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江戸時代に起きた「言語文化ルネッサンス」
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長谷川 : 『江戸のダイナミズム』では、「国学」と「儒学」という、ある種、対照的な性格の思想を並べ置き、そこにもう一つ「仏教」という思想をもってきて、三本柱のかたちを取ろうという構想があったようですね。ただ残念ながら江戸時代には、徂徠や宣長に匹敵するような仏教家の人材がいない。ここに出てくる富永仲基では、ちょっと力不足ですよね。もし鎌倉時代まで遡ることができれば、道元がいます。少なくとも道元は、西尾さんがおっしゃる「偉大な思想家というのは実に単純なことを言っている」という条件にピタリと当てはまると思うのです。
西尾 : どんな単純なことをいっているのですか。
長谷川 : いちばん有名なのが『正法眼蔵』の第一巻「現成公按」の巻の「仏道をならふといふは、自己をならふ也」という言葉なのですが、これはどういうことなのかというと、仏道だ、仏法だと、世の人々はなにか遠い国の珍しく有り難い教えを学ぶのだという意識でいるけれども、それではダメだ、ということなのです。仏道の基本はとても単純なことなので、自己がいかにして自己でありうるか――自己の探求こそがその核心なのだ、と道元は考えます。自己ほど不思議な謎はない。お釈迦様が探求し、悟った真理も、この自己という奥深い問題以外ではない、という考えなのです。
もちろん、ここにいう「自己」は、たんなる「自我」とか「意識主体」といったものではない。むしろ、森羅万象がそこに映し出される透明なスクリーンのようなもので、だからこそ彼はすぐに続けて「自己をならふといふは、自己をわするゝなり」というのですが、いずれにしても、ここで語られている「仏道」は、哲学的探求そのものといってもよい知的な営みです。先人の言葉をただ(それこそ)「お経」のように唱えて有り難がるというのとは対極にある知的冒険なのです。
ですから、道元の仏道にとっては、文献学などというものは、まったく枝葉のこととなります。その昔、お釈迦様が悟りを開いたという事実があり、その体験の皮肉骨髄が師から弟子へと師資相承(ししそうしょう)してゆくということが大切なので、言葉というものも、それをつかみとる手掛かりとして、初めて意味をもつものだ、という考えです。道元ほど「偉大な思想家」の名にふさわしい日本人も少ないでしょう。
西尾 : 道元の「自己」は自我でも主体でもなく、自己を抜け出た超自我のようなものでしょうか。私にはよくわかりませんが、徂徠にも宣長にも神秘主義はあります。ただ長谷川さん、『江戸のダイナミズム』が対象としたのは「学問」なのです。「歴史」の学問なのです。いきなりストレートに「宗教」ではないのです。宗教的なところにまで届いた学者たちなのです。そういう限定を踏み外さないように論述しました。
それから言語音韻学の面で江戸の学問から橋本進吉あたりへ強いインパクトを与えているのは、むしろ空海です。ですが道元を提出された貴女のモチーフはわかりますし、大切なポイントで、私にとっては次の課題です。たとえばこの本でいえば、ゲーテを例に挙げるとわかりやすいでしょう。ゲーテはホメロスがつくり話であろうと何だろうと、ともかく真っすぐホメロスの懐に入り、そこから生命が伝わり、それがゲーテの血肉になる。それで十分であり、テキストの混乱は考える必要がないという態度でした。道元もおそらく同じ態度を示したでしょう。
宗教家にとってもテキストの真贋などどうでもよいのです。文献学など糞食らえです。ゲーテも同じでした。しかし面白いのは、文献学を吹き飛ばしてしまうような、そのような感覚を、徂徠も宣長も抱いており、江戸時代の日本で花開いた。私はこれを「言語文化ルネッサンス」と考えます。ただの平板な学問ではなく、一種の破壊的創造です。
すでに述べたように、17世紀にヨーロッパでも中国でも言語に対する危機感が高まり、古代の文字体験に遡ろうとする運動が起きたのですが、同じことが日本にも起こった。日本では7世紀に中国から文字が入ってきました。日本語が存在しているところへ、中国文化を学ぶために無理して中国語を学んだという原体験がある。と同時に『万葉集』の編纂が行なわれ日本語が確立しています。この「中国語から日本語へ」というのと同じドラマが「儒学から国学へ」という流れで、徂徠と宣長のあいだになされたのではないかと思っています。
最初に話題にしたように、とにかく徂徠は7世紀の日本人が初めて中国語に出合って驚いたときの体験を回復し、初心に戻りたいという激しい情熱を抱いた。したがって弟子たちにも返り点を打って漢文を読んではならないと、白文しか読ませなかった。
日本語としてではなく、中国語として読む。それが7世紀の日本人に戻ってみるということで、その原体験が宣長につながっていくのです。私にいわせれば、これはただの言語の学問ではなく、形而上学的表現でした。「中国語から日本語へ」は日本人の信仰の原型だったのです。
長谷川 : それがはっきりと表れているのが、『古事記』の序についての宣長の解説ですね。この序は純粋な漢文で書かれていますが、だからといって捨て置いてはいけない。ここで語られている中身は、非常に大事であるという評価を宣長はしています。
西尾 : 『古事記』の編纂者である太安万侶は練達な漢文の書ける人ですから、「全文漢文で書いたほうが早い」というぐらいの認識だったと思います。ただ日本の大和言葉の音を尊重しているので、音をそのまま再現したかった。とはいえ漢字しかありませんから、漢字で記すしかない。そのため注釈をつけるなど、さまざまな工夫をしています。こういう読み方をしろとか、ああいう読み方をしろとか。
長谷川 : 小さな字で細かく指示していますよね。
西尾 : そういう努力をしているから、いま私たちが発音している音と同じような音で読める。実際、読んでみると不思議でしようがありません。たとえば「国稚くして浮ける脂のごとくして、くらげなすただよへる時に」という部分で、「稚くして」というのは訓読みですから、これは漢文です。しかし「くらげなすただよへる」は「久羅下那州多陀用弊流」と表記し、「音で読め」と注釈をつけている。
長谷川 : このような注釈の付いた文章を読んだときの宣長は、単に古代のものを発掘しているというのではなしに、太安万侶に自分の“同僚”を見るような意識が生じていたのではないでしょうか。当時すでに、音だけが言語であった日本の古代の言語世界は崩壊の危機に瀕していました。放っておけば失われてしまうもっとも大切なものを、いま自分は救い出そうとしている――そういう切羽詰まった意識が『古事記』の表記からも、その序からもうかがわれます。そこに宣長は、ピンと相通じるものを感じたのではないか・・・・・。
西尾 : おっしゃるとおりだと思います。ある種、盟友に接するような感じがあったでしょう。
長谷川 : それに支えられながら、『古事記』を読み解いていったような気がします。
つづく