坦々塾報告(第十回)(二)

等々力孝一
坦々塾会員 東京教育大学文学部日本史学科専攻 71歳

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 さて、冒頭に、あえて2年前の坦々塾の発足時と、今回の「つくる会」総会とを対比したのは、2年前は、ちょうど西尾先生の「『小さな意見の違いは決定的』ということ」という文章が「日録」で進行中であり、今回の勉強会の「保守運動の再生と日本の運命」というテーマは、西尾先生のこの文章にまで遡ってみる必要がある、と筆者は考えたからである。

 西尾先生のこの文章は、60年安保時代の印象的な場面から始まって、今日の「保守主義者」の政治行動を、当時の「左翼」の政治主義になぞらえて非難するところに繋がってゆく。その論旨は、西尾先生ならではの鋭さに満ちているが、今一歩、真の病巣に論理のメスが届いていないのではないか、というような歯痒さをも心底に残してきたのである。

 それは、安倍政権成立に向けて権力にすり寄ろうとする傾向と、安倍氏の側からの教科書問題等に対する介入については、多くの批判が割かれているのに対して(ただし、そのうち後者については過大評価といわざるをえない。)、当時、西尾先生は、安倍政権を待望すること自体にも批判を向けられていたのだが、それにしては、安倍政権を積極的に形成しようとする動きそのもの(それは、権力に「すり寄る」こととは区別されるべきものである。)に対する批判が不明瞭であったことによるのではないだろうか。

 先生は、右派の「政治主義」に対しては、「もしどうしても集団行動がしたいのなら、政党になるべきである。自民党とは別の保守政党を作る方が、筋が通っている。」という根本的な批判をされているが、その批判は、政権獲得に類する安倍支援の活動にこそ、最も厳しく向けられるべきではなかったか、と考えるのである。

 しかし、ここで先生のこの文章の検討に立ち入ろうとしているのではない。それでは坦々塾勉強会の報告という範囲を逸脱してしまうからである。ここでは単に問題を提起しているに過ぎない。

 ただ、今までそれほど特別視することなく読んできた次の文章も、先に岩田氏の「保守主義」論を肯定的に捉えるとすれば、いやが上にも眼に突き刺さるように飛び込んできて、改めて考えざるを得なくなる。(勿論、岩田氏の「保守主義」が「政治的集団主義」を意味するものでないことは自明である。)

引用――

「どうも保守主義と称する人間にこの手の連中(引用者注:「大同団結主義者」)が増えているように思える。保守は政治的集団主義にはなじまない。保守的ということはあっても保守主義というものはない。保守的生活態度というものはあっても、保守的政治運動というものはあってはならないし、それは保守ではなくすでに反動である。」(「『小さな意見の違いは決定的』ということ」)

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 平田氏の話の中で、日本においては、権力やシステム論が必要なときに、道徳論に入り込んでしまう傾向がある、という例として、藤原正彦「国家の品格」がベストセラーになったことを挙げていた。そこで、念のため、同書に目を通してみた。

 その結果分かったことは、「国家の品格」は、道徳論の本というより、どちらかというと、むしろシステムを論じている本なのである。近代的合理主義を批判して、論理唯一の立場を否定し、情緒の重要性を強調している。結論として、武士道・道徳論を説いているのである。

 藤原氏は、5ページ以上にわたってデリバティブを説明・批判し、今日のサブプライム問題のような金融破綻の發生を予言している。とても「天皇・靖国・大東亜戦争」の3点セット保守などの及ぶところではないのである。

 「国家の品格」に強いて難点を挙げれば、民主主義を支える「真のエリート」の必要性の説明があまりに直接的で、もっとフィクショナルな説明をすべきだ、ということを感じる。第二に、中国との戦争について、スターリン・毛沢東の策謀を認めた上になお、日本の道徳的誤り(侵略)を批判していることであろう。

 平田氏の論点を否定するものではないが、「国家の品格」が売れて読まれたことは、とてもよいことだと思う。坂東真理子「女の品格」などと比較されるべきものではない。(後者については、西尾先生の批判しか読んでいないのであるが。)

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 平田氏の、昭和30年代のシステムの改革に失敗したことが、今日の大きな問題である、という指摘は、今後の最も根本的な研究課題であろう。政治的にはいわゆる55年体制ということになるが、経済的には高度成長を支えたシステムを、国民生活の向上や社会構造の変化、国際化・グローバル化などに応じて、適切に転換できなかったことが、幾多の負の遺産を抱える結果になってしまった。

 安倍内閣の成立から退陣に至る過程の総括は、保守運動にとって喫緊の課題であろう。(筆者は、安倍政権は、本質的に「期待すべき保守政権」というより、「小泉後継政権」としての意味が大きいと考えてきた。)

 「日本会議」的保守の問題は、その全貌が私にはよく分からないところがある。「つくる会」の活動にとってのみならず、平田氏の人権擁護法案反対の活動の前にも、日本会議が立ちはだかっているようであり、保守運動にとっての存在の大きさを感じるが、充分な議論と研究が必要であると思う。

 今回は、挫折した保守運動が再生に至る中間点、踊り場に相当するところに位置するのであろう。再生に向けての諸問題の坩堝とも言うべき会であって、その全体を鳥瞰することさえ、筆者には手に余る。断片的な感想に止まったことをお許し頂きたい。

 最後に、広い視野と厚い知識、豊富な情報量を基礎に、縦横に刺激的な問題提起をして下さった、平田文昭氏に、改めて感謝申し上げます。

(了)

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