前橋講演における皇室問題への言及(三)

女性天皇について

 ところがここにきて面倒な問題が沸き起こっております。実は専門の法律学者が主に発言すべき問題かと思っておりますが、皇位継承を考えるための懇談会というのが開かれました。第一回の会議も行われたようでございますが、私の知るかぎりでは専門知識を持つ人は一人しか入っていないように思います。

 そして、「女性天皇を認めよう」という簡単な答えで決着をつけようという官僚サイドの意図が、あるいはまた小泉首相の意図が最初から見え見えであるという粗略な印象を抱いております。小泉さんは最初から思い込みの強い方で、北朝鮮との国交回復、郵政民営化、もう決めたらワンパターンのアイデアにこだわる人であります。しかもスタートを成すとき、起点を成す問題点にそれほど深い考察を加えておられるようにみえない。知識も持っておられない。 

 皇室の問題を素人ばかりの集団で、かのジェンダーフリーの専門家が一人入っているような懇談会で、官僚やその他の世界で功なり名遂げた方であるかもしれないけど、歴史のことはほとんど知らない方々を集めて押し切ってしまっていい問題だろうかと思います。時間も足りないのじゃないかと不安を抱いています。9月までに答えを出すなんていうのは拙速です。3回か4回の会議で答えを出して、それで来年法律を作って決めるなんというので果していいのだろうかと不安を抱かざるを得ません。

 その理由は、万世一系の天皇の系譜を維持するには男系でなくてはならないという原則です。それはみなさん、新聞で論じられていますからお耳にしていると思うわけですが、女性を天皇にするということと、女系、女性の系列を皇統にするということとは別のことです。

 過去にわが国には8人、10代の女帝がございました。古代史に6人、江戸時代に2人。その女帝の方々のお子様が帝位につく、すなわち皇統を継承した例は一つもないのです。夫君である天皇と死別したお后が、自分の子供、あるいは皇子が、あるいは甥が、大きくなって帝を継ぐまでの中継ぎ役として女性天皇があったというのが現実でございまして、女性天皇がヨーロッパの王室と比較してこうだとか、男女平等の時代になったからこうだとか、という風なことをいって、歴史の事実を覆していいのだろうかという疑問を強く抱かざるを得ません。

 その心配は強く国民の中の歴史を知る人、保守系の皇統を尊重する人々の中から今澎湃と沸き起こっております。私だけでなく多くの人がそういう声を上げておりまして、何とかして男系に戻さなくてはいけないのではないか、と。

 ご承知のように戦後GHQが11宮家を廃絶してしまいまして、以来、今の天皇家の直系だけが宮家に残っているということでございます。他の系列の宮家を復活して将来に備える必要はないのだろうかと、そう正論を唱える人は少なくないのでありますが、しかし私自身はすべては遅すぎるのではないかという不安も強く抱いているのでございます。

 と申しますのは、それでは女帝ではなぜいけないのか?女帝ではいいのですけども、女系ではなぜいけないのか?今まで女帝は先ほども言ったように何人もおられる訳ですけども、大体女帝でご結婚されている方はおられないのですよ。女帝はみな寡婦であるか、生涯独身であるかのいずれかでした。すでに夫が、まあ天武天皇と持統天皇の関係とかですねぇ、夫が亡くなられた後、継いだケースはもちろんあるのですけれど、それであってもあと独身で通されている。

 ですから、今もし愛子様が天皇を引き受けて、そして相手になる男性の人が何十年か後に選ばれたとしても、その方をお呼びする呼び名が日本の歴史の中にないのです。男性の、つまり女帝のお相手というのが今までないのですから、その方の呼称がないのです。そのことも我々が考えてみなくてはならない問題だろうと思います。

 つまり、すべての女帝は中継ぎ役であって、宮家から男性の、皇統の男系の方を内親王と結婚させて、そして次の天皇を生み出す。それまでの中継ぎとしての女性天皇、時間稼ぎの、それが江戸時代もそうでございます。

 あるいは、何世代か前の別系列の天皇の血筋を引き継がせる。江戸時代における最後のケースは光格天皇という天皇ですが、この天皇の系譜がまっすぐ今の昭和天皇まで続いているということになっております。

前橋講演における皇室問題への言及(二)

強い危機感を抱く

 「国家解体をどう阻止するか」といういくらかおどろおどろしいタイトルでありますが、解体しかかっているし、すでにしているのではないかと、むしろ強い危機感を抱いていますゆえに、こういうタイトルにしております。この間津波が南アジアを襲い、町に大きな水が流れ込む光景をテレビでみました。一番烈しい画像では建物そのものや車が何台も水に浮かんで押し流されていく姿が見えまして、これはすごいものだなと思いました。引いたあとのつめ跡、残骸・・・・・まあ私、今の日本を見ていて、水際で津波を待っている心境というのがいわば、私の心境なのです。そういう津波にいつ襲われてもおかしくない、そういう状態ですよ、と申し上げたい。それに対し何の備えもない。色々備えがあるように聞いておりますけれども、実際に手が打たれていないし、考えは語る人はいるけれども間に合わないように思う。

 今日は一見して相互につながりのないいろんな種類の問題についてお話したいと思っております。一つは皇室の問題、二番目は南の島々の防衛の問題、それから三番目は、といっても全部底流ではつながっているのですが、国の外でなく内側の問題。つまり教育や少子化、そしてジェンダーフリーの問題など、これら全部がひとつながりであると私には思えてなりません。すなわち、内側がグラグラと解体しているときには、外から敵が忍び寄ってきても気が付かない。

 あるいは現にもう何十年も前から外から侵害されていても打つ手を打ってない。ですからもう間に合わないところに来ているという、その目の前にいて、しかも手足を動かそうとすると、足元の国民の心が麻痺したようになっている。そして麻痺させるような解体運動が繰り広げられていて、手足を不自由にする勢力が大きな力を国内で発揮している。こういう現実を目撃し、観察してきたつもりでおりますので、皆様に少しくはっきり見えるようにお話ししてみたいという風に思っているのです。

皇室問題について

 最初のテーマは、非常に難しいテーマだとあえて申し上げるつもりでございます。つまり皇室の問題です。わが国のこの10年から15年の間に、経済の方面でバブル崩壊、そしてまた道徳の破局、様々な頽廃の姿をみました。すべて昭和天皇亡きあとに起っていることですね。この国民が自分たちを歯がゆく思っているゆえんはどこにあるか分かりませんが、ソ連の消滅で冷戦に終止符が打たれたあのときは、アメリカから「第3次世界大戦の勝者は日本であった」という、忌々しげな声があがったのを覚えておられると思います。これはつい15年ぐらい前の話です。

 そのころは小中学生の数学と理科の国際学力はつねに日本が一位でした。治安もよかった。犯罪検挙率も高かった。中学生の校内暴力は既にありましたが、不登校とか引きこもりとか、援助交際などということは、そんな言葉もなかった。政治への不満は強かったけれども、「官僚が一流だからこの国は大丈夫だ」という声が世上を覆っておりまして、事実その通りであった。官僚は何よりも愛国心があった。

 対米自動車輸出の自主規制で指導力を発揮した通産省は、産学協力の見事な見本としてアメリカの嫉妬を招いたほどでした。これは遠い昔の話ではない。1989年、ベルリンの壁の崩壊から起った世界の激変、それが昭和天皇の崩御となった年と重なります。すべて悪いことは平成になってから起ったことなのです。だから私たちは確実でしっかりしていたつい先日までの日本をなぜ今取り戻すことができないのか。そのことについて考えざるを得ない訳です。昭和天皇が亡くなられたら、何かがありゃしないかという国民の不安はずっとございましたが、まさか、という思いが私はしています。

前橋講演における皇室問題への言及(一)

 2月10日に群馬県前橋市の正論懇話会で、「国家解体をどう阻止するか」といういささか仰々しいタイトルを振り翳した講演をした。

 皇位継承問題、南西諸島と台湾をめぐる中国との摩擦、男女共同参画や過激な性教育のことなど多方面にわたる話題だったが、天皇制度についての数少い私の発言が講演の冒頭でなされている。

 11日の産経新聞の講演要旨にこの冒頭の部分だけが取り上げられた。

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 日本解体に警鐘
 群馬「正論」懇話会 西尾幹二氏講演

  第6回群馬「正論」懇話会(会長・金子才十郎群馬県商工会議所連合会名誉会長)が10日、前橋市内のマーキュリーホテルで開かれ、評論家の西尾幹二氏が「国家解体をどう阻止するか」と題して講演した=写真。

  西尾氏は、国家解体につながる動きとして女性天皇論の台頭、防衛政策の無策、ジェンダーフリーの流行を指摘。「日本は解体してしまっているという危機感を抱いている。手を打たないと間に合わない」と訴えた。

  特に、「女性天皇」容認論について、「天皇は、万世一系で男系でなければならないとある。過去の女性天皇は中継ぎ役だった。歴史の事実を覆していいのか」と強調。「(女性天皇が誕生すれば)天皇制否定論者が、『万世一系ではない』と言い出すはず。30年後を憂慮する」と述べた。

 産経新聞2月11日付 2面

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 翌日、畏友小堀桂一郎君――私の大学時代の同級生であることは知る人は知っていよう――から、心強い応援だという葉書をもらった。

 私は小堀君ほど天皇とその制度について詳しい知識を持たない。普段法制的な面にはあまり関心もない。私がどう考えているかを多分彼はそのころ知らなかったし、自分と相容れないと思っていたかもしれない。

 前橋に行ったのは2月10日で、それから丁度一週間で『正論』4月号の拙論「中国領土問題と女帝論の見えざる敵」(短期集中連載第二回)を書いた。

 例のライブドアがニッポン放送株の買い占めを始め(2月8日)、マスコミが騒然となっていた頃である。

 『正論』4月号が出た3月初旬に小堀君から良く言って下さったという感謝と喜びのことばを綴った書簡をいただいた。彼が最近同誌5月号でこの問題をあらためて歴史を掘り下げて徹底して論じたことはご覧の通りである。私にその根気も知識もないが、私には私に特有の論法がある。今の日本人を説得するにはどうしたらよいか、という文章上の戦略がある。

 前記「中国領土問題と女帝論の見えざる敵」で皇位継承問題について言及したのはわずか20枚弱だが、「女帝でいいじゃないか」という小泉首相と同じような考えの人が日本国民の大半であることを私は知っている。

 保守層でもそうである。「路の会」でもそうだった。天照大神が女神なのだから女帝でいいのではという人さえいた。そういう人々を前提にして説くほかないというのがこのデリケートな問題のむつかしさだと思っている。

 だからこのテーマに関しては頭ごなしに、叱りつけるような調子で言っても説得力がないのである。未来への不安と予想を先取りするようにして、手遅れの意識を共有しながら語りかけるしかないのだ。

 私の言わんとする本意はどうか4月号の拙論を見ていただきたい。また説き方にすべて賭けた論述の仕方に目を向けてほしい。たゞ、丁度これを書く直前に、私は前橋で同じテーマについて簡略に語った。本当に簡略に、である。

 皇室問題についての私の発言は少い。たまたま乞われて講演録をまとめたので、この部分だけ掲示することとした。

東大文学部への公開質問状

 八木秀次さんとの共著
『新・国民の油断』(PHP研究所)に、「上野千鶴子」問題で、付録3として東大文学部に対し公開質問状を掲げている。

 同書は現在のところ三刷で1万3000部である。今の時代に多いといえば多いが、人が気づくには少いといえば少い。インターネットの伝播力を期待してここに再掲示する。

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 公開質問状

 「上野千鶴子」問題(本文169~178ページ、212~217ページ、225~232ページ参照)については、東京大学の社会的責任を問う必要があると考えます。

 『女遊び』(口絵6上、本文172~178ページ参照)は、上野千鶴子氏が東京大学文学部教授会に迎え入れられる前、平安女学院短期大学教員の名で出された本で、東京大学の資格審査の際の参考文献に当然なっていたはずですから、同書と同書著者を受け入れた社会的責任が、東京大学文学部長と社会学科主任教授とにあると思います。もちろん、それに先立ち、文学部教授会全体にも社会的責任があります。

 憲法で「表現の自由」と「学問の自由」は保障されていますが、表現の「評価」は無差別ではありません。社会的影響力の大きい機関は「評価」に対し、当然、社会的責任を有しています。

 『女遊び』がどのような文献であるかは本書中で紹介したとおりで、必要なら古書でなお入手でき、再調査が可能でしょう。関係各位はご調査のうえ、判断や評価が適切であったか否かを、いまあらためてマスコミにおいて公表してほしい。

 もちろん機関としての判断決定の見直しは、いかに失敗であるとはいえ、もう時機を失しているでしょう。けれども、文学部所属の教授たち、ことに社会学科所属の関係者が上野千鶴子氏の「評価」の見直しを、己の学問的良心に照らして再度ここで行うことは可能です。私たちのこの提案に対し、開き直って彼女を礼賛するか、賛同して彼女を批判するか、いずれも自由ですが、沈黙するのは社会的無責任の表明と見なします。開き直って礼賛する人の論法は見物で、いまから楽しみにしています。

 なお、『女遊び』は学術的著作ではないので、審査対象からは外していたという見え透いた逃げ口上は慎んでいただきたい。業績の少ない若い学者の資格審査においては一般著作も参考にすべきで、それを怠ったとすれば、かえって問題です。

 まして『女遊び』は、上野氏のその後の反社会的思想と日本社会に及ぼしている悪魔的役割と切り離せない関係にあるだけに、見逃したという言い方は弁解としても成り立たないと思います。

平成16年12月8日
                               西尾幹二・八木秀次

【東京大学文学部 学部長および社会学講座教員】
●平成4年 文学部長 柴田翔 /社会学教授 庄司興吉 /助教授 盛山和夫/似田貝香門
●平成5年 文学部長 西本晃二 /社会学教授  庄司興吉 /助教授 盛山和夫/上野千鶴子/武川正吾/似田貝香門
●平成6年 文学部長 藤本強 /社会学教授 庄司興吉/ 似田貝香門/稲上毅/盛山和夫/助教授 上野千鶴子/武川正吾
●平成7年 大学院人文社会系研究科長・文学部長 藤本強 /社会学教授 庄司興吉/似田貝香門/稲上毅/盛山和夫/上野千鶴子/助教授 武川正吾/佐藤健二
『全国大学職員録 国公立大学編』(廣潤社)より

上野千鶴子氏・略歴
昭和23年(1948)年7月12日生まれ。石川県立二水高等学校卒業。昭和47年、京都大学文学部哲学科社会学専攻卒業。昭和52年、同大学院文学研究科博士課程単位満期退学。同年、京都大学大学院文学研究課研究生。昭和53年、日本学術振興会奨励研究員。昭和54年、平安女学院短期大学専任講師。平成元年、京都精華大学人文学部助教授。平成5年、東京大学文学部助教授(社会学)。平成7年、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部教授(社会学)

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 以上の通りである。広い読者の注意を喚起したい。ここで取り上げている『女遊び』がどういう本で、なにゆえに公開質問状で関係機関の責任を問うまでしたかは、『新・国民の油断』を見て、判断していただきたい。

 同書は1月26日刊で、年初に東大文学部長と社会学科主任教授には版元より贈呈されている。

 あらためて彼らの社会的責任を問いたい。

『人生の深淵について』の刊行(五)

 日垣隆さんが『人生の深淵について』を、ご自身の会員制のホームページで取り上げてくださっていることを知った。関連部分が知人から送られてきたからである。

 有料サイトを無断で引例するのは失礼かもしれないが、拙著に関連する部分だけなのでお許しいただきたい。

 日垣さんは1954年生、初期の作品『〈檢証〉大学の冒險』を拝読した覚えがある。その後随分本を出されている。文藝春秋読者賞、新潮ドキュメント賞などの受賞者でもある。近作では『世間のウソ』(新潮新書)、『売文生活』(ちくま新書)が話題である。

 ことに後者は漱石の時代以来の作家の原稿料の研究を通じて、日本の著述世界の特徴を描いた作品だとの紹介があったので、面白そうだな、読んでみたいなと思っていたところだった。

 日垣氏は私について次のような記憶を語っている。

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 『日本の教育 智恵と矛盾』(中公叢書)で臨教審を批判した氏が、その後、中教審のメンバーを引き受けたこともちょっとした事件であったが、そのなかで果たされた努力と孤軍奮闘は、それ以上に鮮烈な出来事だった。中教審での役人に対する絶望の深さと、転んでもただでは起きぬ強靭な論理的提言力は『教育と自由』(新潮選書)と『教育を掴む』(洋泉社)に結実する。
(中略)
 氏の名を知る若い人は、せいぜいかつての「朝まで生テレビ」でのやや頑迷な物言いや、「新しい歴史教科書をつくる会」での抗争を思い浮かべるかもしれない。私にとって西尾氏は、思索の人であり、数少ない論理的な日本語の書き手である。

 以下、最新刊『人生の深淵について』(洋泉社、2005年3月刊)から引用する。

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 私は自分の本の中から自分で引用して、これは名言だろう、ここをぜひ読んでくれというわけにはいかない。しかし日垣さんのような人が抜き書きしてくれた箇所を引用することは許されるだろう。

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 《生産的な不安を欠くことが、私に言わせれば、無教養ということに外ならない。それに対し絶えず自分に疑問を抱き、稔(みの)りある問いを発しつづけることが真の教養ということである。》(「教養について」同書P198)
 
 《退屈は苦痛であり、退屈をなくすために人類は暴動を起したり、わざと自分の身を傷つけたり、果ては自殺するようなことさえ敢えてして来た。退屈がわざわいの根源であることは、古今の知恵者が倦(う)むことなく語って来た通りである。けれども、もし人が目の前に起こるたいていの出来事に退屈を感じないでいられるとしたら、その人の精神がむしろ貧弱であることの現われだし、いかなる事柄もいっさい退屈を感じないのだとしたら、痴呆にも近い。人間が退屈を感じるということは、まさに、知的活動をしている証拠なのである。
 
 知性の中には人間を複雑にし、不活性にする要素もあるが、また人間を冒険に駆り立てる要素も含まれている。知的冒険ほどスリルに満ちたものはなく、いったんこの味を覚えた者は、他のどんな仕事も、労働も、単調に見え耐え難いであろう。(中略)
 
 たしかに世の中には、自ら退屈することを知らぬほどすこぶる精力的で、忙しく立ち働き、この人生が面白くてたまらぬという顔をしている、じつに退屈な人種がいる。自ら退屈しない人間は、いつの世にも、他人を退屈させる存在である。》(「退屈について」同書P88~91)
 
 《すべての人間に人間としてのぎりぎりの自尊心が保障されたことは、いわば「近代」の証しであり、文明の勝利であろう。しかしそこにまた別の問題が生じた。万人に等しく自尊心が保証されたときに、自尊心の質も下落し、これだけはどうしても譲れないという自分に固有の領分に、誇り高い孤高の薔薇が開花することは難しくなった。
 
 人間がみな隣人仲間と同じように扱ってもらうだけで満足するのならば、ひとり高い自尊心を掲げ、それゆえに深く傷つき激しく怒るという人間の情熱は、尊重されなくなるだろう。しかしこれまで偉大な思想を生み、偉大な業績をあげて文化に貢献して来たのはこうした孤高の自尊心の持ち主たちに外ならないのである。》(「怒りについて」同書P14)
 
 《一般にマスコミ関係者や大学の知識人や評論家やジャーナリストは、政治や経済の実験から切り離されている。収入も低く、知的にのみ秀れていると自惚(うぬぼ)れている人が多い。そのために、概してこの内向的復讐感情(ルサンチマン)の虜(とりこ)になりやすい。新聞・週刊誌・テレビなどのなんとなく反体制的に偏向した編集の仕方を、そうした背後の心理原因から眺めてみる心掛けも大切である。
 
 人間にとってどうにも解決のできない困難な相手は、社会的・政治的な課題ではなく、自分という存在に外ならない。自分ほどに困った、厄介な相手はこの世にいない。〔中略〕
自由を妨げているのは自分であって、自分の外にある社会的障害ではない。》(「宿命について」同書P170~171)

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 日垣氏は同文の他の個所でこの本は「名著」だと言ってくれている。

 しかしなかには三木清の「人生論ノート」を思い出させて、しゃら臭いと言わんばかりの皮肉を言う友人もいる。人さまざまである。三木清とは似ても似つかぬ心の世界を展開していることは、読んだ人には誤解の余地はあるまい。

 徳間書店の元編集長の松崎さんが良質の短編小説集を読んだときのような読後感がある、と言ってくださった。つまり、読み易い一冊であり、哲学書ではないのである。

『人生の深淵について』の刊行(四)

お知らせ

 ★出版 5月号の月刊誌の私の仕事は次の二作である。

(1) ライブドア問題で乱舞する無国籍者の群れ
  『正論』45枚 短期集中連載「歴史と民族への責任」第3回

(2) 日本を潰すつもりか――朝日、堀江騒動、竹島、人権擁護法――
  『諸君!』45枚

 ★出演 4月8日(金)午後9時~10時 日本文化チャンネル桜 
 私が次のトーク番組に単独出演します。ミュージック・スペシャル(第一回)
  司会 烏丸せつ子(女優)、扇さや(ジャズ歌手)

 私の少年時代、喧嘩、初恋、好きな女優、好きな音楽、好きな映画、カラオケなどを語る。そして私も一曲歌います。
(チャンネル桜をごらんになりたい方は Tel 03-6419-3911へ)

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 『人生の深淵について』の刊行(四)

 私は道徳というものが嫌いである。正義も嫌いだが、道徳が顔を出すと、人間を考えるうえですべてが台無しになる。

 この本の冒頭は「怒りについて」と名づけられている。怒りは恐しい。人は怒りに駆られると何をしでかすか分らない。自分を制御できなくなった怒りは身を亡ぼす。現代では犯罪の現場以外に、そのような怒りの爆発の機会はない。

 怒りは文明のオブラートに包まれて、個人生活の奥の方にそっと隠される。この自己隠蔽は、現代人が自尊心を失っていることとある意味でパラレルである。

 大きな自尊心を持った人だけが後世が驚く大きな業績を達成する。しかし大きな自尊心はまた同時に一身を破滅させる危い感情と隣り合わせでもあるといっていい。

 つまり真に価値のある行為は危険と一体で、道徳とは関係がないということを私は言いたいのである。道徳は人間の行為を小さくする。

 自尊心を傷つけられ、怒りで判断を失うようなことは、誰でも人生のいろいろな場面で遭遇するだろう。が、それを恥じてはならない。それくらいの愚かさを持たない人間の自尊心はたいしたものではないのだ。

 「道徳的」であることや「社会的に正しい」ことはこの場面では次元が低いのである。高い宗教心を持つ者も道徳を決して尊重しない。道徳は信仰の妨げである。信仰は危険に生きることを内に含むからである。

 さて、私の本が人生の「深淵」についてと題した理由はここから察していたゞけよう。「深淵」とはきわどい場所であり、辷って足を踏み外したら、あっという間に奈落へ落っこちてしまうこわい場所である。

 私の本は「怒り」につづけて、「虚栄」「孤独」「退屈」「羞恥」「嘘」「死」「宿命」「教養」「苦悩」「権力欲」についてそれぞれ考察している。どの語もきわどい場所を示している。「人生の深淵について」という言葉の意味が何となくお分かりいたゞけるだろう。

 完本作成のための試みなので、一般誌紙の書評の対象にはならないと思っていたら、『週刊文春』(2005、3、31)に小さな記事が出た。

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 昨今流行の浅薄な人生相談の類ではない。個人的体験と歴史の相関をふまえ、内省を重ね抽出した“モラル”の本である。保守思想家として有名な筆者の、厳しい精神修養の足跡も感じさせる。

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 それからAmazonのレビュー欄(2005、3、16)に書評(筆者kitano daichi)が出た。その一部に次の言葉がある。

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 この本が解き明かしているのは、人生の様々な問題の結論や解決では決してない。生きることのどうにもならない理不尽さ、生きる意味を知らない苦しみ、死の恐怖・・・・・軽薄な励ましに満ちた人生論が多い中、本書の人生を誠実に見つめる姿勢に深い共感を覚えた。

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 どちらも読者に甘いことばを囁くたぐいの人生論ではないと言ってくれているのは有難いし、当っている。

 その意味でこの本のカバーに大きい文字で「生きることに不安を感じ、迷ったとき思わず手にとる本がある。それが西尾人生論だ!」は必ずしも正確ではない。むしろ「生きることに自信を感じ、気力充実しているときに手にとるべき本がある。それが西尾人生論だ!」というような言葉を掲げてくれた方がこの本の実際に近いだろう。

 この本を読むにはそれなりの勇気が要るからである。おどかしているのではない。心の奥に「驚き」を感じて欲しいからである。弱い心はただ読み過ごすだけで、驚いて立ち停まることを知らない。プラトンは「驚き」こそがものを考える泉だと言っている。

 その意味で宮崎正弘さんの「国際情勢・早読み」(2005.3.11)に付記された書評は、拙著が氏の心の奥に触れたことを示す文言があって嬉しかった。

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 本書に収録された文章の幾つかは扶桑社版『西尾幹二の思想と行動』で一部読んだ記憶があるが、こうやって定本となって新しいかたちにまとまると、ああなるほど、こういうかたちに結局は落ち着いたのだと一種不思議な感慨にとらえられる。
 大方の文章は、しかも四半世紀前に或る雑誌に四年間に亘って連載され、それから二十年間、単行本にされなかった理由こそが、本書をよむ愉しみ、本質的な人生論になる。
 小学生時代のささいな友人との衝突や、疎開先でのいじめや、青年時代の友情と破裂と嫉妬のなかで、微細な風景画をみるような、詩を書く少年のごとく、感受性に富んだ心理描写が随所に出てくる。
 西尾氏が人生にもとめたもの、友人のうちの何人かが、結局はつまらぬ人生を送った経緯などを対比されながら、やはり公表を今日までひかえた人間的な動機も読みすすんでいく裡に深く頷けるのだ。
 批評家の顔、翻訳者の顔、哲学者の顔、そして「行動者」の顔をあわせもつ近年の氏の複雑な思想の軌跡は、単なる保守哲学をもとめたのではなく、モラリストとして人生の真実を求める営為であったのか、とこの作品を読むと得心がいくのである。
 嘗て『テーミス』誌が西尾さんを「保守論壇の四番バッター」と評したことがあった。この希有の行動をともなう知識人は、しかし何故に書斎から飛び出したのか?
「言葉は何千キロをへだて、何百年をへだててわれわれに伝えられるとき、どんなに厳密な仕方で再現されても、万人に等しく、同一の内容が、そのままに正確につたえられるというものではない。受け取るわれわれが千差万別であることに左右されるからである。言葉の理解は受取手いかんに依る。われわれは誰でも自分自身の背丈でしか相手をはかれない」。
だから書斎にこもりがちの「読書する怠け者」を遡上にのせて、
 「もうひとつ大事なことがある。遠い異国や遙かな過去の詩人、哲人、聖者たちの遺した言葉が、よしどんなに魅力的で、深い内容をたたえていたとしても、それらの言葉は彼らの行為に及ばない。彼らの体験に及ばない。言葉は行為や体験よりも貧弱なのである。」
 ここで西尾氏は『ツァラトゥストラ』の次の言葉を引用されている。
 「いっさいの書かれたもののうち、私はただ血で書かれたもののみを愛する。血をもって書け。そうすれば君は血が精神であることを知るだろう。他人の血を理解するなどは簡単に出来ることではない。私は読書する怠け者を憎む」。
 三島由紀夫の檄文を思い出した。
 「行動」についても次のように考察されている。
 「行動とはーーたとえいかように些細な行動であろうともーーおよそ事前には予想もしなかった一線を飛び越えることにほかならない。事前にすませていた反省や思索は、いったん行動に踏み切ったときには役に立たなくなる。というより人は反省したり思索したりする暇もないほど、あっという間に行動に見舞われているものなのだ」。
 執筆時期とは関係なく西尾さんの人生の本質をめぐる行動哲学の源泉が四半世紀前にこのように開陳されていたのだった。

       3月11日 宮崎正弘の国際情報・早読み より

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 これを読んでいて、氏はあのプラトンの「驚き」を感じて下さったのだと思った。そして、書き方から感じたのだが、氏は文学者だということである。毎日のように綴られる「国際情勢・早読み」のグローバルな情報把握力にすっかり感服しているが、根はもともと浪漫派、詩人的なところのある人なのである。

 私は宮崎さんにメイルで書評のお礼を言ったら、折り返し次の返信が来た。

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 拝復 いただいた『人生の深淵について』は、古典的名作だと存じ上げます。
 アフォリズムに溢れ、しかし実体験からの箴言がまぶされていますから感動が深い
と思います。
 じつは家内も徹夜で読んで、次は娘が読みたいと言っております。
 月末「路の会」でお目にかかるのを楽しみにしております。
               宮崎正弘

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 奥様までが熱心に読んで下さっているというのである。これには感激し、心から感謝の思いを新たにしたのだった。