことあたらしく「昭和のダイナミズム」が書かれるべき観点を、ひとこと示唆しておられる。あらためて瞠目するところである。
西洋学の血肉化とは、吾が民族の神話・信仰と対極に位置する契約の宗教ユダヤ教とヘブライズムの異質までも含めて消化吸収することに外ならない。そして、大東亜戦争の敗北の後、吾が国に仕掛けられた民族の文化そのものに対する凄まじい殲滅戦もそれと表裏するものであると確信する。
而して、この国家の苦難の時代、就中、昭和の初期から終戦まで、江戸のダイナミズムの地下水脈から汲み上げた民族の精神が、昭和のダイナミズムとしてどのように興隆してエネルギーを高め、どのように破壊され封印されたか、その命脈は保たれているのか絶たれてしまっているのか、空前絶後の緊要で雄大な課題である。
現代日本に生きられる真の賢人としての西尾先生にして、はじめて自在に白描され力強く本色として書き上げることがお出来になる無二の大作であると敬信し、ひたぶるに御期待申し上げる次第である。
以上、気持ちばかりが先走り恥じ入るばかりの拙文ではあるが、この歴史的大著を拝読しての感動の随の所感文の、その「総論」はこれを「後段」として締め括り、次回は、先ず「各論」の嚆矢として、本居宣長大人の後継者としての平田篤胤大人の神道史上の位置・業績について、いささか愚論を開陳させていただきたいと思っている。
深田祐介さんの「大東亜会議の真実」という本を私は読んで以前、深い感銘を受けたことがあります。1943年冬の東京で開催されたこの会議は、戦後左派が言うようなアジア各国の売国奴の集結であったわけではない。反面、盲目的な親日派の集会であった、ということでもないのですね。
どの出席者も、正真正銘、日本の国力と国民文化に、深い敬意を抱いている。しかし戦局が不利になった日本の行く末も認識している。そしてこれまたどの出席者も、自分の国(民族)の独立運動に日本がどこまで利用できるかという判断も怠っていない。チャンドラ・ボースという人物は疑いようもなく偉大な人物ですが、彼の足跡を追えば、日本に依存する前はドイツを頼り、日本降伏直後、ソビエトを頼ろうとして事故死したわけです。「敵の敵は味方」ということがボースの論理だったといえば容易いですが、ボースはたとえば、東条首相からのインド国民軍への軍事援助の申し出に対して、それを「援助」でなく「貸与」にして欲しいと粘りました。
日本側とすればボースの拘りの意味がわからない。日本人にとって善意は善意に過ぎないからですね。しかしボースの拘りの意味は、二次大戦終了後、イギリスの裁判のとき、インド国民軍の無罪ということに貢献するのですね。無罪ということだけでなく、日本の協力を、日本と対等の立場で得た、ということを証しした、ということでもある、ということなのです。ここにボースの深謀遠慮があるというべきでしょう。
ボースをはじめ、バー・モーやラウレルなど、みな同じくとてもしたたかな人間です。しかし「したたか」と「ずるい」は全く異なります。ボースの日本への賞賛は本当の気持ちだったし、バー・モーは日本軍の純粋な精神に何度も号泣し、ラウレルは敗戦直前の日本に来てまで日本という国に期待を賭けていました。つまり、「親日」は「追随」ということでは決してなく、矛盾した言い方になってしまいますが、「日本」と「親日」いうことは別個独立した一つの立場だと考えなければいけないことを、彼らの「日本」とのかかわりのドラマは示しているのではないでしょうか。
戦前戦後を通じてずっと、日本人の大半は実は「親日」ということの本当の意味を理解できていないのではないか、と私は考えます。
西尾先生がいろんなところで指摘されてきたことで、実は「江戸のダイナミズム」の最大のテーマの一つでもあるのですが、私達は西欧や中華世界に憧れることはできても「なりきる」ことはできないのですね。このことを裏返せば、いくら日本に正しく親しい弁護者でも、その人は「日本人」ではありません。当たり前のことかもしれませんが、そこらあたりのことをゴタマゼにして、アジア全域を日本共同体にしようとしたことろに、大東亜共栄圏というお人よしの情念的思想があったように思います。しかし、「日本人」と「親日」が無縁というかというと、そうではありません。やはり、「親日」を節度をもって育てるということも、日本人として、とても大切な任務だ、ということもいえるのですね。それは戦略的思考の一つですらある、と思います。
アメリカやドイツは、実に巧妙に「親」派を育てる。もちろんアメリカやドイツほど巧妙であるのはなんとなく違和感がありますが、私達が「親」派を育てる必要性ということを、「大東亜会議の真実」の読後感の一つとして、強く感じました。そしてこの読後感は、自分が日本という国家意識を実践形成していく上で、実に不可欠なことではないか、と日増しに強く思いはじめています。
黄文雄さんも石平さんも呉善花さんも、皆さんでなければできないようなたいへん優れた思想展開をもち、これからの日本にとってなくてはならない方だと私は思います。知識的にも見識的にも、どれだけ私の読書に貢献してくださったかわかりません。ただ皆さん、著作の写真で観たときよりも少し齢をとられたかな(笑)私達にとって大切なことは、大東亜会議で不完全に終わらせてしまった、「親日」の節度ある育成ということを、これらの方々との付き合いで実現していくこと、そのことで、「日本」と別な意味空間に、「日本」でない「親日」という場を形成することだ、といえるのではないか、と当日の親日派知識人の皆さんの話を伺いながら私は思いました。