非公開: 『皇太子さまへの御忠言』のその後 (一)

  『皇太子さまへの御忠言』が刊行された直後、それはまだ『WiLL』10月号に私の「連載で言い残したこと」が載っている最中であったが、テレビ朝日の夜中の番組「朝まで生テレビ」(8月29日ー30日)に出演した。雑誌連載に対しても、本に対しても、テレビ出演に対しても、各方面から、ご批判やらご感想やらを多数いただいた。

 活字になったものについては、必要な対応は活字の世界ではたしたし、またこれからも、時に応じて雑誌論文のなかで言及するかもしれない。ただ、もう当分のあいだこの分野で新しい働きかけや大きな思想展開をするつもりはない。悠仁親王殿下の帝王教育の方針や内容について発言せよ、ということを言うかたもおられたが、それは私の任ではない。

 これからはわが国のアメリカの呪縛からの解放が少しずつすすむだろう。大東亜戦争の位置ずけはいまも変わりつつあるが、もっと大幅に変化するであろう。いままでのように、戦後史の見直しといっても、戦後の立場から戦後を見直すといったレベル――例えば『文芸春秋』10月号の座談会「新・東京裁判批判」など――は、早晩、否定され、乗り越えられていくであろう。

 戦後の皇室はアメリカに庇護された平和体制といわば一体となってきた。日本列島におけるアメリカのプレゼンスが小さくなるにつれ、支配構造も変わるし、国民の政治意識も変わると思う。どんな風に変わるかは勿論わからない。

 ただ国民の皇室への期待や希望もそれに応じて今とは変わり、皇室自身も過去の歴史においてそうであったように、柔軟に対応の姿勢を変えてくるであろう。

 何年か先か、何十年か先か、それはわからない。私の投じた一石はかならずやそのとき回顧され、あれが曲がり角であったと思い出されるに相違ない。それが幸福への回路か、不幸への坂道かはもとより予想のつく話ではない。だから当分、私のほうから新しい大きな手を打つつもりはないのである。ただ小さな感想はいくらも思い浮かぶし、寄せられた面白い言葉やふと眼にして、ご紹介したいと思う記事にはこれからも多分出会うであろう。

 そこで、9月に私のテレビ出演や書物に対して語られたネットの中の言葉を、ご承諾をいただいて、順次掲示してみたいと思う。まず最初は「カトリックせいかつ。」さんのブログからである。このかたのご文章は、以前当ブログで、感銘をうけてご紹介したことがある。そして、『WiLL』6月号にも転載された。

 今度のご文章もバランスがよく、私を意識しないで勝手に、自由に書かれているところがありがたい。内容はこのかたの思想であって、私がひとつひとつについて、賛成だとも反対だとも言っているわけでないことは当然ながらご了解いただきたい。

 2008-09-01 朝まで生テレビ
生まれて初めて『朝まで生テレビ』という討論番組を見た。といっても起きて見ていることができないので、録画して土曜の朝に見た。

ついにテレビで皇室問題を取り上げるというので、西尾幹二先生ファンのねらーの皆さんからも期待と不安をもって見守られていたが、全体の構成として、私は(初めて見たせいかもしれないが)それほど悪くはなかったんじゃないかなという気がした。東宮問題でよく取り上げられていること、たとえば雅子妃が病気療養中となっている最中、高級外食に頻繁に出回っていることや、皇太子の次期天皇としての自覚の薄さや資質の問題などが、ちゃんと放送されたことの意義は大きいと思う。でも、雅子妃の実家の小和田家のことまでもっと言及してほしいという物足りなさは残った。

田原総一朗というジャーナリストが左巻きの人で、しかもものすごく旧態依然とした皇室観の持ち主だということは最初の10分ですぐ知れた。と同時に憲法9条に固執する人たちのアタマの堅さにも恐れ入った。天皇を厚く敬うことがすなわち軍国主義への特急列車だという発想から未だに一歩も出られないというのがすごい。ただ、左巻きの人たちと思しき中にも両陛下へ対する敬意がいくらかでも見られたのは嬉しかった。また、田原司会者が特殊な思想の持ち主でありながらも、議論の中心役となって、誰からの意見もまんべんなく拾える技量はさすがだと思った。私はこういう番組ってもっと、オレがオレがの人たちでまとまらなくなり、声の大きいほうが勝つみたいな顛末になるのかと思っていたのだ。国会の議場で起こる見苦しい野次や乱闘騒ぎとは雲泥の差で、紳士的な大人の議論場だという感じがよかった。

さて、西尾先生はその中でも主役である。『WiLL』に掲げられた「皇太子さまへ敢えてご忠言申し上げます」の寄稿が今回の番組のきっかけなのだから当然だ。だが発言回数はそんなに多くはなかった。平田氏(アジア太平洋人権協議会代表)や、高森氏(日本文化総合研究所代表)といった人々のほうが、むしろ積極的に問題点をついていた。静岡福祉大の高橋先生は、昨今の東宮記事でコメントを出す方として有名。この方は女帝推進(容認?)派だそうだが、現在の東宮家には批判的というスタンスが面白い。

雑誌で有名なコメンテーターとしては、精神科医の斉藤&香山両氏がいるが、この人たちは雅子妃の病気とその治療についてしぶしぶながら(?)説明させられていた。斉藤氏の、「外国へ10年でも療養に行けば・・・」という説には仰天だったけれど、そしてそれを西尾先生も「あまりに同情的すぎる」とお怒りだったけれど、仕方ないんじゃないだろうか。この二人はどこまでも、医者としての意見しか言えないし、それを超えたら越権になる。少なくとも雑誌やテレビの場でこの人たちが呼ばれるときは精神科医としてであるから。日本の皇太子妃や皇后が、あるいは皇太子もしくは天皇になった際の夫君をまじえて、外国でしか治り得ない治療にあたるということは、ありえないし許されないものだ。だけれど、この医師たちが呼ばれて話をする以上、精神科的見地からしか意見を述べるわけにはいかないのだ。つまり呼んだってしょうがないってことなんだけれども。だって雅子妃が病気かどうかなんて誰も知らないんだから。

上杉氏というジャーナリストが、誰も皇室の実態を知らずにいる中で議論をするのはナンセンスである、という発言を後半にしていた。しかしそれは、あの場でも反論されていたように、皇族の行動や肉声の発言から拾える情報で、十分ではないかもしれないがある程度察せられることを元にしていると思う。ジャーナリストらしく、事実をきちんと書き起こしたものが必要だというなら、「新ドス子の事件簿」というホームページをご紹介したい。雅子妃の動静が、宮内庁発表のものから一般人の目撃証言にいたるまで網羅され、毎月の出入りの様子が一覧表になっている。東宮家が問題だといっている多くの人たちは、憶測や好き嫌いでものを言っているのではない。むしろ、雅子妃に同情的な人たちこそ、よくよく現状を知ってから意見して欲しいと思うのだ。雅子妃が外務省の将来有望なキャリア女性だったなどという幻想が前提ではないか。そこらへんも西尾先生が地雷発言されて、パネラーの全員が「あ~あ、それ言っちゃった」という顔をしたときがいちばん面白かったけれども。

いまどき不敬なんていう言葉は死語だ、などと発言した人がいた。週刊金曜日に関与した矢崎氏というジャーナリストだったと思うが、死語だろうか? そういう人に限って、イマドキの若者は礼儀知らずだとかいうんだろうと思う。皇室に名誉毀損で訴える権利があるかどうかという議論より前に、生まれたばかりの赤子をサルにたとえるような、皇后という地位は別にしても、年配女性のファッションを茶化すような下品きわまるパフォーマンスを言論の自由などと言ってほしくない。法的権利以前の、人間としての節度、常識の問題である。また、これもやはり同じ矢崎氏が、日本には言論の自由がないと発言していた。その根拠に、この番組に出るのに、怖い人たちに脅されるからとかなんとか言っていたが、あまりに認識が(私と)違いすぎてびっくりした。本当に言論の自由のない国というのは、戦時下の日本のような状態を言う。右翼に脅迫されることと、官憲が家まで現れてしょっぴかれるのとは大違いである。右翼が脅しに来れば、それが事実なら警察はちゃんと守ってくれるではないか。雑誌に検閲がかかって発刊を止められるということもほとんどない。皇室を平気で貶めるような下劣な演劇集団に関与している人間が、同じ口で言論の自由がないなどといえる立場かと腹立たしかった。きっとこの人たちは田原氏も含めてものすごく地頭がいいだろうし、知識も豊富だと思うのに、こんな簡単なこともわからないのかと不思議にすら思える。

皇室の祈りについても言及されており、祭祀を拒否する雅子妃のことも問題視されていた。祭祀を公務だと勘違いしているパネラーには驚いた。宮中祭祀は天皇家の私的行為として位置づけられていることは常識の範囲内だ。一般学生の回答ならいざしらず、そんなことも知らない人間はこの議論に招かれる資格はない。確かに、祭祀は天皇の行うものだし、そこへ連なる皇族はただの陪席ともいえるが、深夜や早朝、潔斎して祈られる陛下の傍らで、心を合わせて祈る皇后陛下がいてこそ、日本の安寧は守られていると信じている多くの日本人がいることは事実だ。カトリックで言えば、マリア様の役割をされているのが皇后陛下なのだと思う。カトリック信者はマリア様の祈りに強められ、励ましをもらいながら信仰に努める。マリア信心は正確に言えば教義ではないし、ミサの中で聖母マリアという言葉が出てくるのは1、2度程度で、公的な意味合いは非常に薄い。にも関わらずマリア様なしの祈りの生活というのは、信者にとってもはや考えられない。天皇が祈っているというのに、自分は別とばかりに違う行動をする后がいたためしがあったろうか。日本史上もっとも奔放な中宮だった待賢門院璋子でさえ、禁中の行事には従った。雅子妃がそんな有様だとすると、現代人だからでは済まされない皇室の伝統の破壊である。

思えば・・・雅子さまという方がこの15年間に、日本人や日本の国のために、何かなさったことがあったろうか。カトリックに傾倒しているんじゃないかと疑われたこともある美智子皇后さまは、和歌をよくし、古事記や日本書紀を深く読まれ、何より日本人のすべてに心を寄せられていることがわかる。子ども時代の紀宮さまを連れて、母と娘の小旅行をされたときも、毎回必ず、日本の歴史と伝統に深くかかわりのある場所を選ばれていた。その上ほとんどの回で神社へお詣でになっていて、それも庶民の我々がお賽銭を投げて柏手を打つような簡単なものではなく、ちゃんとローブモンタントを召された姿で、オーソドックスにお参りされる姿をきちんと娘の眼に焼き付けておいでだったのである。

然るに、雅子さまの口から出るのはいつでも必ず外国、外国。古事記と日本書紀の違いも、いつ書かれてどういう特徴があるのかすらもあの方は知らないような気がする。和歌もダメ、邦楽や日本画にも関心薄く、食べ物の好みがオール洋食という雅子妃である。日本に心を寄せるどころか、自分を苦しめ、傷つけたという恨みすら持っているふしもある。娘の言葉の練習をABCから始めようとしたというまでの徹底した外国礼賛だ。お宅の娘さんの父親は日本人じゃないんですかと聞きたい。娘時代、父親が外務官僚で外国へ行くことが当たり前の生活だったと記者会見でも述べていたが、その意味するところは、「外国に行ける生活すなわちお金持ち、ハイクラス」という俗な認識で成り立っていることが明らかである。華美な生活を誇示することで自分をよく見せようという発想ほど、逆に貧しく見えるものはない。皇室の価値観とは真逆の思想である。

いまも那須で引き続きご静養中のご静養を続けておられる妃殿下、宵っぱりで徹夜にも強いそうですので、『朝まで生テレビ』をご覧になることもお出来になれそうですね。どうかこういう世論を知って、身を正すか、あるいは皇室ときっぱり縁を切って下さい。適応障害になりそうなのは、あなたのような方を皇后として見なければならない日本国民のほうです。

「カトリックせいかつ。」より

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