荻生徂徠と本居宣長(七)

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皇室は「清らか」であればいい
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西尾  : 宣長は日本のカミのことについて語るとき「大虚空(おおぞら)」という言葉を用いています。この言い回しは象徴的です。神話の世界を考えるときに概念で支配されてはいけないと、しきりにいうのです。これはヘラクレイトスの見た「自然」や「宇宙」という概念に近いものではないか。

長谷川 : このような日本人の神話観、カミに対する感覚は、日本に仏教が根付き、キリスト教が根付かなかった根本原因として考えられるかもしれません。先ほどの「仏道をならふといふは、自己をならふ也」という道元の言葉は「自己をならふといふは、自己をわするゝなり。自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり」と続いてゆくのですが、これはまさに森羅万象のうちにカミを見るという感覚そのものといえる。しかも、その全体を統(す)べるものとして、「存在」を考えるのでなしに「大虚空」を考える――これは非常に似通っていますね。

西尾  : だから神仏習合の前に「神神習合」があったという人もいます。森の文化の色濃く残っていた遠い昔、神道が自己確立する前に、さまざまな神々が習合していました。仏もその一つで、神と仏が一体になったのではなく、仏も神の一つとして迎え入れた。それに対してキリスト教は、どうしても相容れないものがあって迎え入れることができなかった。

長谷川 : 決定的な違いは、唯一絶対神を置いた場合、「つくった神」と、人間を含めた「つくられたもの」とのあいだには絶対に超えることのできない、在り方の相違が出てくるのです。それが神仏の世界と相容れない。加えて、日本人の天皇観とも相容れません。「教育勅語」にも出てくる「われわれも天皇のごとくあらねばならない」という価値観が、近代的な「支配者と被支配者」という考えを受け入れると、裁断されてしまうのです。

西尾  : それはわれわれの天皇崇拝が、自然への親近感とつながっているからです。日本には「自然と自分が一体化する」という発想が根っこにあり、天皇のなかにカミを見る。そして天皇のごとく、自分たちも生きようと思う。そのカミは、それこそ道祖神であったり、キツネやカラスにカミを見るような感覚であったりもする。そのカミはキリストの神とは根本的に異なるのです。

大事なもの、尊重すべきもの、私たちが美意識として必要とするものこそが皇室です。だから皇室はつねに清浄でなければならないし、週刊誌のゴシップネタになってはいけない。何もしないでいいから、「清らか」であればよいのです。余計なことはしないでほしいと国民は願っているのです。

長谷川 : 「清らか」――よい言葉が出てきましたね!(笑)まさにこの言葉こそ、いまのわれわれがもっとも必要としている言葉ですね。

(了)

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