小冊子紹介(七)

書 評

堤 堯:WiLL2007年5月号

堤堯の今月この一冊

 「本居宣長はニーチェに似ている」こんなセリフは、人も知るニーチェ学者の著者にして、はじめて言い得る。

 荻生徂徠、本居宣長、新井白石らの文献学(=歴史認識)は、日本のアイデンティティをまさぐる必死の営為だった。

 「地球上で歴史認識が誕生したのは地中海とシナと日本の三つ。そこに花開いた文献学は、単なる学問ではなく、新しい神を求める情熱と決断のドラマだった」

 と著者は断じ、江戸の思想家たちが演じたドラマを、世界史的な構図のうちに展開して見せる。

 同時期、西欧においても歴史認識の確立が図られた。カント、フィヒテ、ブルクハルト、ヘーゲル・・・・・。それらに比べて、徂徠・宣長・白石らは遜色がない。それどころか、活躍した時期をみても、彼らは西欧に先駆けていた。

 これら江戸期の先哲は、西欧に学ぶ機会もなく「明治」を準備した。すなわち一概に近代日本は西欧に倣(なら)って誕生したとするのはウソで、日本における「近代的なるもの」は、日本史の内部から熟成して出て来たのであり、西洋史とは関わりなしに、むしろ西洋史より早く姿を現している。彼ら江戸期の知的ダイナミズムこそが「明治という国家」を生む母胎となったのだ・・・・・。

 小欄の粗雑な総括だが、以上が著者の言わんとするところである。

 もとよりこれは旧来の歴史認識の「常識」に反する異説であろう。異説は、何を論じるかではなく、いかに論じるか、コトは説得力にかかってくる。その点、著者の膂力(りょりょく)たるや凄まじい。さきの先哲らにも似た壮絶な力業で、読む者は知的興奮を必ずや覚えるだろう。

 「註は構わずに、ひととおり(早足で)通読して欲しい」

 と著者は言うが、この註が滅法面白い。なんでも註の作成に二年を要したとのこと。たとえば丸山真男は徂徠を読み間違えているとして、これを駁した註などは白眉である。

 もとより著者の作業は、今日的な意味をこめている。

 「いつの世にも外来思想と日本の知識人との関係は、外を外として見るのではなく、内の都合で外を見て、あげく外も見えないし、内においても観念的遊戯に終わる」

 さきの先哲らは、そうではなかった。

 「論語に意地悪い目を向け、密(ひそ)かに孔子に対抗心を抱いていたのは、中国の儒家にはまったくなく、おそらく世界広しといえども荻生徂徠ひとりであったでしょう」

 そして著者の視線は中国儒教と日本人との関係に向かう。

 「表向きは孔子を立て、現実には韓非子の思想で統治する・・・・中国儒教の背後に法家が秘せられています。儒教は徳治という壮大なフィクションにすぎず、実験意志でしかありません。中国人はそれを半ば信じ、半ば信じていないのです。日本人は信じすぎたのがいけない、そうではないでしょうか」

 韓非子や荀子に代表される法家の思想とは、人間の本性を悪と見て、これを礼によって包み込んで秩序を維持する、つまりは人間性悪説を言う。これからの日中関係に心すべき警告と聞くべきであろう。

 壮大にして痛快、エキサイティングな挑戦の書である。

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