小冊子紹介(六)

書 評

知の冒険者たち(2)    文・長谷川三千子
 
 「私は思想史には関心がなく、偉大な思想家にのみ関心があります」と西尾氏は言ふ。この一言こそ、この著作の根本精神をずばりと言ひ切つた一言、と言つてよいのであるが、氏がここに「偉大な思想家」と言ふのは、そのやうにして時空をとびこえることのできる知の冒険者たちにほかならない。と同時に、そのやうな知の飛躍をうながすに足る、思想のエネルギーと透明度をもつた人たちこそが、この「偉大な思想家」の名にあたひする、とつけ足すことも許されるであらう。

 その意味では、この本に登場する人々のうちで、もつともこの「偉大な思想家」の名にふさはしいのは本居宣長である。西尾氏にとつての宣長は、単なる「ナショナリスト」でもなければ、単なる「文献学者」でもない。宣長は、まづ何よりも、のこされた言葉といふ唯一の手がかりを虚心にたぐつて、古代の人々の心の真実をつかみ取らうとした人である。そして西尾氏もまた、宣長の言葉を虚心に受けとり、その歩みを共にするうちに、江戸からさらに古代へと、知的冒険の翼をひろげることになるのである。

 当然のことながら、ここでの西尾氏の視線は、これまでになかつたほど近々と「カミ」の方へと向けられてゐる。天照大神とは、太陽のことであり、そしてカミである、と言い切つて一歩もしりぞかない宣長に、圧倒され、魅了されつつ、西尾氏は、自らもカミについて思ひめぐらし始めてゐる。

 「神話学」などといふものがすでにそれ自体神話の破壊にほかならないことを肝に銘じつつ、氏は神話を神話として受け取るといふ知的冒険のうちに踏み込まうとしてゐる。そしてこれは、きはめて当然、自然の展開と言ふべきであらう。なぜならば、「偉大な思想」とは、それがいかに冷静で理性的な精神によつて貫かれてゐても、つねにいくばくかの「神学」を含むものだからである。「私は……偉大な思想家にのみ関心があります」といふ自らの言葉を、氏は決して裏切つてゐないのである。

(ついでながら、この本の中には、つい膝を打ちたくなるやうな気のきいた至言が、あちこちにちりばめられてゐる。たとへば、文字と言葉について語るなかで、氏が「『現代かなづかい』は矛盾がありすぎ、『旧仮名』・・・・・は無理がありすぎ」る、と評してゐるのも、まさしく言ひ得て妙である。ふり返つてみれば、この文章も含めて、私はまさにこの「無理」の手ごたへを無二の友として文章を書いてきたのである。これは私自身にとつても思はぬ自己発見であつた。)

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