小冊子紹介(八)

一部書評

入江隆則(明治大学名誉教授):【正論】 2007年03月02日 産経新聞

文明論における日本学派の成立  

■日本を地球的規模で見直す動き

《《《パリかウィーンのよう》》》

 日本の論壇も、ずいぶん国際化が進んだものである。台湾出身の黄文雄氏や韓国出身の呉善花氏、中国出身の石平氏らが、毎月のように活躍しているのを見ると、そういう感慨に誘われる。まるでひと頃のパリかウィーンの論壇を見ているようだ。しかもこの人々は一様に、日本文明論を志向している。

 黄文雄氏は、本来は日本近代史の見直しを提言した人で、日本人の歴史家のあまりの自虐趣味を見ていられなくなって、近頃のアジア人の視点から日本近代史の遺産の再評価をした人だった。それが最近では日本文明における「無常観」を論じている(拓殖大学日本文化研究所「新日本学」最新号)。また近く、日本、中国、西欧を通観した文明論を書く予定があるという。

 呉善花氏は本来日韓比較文化論から出発した人だったが、やはり最近は焦点を日本文明論に当て始めている。同じ「新日本学」誌上で、日本は「脱亜超欧」を目指すべきだという主旨の連載を書いて、今回は日本における女性の役割と、遊里における「粋」の精神を論じている。石平氏はまだ新進の評論家だが、近著『私は「毛主席の小戦士」だった』(飛鳥新社)での日本文化論は出色のものだった。背景にはやはり文明的視野が感じられる。中国人でまともな日本論を書ける人は、なぜか少ないのだが、石平氏はその数少ない例外になりそうである。

《《《日本人論者の新文明論》》》

 これらの国際勢に呼応して、日本人の論者も最近とみに日本文明論を論ずるようになった。たとえば昨年『文化力―日本の底力』(ウェッジ)を刊行した川勝平太氏は、第3の「パクス・ヤポニカ(日本の平和)」なるものを論じている。最初の「パクス・ヤポニカ」は平安時代の約400年、第2の「パクス・ヤポニカ」は江戸時代の約270年、それに対して第3の「パクス・ヤポニカ」は現在日本で進行しつつあり、これから世界に発信すべきものであり、世界を巻き込んで実現されるべきものだという、壮大な構想である。そのために川勝氏はいくつかの具体的な提言をしている。「富国有徳の美の文明」というのがそれで、海・山・森・野の4州に日本を大胆に再分割しようという提言も含まれている。

 日本文明といえば、近年もっとも新鮮なアイデアを提出した論客は、中西輝政氏だった。4年前の平成15年刊行の『国民の文明史』(扶桑社)のなかで、中西氏は、日本文明には長く忍従を続ける「縄文化の契機」があると述べ、また「瞬発適応」と「換骨奪胎」の超システムが存在すると指摘して、日本文明を見る鮮やかな視点を示した。また重層文明と更地の文明という視点から、世界の文明史の見直しも進めていた。

 もう1人ぜひここで触れておきたいのは、最近『江戸のダイナミズム』(文藝春秋)という注目すべき本を書いた西尾幹二氏である。西尾氏には『国民の歴史』(扶桑社)という名著があったが、そこでは江戸と中世の記述が少ないという批判があった。本書はそれに応える形で、江戸の多彩な豊饒さを語り尽くそうとしている。日本における「近代的なるもの」は日本史の中から成熟して、しばしば西洋より早く出現しているというのがその論旨で、古代と近代の懸け橋としての江戸の重大さを語っている。しかもそれによって日本文明を地球的規模で見直そうとしている。これら3者は、いずれもその文明論的な視野とその論述において、一昔前のいわゆる「日本人論」とは、全く規模が違っている。

《《《世界の中でさらに発展》》》

 昔20世紀の初頭に、文明論におけるスペイン学派と称するものがあった。オルテガ、コラール、ウナムーノ、マリーアスといった人々が活躍して、スペインを論じながら世界を論じていた。それとの対比でいえば、現代の日本には、文明論における日本学派が出現して、すでに成立しているといえそうである。

 しかもそれは東京の論壇で、多くの外国人を巻き込む形で進んでおり、壮観というしかない。スペイン学派はオルテガの『大衆の反逆』やコラールの『ヨーロッパの略奪』などの名著は生み出したが、スペインの国力の凋落(ちょうらく)とともに萎(しぼ)んでしまった。しかし日本学派の文明論はそれとは逆に、これからの世界の中での日本の地位の向上とともに、ますます発展してゆくものと信じたい。その意味で若い人々の関心と、奮起を促したいと思う。

 現在西尾幹二先生自身の筆による「西尾幹二のインターネット日録」は休載中ですが、西尾先生の許可を得て、管理人が西尾先生関連のエントリーを挙げています。

 4月4日、「江戸のダイナミズム」出版記念会の折に、受付で全員に配布された36ページの小冊子があります。その内容を順を追って紹介していきますが、遠藤氏によって朗読された部分等、割愛する部分もあります。

 また、この小冊子は非売品ですが、西尾先生のご好意により、多少残りがあるので、ご希望の方にはお分けしたいとのことです。希望される方はその旨を明記し、コメント欄にてご連絡ください。住所等個人情報は折り返しメールが届いたときに、メールに記述してください。

(文・長谷川)

「小冊子紹介(八)」への1件のフィードバック

  1. 最近考えさせられるニュースが多発するので、個人的な感情を私なりの哲学的表現でぶつけさせてください。

    もしも今目の前に弱った猫がいたとします。あなたならどんな心境になりますか?
    一、なにも無かったように通り過ぎる。
    二、気にはなるが、助けてあげようとまでは行動が移せない。
    三、しばらく目が止まり、どうしてあげるべきか考えるが、結局何もできず自分のふがいなさに自虐的になる。
    四、咄嗟に行動に移し、適切な処置をする。

    さて貴方はどんなタイプの人間なのか。
    おそらく三と答える方が多いのではないでしょうか。二と三は似ていますが後半は決定的に違いがあります。
    三を選ぶ方は普通の日本人の感情とリアクションだと思います。
    たいしたことのない出来事なのに、家に帰っても猫の事が気になり、何もできなかった自分を責めます。
    こうした感情はなぜ日本人に多いのか?
    正直よく解りません。

    さてそこで・・・

    フランシスコザビエルが初来日したとき、彼はデウスの説明に苦労したそうです。デウスはこの世をお造りになられた偉大なお方だと言っても、日本人はポカンとしたそうです。そこで宗教的な具体性を醸し出すため大日とのイメージを結び付けて説明しましたら、こんどは逆にはっきりと嫌がられたんだとか。
    大日というのはつまりお釈迦様・・・です。形が女性の陰部を醸し出すのと、『造る』という言葉が作用してかえって下品に聞こえたんだとか。(こういう話しを聞くとかえって昔の日本人のほうが想像力が豊かかもしれないと思えてきます)
    そこでザビエルたちは悩みました。いったいこの国の民はどんな話題に真剣に耳を貸すのか。
    人当たりはけして悪くはないが、何か見えない壁がどの民にも共通してある。
    そこで考えついたのが御神体という表現だった。
    ところがそれに対し当時の日本人は決定的な反応を示したようです。
    『デウスがこの世を造ったと言うなら、そのデウスはこの世が作り出したと考えることもできるのではないか。
    御神体と言い切るならそう問わねばならないのが日本人の感性だ。
    日本の神に際限はない。始まりははっきりしないからだ。誰が造ったかは問題ではないのだ。』
    そう応える日本人が圧倒的だった。
    さて、ザビエルはこれを聞いてどう思ったのだろう。たぶん、かなり悩んだのではないかと思う。私がザビエルならそうとう凹みます。
    しかも一人や二人の日本人の反応ではなく、ほぼ全員の反応であったわけだ。

    日本人は弱った猫を見ると、何も出来ない自分を責めます。ザビエルもまたそんな日本人の感情を理解した瞬間だったかもしれません。
    デウスのおかげで我々はこの世に存在出来ていると説く自分と日本の民との間の距離を痛切に感じた瞬間だったと思います。
    しかし、逆説的に言えば、この事は彼自身が日本人には成り切れない現実を知る事でもあります。
    物事がはっきりしない様を、責任を感じながらほおっておける日本人の感性は、おそらく変えることの出来ないものでしょう。
    弱った猫を見ても、何も出来ないで一人自虐的になる日本人の弱さは、ある種の強さでもあるようにさえ思えてきます。
    とかく最近、世の中の弱者の弱みに付け入る商売が流行り、時間の経過と共に内部問題がこぼれだし、最後は善人の化けの皮が剥がれ落ち悪魔の顔が覗き出しておしまいになるケースを耳にします。
    彼等はアポロ的賢者の振りをして、ディオニソス的自己陶酔により世の中の美味しいところだけを盗み食いしていたと表現出来るでしょう。

    結局相当の決意がなければ、人は立ち上がる勇気は湧いてこないのが普通であり、なかなか立ち上がれない現実に嘆きながら生きているのが我々日本人であることを、今は深く知るべき時代なのではないかと思うわけです。
    何を言いたいかと申しますと、人間はそうたやすく答えを出せる生き物ではない・・・という事を言いたいわけです。 世の中の矛盾を解決するがごとく善人面して立ち上がっても、本質が無い会社には到底無理が生じる良い例かもしれません。本来なら身売りなどせず、今こそ誠心誠意困っている方や社会的弱者の為に貢献するべきではないのか。
    この世に完璧な人間なんか存在しない。時には自ら弱さを露呈してしまうのが人間であるわけです。人間には虚栄心もあれば、また逆に純粋な正義感も混在しているわけです。
    自分がいかに弱いかを知っていれば、そうした弱さをなんとか塞ぎ、いかに強く生きられるかを探すはずです。
    それが精一杯生きるという事なんじゃないでしょうか。

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