小冊子紹介(五)

 
書 評

長谷川三千子(埼玉大学教授):『諸君!』平成19年4月号
《BOOK PLAZAコーナー・REVIEWより》

知の冒険者たち(1)

 白状すると、本書が『諸君!』に連載されてゐたとき、私はあまりよい読者ではなかつた。三段組で雑誌の片隅におし込められてなんだか窮屈さうだ。といふ印象が先に立つて、あまり食指が動かなかつたのである。けれども、いまかうして一冊の本にまとめ上げられてみると、この著者は、さながら一羽のおほとりがその翼をひろげて悠々と空を舞ふのを見る、といつた気分に人をさそふ。そして、読みすすんでゆくうちに、ふと気がつくと、われわれ自身もまた、いつの間にかその飛翔を共にしてゐるのである。

 と言つても、なにもことさらに構へて読む必要はない。もともと講演の記録をもとに書き足されていつたこの本は、時としてきはめて学問的な内容にまで話が及ぶにもかかはらず、著者自身の言ふとほり、「耳で聴いて分る平明さ」が特色である。ただふらりと立ち寄つて、著者の話に耳を傾けてみれば、たちまちその生き生きとした語り口が、われわれを話のうちへと引き込んでくれるのである。

 しかしそれにしても、なぜ「江戸」なのか。たとへば、一時期「江戸ブーム」などといふものがあつた。日本がはじめて明確に日本といふものを意識しはじめた時代であると同時に、実は存外「国際的」でもあつた江戸時代、われわれが「近代」としてしか知らなかつたものが、すでにあらゆる領域において芽生えてゐた江戸時代――そんなかたちで「江戸」が人々の注目を集めるやうになつたのは記憶に新しい。西尾氏ももちろうさうした認識を共有してゐる。『江戸のダイナミズム』といふ表題もそれを前提としてゐると言へよう。

 けれども、そんな風にして「明るい江戸」に注目するとき、われわれはつい現代の自分たちの価値観をそこに投影してしまひがちである、と西尾氏は警告する。江戸は情報化がすすんでゐた、などと言つて嬉しがるのも、江戸は人権意識が低かったと言つて貶すのも、実は同じ精神態度のあらはれにすぎないのではないか、と氏は指摘するのである。『江戸のダイナミズム』が探索しようとするのは、「明るい江戸」でも「暗い江戸」でもない。その時空を、その時空のうちから眺める、といふのが西尾氏の基本姿勢である。

 そして実は、このやうな西尾氏の基本姿勢は、そのまま「なぜ江戸なのか?」といふ問ひへの答へともなってゐる。といふのも、氏を江戸時代へと惹きつけてゐるのは、単にその社会のシステムや豊かさなのではない。この時代に出現した、何人かの傑出した精神の持ち主こそが、西尾氏にとつての江戸の魅力の核心をなしてゐるのであるが、彼らに共通してゐるのが、まさにこの基本姿勢なのである。この本に取り上げられてゐるのは、荻生徂徠、富永仲基、本居宣長といつた人々であるが、これらの人々は、研究領域も思想内容も異なつてゐながら、自分たちの時代の常識を異なる時代のうちに持ち込むことを徹底して排除する、といふ点において見事に一致した人々である。そして、自分とは全く異なる時空の発想を、なんとかして生のかたちでつかみ取らうとする彼らの情熱が、西尾氏を魅了してやまないのである。「江戸のダイナミズム」とは、言ひかへれば精神のダイナミズム――時空をとびこえて精神が精神をとらへ、ひびき合ふ、そのダイナミズム――にほかならない。

つづく

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です