他ブログより

私の講演「日米戦争とその背後にある西欧500年史」は全三回放映されますので、ゆっくり見ていたゞくとして、その前に当ブログの管理人長谷川真美さんが16日に強く訴えた一文をご自身のブログに掲げました。共鳴協賛いたしますので、今日これをお示しします。

美容院で

女性自身最新号5月27日号(2633号)をぱらぱらめくっていて、
おっと驚いた。

沖縄の竹富町の記事だ。

女子中学生二人、男子中学生三人、
挟まれて小柄なちょっと年齢が多い女性の写真。

育鵬社の教科書を採択したのに、
寄付で集めたお金で東京書籍を使っているという、あの竹富町!

あんまり腹がたったので、出版社の光文社に抗議の電話をした。
そして、まとめた文章を書くことにした。

つっこみどころ満載の記事なんだけど、
むかむかして、
なかなかまとまらない。

いちばん腹立たしいのは、
子供たちの写真を掲載して、中学生を楯にしているところだ。

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美容院でたまたま女性週刊誌「女性自身」を見ていて、びっくりした。芸能人のあれこれが90パーセントの内容の中に、沖縄竹富町の教科書問題が「シリーズ人間」というコーナーで7ページに渡って取り上げられている。

女子中学生が二人、男子中学生が三人、その間に元教師で84歳の沖縄戦の語り部といわれるおばあさんがスクラム組んだ写真が、2ページにまたがって大きく掲載されている。そしてその上に重なって主題を訴えているのは、特大の文字の「中国より安倍さんがこわいです」。

竹富町の新聞沙汰になっている問題のポイントは、教科書無償措置法の中で、八重山地区の採択協議会で同一の教科書を使わなければならないという決まりに、竹富町だけが従わず、異なる教科書を使用していることなのだ。だから文科大臣が「大変遺憾」と言ったのである。もう一度強調しておこう。法令に則っていないことを「遺憾」と言ったのだ。文科省が育鵬社版を押し付けているのではなく、八重山地区で法令に則って決まったのが育鵬社版だから、法令に従えと言っているだけであり、そのことをまるで国家の圧力呼ばわりである。

本当の問題点にはほとんど触れず、まるでつくる会系の教科書を子供たちに使わせたら、再び「また子や孫が戦争にとられるの?」式の、平和念仏教の一種のためにする記事である。

つくる会系の教科書を、憲法改正やアジア地域の緊迫化を強調する、好戦的とも取れる教科書と決めつけている。好戦的とは何をさしているのかと思ったら、尖閣問題を取り上げているからのようだ。そしておそらく憲法改正が九条に関わるから、自衛隊を軍隊と位置付けることが好戦的ということになるのだろう。

現在、アジア地域が中国の強引なやり方に、緊迫の度を増しているのは周知の事実だ。ベトナムも、フィリピンもそうだし、日本にとって、尖閣問題は中国からの挑発そのものである。力を誇示して圧迫してきているのは中国であるのに、それに対抗した力を準備してはいけないということらしい。

沖縄戦の語り部という仲村貞子さんの語っている内容は支離滅裂である。そして、それをそのまま記事にしている女性自身の記者もものごとの道理が全く分かっていないように思える。

たとえば、「『死ね』と強要したのは日本人で、生かしてくれたのが『鬼畜』と教えられた米兵だったのだ。」というが、火炎放射器で洞窟に隠れていた沖縄の日本人を焼き殺していったのは米兵だ。町のそこらじゅうに死体が転がっていたといっているが、民間人も区別なく殺していったのは米兵だったのに、矛盾していないか。

沖縄の人が一人でも多く助かるように疎開させたのに、それが死者を増した原因であるかのように言う。

沖縄を欲しがっている中国にとって、この「女性自身」の記事は大歓迎の内容だろう。

女性自身はごくごく普通のおばちゃんが読む雑誌だ。こんないい加減な記事を書いて、竹富町の教科書問題はそういうことかと思ったらどうする。

「戦争は殺すか殺されるかですよね。そんなことにならないように頑張らなきゃ」
というなら、力には力を準備しなければならない。抑止力を持たなければ、やられっぱなしの悲惨さを味わうだけになるではないか。元寇のときに対馬の人々がほとんど皆殺しにあったようなむごいことにならないためにも、中国から近い沖縄が、守りの防波堤になってしまうのは必然ではないか。二度と沖縄が犠牲にならないようにするためにも、憲法九条を改正し、普通の国として手足を縛っていた鎖をほどき、日本だって無茶なことをしたら報復するぞという意思を示し、相手が手出しをできないようにしなければならない。

沖縄のためにこそ、つくる会系の教科書が必要なのだ。

「教科書問題は政治的・戦略的に位置づけられているんじゃないかと思う」と言っている人がいるが、
まさにそのとおり、そうやって今まで戦後教育がゆがめられてきたのだ。

帝國海軍に於ける軍令承行權について

ゲストエッセイ

田中卓郎氏は坦々塾の会員、哲学者。

 自衛隊を国軍にしない限り日本の軍事力は機能しない、ということについて「軍令承行権」という概念の重要さを私に教えて下さった田中卓郎氏に、この概念の哲学的説明をお願いした。以下の通りである。

帝國海軍に於ける軍令承行權について

― 無制約的な國家主權の直截な發動としての軍事作戰遂行といふ觀點よりの考察 ―

                              田中 卓郎
 帝國海軍に於ける軍令承行權の問題と言へば、通常は歴史的事實の問題としての「一系問題」、即ち海軍が戰鬪を行ふ際の指揮權の繼承序列を定めた軍令承行令『軍令承行ニ關スル件』(内令廿二號、明治卅二年三月廿四日發令)「軍令ハ將校、官階ノ上下任官ノ先後ニ依リ順次之ヲ承行ス」の「將校」に、海軍兵學校出身の兵科將校の他に、海軍機關學校出身の機關科士官をも加へて兩者を區別せず、一括して(一系化して)兵科將校(「將校」と「士官」とは一般語法では同義であるが、海軍では區別があつた。その定義や變遷を詳しく辿るのは煩瑣な作業になる。大雜把に言へば、軍令承行權を有つ兵科將校のみが「將校」であり、その他の兵種は「將校相當官」としての「士官」であると理解すれば宜しいかと思ふ)と爲し、兩者が共に戰鬪の指揮權を有つやうに改め、海軍内に於ける兩者の深刻な對立をやつと終戰の前年の昭和十九年八月に解消した、といふ歴史的事實を意味するが、この論稿はかかる歴史的事實に關するde factoな歴史學的考察では全くない。

 本稿の目的は、軍政と區別される軍令(作戰、用兵に關する統帥權)を遂行することは、無制約的な始源的權能としての國家主權の現實に於ける最も直截な現れなのであり、これの繼承遂行序列たる軍令承行令が海軍に於ける最重要事項であり續けたといふことを、de factoの問題としてではなく、帝國海軍が近代主權國家の國軍である限りさうあらざるを得なかつたのである、といふde jureの問題として考察することである。この論理の必然が存在し續けてゐたことそのことを考察の對象とするのであつて、現實にこの「一系問題」が海軍に於いて如何に弊害を齎したかを歴史的事實として檢證することが本稿のテーマなのではない。

 帝國海軍に於ける現實の「一系問題」とは、殆ど專ら兵科將校と機關科士官との權限爭ひであり、その原因は兵科將校が所屬戰鬪部隊に居る限り、機關科士官は如何に階級が上で更に實戰經驗等が豐かで軍人として如何に有能あつても、機關科士官である限りは部隊を指揮して戰鬪する權限たる軍令承行權が認められない、といふ軍令承行令の規定にあつた。この状態が實に昭和十九年八月の軍令承行令の改訂まで續いたである。これに對する機關科士官の怒りと不滿は尋常ではなく、その結果兩者の對立は海軍の戰力にも否定的な影響を及ぼしたといふことが「一系問題」の内實であり、當時の海軍將校、士官達の認識も、書き遺されたものの幾つかを讀む限り、殆どそのやうな程度に留つてゐたと思はれる。この問題が帝國海軍に於いて、この論稿で明らかにされるやうな意味に於いてどの程度認識されてゐたのかは、管見の限りでは判らず、從つてこれを探求することは大變意義深く魅力的な歴史學的テーマではあるが、それは本稿のテーマではない。

 本稿のテーマは、地上の政治權力の最終根據である無制約的な國家主權の直截な現象形態である國軍(無制約的武力)がその本質を顯現するのは國家主權の行使たる戰爭であるが、かかる戰爭に於いて部隊を指揮する權限(軍令承行權)を如何なる身分の軍人が所持するのかといふことが、海軍の組織に於ける最重要事項の一つであり、これを承行する兵科將校が海軍最高のエリートであると位置附けられてゐたことが、近代主權國家の國軍の在り方として、現實にはその運用方法(規定)の重大な誤りゆゑに多大の弊害を齎し、殆ど弊害としてのみ認識されてゐたにも拘らず、原理的には正しいことであつたといふことを論證することである。

 
 大日本帝國憲法に於いて、國家主權の體現者たる天皇が國家主權の最終的支柱たる國軍を指揮する最高の權限である統帥權を有つと規定されたことは、國家主權の性格と國家元首としての天皇の地位とを考へ合せれば論理的に當然のことであり、このことに依り、國家主權の無制約的始源性は正しく國軍に於いて保持されてゐる。この天皇大權としての統帥權の獨立は、昭和期に入り、軍縮條約を繞つて軍部により惡用されて「統帥權干犯」問題を引き起した元兇と一般に解釋されて惡名高いものであるが、かかる歴史的事實を捨象して純粹に論理的に考へるならば、國家主權の直截な現象形態であり、且つその最終的な支柱でもある國軍は、國家にとつて、行政機關としての政府、立法機關としての議會、司法機關としての裁判所といふ三權分立機關よりも國家主權に近いといふ意味に於いてそれらに先立ち、それらより始源的で無制約的な、謂はゞ生の力であり、ゆゑにそれらとは區別され、それらから制約され得ない獨立してゐる組織であると位置附けられることは、論理的には正當なことであると言はなければならない。

 (本稿のテーマからは外れるので詳述は出來ないが、國軍のかかる特別な性格ゆゑに軍人は一般の司法權によつては裁かれ得ず、一般の裁判所とは區別される軍法會議が必要となる理由が理解されよう。戰場に於いて軍人が敵兵を殺傷しても殺人罪や傷害罪に問はれず、違法性が阻却される根據は、軍隊が一般の法律の根據たる國家主權の直截な現れであり、軍の行動そのものが即時的に法的な根據となるので、軍の行動を制約し、これを法的規制や處罰の對象とする根據が原理的に存在し得ないからである。正當防衞、緊急避難といふ一般刑法上の規定によつてしか自衞官の敵兵殺傷の違法性を阻却出來ない自衞隊は、かかる點からも國軍ではあり得ないことが明瞭に看取されよう。)
 

 
 勿論、以上は現實を捨象した國家主權發現の純粹に論理的な經路に過ぎず、これをその儘國制と爲して國家を經營することが無理なのは當然である。天皇が現實に國軍を統帥すると云つても、天皇は高度な專門的軍事知識を有つ軍人ではあり得ないのは當然であるし、又軍隊を統帥すると云つても、戰爭を遂行する戰鬪部隊のみでは軍隊は成立し得ず、これを構成する兵員や豫算の確保等、戰鬪部隊以外の樣々な構成要件を滿たして初めて軍隊は構成維持されることも改めて指摘するまでもない自明なことである。かかる自明の理によつて統帥權は實際の戰鬪遂行の爲の戰略戰術の策定や作戰の立案とその指揮命令を擔當する軍令部門と人事や兵站、豫算等を擔當する軍政部門とに分岐するのは當然の趨勢であらう。 陸軍に於いては前者を參謀本部が、後者を陸軍省がそれぞれ擔當し、海軍に於いては前者を軍令部が、後者を海軍省がそれそれ擔當したのは周知の通りである。

 かかる概括的な統帥權の二分法に於いて、國家主權の始源的無制約性の發現たる戰爭を遂行する權限である統帥權は軍令部門に集約限定されたと考へてよいだらう。地上の權力の始源たる國家主權の無制約性は、かかる經路によつて正しく帝國陸海軍の統帥部、即ち陸軍參謀本部と海軍軍令部とにその儘の純粹な姿で發現するのである。この經路が帝國海軍に於いては軍令承行令といふ法令によつて明確に法制度化されてゐることが、帝國海軍が大日本帝國といふ國家主權を有つ近代法治國家の正規の國軍であることの原理的な、de jureな證明なのである。

 既に申し述べた如く、この事は、軍令承行令の存在が現實には「一系問題」と化し、軍令承行權を獨占的に掌握する兵科將校が、これを有能な機關科士官が作戰を指揮命令することを妨げ、彼らを差別して權勢を揮ふ口實として用ゐ、兩者の深刻な對立抗爭を引き起した、といふ歴史的事實とは原理的に別の事である。國家主權の發現として國軍を指揮命令する權限の經路が軍の法令上明確に規定されて、軍の武力行使が國家主權の發現として嚴格に位置附けられなければ、その武力行使は適法ではなく、單なる暴力行爲となり、敵兵の殺傷は單なる刑法犯罪としての殺人に過ぎなくなり、それを爲す「軍」は正規の國軍ではあり得ず、單なる私兵集團と見做される他はない。國軍の武力行使が正當性を獲得する唯一の方途は、それが正しく國家主權の發現であるといふことが法制上明確に規定され、國家主權から國軍への始源的無制約性とそれに由來する權能の讓渡の經路が明確に示されることである。これを囘避する國軍建設の如何なる方途も原理的に存在し得ない。(因みに、支那では人民解放軍といふ軍隊は中華人民共和國の軍ではなく、支那共産黨に所屬する軍隊といふ位置附けになつてゐるさうである。その理由を私は知らないが、本稿の結論より考察するならば、この事實は、人民解放軍は正規の國軍ではなく、支那共産黨といふ軍閥の單なる私兵集團に過ぎず、かかる徒黨とその私兵集團によつて支配されてゐる中華人民共和國は近代的主權國家、法治國家ではないといふことの端的な證據となるであらう。)

  平成廿六年 四月廿五日 金曜日

                                  識
  

平成26年坦々塾新年会

 2月も雑誌論文で苦労しました。

 『WiLL』4月号に、「アメリカの『慎重さ』を理解してあげよう」を書きました。ただし、これは副題にまわり、「『反米』を超えて」が本題になったようです。本題をつけたのは花田編集長です。

 『正論』4月号は3回の連載が終りました。「『天皇』と『人類』の対決―大東亜戦争の文明論的動因 後篇」です。やっと終りました。3回で100枚論文になりました。

 ところで、1月の坦々塾の新年会の報告分を渡辺望さんに書いてもらいました。以下の通りです。

渡辺 望

 1月25日午後4時より、坦々塾新年会が水道橋の居酒屋「日本海庄屋」でおこなわれました。新年会の進行は前半は西尾先生の新年に際してのお話、そして坦々塾新会員の紹介、そして後半は懇親会という順序でした。

 参加者は10名の新入会員の方を含め48名を数えました。新入会員のお名前を挙げさせていただきますと、赤塚公生さん、伊藤賢さん、片岡紫翠さん、竹内利行さん、田中卓郎さん、恒岡英治さん、松原康昭さん、村島明さん、藪下義文さん、渡辺有さんです。皆様、坦々塾の参加に至る経緯をお話くださいましたが、それぞれ多様な形での西尾先生・坦々塾へのアプローチを経ての参加でした。

 新年会の始まりに際して、西尾先生の本筋でのお話とは別に、2月9日に迫っている東京都知事選への先生の田母神俊雄候補への強い支持期待が表明されました。また西尾先生の著作『真贋の洞察』(文藝春秋社)が、会員の今後の思想考察の深化に役立つよう、会員に一冊ずつ無償で先生より提供されました。懇親会は三時間以上に及ぶ大議論の席となりました。 

 さて、当日の新年会報告を西尾先生のお話を中心に以下記したいと考えますが、当日の先生のお話の主要内容だった、アメリカ論を中核にした近年の日本を巡る国際関係論については、先生の近著の『憂国のリアリズム』『同盟国アメリカに日本の戦争の意義を説くときがきた』と内容が重なるように感じられます。そこで、両著作と先生のお話を行き来しながら、先生のアメリカ論をまとめることで、新年会報告の大枠にいたしたく思います。

 「反米」と「親米」、あるいは「親米保守」と「反米保守」という言葉が、西尾先生に限らず、最近の論壇人の論考に多く出てくるようになってきているように思います。それについて自分は色々な感想を持つのですが、これは今回の新年会ではなく、前回の年末の全集記念講演会でのことなのですが、先生が「自分は反米ではないんですよ」と言った途端、「意外だな・・・」というニュアンスのような苦笑の集まりの笑い声が聴衆の皆さんから起きたことを思い出します。

 ところがしばらくして先生が「自分は反米ではなく離米だ」といったときには、聴衆の感情的な反応は何もありませんでした。おやおや・・・と私は思いました。聴衆の皆さんは西尾先生の最近のアメリカ論の本当がわかっているのだろうか?と自分は感じました。「自分は反米でも嫌米でもなく離米」、この言葉は新年会の西尾先生のお話でも再び登場しました。それだけではない、私があげた先生の近著でもある言葉です。

 「反米論」というのはそもそも、たいへん雑多な立場を意味します。反米論と親米論、親米保守論と反米保守論という区分がとりあえず可能だとして、現在、最も先鋭に親米保守論の位置にいる(と思われる)論客の一人に田久保忠衛さんがいます。その田久保さんとやはり親米保守論に位置する古森義久さんとの『反米論を撃つ』という対談本があるのですが、この本を読むと、戦後日本の反米論の系譜がよく整理されていて面白い。両者の主張を一言で言えば、戦後日本の反米論の大半が、全くくだらないものだったということです。

 言うまでもなくまず左翼的な反米主義という「伝統的」な反米主義があります。この流れはかなり弱体化したとはいえ、依然として朝日新聞その他に相当数存続している。西尾先生も著書で言われていますが、1970年代くらいまでの日本の言論界はまったくの左翼主導、ソビエト、中国、北朝鮮礼賛で、それらの共産国家に対峙するアメリカを支持すること自体が「保守」である証しでした。福田恆存ですら「日本はアメリカの「妾」でなく「正妻」になれ」と言っていた時代です。この時期におおっぴらにアメリカ批判とナショナリズム的姿勢を一体させていたのは、三島由紀夫と、先生が著書で引かれているような赤尾敏の銀座辻説法くらいのものだったのではないでしょうか。

 「伝統的」な左翼的な反米主義は要するに、アメリカの軍事攻勢を受けている各地域でおこなわれている残酷な情景や管理統制をとりあげて、「反」を突きつける、というやり口なわけですが、当然なことに、アメリカの軍事攻勢の対象になっている勢力の残酷については無視を決め込む、という稚拙なものです。ベトナム戦争でアメリカに対峙する「正義」なる北ベトナム政権がベトナム人民におこなった大量虐殺をベトナム反戦運動が問題にすることは決してなかった。この反米左翼の思潮の相当部分が、(時折、親中国・親韓国化する)アメリカという虎の衣を借る狐になって親米左翼化し生き残ろうとしている由々しき現状も進行しています。

 しかし、以下は田久保さんの本に書かれていることではないのですが、こうした伝統的な反米左翼はもっと根本のところで大きな欺瞞をもっていると考えられます。それは戦後アメリカの軍事攻勢や政治攻勢をラディカルに否定するのなら、大東亜戦争の最終期において、日本は本土決戦を継続すべきではなかったか、という避けて通ることのできない問題を避けてしまっていることです。

 もし本土決戦を続ければ、日本国家は物理的には壊滅し、凄惨な殺戮の中、国土の少なくとも半分は東側陣営に組み込まれ、皇室の存続もあやうくなっていたでしょう。少なくとも今日のような日米安全保障体制はなかったに違いない。しかしそのことはまさに、「アメリカの傘下に入ることを拒否しつくした日本」「アメリカに徹底的に抗戦を続けて壊滅した日本」という、反米主義の実現の極地に至ることを意味したのではないか。日本の破滅と引き換えに、日本が「反米の聖地」になったかもしれないのです。しかし「甘え」に浸っている大半の反米左翼はこの苦しい問題を考えることをしない。

 だから戦後の日本の時間はすべて「虚妄の時間」であるという後ろめたさが本来、反米主義には圧し掛からなければならないことになります。けれど「虚妄の時間」を拒否して、「本土決戦=日本の破滅」を受け入れれば、こうして語っている自分たちも消滅するのかもしれないのですから、それは簡単に拒否できるものではない。「虚妄」はさらに重くのしかかってくる。「反米」は決してやさしい思想ではないのですね。それどころか、戦後最大の難問なのかもしれない。少なくともその難問の重さを、「伝統的」な反米左翼は何ら認識していないといえます。

 田久保さん古森さんの本に戻りましょう。この本は後半に至り、「反米保守」の旗をかかげた西部邁さん小林よしのりさんへの激しい批判を展開します。これは小林さんたちが田久保さんたちを批判したことの再批判という面もあるようですが、つまり保守主義的立場からの「反米」が可能か、という問題になります。西部さんはかつては湾岸戦争でアメリカの軍事介入を前面支持したように、一面的な反米主義者ではなかったのですが、ここ10年間くらいに、猛烈な反米主義に転じました。その西部さんに私淑している小林さんがそれに追随して反米主義のアジテーションをあちらこちらでしているということは、案外よく知られていることです。

 西部さん小林さんの幾つかの反米主義の本(『反米の作法』など)田久保さん古森さんの批判本を読み比べる限り、両者の対立は田久保さん側の「完勝」です。田久保さん古森さんはこれでもかこれでもかと西部さん小林さんを言葉遣いの間違いのレベルからこきおろしているのですが、残酷なくらい全部あたっているんですね(笑)

 言葉遣いの面はともかくとして、全体的にみて、西部さん小林さんが掲げている「反米」は、反米の「反」だけしかわからないのは、私のようにアメリカ論の専門家でない人間にもよくわかります。批判対象のアメリカの実体がぜんぜん見えてこない。たとえば西部さんは「アメリカ=WASP」論を振りかざしますが、田久保さんが批判するように、アメリカの主導権を握っているのは相当がユダヤ人であるという常識的な視野がゼロ。またあるいは英米可分論と英米不可分論という、近代史で時期をわけて慎重に論じなければならない重要テーマについても西部さんはイギリスは伝統主義の国だといい、「アメリカはヨーロッパという故郷を喪失している」というふうに断じているだけで、アメリカ=反伝統、ヨーロ
ッパ=伝統主義というブツ切りにしているだけです。

 アメリカが嫌いで仕方ないのは個人的趣向としていいとして、西部さんたちにはアメリカという国への「驚き」がないのではないか、と私は思います。史上かつて存在したことのない国家であるアメリカという国への「驚き」がない。驚きがないから、アメリカを既存の歴史の概念の枠組みに強引に単純に当てはめる。西部さんはアメリカを「ソビエトと同列の左翼国家」なんていっているんですね。そんなふうにいうならフランス革命の思想を輸出してきた近代フランスだって立派な「左翼国家」ではないでしょうか(笑)

 この「アメリカ嫌い」にはリアルポリティックスへの考察もないですから、北朝鮮をどうするか、ベトナム戦争はどちらが正しかったのかどうかという言及もない。もしアメリカが不在だったら、北朝鮮に「戦後日本」が独力で対峙し、ベトナム戦争にだって「戦後日本」は介入しなくてはならなかったでしょう。イラクの問題と違い、これらは近隣の東アジアでの日本にかかわる出来事です。言及したっていいのですが、そこまでの想像力はなく、結局、西部さんがやっていることはイラク擁護みたいなことに陥り、これはベトナム戦争のべ平連の思想と何も変わらず、つまり伝統的な反米左翼と同じになっていく。
 
 言うまでもなく、西尾先生のアメリカ論は西部さんのような乱暴なアメリカ論とは無限の距離があります。新年会のお話で「日本はアメリカに依存して生きている。安全防衛だけでなく食料や水までも依存している。この依存しているという事実から離れられないことは認識しなければならない」と先生は言われました。このお話を私なりに解釈すると、日本がアメリカに依存してきたこと、そして戦後世界でアメリカがしてきたことは全部が全部、間違いだったということではない、それは厳然たる事実で見つめないと話が観念的になってしまうよ、ということになると思います。

 たとえばベトナム戦争でのアメリカの介入自体は間違いではなかった。北ベトナムに正義なんてなかったのです。もちろん、イラクにも北朝鮮にも正義はない。これは親米保守だろうが反米保守だろうが、「保守」の面から揺り動かすことのできない点であって、この点は田久保さんたち親米保守派と西尾先生は見解を一にされると思います。

 問題は、アメリカの「正義」が、短期間的な戦後のリアルポリティックスからみれば妥当なのだが、長期的に考察すればだんだんといかがわしい面が見えてきて、リアルポリティックスから本質論に向いて考えざるを得なくなるという点です。たとえば、なるほど、ベトナム戦争や朝鮮戦争はアメリカの正義であり、西側自由主義の聖戦だった。しかしそのことと、20世紀前のアラスカやハワイ、フィリッピンの侵略は軌を一にしないものなのかどうか。中国と組んで日本に包囲網をつくったアメリカと、冷戦終了後も世界に軍事基地を維持しているアメリカは、同一のものなのではないか。同じ根源から同じように起きていることが、時代によって正義に見え、時代によって侵略そのものに見えるとしたら、そ
の根源とは何なのか。

 親米保守論が依拠しているリアルポリティックスの「リアル」は、せいぜい1950年から1990年くらいまでの現実でありアメリカの歴史です。それを崩すような反米論がありうるとすれば当然、もっと長いスパンでのアメリカの歴史になるのですが、戦後の反米論は米西戦争や南北戦争を何も問題にしてきませんでした。西部・小林のコンビも然り。そうした長いスパンでの歴史論が田久保さんたち親米保守論の最大の弱味であるにもかかわらず、です。

 比べて西尾先生の親米論への反駁が強力であるのは、歴史論で武装している幾重にも面があるからに他なりません。西部さん小林さんのアメリカへの悪罵を何十並べても、「南北戦争の北軍に20世紀のジェノサイドの起源があった」という西尾先生の反アメリカ論の重みに適うことは決してないでしょう。常に「歴史論からリアルポリティックス論へ」、この順序が反米論のあるべき方法論ではないかと思います。

 「アメリカは気まぐれである」というのも西尾先生がよく言われる歴史論です。これはアメリカが、世界中に果てしなくアメリカニズムを輸出する本能と、そうではなくて非介入の方に縮こまる本能の両極に揺れ動く不可思議な二面性をもっている国だ、ということです。この前者と後者の揺れ動きの気まぐれが、国際政治の現実にその都度、創造や破壊をもたらし続けてきている。西尾先生がよく引かれる例ですが、中国国民党と提携して日本を叩いたかと思えば、突然、中国国民党を見限って結果、中国大陸の共産化が生まれてしまった。二面性あるいは多面性がアメリカの本質で、一面的にしかアメリカを見ない西部さんたちの反米論はぜんぜん的外れだといえます。

 こんな「気まぐれな国」という性格もまた、世界史上、例がないのですが、その「気まぐれ」が新世紀に入ってきてだんだんひどくなってきて、米中提携論の強化に乗り出したり、日本の慰安婦問題に介入したりすることもしたりして、それはアメリカの国力の減退も大きくかかわってきている。西尾先生がお話の中で言われた「古臭い日本・ナチス同一論が再びアメリカの中にあらわれてきた」ということは、親米派のアメリカ像もまた古臭くなったということであって、こういう段階にさしかかったアメリカと離れる時期に来たと考えるのがまず妥当であろう。これが西尾先生の「離米論」であり、これはきわめて新しい「21世紀の反米保守論」なのです。

 このように親米論も古臭くなってきたのですが、同時に、従来の反米論の古臭さということもあるので、新しいアメリカ論は、今までの親米論・反米論の両方と対峙しなければならないでしょう。田久保さんが幾度も嘆くように、戦後日本にある反米論は保革問わず、西部さんのような「アメリカが嫌いだ」といいたいだけの乱暴な形の反米論、さらには伝統的な反米左翼論に先祖帰りしてしまう傾向がある。これは何度強調しても強調しすぎるということはない。日本が戦時下に受けた空襲その他のアメリカの戦争犯罪と、アメリカが世界各所でおこなってきた軍事的介入の現場での出来事を感情的に同一化してしまう。そこから先は思考停止しか待っていません。単純なる反米論の誘惑、といっていいのかもし
れません。

 西尾先生と福井義高さんの対談で「アメリカには別所毅彦のような直球で対決しては駄目で、関根潤三のような軟投でなければ駄目だ」という話が出たことが思い出されます。西部さん流の古い反米論は「直球」なのでしょう。だから親米保守派に簡単に打たれてしまう(笑)様々な顔=打法を持つアメリカだからこそ、西尾先生の著書には、「さようならアメリカ」という論題もあり、「不可解なアメリカ」もあり、「ありがとうアメリカ」もある。西尾先生のアメリカ論は「軟投」なのです。私はこの「軟投」の意味がよくわかるし、自分もこの「軟投」の立場に組したいと思います。

 一筋縄ではいかないアメリカは、たとえば文学にも現れるのであって、西部さんは小林さんとの対談(『反米の作法』)で、フォークナーとへミングウェイだけ出してアメリカ文学の浅さの個性(?)を語り尽くしている気になっているようですが、ラヴクラフトやエドガー・アラン・ポーのような作家についてはどうなのでしょうか。自分は高校生のときにはじめてポーの作品群を読んだとき、これはフランス象徴派の作家だとしばらく思い込んでしまった。ポーのあの重厚な恐怖の世界は、ヨーロッパとの伝統が切れているどころか、逆により徹底したヨーロッパが実現してしまっているわけで、アメリカ文学の世界はぜんぜん浅くありません。私はポーがアメリカの作家と知ったときの「驚き」は今でも忘れ
られない。以来、私がアメリカについて考えるときは「驚き」がどこかで伴うので、そういう点だけでも、「驚き」に乏しい西部さんたち反米論のアメリカ論に違和感を感じてしまいます(笑)

 西尾先生が「自分は反米ではない」といったときに皆さんに笑いが起きたのは、西尾先生のアメリカ論を、伝統的な反米論とどこかで同一視しているからなのではないか、と感じました。私たちの中には、旧来的な反米論が依然としてどこかにイメージされている。これは繰り返しになりますが、反米論とは、決してやさしい思想ではない。「アメリカ」はあまりにつかみどころのない存在なのです。だからこそ、従来の反米論の系譜とは完全に異質な21世紀の反米論、この西尾先生の試みを皆さんにも正しく理解していただきたいと新年会の西尾先生の話と皆様の反応から私は感じ、このテーマを今年の坦々塾の会で深めていければ幸いと思いました。

 懇親会の時間ののち、20名ほどの面々で二次会のカラオケを楽しむ時間となりました。いろいろな持ち歌の飛び交う場で、楽しい時間はまたたくまに過ぎていきました。

 西尾先生、ご苦労様でした。また幹事代表として最初から最後まで緻密に新年会を運営された小川揚司さん、たいへんお疲れさまでした。新入会員の方を含めた坦々塾の皆様、今年もよろしくお願いいたします。

教育文明論の感想(三)

ゲストエッセイ
武田修志 鳥取大学教授 ドイツ文学

 平成二十五年も余すところ数日となりました。
 お変りなくお元気で御活躍のことと拝察申し上げます。
 こちら鳥取は今日は朝から猛然たる雪降りで、瞬く間に四、五センチの積雪になっています。

『西尾幹二全集第八巻』を読了いたしましたので、ひとこと感想を申し述べます。

 この大冊は、先生ご自身が後記でお書きのように、一つの精神のドラマですね。一九八十年代の十年余りの月日を、日本の教育改革のために、情熱の限りを尽くして孤軍奮闘した精神人の記録です。この全集第八巻に収められた御論考はかつてほとんど拝読したことのあるものですが、今回全編をまとめて読み直し、当時の先生の気迫に圧倒されるような思いが致しました。

この長編物語の中で、今回一番心に刻まれた場面は、先生がその大部分をお書きになった「中間報告」の原稿を、文部官僚たちが膝詰めで先生に書き直しを迫ったあの場面です。先生ご本人のみならず、読者まで胸の痛みを感じるシーンです。審議会委員が削除をもとめているわけでもない文案に手を入れたり、削除したりする、これはまさに思想の検閲ですが、更に、深夜先生一人を、座長以下係官十名余りが取り囲んで、先生の文章の上に直接抹消の線を引いたコピーを渡して、一語一語、一文一文書き直しを迫るーいったいこれは何だと、今回改めて憤りが噴出してきましたが、ここで冷静に考えてみますと、この時こそが、先生が十年の間、情熱を傾けて戦われた「敵」との決戦の時であり、主戦場だったのだと思います。先生は屈辱によく耐えられて、先生にできる限りの勝利を勝ち取られたのです。もし先生があの場面で席を蹴って、退席してしまわれたら、先生ご自身がお書きのように、「中間報告そのものがさらに全面的に骨抜きに」なっていたことでしょうから。「中間報告」が文体をもった、肉声の聞こえる文書として公にされたというだけでも、当時あの冊子を読んだ人には、ある感銘を今に残して無意識のうちに影響を与えていることでしょう。

先生はこの孤軍奮闘のドラマの最後に、こう書いておられます、「私は『価値』を問題にしていたのだ。『価値転換』を問題にしていたのだ。ところが、諸氏はすでに存在する一定の価値の範囲における制度の修正、ないし手直しを考えていたにすぎない」と。これは、このドラマの締め括りの言葉として、誠に的確なものだと思います。全編を読んで、まさにこの通りだと思いました。

 文部省の有能な係官たちがどうして、審議委員が問題にしなかった先生の文案を、なんとしても改竄しなければならないと考えたのか。彼らの歴史理解、人間理解が、日教組風な歴史理解や人間理解に染まっていて、先生の理解に密かに違和を感じ、敵意を燃やしていたということもあるでしょうが、根本的には彼らは、個の価値を尊重し、創造性を最も大事にする先生のような生き方をこそ、否定したかったのではないでしょうか。それというのも、彼らは先生に対して、文案の語句を直すという形で迫ったきたわけですが、本当のところは、(彼らが意識していたか、していなかったかは分かりませんが)先生の文章の文体をこそ改変したかったのではないかと思います。文体というものは、筆者の人間そのもの、筆者の生き方そのものだからです。

思えば、先生とお付合い頂くようになりましたきっかけが、『日本の教育 ドイツの教育』を、この書が出版されましてからすぐに、読んだことでした。先生のお若い日の御論考「小林秀雄」を「新潮」紙上で拝読しましたのは、私が大学一年生か、二年生の時でしたが、『日本の教育 ドイツの教育』に出会ったときは、私もすでにドイツ語教師になっていて、三十代の初めでした。この新潮選書を読んで、ドイツ文学者にもこういう本の書ける人がいるのだと、強い憧れのような気持ちを抱いたことをよく覚えています。ドイツ文学者が扱うテーマとして非常に斬新であり、また文章が学者風の重たくおもしろみのないものではなく、はぎれよく、味わいがあるー「この人は自分の手本だな」と思ったものです。その後、ある医学部の二年生のクラスで(当時はまだ医学部の学生は第二外国語を八単位学んでいました)、先生のドイツでの御講演をテキストにしたものを取り上げ、一方、日本滞在の長いあるドイツ人の日本論をドイツ語で読み、これを先生のテキストと比較して、感想を書くよう課題を出し、私自身も多少長い感想を書きました。そして、学生と私の「レポート」を先生へお送りしましたら、先生にたいへん喜んでいただきました。その後先生からはたびたび御著書を送っていただくようになり、私は先生の熱心な読者になったのでした。今回も全集第八巻を通読しますと、例えば「教育はそれ自体を自己目的とする無償の情熱である」という意味の言葉が繰り返し述べられています。更に先生はまた、94ページでこうもおっしゃっています、「私が教育について真っ先に言いたいのは、教育家が学校教育についてつねに謙虚になり、限界を知って欲しいということである。教育はつまるところ自己教育である。学校はそのための手援けをする以上のことはなし得ないし、またすべきでもない。教育はなるほど知識や技術を超えた何かを伝えることに成功しなければ教育の名に値しないが、しかしまさにそれだからこそ、われわれが聖人君子でない以上、学校教育は知識や技術を教えることに厳しく自己限定すべきだと私は言いたいのである。」これらの言葉は、先生の教育についての基本理念と言っていいものだと思いますが、これはまた、こういうふうに先生から教えを受けて、、私が教師生活の中で、いつも忘れずに肝に銘じていた考えです。私は教師になって今年で三十九年になりますが、私の教師人生は、こういう先生のお考えをどういうふうに教室で具体化するか、そのことに終始したように、今、感じられます。教師としてのありよう、教育についての考え方等、先生の御著書をいつも参考にして考え、実戦してきたように思い、今回改めて先生への感謝を新たにしているところです。

 今回の全集第八巻が単に「教育論」と題されずに、「教育文明論」と銘打たれているところに、先生の思いがひとつ表れているかと思います。私の勝手な理解では、この書を単に一九八〇年代の教育改善のための具体的提案や議論の記録として受け取らずに、近代の新しい段階へ踏み出して行かねばならない我々日本人の生き方を問うた書と受け取ってほしいという意味ではないかと思います。この新しい近代では、重要な近代概念の二つである自由と平等がどのようにパラドキシカルに理解されることになるか、その理解を誤まれば、教育も社会もある袋小路へ迷い込んでしまうであろう、と。そういう意味で、この書における先生の御奮闘の姿は、少し距離を置いて見れば、(先生も自覚なさっているように)時代の先を一人行くドン・キホーテの姿と見えるかもしれません。そして、このドン・キホーテの理想は、三十年前には半ばしか理解されませんでしたが、おそらく次の世代において、日本の教育と日本人の生き方が問い直されるとき、よみがえってくるのではないでしょうか。それ故、今回、先生の教育論の全論考がこういう全集の一冊という形でまとめられたのは、のちのちのために非常によかったと思います。

 いつものようにまとまりのない感想になってしまいました。
 今日はこれにて失礼いたします。
 よいお正月をお迎えになってください。

平成二十五年十二月二十八日

教育文明論の感想(二)

ゲストエッセイ
岩淵 順 大学院生

拝啓

 西尾幹二著作集三部作の一冊目が刊行され、さっそく私も購入いたしました。現在修士論文の作成と平行しながら着々と読み進めていて、あと少しで読了するとこまで来ています。どの章もどの章もとても知的好奇心が刺激され、且つ色々と考えさせられることが多くあります。

 その感想もいずれまとめて御報告できると思いますが、まだしばらくはこれまで読んだ著作の感想の方を述べていこうかと思います。今回ご報告するのは、『日本の教育 ドイツの教育』を読んだ感想です。

 この本に関してはちょっとしたエピソードがあって、実は手に入れた場所が日本ではないのです。それはどこかというと、今年の春休みに海外旅行で行ったタイで購入したものです。タイ東北部のチェンマイという町で、たまたま見つけた日本食の食堂に行った時に、日本の古本を売っている本棚が何個か置いてあり、その中で見つけたのでした。

 どうやら、そこのタイ人の女性の旦那が日本人で、その人が日本で集めたものを置いていたらしいのですが、まさかこんなところで日本の書籍に、それも西尾先生の著書に出会えるとは思ってもいなかったので、非常に驚いた出来事でした。

 ちなみにそこにはなんと、あの小堀桂一郎先生の『東京裁判の呪ひ』と、あの伊藤隆先生の『昭和史をさぐる』までが置いてあって、これ幸いとばかりにその二冊も購入しました。

 こんな場所でこんな良い本が手に入るとは、随分と好い機会に恵まれたものだと上機嫌でホテルに帰ったことを覚えています。ちなみに、その日本人男性はかなりのインテリだろうと思われるでしょうが、実際はどうもタイ人女性の「ヒモ」をやっているように見受けられました(食堂の空いている椅子に座って終日テレビを見ているだけの生活をしていましたから)。

 というわけで、この本はそのタイ旅行中に読んだものなのですが、実は教育についての本というと、どうも真面目で堅苦しいイメージがあり、最初はそんなに面白いものではないだろうとあまり期待しないで読み始めました。

 ところが、実際に読んでみると、おもしろくないどころではなく、非常に興味深い内容でたちまち夢中になって読み耽ることになりました。

 ドイツの教育制度との比較によって、日本の教育制度の構造が浮き彫りにされ、どこに問題点があるのかということが、とても良く理解できる内容でした。

 教育の平等化をより徹底させようとすると、かえって学校間に差別が出て来てしまうという逆説は、非常に見事な洞察であったと思われます。

 学校のレベルを細かく意識するというのは、まさに私の経験にそのままあてはまることでした。私は進学競争の病理にどっぶりと漬かっていて、その中でさんざん苦しめられてきた類いの人間だったので、この西尾先生の分析にはいちいち思い当たる事ばかりでした。

 大学を受ける時に、少しでも偏差値の高い大学へ行く事に異様に執着し、本当に細かい数字で大学にランクを付けて、また、それを自分のアイデンティティにしようとして、大学の偏差値に対して、今から考えると滑稽なほどコンプレックスを感じていました。

 ついでに、私は会社勤めを一年半程した経験があったので、企業に関する分析に関しても、本質をよく突いていると感心していました。短い期間でしたが、私が実際に会社の中で体験したことを、西尾先生の推察は驚くくらい的確に捉えていたと思います。

 あまり物事の道理をはっきりとさせず、あいまいなままで上司の意向だけが通って行くというのは良くあった事ですし、仕事が出来る出来ないよりも、人当たりの善し悪しや、協調性等で評価される比重がかなり大きかった事を覚えています。(ちなみに私は、昼休みに他の同僚と一緒に昼ご飯を食べに行かないという理由で、協調性に欠けるという勤務評価をもらった事がありました)

 ある一定のレベルの大学を出たという事で、それが暗黙のステイタスのようなものになっているのを感じた事もあります。(役員との交流会の時に、役員の一人が「これからは、学歴も年齢も関係ない時代になりますよ」といっていたのですが、新入社員の学歴を見ると全員いわゆる「日東駒専」以上になっていて、其れ以下の大学出身者はおらず、さらには名簿の並びが年齢順(大学院の出身者がいた)の五十音順に並んでいました)

 この本ではすでに、日本の教育の最も核心となる問題点を明らかにしてしまったので、問題を解決する方法についても、議論の余地はないように思われます。

 無理に平等にしようとするから、返って差別が強調されることになるわけで、西尾先生が提案した、逆に少し差別を作った方が良いという論が、問題を解決する最良の方法だと思います。

 最初からある程度の差別があれば、案外と差別を意識しなくなるというのが人間の心理ではないでしょうか。ドイツの教育現場を見ると、差別があって当たり前という社会の方が、人間の心が安定している状態にあるというのがそのことを証明していると思います。

 競争が人間性を損なわせるとは限らないという意見も、私は高校の時の経験から納得できます。実は私は高校ではいわゆる劣等生だったのですが、そんな私に対して、学年で上位に入るような、いわゆるエリートといったタイプの人間の方が、成績の善し悪しに関わらず対等に接してくれたのです。

 まん中よりもちょっと上くらいの人間でも、同じような感じだったと思います。それに対して、ひどかったのはまん中よりも下の部類に入る人間、あるいはもう少しで劣等生になるかならないかといった人間です。

 そいつらは自分たちが感じている劣等感をごまかすために、露骨なまでにこっちを見下す言動を、ことあるごとに投げかけて来たものでした。おかげで一時は登校拒否のような状態にまで追い込まれたこともありました。

 しかし、最後は開き直って、「いくらこちらを馬鹿にしたところで、お前もたいして勉強できないということは変わらないだろう」と言ってやったら、さすがにこたえたらしく、その時は激昂していましたが、それ以後は何も言って来なくなりました。

 というように、競争社会においては、下になる人間の方が、自分のアイデンティティを保つために、(努力する代りに)さらに下の人間を叩くという構図になっていて、案外と上の方の人間の方がしっかりした人間だったりするものだと思います。

 ちなみに、私も中学校までは学年でも上位に入るような人間だったので、その時の経験からいって、決して勉強の出来ない人間を馬鹿にするような態度は取らなかったと断言できます。だいたい、自分が努力してより上を目指すということに夢中で、下の人間のことをそんなに意識する余裕が無かったと思います。

 以上のような事から、日本の教育の問題は平等化の行き過ぎであるという事は明らかであり、その解決の為には、多少の差別を容認するしかない、そのことをしっかりと認識する必要があると思われます。(落ちこぼれる人間の問題もありますが、私のようにどん底の状態に堪えて、そこから這い上がってきて、ちょっとやそっとじゃへこたれないという精神力を身につける場合だってあります。エリートの方がその点が弱かったりしますよね)

 ところで、これは余談になりますが、このさい思いきって書いてしまおうと思います。それは、大学のゼミでこの本を話題に出した時のエピソードです。

 私の指導教官なる人物に、西尾先生の書いた『日本の教育 ドイツの教育』という良い本を最近よんだという話をしたところ、私も昔読んだ事があるとの返事が返って来たので、ああ、読んだことあるのですかと問い返したところ、その次に予想もしなかった返事が返って来たのです。彼女がいった言葉はこうでした。
「あれって、ドイツはすばらしいと言っている本でしょ?」
一瞬面喰った私は、思わず「はあっ!?」と聞き返してしまいました。いったいどこからそんな意見が出て来るのか、あまりのことにあっけにとられてしまい、何と反論すればいいのか分らない状態でした。

 いや、だってですね、西尾先生の書いた著書からは、一番遠く離れていて、むしろそうではないということをライフワークにしてずっと主張してきたはずなのに、その著書を読んだ人間からまさかそんな言葉が出てくるなんてとても予測できません。

 私はべつに自分の指導教官を軽蔑して喜んだりするような行為をしたいとは思っておらず、むしろ尊敬できるのなら積極的に尊敬したいと思っている人間です。しかし、こんなことを言っているかぎりは、そうもいかないというのが実際のところです。

 いったいこの人は何を読んでいたのでしょうか。どこをどう読んだら、ドイツを賛美している本であるなどという感想が出てくるのですか。どこにもそんなことは書いてないじゃないですか。

私はこの『日本の教育 ドイツの教育』という本は、ドイツの教育制度と比較しながら、日本の教育制度の問題点を見事に描き出した名著である、と思っています。
 
 その本に対してこんな的外れの解釈しか出来ないということは、これはもう文章読解力に欠陥があると断定されても仕方がない事だと思われます。

 ちなみに、私はもともとこの人には不信感を少なからず持っていたのですが、この出来事によってそれは徹底的なものとなりました。この人の経歴は、東京大学の“教育学研究科”を出ていて、専門は“ドイツの家族社会学研究”ということになっているのです。不審に思いながらも、どこかちゃんとしたところもあるはずだと思っていたのですが、どうやら根本的にダメだったらしいということが証明される結果となりました。

 それにしても、西尾先生が述べられていたもので、本というものは、読者に読まれて初めて価値が出てくるものであるという考えがありましたが、この出来事はまさにその考えが正しいことを証明するエピソードだったと思われます。

 読解能力の無い人間が読んだ場合には、いくらすばらしい名著であっても何の役にも立たないということを、このエピソードは見事に物語っていると思われます。私自身も、まだ西尾先生の著書の価値をすべて自分のものにしているとは思っていないので、もっともっと有効活用できるようにして行きたいと思います。

(追記)
 ところで、江戸時代の教育についてこれを読むことによって、それまでに抱いていたものとはかなり違う印象を与えられました。

 江戸時代の武士の教育というと、『葉隠れ』に代表されるような、「武士道は死ぬことにあり」といった、観念論に終始しているようなイメージを持っていました。

 しかし、実際はもっと現実的で実践的な教育観を持っていたというのを読んで、とても意外であるという感想を持つと共に、このような事実があったとしないと、明治以後の急速な実用主義への傾倒を説明することは出来ないのではないかとも思いました。

 幕末について語る人間がよく使うフレーズに「夜明け前」というのがあり、日本人は明治維新によって、それまでは全く暗愚であったのがいきなり啓蒙されたような語られ方をしてきました。

 しかし、西洋の思想に触れたとたんにいきなり変わってしまうというのでは、あまりに日本人及び日本の文明を軽く見すぎているのではないでしょうか。自主性というものがまるでなく、まるっきり馬鹿扱いしていると憤りを感じます。

 これと関連した話で、坂本竜馬が勝海舟の弟子になる時のエピソードがありますが、あれもどうかと思います。けしからん奴だから斬ってやろうと思っていたのに、会ったとたんに感化されて思わず弟子入りしてしまったというものですが、これも随分と竜馬を馬鹿にした話だと思います。

 そんなにコロッと変わってしまうなんて、なんて主体性の無い人間だという印象を抱きますし、第一、それまで斬ろうと思っていた自分は一体なんだったのかと思ってしまいます。(おそらくこのエピソードは、後になって誰かが創作した俗説だと思われます。竜馬関連の話は十中八九がこの手のものではないかと睨んでいます。坂本竜馬という人物は持ち上げられ過ぎている気がします。本人も迷惑していることでしょう。)

 実際は勝海舟はかなりの人物らしいと、事前に竜馬は知っていた上で会いに行ったというのが実際のところらしく、それと同じように、江戸時代にも実用主義に通じるような思想がすでに用意されていたと考える方が自然であるかと思われます。

 常識的に考えれば、やはり歴史とは連続しているもので、何も無い所からいきなり新しい思想が生まれてくるということは、まずあり得ないことだと思います。

 とするならば、明治維新が起こる前に、すでに教育に関する徳の衣更えは完了していて、日本の近代的学校制度はその延長線上に成立したとする考えにも、私は無理することもなく納得することができます。そうでないと辻褄が合わないし、やはりこれは非常に鋭い考察だと思います。

 そのことに加えて、驚異的に教育が一般化した原因として、“村落的メンタリティ”に注目したことが非常に印象的であり、かつ説得力のある考察だったと思います。

 結論からいって、この考察は全く当を得た指摘だと思います。なぜならば、日本人のメンタリティというものは、底流では全然変わらないものだという確信があるからです。

 色々と外的な要因がいわれていますが、所詮は表面的なお題目にすぎず、実際に日本人が行動する時の動機は、だいたいが無意識の「日本的な感情」から派生しているものがほとんどであると見ていいかと思われます。

 現代に目を向けてみても、「自由」とか「平等」などの空疎なお題目をたいした主体性もなく唱えて喜んでいる人間にかぎって、自分というものが確立されず、結局は旧い因習にすがるしかなくなるというのが、大体お決まりのパターンであります(それだったら、最初から普通の生活を送っていた方が、ほっぽど個性的な生き方が出来たのではないかと思ってしまいます)。

 戦前を否定して「進歩主義」を唱えていた多くの日本人が、その裏でもっと旧式の“村落的メンタリティ”に嵌っていたとしても、別段あり得ない話ではありません。意識していないだけに、逆にその作用をもろに受けてしまうものと推察します。

 この“村落的メンタリティ”の作用は、日本社会の隅々に根付いていて、あちらこちらでそこから派生した現象が観察できるものと思われます。どこまでも日本人の行動に影響を与え続けていくのではないでしょうか。

                              敬具

『西尾幹二全集第8巻 教育文明論』の感想(一)

 西尾幹二全集の次の配本がそろそろではないか、どうなっているのかと知友から質問されだしている。たしかに昨年末までに出版されていなくてはならない約束であった。じりじり遅れている。

 第9巻『文学評論』は2月末頃の刊行となる。2ヶ月遅れた。作品の単なる集合ではなく、再編成、再生であるうえに、分量も多い。仕方がなかったのだが、こんなふうに遅れると、先が思いやられる。たゞ編集部は、一年4巻はスケジュール的にとうてい無理なのだとも言っている。私が並行して他の活動も捨てないからである。ご理解いたゞきたい。

 第8巻『教育文明論』について三人の方から感想文をいたゞいた。最初は山形県南陽市の公認会計士・高石宏典さんからで、以前より私の教育論にご関心が高かった方なので、感想文を寄せていたゞいた。

 大学院で勉強中の岩淵順さんは『日本の教育 ドイツの教育』についての独自の体験を、また鳥取大学教授の武田修士さんは全集が出るたびに全巻を読破し、感想を寄せて下さるので、今回も心のこもった一文をちょうだいした。

 以下に三人からのご批評文を順次掲示させていたゞく。

ゲストエッセイ
公認会計士 髙石宏典

 『教育文明論』は後記を含めると800頁余りに及ぶ大分量の巻であり内容的にも広がりが大きいが、私が西尾先生の教育を論じた諸著作の中で予てから最も共感し共鳴していたのは教育観に関する以下の言葉であった。

「何度も言うが、教育は自己教育であって、自分で自分を発見していく行為である。それは各人の自由な魂の内発性以外に何も期待しない立場であって、制度上の自由などとはまったく無関係である。私のこの立場はある意味では極端な理想論だともいえる。」(『全集』298頁、『日本の教育 智恵と矛盾』14頁)

 その共感と共鳴は今でも変わっていない。私が最初に教育は自己教育だと痛感させられたのは、昭和50年代前半の高校生時に遡る。県立高校入試の国数英3教科得点合計で9割前後は出来た私が、その4か月後に実施された高校最初の全国規模の3教科模擬試験では5割強しか得点出来ずに大きな衝撃を受けていた。その一方で、満点に近い点数を獲得した国立高校や私立高校の秀才たちもおり、明らかな学力差が私の気分をさらに暗く重くした。私の出身高校は当時、山形県内で二番手が定位置の進学校であったが、この程度の得点でも上位2割以内の校内順位だったのを覚えている。思えばまさにこの時から、私は否応なしに大学受験競争に巻き込まれ偏差値思考に毒され始めていくことになった。

 教師たちからはこの試験結果について何の説明もなく、私は必要以上に劣等感に悩まされた。未履修の内容が試験で問われていたのだから出来なくて当たり前だったのに、なぜ「気にしなくていい!」の一言があの時なかったのだろう。この厳しい結果と現実から、私は教科書を出来るだけ先へ先へと自分で予習することが肝心だと考え実践しその他にも試行錯誤を繰り返して自分なりに頑張ったが、どう勉強すれば受験に有効なのかその方法をつかみ切れないまま時間は過ぎ、入れる大学に入学して高校生活を終えた。

 「日本の学生は入りたい大学に入るのではなく、入れる大学に入るにすぎない。ごく一握りの大学生を除いて、他の大半の大学生は、厳密に考えると不本意入学者である。これほど不幸で不毛な教育をしている高等教育は世界に他に例がない。」(『全集』589~590頁、『教育と自由』162頁)

 西尾先生が仰るように、私も不本意入学者の1人で偏差値思考に囚われ屈託を抱えて生きていた。それでも、私が入学した昭和50年代後半の国立大学の場合、出席をとらない講義や課題レポート提出で単位が取得できる講義も多く、自由で伸びやかで豊満な時間が与えられたことは私にとって何より貴重だった。勉強は強制されるものではなく、個人個人が好き勝手にやればいいという高校とは好対照の雰囲気が私にはありがたかった。私はこれ幸いとばかり講義にはあまり出席せず、面白いと感じた経済学や会計学などの専門書を基本的には独習して知識を得、大学の試験等に対応した。講義に出なくても成績が悪かった訳ではなく、4年間ほぼ全額の授業料を免除された。西尾先生のご本と出合ったのも大学生の時で、このことは当時の大学の自由で長閑な雰囲気とあり余る時間があればこそだったようにも思う。

 以上のような私の経験に照らして日本の大学が「不幸で不毛な高等教育」だとは必ずしも思わないが、以下の先生の文章から分かるように欧米の大学教育の厳しさは日本のそれとは余りにも対照的で、殊に学問の発展という観点からすれば日本の大学教育は明らかに甘すぎもはや機能不全に陥っていると考えるべきなのかもしれない。

 「ドイツの大学には試験がない。講義は聴きっぱなしである。市民公開講座となんら変わるところがない。試験がないから、成績もない。成績がないから落第とか、及第ということもない。学年も、在学年限もないのだから、卒業ということもない。何年籍を置いて講義を聴いても、それだけでは何の資格も得られない。(中略)結局、なんらかの資格を取るには、学生は大学の定むるところを当てにはできず、ゼミナールでいい発表をして教授に認められて、上級ゼミナールにもぐりこみ、学位論文を受理してもらうか、さもなければ各種専門職の資格を保証する国家試験に合格するか、いずれかの道を歩む外はないだろう。」(『全集』149~150頁、『日本の教育 ドイツの教育』129頁)

 「アメリカの大学では、競争は入学時の一発勝負ではなく、入学後に始まる。進級の選別は厳しく、落第や退学は遠慮なくどしどし行われる。公立大学には格差があるので、成績いかんで上位の大学へ転出できるし、また成績が芳しくなければ下位の大学へ移動しなければならない。これは「転職」を恥とせず、そこに積極的な人生の意味を見出しているアメリカの企業社会人の生き方と、つながっている。」(『全集』250頁、『日本の教育 ドイツの教育』259頁)

 ドイツとアメリカの大学は何て平等で自由で公正なのだろうか。ドイツの大学は何て厳しいのだろう。ドイツの大学生はこうした孤独と自由に本当に耐えられるのだろうか。アメリカの大学は厳しくても何て親切なのだろうか。ドイツとアメリカの個人主義に立脚した大学のあり方やその後のこれら外国人の生き方は、大学が学歴ブランドで楽園に過ぎずその後は企業等の集団に帰属する日本人的な生き方と何と対照的だろうか。私はこんな風に率直に思わずにはいられない。楽園としての私の大学4年間はあっという間に過ぎたが、その後には、先生が『ヨーロッパ像の転換』で記された以下のような疑問が残っただけであった。

 「一体いかなる恐怖心が日本人を闇雲に学校教育へと駆り立てているのであろうか?たえ間ない欲求不満と競争意識に追いまくられて、自足する幸福を喪い、自己はただ他人との比較においてしか価値を持ち得ず、その結果手に入れたものがいったい何のための知識か、何のための教養か、それがいつも問題なのである。」(『ヨーロッパ像の転換』158頁)

 大学卒業後、私は紆余曲折を経て平成元年にようやく公認会計士第二次試験(現行の論文式試験)に合格し、監査法人に就職して社会人となった。会計士試験への対処法は高校や大学時代と変わらない我流であったが、勉強は他人から教わるものではないと固く信じていたのでその信条を貫いた。高校も大学も私にとっては詰まるところ通り過ぎた場所にすぎなかった。また、一般企業への就職を考えなかったのは、ここでこういう仕事をしたいという具体的なイメージが描けなかったからである。就職後、会計監査の実務経験を通して、職員間の相互牽制の下で仕事をするスタイルが自分にはストレスであることが分かり、法人内の薄暗い監査調書室で独り作業をすることが多くなった。それでも何ら咎められもせずに約8年も勤務出来たのは、創業者で公認会計士でもあった故塚田正紀先生の度量の大きさと鷹揚さに因るところが大きかった。仕事という実践教育を通して、私は自分が何者であるかを少しずつ発見し悟っていった。

 私には、半世紀余りを生きて来て、学校や社会との関わりの中でたとえ仮に深い挫折感を経験せずにもう少しうまく立ち回れていたとしても、結局は今のような自営業の立場で独り仕事をする道を選択していたに違いないという確信がある。今の仕事スタイルが私には最も自然な形である。サラリーマンとは異なり仕事上の集団や個人との関わり方はそれ程タイトではないが、それでも日本社会の中で私をして負の感情に陥らしむ二つのものがある。それは偏差値思考と人並意識である。ここで偏差値思考とは他者との比較において自分を相対的に位置づける受験競争によって植えつけられたあの固定観念であり、人並意識とは日本社会の至る所に蔓延している人は誰しもこうでなくてはならないというあの固定観念のことを意味している。私は、この二つの固定観念が日本人の無意識下に潜伏して、日本社会を息苦しくし卑小化し活力を失わせている大きな原因だと考えている。人は本来、自由感と運命感の交差するところにしか幸福感を感じられないそういう生き物ではないだろうか? 保身のみを考えてちまちま生きることは果たして本当に幸福感につながるのだろうか? 少なくとも私は、人それぞれにおいて二つの固定観念に囚われない自由感と運命感の共存する一筋の道がきっとあるはずだと信じている。

 最後に、『教育文明論』を拝読して今なお印象深いのは、西尾先生が第十四期中央教育審議会委員として文部官僚たちと孤軍奮闘された、ハラハラドキドキの臨場感あふれる答申草稿の変貌過程に関する記述であった。私はこの件を胸と胃を締めつけられる思いなしに読み進めることができなかった。自分の文章を相手の意向で勝手に修正されることは、私の経験上、神経を逆なでされるか腸をかき回されるような思い以外にはありえない。西尾先生の心身のご負担は如何ばかりであられたろうか。そして、この『教育と自由』終章の末節において先生が以下の心情を吐露された箇所を拝読した際に、私はニーチェの『ツァラツストラ』における木炭とダイヤモンドの噛み合わない以下の面白おかしい会話を連想していた。二つの引用文ともに価値と価値とが対立している。

 「最終答申が出るときになって、私の努力の大半が空しくなり、肝心な草稿はほとんど削り取られ、置き去りにされるような思いがしたとき、私は卒然と気がついた。私の考えていた教育改革と他の委員諸氏のそれとは何という隔たりがあったであろう。私は「価値」を問題にしていた。「価値転換」を問題にしていたのだ。ところが、諸氏はすでに存在する一定の価値の範囲における制度の修正、ないし手直しを考えていたにすぎない。」(『全集』686頁、『教育と自由』288頁)

 「「なぜそう硬いのか」―― あるときダイヤモンドに木炭がたずねた。「われわれは近親ではないか」―― なぜそんなに軟らかいのか。おお、わたしの兄弟たちよ。そうわたしは君たちにたずねる。君たちは――わたしの兄弟ではないか。なぜそんなに軟らかいのか、なぜそんなに回避的、譲歩的なのか。なぜ君たちの心にはそんなに多くの取消しと中止とがあるのか。なぜ君たちのまなざしには、そんなにわずかしか運命がないのか。もし君たちが運命であること、仮借なき者であることを欲しないならば、どうして君たちはわたしとともに――勝利を得ることができようか。そしてもし君たちの硬さが、光を放ち、分かち、切断することを欲しないならば、どうして君たちはいつの日かわたしとともに――創造することができようか。(中略)おお、わたしの兄弟たちよ。この新しい表をわたしは君たちの頭上にかかげる。「硬くなれ!」――」(ニーチェ『ツァラツストラ』「新旧の表」29 手塚富雄氏 訳)

 人は所詮、この木炭とダイヤモンドのように分かり合えないのかもしれないが、人が理想を持ちそれを信じて生きていくことは必ずしも無意味ではないのかもしれない。ニーチェのこの言葉はそのようにも読めるし、パイオニア精神を持つ人々の長く険しいそれぞれの道のりを暗示しているようにも思える。
                     (了)          

「アームストロング氏の教訓」

 赤塚氏は元福島県立高校の校長先生でした。教科担当は世界史。

ゲストエッセイ
 赤塚公生

 昨年の11月~12月にかけて、西尾先生のお話を直接伺う機会がありました。最初は、岡田英弘著作集の出版祝賀会、後の機会は12月8日の市ヶ谷での講演会でした。
 私は、公立高校で丁度10年間、「世界史」という教科を担当した経験があり、かねてから「西尾世界史像」に多大の関心を持っています。「国民の歴史」は、一万年の縄文文明から現代まで続く日本人の精神文化の連続性、とりわけ、「日本語」の起源と発展について深い探求と考察がなされた名著であろうと思われます。
 「江戸のダイナミズム」に至っては、西洋古典文献学との対比において、江戸の国学・儒学を解析し、併せて清朝考証学を比較参考にするという、(多分、世界で西尾幹二という思想家にしか書けない)離れ業が行われています。
「日本史」と「世界史」を統合した真の意味での「歴史」を考えていく上で、「西尾世界史像」と「西尾幹二が示す日本人の歴史認識」は大きなベースになるものであり、一つの「哲学」として生きてくるのではないでしょうか。

 ところで、暮れから正月の慌ただしさの中で、西尾先生の近刊「同盟国アメリカに日本の戦争の意義を説くときがきた」を読み進んでいるうちに、「アメリカ人ならどう考えるのか」とふと気になり出しました。そのとき、昔読んだ一冊の本を思い出しました。マイケル・アームストロングの「日本人に感謝したい」という1981年6月に発行された書物です。
この表題は相当に皮肉なもので、趣旨を簡単に言えば「アメリカのプロパガンダと洗脳に唯々諾々と従って、アメリカの世界戦略に協力してくれるナイーブな日本人に感謝したい」というものです。しかし、同時に、著者は、日米関係の「現実」を美辞麗句ではなく直視すべきことを、相当親切に忠告しています。そして1980年代以降、アメリカは、必ず「経済戦争」を日本に仕掛けて来るだろうと予告しています。

アームストロング氏が1981年当時書いていたことの要点は、次のようなものです。これは或いは「アームストロング氏の教訓」と題しても良いかも知れません。

1 レーガン・中曽根「同盟」による「日本の防衛策」は、日本人の汗と金による、アメリカによるアメリカのための「アメリカ防衛策」である。しかし、日本人はそれを「日本の防衛策」と信じ込まされている。
2 アメリカにとって日本は、未だに「仮想敵国」であり、「日米安保は一面占領継続」を意味しているのだが、日本人はその現実をみようともしない。
3 「民主主義」「経済成長」「福祉社会」・・・。こういったものは本来「目標」ではなく「手段」に過ぎない。アメリカの洗脳で、日本人は、それが国家目標たるものと思い込んでいる。アメリカの「目くらまし」に過ぎないのだが、騙されていることに気がついていない。
4 「通産省と民間企業が一体化した日本」などという批判を真に受けている日本人は愚かである。アメリカは、政府と銀行と企業と国家情報機関、シンクタンクが一体化して戦略目標を決定していて、それを経済活動に移そうとしている。数千という軍事衛星もコンピュータ産業も全てそのために活用されている。
5 日本人は「アドバルーン」も「ブラフ」も区別がつかない。海外から批判されると日本のマスコミが「世界から孤立する」と大騒ぎして政府を責め、政府も立ち往生する。これは、外国から見ると楽しい見せ物である。外国政府がその意志を通そうとするなら、「ブラフ」を多用すればいい。「ニューヨークタイムズ」や「エコノミスト」の論説など巧みに米英の国益を底に秘めた、アドバルーンや雑多な思惑に満ちたものなのだが、日本の評者たちはそれを国際基準から見た公正な判断であると勘違いしている。
6 日本の「総合商社」は、アメリカから見れば、ものの数ではない。彼等がある程度利益を蓄積したところで、合法的に乗っ取るだけである。1980年代は、そういう時代になるだろう。既に、アメリカは着々と準備を進めている。

正直なところ、当時、読み進むうちに額から血が引き、冷たい汗が流れたことを覚えています。日本の「総合雑誌」や「論壇」で語られていることとあまりに異なる現実が、説得力を持って語られていたからです。
 しかも、氏の予言は正確に的中していました。レーガン政権と中国共産党は中曽根首相の「美辞麗句」と実際の「政治行動」の乖離、オポチュニストである本質を見逃さず、後の「プラザ合意」「日米経済構造協議」といった経済戦争と「靖国」に象徴される歴史問題での執拗な攻撃を開始しました。
アームストロング氏は、金融に明るく、「俳句」も作るという知日家であったようで、当時、4、5冊、本を出しています。いずれも若き日の宮崎正広さんが翻訳されていますから、宮崎さんはこの方について何か知っていらっしゃるかも知れません。いずれにせよ、30年前に日本人の読者の前から姿を消された方ですから、今、何かお話しを伺うことはできません。しかし、「アメリカの本音」を語っていただくにはうってつけの人物だったように思います。もし、この方が西尾先生の「この本」を読んだときに、どんな感想を語るのか、甚だ興味深く思います。

 さて、「12月26日安倍首相の靖国参拝」をめぐるマスコミの騒ぎは「アームストロング氏の教訓」の一つをまざまざと思い起こさせました。「日本人は、アドバルーンとブラフの区別もつかない」という教訓です。
中国や韓国が何を言ってきても、彼等は、「言ってなんぼ」の国益だけでくるのだから関係ありません。ロシア外務省がああ言ったこう言った。関係ありません。プーチンなど「安倍はやっぱりサムライだ」と内心評価しているだけでしょうし、アメリカ国務省が「失望した」と表明したと聞けば、イスラム世界は安倍首相をむしろ過大に評価することでしょう。こういった国際政治の現実をきちんと踏まえているのは当の安倍首相だけで、日本の一般の政治家やマスコミには決定的に欠けている視点です。

ところで「アームストロング氏の『書かなかった教訓』」が、一つあります。
 アームストロング氏は、「民主主義」とか「経済成長」とか「福祉社会」といったものは「手段」に過ぎず、国家目標たり得るものではない、と書いています。ですが、日本の国家目標が何かとは、当然ながら書いていません。
しかし、中韓の外交攻撃に晒され、「尖閣諸島」では中国との武力衝突も起こりえる今こそ、私たちは、真剣に、そもそも「日本の国家目標とは何か」という問題を考えるべきです。この自覚を明確にすることによって、戦う意志が生まれ、眼の前の事象に左右されない、しっかりとした生き方ができるからです。
 「大東亜戦争」以前は、この国家目標は議論の余地のないほど、はっきりしたものでした。「『国体の護持』と世界の一等国になること」「アジアに新秩序をもたらし、各民族の独立と覚醒を促し、その中で我が国が名誉ある地位を占めること」。こういった目標に疑いがないからこそ、日本という国家は一つにまとまっていました。
 現在であれば、例えば、次のように表現することも可能です。
「我が国固有の文化と伝統を守るとともに、自由と民主主義の価値観に立ち、世界の法秩序を守り、世界の政治経済的安定に貢献して、豊かで個人の意志が尊重される社会と国家を目指す」。面白くもおかしくもありませんが、こんなふうに言うことは可能です。現実の問題として、日本がアジアの民主主義国家であり経済大国として、日米同盟を基軸に据えた上で、中国と並存し、世界の自由と人権を擁護し、貢献する、といったことは、常識的なこととして理解されることでしょう。ただ、中・長期的な政治的課題というべきものが「国家目標」そのものなのか。強い疑問が残ります。

この疑問は、恐らく「日本人としての生き方」或いは「日本という国家の本来的な在り方」が文章に反映されていないためだろうと思います。
それでは、次のような文章は、いかがでしょうか。

 「日本人の魂の伝統的な性格とは崇敬である。われわれは祖先の霊を敬い、内外の和を尊び、誠を貫き、自然にひそむ人間より大きな目に見えぬ意志に謙虚たらんとする。そして、進取の気性、勇気、忍耐、礼節を重んじ、何より名誉と正義の感覚、ときによりて尚武の気風を尊重する。このような日本人としての生き方を基本に、我が国固有の文化と伝統、国民統合の象徴である「皇室」を敬い、自由と人権を尊重し、国際平和を希求することを国家の目標として掲げるものである」

一読してお気づきの方もいらっしゃると思いますが、これは平成14年に「中央公論」が企画した「日本国改正憲法前文」の西尾先生の「私案」の一部を借りて作成したものです。(この原文は「天皇と原爆」157p~に所収されています)

 三十年前に私は、アームストロング氏によって「おまえの考える日本という国家の目標は何なんだ?」という問いを突きつけられました。怠惰な私は、時折思い出すだけで答えを書き付けることはありませんでした。
今、それを私は、一言で「日本人らしい生き方ができる国家」と答えたいと思っています。実は、後期水戸学の「尊皇攘夷」も「国体の護持」も、その根底にある精神は「日本人らしい生き方をする」ということでしかない、と思えるのです。
「経済大国」「世界の安定のために利害を調整できる国家」「国民に自由で豊かな生活を保証する民主的な福祉国家」などというものは、全て、その結果に過ぎない。それ自体、二次的、三次的な目標でしかない、そんなふうに思えます。

 本文は、西尾先生の「同盟国アメリカに日本の戦争の意義を説くときがきた」の感想を書くつもりで書き出したものでしたが、アメリカ人の考え方に思いをめぐらせるうちに、内容は「アーロストロング氏の教訓」になってしまいました。
 しかし、ここまでお読みいただいた方にはご理解いただけると思いますが、アームストロング氏が30年前に述べている見解と、西尾先生がかねてから展開されている戦後日本人の国際認識への批判は、立場が異なるだけできわめて近いものなのです。
 アメリカ人の中には、少数であってもフェアな精神が息づいている。それにきちんと向き合って、本質的な議論をすれば、立場は異なっても理解と敬愛の念は生まれる。このことは西尾先生が繰り返し述べられていることでもあります。
「日本の戦争の意義を『説くときがきた』」という表現は、まさしく現時点でふさわしいものと思われるのです。

「『天皇』と『人類』の対決――大東亜戦争の文明論的動因(前稿)」を読んで

ゲストエッセイ 
池田幸二 プログラマ兼中小企業診断士 40代

『正論』2月号感想

 西尾先生のご論稿の主題のひとつは、日本は過去に「歴史の罠」にはまったのである、その罠はみかけほど単純なものではない、わかりきった事だとたかをくくっていると再び足をすくわれるような巧妙な罠である、再び同じ罠にひっかかるな、日本は隙を与えるなということでした。特に日本に悪意を抱いた勢力に対して警戒を怠るなという意味もありますが、善意だろうが悪意だろうが非情な原理で人間を飲み込み翻弄するような歴史の狡知を警戒すべきという意味にも受け取れます。これは恐ろしい真実を突いています。

 内容を一部引用させていただきますと

「現に中国が、のさばってきたのはこのわずか5年ぐらいであって、よく考えると、最貧国が突然経済大国を僭称(せんしょう)するようになってきたのも、単なる力の表われであります。アメリカが対中外交で及び腰なのは、中国から金を借りているからであり、中国という国は国民に金を回さなくても、外交に金を使える国、めちゃくちゃな独裁国家です。アメリカがそれを許してきた。ある意味でそれを誘発してきた、アメリカの自業自得とも言える。自分の失敗のツケが回ってきているとも言える」

(引用者注:米国国債の保有額は中国が日本を追い越した。日本はまず売却しないと見られているが、中国の動きは不明で米国に無言の圧力をかけている)

「わからず屋の中国人や韓国人と、半ば逃げ腰の欧米人、稼ぐだけ稼いでさっさと立ち去る用意をしているアメリカ人やヨーロッパ人。そうして政治のリスクは、常にわが国にだけ及ぶ。百年以上前からそうだったんじゃないでしょうか」

(引用者注:中国は政治的不安定におちいるたびに日本への敵愾心を煽って人民の団結をはかってきた。たとえば1989年の天安門事件で世界の非難にさらされた後に江沢民などは徹底した反日政策、すなわちメディアや教育を塗り替え、反日ドラマ、反日モニュメントなど反日一色の政策を促進した。当時の日本は不運にも朝日新聞などの全盛時代であったため朝日等が中国共産党に加勢して中国の反日をさらに煽った。それら日本国内での反日勢力の言動は、中国の反日に一種の正当性を与えてしまい、世界では「中国が怒るのも無理はない」と考えるメディアも続出した。ちなみに江沢民などらは、今年スペイン裁判所により、中国でのチベット族虐殺に関与した容疑で逮捕状を出されている。日本の反日左翼は、現代中国の少数民族虐殺や国内の深刻な人権弾圧、それに数百個の核弾頭で他国を脅迫する大国覇権主義などを棚上げして、日本の歴史を中国や韓国と協同で攻撃してきたのです)

 これらの箇所では、歴史の罠がしのびつつある不気味さを感じました。中国での猛烈な反日暴動など、どこ吹く風であるかのように、欧米の新聞社は、日本を酒の肴にして日本のナショナリズムがどうのこうのと揶揄して、日本を見下すステレオタイプの説教をしながら高みの見物を決めこんでいます。この馬鹿げた風潮も戦前とおそらく同じなのでしょう。また北朝鮮や韓国が錯乱的外交と悪あがきを趣味とする場末の国家であることも当時と同じ状況かもしれません。

 国家間または民族間の歴史観の争いは、最高裁判決のない永久的裁判を闘っているようなもので、過去の歴史に現在の歴史が積み重なって、たえず見直しと変動が繰り返されていきます。中国や韓国のような先進国の仲間入りを狙って、G8サミット(主要国首脳会議)にアジアから唯一参加している日本を羨望し追い落としをはかってきた国が、たえず日本の歴史観を攻撃し、それを日本国内の反日左翼(戦後日本の経済的成功や政治的成功を常に恨み、非常識な日本非武装中立化を推進するなど、たえず日本がまともな国際的地位をしめないように邪魔をしてきた怨念グループ)が側面支援するという構造になっています。

 戦後日本人の歴史観に大きな影響を与えた左翼の歴史観は共産主義イデオロギーや東京裁判に沿ったものであったわけですが、それらの洗脳を受けなかった多くのすぐれた知性をもった日本人が様々な証言を残しています。戦争にいたるまでの複雑性については、たとえば当時を生きた竹山道雄によって、すでに昭和30年代(「新潮」S38.4)に悔恨をこめて下記のように整理されています。

(引用開始)

対米・対世界開戦も、すでに昭和16年秋となっては、だれがやってもああなるより外はなかった、と思われる。むしろ、それまでの10年間の乱脈と無能と近視と思い上がりのつみ重ね、それに不公正な世界分割とある程度まではやむをえぬ歴史の動き・・・が加わって、あの結果を生んだ。国内にはデスペレートな開戦気運がはげしく、国外ではアメリカが日本をこらしめようと決意して、最後になっての日本の譲歩をも相手にしなかった。東条首相は他の何人がやっても打開できなかった局面を負わされて、国民の怨を一身に受けて刑死した。

あの時期は世界中の危機で、後進の日本は痛い打撃をうけたが、それをのりきるべくただ過大な軍備をもっているだけで、ほかの体制はできていなかった。世界共産主義の脅威は大きかったが、まだその正体が国民にははっきり分からないままに広い大陸に防共駐兵をした。それが無責任な軍国主義とごっちゃまぜになっていたので、アメリカは小言をいったが、いまはそのアメリカが世界のいたるところに防共駐兵をしている。そして、また、植民地の独立は現代の大勢で、いまはそれがほぼ完了したが、あのころには植民地的権益をもっている国の中では中国がもっとも強かったから、その紛糾がここでもっともはやく始まったといえるのではないかと思う。フランスは富強でアルジェリアは弱かったから、植民地独立の一連の紛糾がここでいちばん遅くおこったのだろう。

内外のさまざまの難問題を背景にしながら、日本はそのむかしから自然の国民的結合の中心となっていた土俗的性格のミカドを、近代的君主にしよう、そして第一次欧州大戦前の自由主義的体制の国になろうとして努めていたのだったが、それもつかのまで、間に合わないうちに危機に呑み込まれてしまった。

(引用終了)

 この後、日本人はこのような枠組みにそって、天皇の統帥権とか、軍部の下克上とか、さんざんとこの辺の内部的な混乱要因を後知恵で掘り下げてきたわけです。けれども、この傾向が日本人の歴史分析をかなり内向きにしたと思います。竹山道雄がすぐれているのは上記のように、あの時期の様相と混乱のメカニズムを深く分析しながら、時代を俯瞰できるすぐれた俯瞰力をもっていたことです。その俯瞰力と日本人としての自覚により、それ以降の叙述が世界の悪意の罠に陥っていった日本の悲劇性をより洞察した表現に深化していったように思います。俯瞰力とは、縦の時間軸つまり長期の時代に沿って歴史を見る俯瞰力と、横の空間軸つまりアジア全体や世界など広域にわたって俯瞰する俯瞰力の二つがあると思います。多くの日本人が西尾先生など歴史的主体性をもった英知に啓発されてすぐれた俯瞰力を今後身に着けていけば、古い時代に培養されて現代日本人が空気のように吸っている洗脳史観を日本人が脱することができるのではないかと希望をもっております。

 わき道にそれますが、日本人が歴史の俯瞰力をもつべきであると痛感した例が、1990年代の従軍慰安婦騒動です。これは日本の反日左翼と海外の反日勢力の合作ですが、当時の日本の政治家が歴史の俯瞰力をもっていなかったために、これら反日勢力に喜劇的といえるほど翻弄された例です。慰安婦騒動は朝鮮人女性の人権を旧日本軍すなわち過去の日本が著しく蹂躙したという発想で糾弾され、現代の日本人が責任を負うべきものとして日本人のプライドは完膚なきほど国際社会で攻撃されました。

 けれども当時の政治家が歴史の俯瞰力をもって朝鮮半島歴史をさかのぼっていれば、日本こそが過去に朝鮮人女性の人権を向上させたのだということを反論できたはずです。(日韓併合は朝鮮人にとってはあまり思い出したくない過去かもしれませんんが、あそこまで一方的に日本を貶めようとする勢力がいたならば、日本の政治家はそこまで反論する勇気をもつべきだったのです)。また横の俯瞰力をもっていれば過去の世界戦場の慰安婦人権状況がどんなものだったかにも気づき、客観的研究者により調査や研究なりする必要性が思い浮かんだはずです。そうすれば、朝鮮戦争やその後については韓国大統領が慰安婦奴隷化の責任者であったことが判明したはずです。

 従軍慰安婦騒動というのは1991年ころに朝日新聞の捏造で勃発しましたが、驚くほど当時の日本の病理が集約されている現象です。「従軍慰安婦というイデオロギー」といってよいほどの現象でした。「従軍慰安婦というイデオロギー」というのは大袈裟ですが、分析すればするほどこの現象の驚くべき異常性と象徴性がわかります。まさに「イデオロギー」だったのです。まだまだこの異常性は十分に分析されつくしていないと考えます。吉田清治の捏造は有名ですが、この吉田清治のデタラメな捏造話がでたときに、左翼に占拠された歴史学界はだれもこれが捏造であることを指摘しなかったのです。ふだん史料批判や一次史料の重要性の説教をたれていた連中が誰も批判しなかったのです。一次史料とつきあわせれば簡単に捏造と発覚したのに、すぐに神話レベルまで昇格させてしまったのです。政治的意図があったからです。左翼知識人のトリックはまだまだいくらでもあります。日本が朝鮮女性の人権を向上させたと主張しても左翼学者は絶対に認めません。著しく人権蹂躙されていたのだといろいろ例をもちだすでしょう。これもトリックであり、人権基準の比較対象を現在においているからです。現在からみれば過去の人権考慮が不足しているのは当たり前です。人権状況を比較するならば、日本が朝鮮に関与する前と後を科学的、体系的に比較しなければなりません。このような左翼言論人のトリックは「徴用」という言葉を作為的に「強制連行」に置き換えて印象操作するなど数多くあります。左翼言論人が左翼マスコミと連携して徹底的に印象操作を繰り返してきました。

 またこの騒動では、いわゆる一見「保守」と見えるが、実際は保守でもなんでもないデタラメなエセ保守があぶりだされました。日韓関係や日米関係に波風を立てないように適当なところで日本の非を認めて蒸し返すなと彼らは主張したのです。過去をふりかえると、戦争の責任はすべてA級戦犯に負わせるということで日中合意をしたのだからA級戦犯をナチスと同等みたいなものにしておけと主張した連中と同類です。これら刹那的でデタラメな対応がますます反日勢力に便乗する機会を与えて、その後の日本を窮地におとしいれました。

 他にも、なぜこの時期に起こったか点に関して、つまりソ連の共産主義崩壊との因果関係なども分析されるべきです。海外に巣食う反日勢力と日本の反日左翼の反日共同体が完成しつつあったこと、国連をも動かす勢力であったことなども要注意です。

 もっとも震撼すべきことは、この騒動におけるジャーナリズムの位置づけです。日本ではよく日本社会は「空気」が支配するなどともっともらしく解説をする人間がいますが、その議論はまったく建設的ではありません。日本社会が非理性的であることを広めたいという無意識的な悪意があるのでしょう。たとえば米国でも、イラク戦争開始で米国社会のあの時点の空気が重大な作用を及ぼしたといえるように、空気はどこの国でも支配的ではありますが、もたらした結果がよければ、あれは合理的判断だったと振り返り、結果が悪ければ空気が支配したと後知恵でふりかえっているだけです。

 問題はその「空気」の質です。日本では過去長期に渡って、その空気をつくりだしてきたのはまぎれもなくジャーナリズムだったのです。あまりに低劣な品質のジャーナリズムが舌先三寸で時代の空気をつくりだしていました。空気はその時代のジャーナリズムがどちらにころぶかで決定づけられます。逆に「空気がジャーナリズムをつくったのだ」という反論もあるでしょうが、当時朝日新聞などメディアが広くいろいろな意見を求めて反論などを慎重に取り上げていれば、一方的な空気はつくられなかったはずです。空気がジャーナリズムをつくったのではなく、世論を支配できたジャーナリズムが反論を一方的に封じて当時の空気をつくったのです。

 記録が十分に残っている慰安婦騒動では、記事統計をとれば、まず慰安婦記事が朝日新聞で爆発的に広がってから、韓国や中国にその記事が広がり、欧米の記事にも広がっていったことが統計的にも突き止められると思います。これらをコンピューターなどで解析して裏付けていくべきです。日本人に限らず、韓国人や中国人、それに欧米人も空気に支配されないためには、直接的な真摯な議論を行い、それぞれが自国のジャーナリズムに躍らせられないことが重要であると確信しています。

 先日誰も予期しないタイミングで安倍首相が靖国参拝した後に、米国が非難声明を発表しました。上記の「米国が中国に取り込まれつつある」というご指摘の妥当性を暗示するものであり、少々震撼を覚えました。ふと思い出したのですが、近年しきりにメディアに登場するエズラ・ヴォーゲルという米国学者が日中、日韓の関係を改善するには首相が靖国参拝をしないことが大切だと幾度も釘をさしていました。日本の経済力脅威を話題にした「ジャパンアズナンバーワン」で米国ベストセラーになり、鄧小平以来の経済開放を分析するなど、現代の日本と中国に通じていると見られている著名学者であるので、米国指導者や高官は確実にこの言論人の主張を参考にするだろうと思われましたが、案の定、米国民主党や大使館関係などは影響を受けているのかもしれません。

 ちなみに今日のニュースも靖国問題をやっていたので、今回の安倍首相の靖国参拝をふりかえると西尾先生が7月の安倍首相の会見をご覧になって、靖国参拝をやるという総理の意志を感じたという分析は今から振り返ると正しかったですね。私は終戦記念日の中国抗議が総理の意志を決定的にしたと思います。総理が今年の終戦記念日に靖国参拝しなくても中国は終戦記念日むけの総理の談話などに中国への謝罪がなかったと抗議をしてきたのです。靖国参拝すれば猛抗議する、参拝しなければ談話が気に入らないと抗議する。このとき安倍首相は中国の意図を理解したに違いない。過去に靖国参拝しなかった首相に対して談話内容が気に入らないと中国が強い抗議をしてきたことがあったでしょうか。安倍首相を非難して日本での安倍氏の支持率を低下させ少しでも失脚を早めるための嫌がらせであったのです。また1回謝罪をしたら、それをもって2回目の謝罪を要求する、10回目の謝罪を要求するのは11回目の謝罪を保証するためです。1歩下がれば2歩も3歩も浸入してくる。少しでも抗議の機会や抗議のネタを拡大していくのが狙いです。この状態で中国の言いなりになるのは、よほど特殊な政治家であり、日本の指導者にはふさわしくありません。戦没者の慰霊に対して注文つけるのは内政干渉であるとはねのけるのが正常な態度です。しかし朝日新聞等の反日メディアのやらかしてきたことには慰安婦騒動にしろ、戦慄を感じるのみです。

 元来、靖国参拝非難など中国のカムフラージュであり、嵐のような現代の反日暴動も江沢民の時代の偏執的反日教育の成果が何十年も経って表われているに過ぎないのです、もし靖国参拝がなければ尖閣問題やら何かで同しレベルの反日暴動をやったに違いありません。戦後共産主義者を源流とする日本の反日左翼は驚異的なほど日本の教育やメディアを牛耳り、日本を苦しめて中国や韓国の反日を煽りました。従軍慰安婦捏造が朝日新聞のしわざであることなどネット人間なら誰でも知っているでしょうが、尖閣問題も1971年に中国がいきなり領土宣言をした翌年1972年にさっそく共産主義者で京都大学名誉教授でもある井上清がそれを応援する論文を発表する(これが当時の日本メディアを代表する学者でした)、そして中国共産党は目ざとくそれを見つけてさっそく利用する、詭弁をぬりかためる。江沢民時代の中国共産党の反日教育に多大な素材を与えたのも日本の反日左翼です。戦後日本は何度も何度もこういうことの繰り返しです。

 また日韓の竹島問題も、米国が日本を非武装にしたため発生したという認識が米国人にあるでしょうか。今後、竹島問題により、日韓は100年くらい互いにいがみあう関係におかれるかもしれませんが、これももとはといえば米国が強い復讐心のため日本を武装廃止させ丸裸にしたため起こったことではないでしょうか。米国はアジアに関する認識を間違えていました。「菊と刀」など空想的人間の文学作品を読んで日本を理解していたと思い込んでいたのでしょう。日本の自衛隊は李承晩が竹島を占領した翌年に編成されました。もし日本の軍隊が完全無力化されないで領土や領海を防衛していたなら、李承晩は竹島占領の野心を持たなかったと思われます。現在の韓国は、奇形的な歴史資料や強引な理屈でしか、竹島占拠の正当性を示せないのだから、それを補完するため、韓国はありとあらゆる機会やテーマをとらえて日本の落ち度や歴史認識を必死で突いてくるのが慣例になりました。米国の日本非武装化が現代の絶望的な日韓関係をもたらした大きな要因のひとつです。また日本の反日左翼の扇動も悪質で、いまだ靖国や慰安婦の問題が日韓関係の本質的障害だと見せかけようとする日本のメディアは正気の沙汰ではありません。当然韓国の指導者層の病的な反日趣味など知っていて、あのように装っているのだから、あきらかに確信犯です。

 その他ご論稿では、膨大な歴史的事実のなかで、現代日本人のあまり知らないような象徴的な歴史的事実(当時の国際連盟の実態や英国の戦略事情、当時の国際法の特殊性、中国の反日化の背景、毒ガス兵器の政治的側面など)を丹念に指摘して現代日本人の陳腐化した固定通念を打破しようとするものでした。

 個々の歴史的事実は、いつどこで誰が何をしたかという5W1Hで表されますが、その位置づけが、当然ながら重要です。たとえば、いきなりですが、戦前に中国大陸の通州で起こった通州事件というのがあります。これは当時の事件の内容が克明に記録されていますが、内容的には中国人部隊による日本人住民への凄惨な残虐行為です。これを日本人が持ち出すと、日本の左翼は必ずといっていいほど「あの中国人部隊は日本軍の飼い犬だったのだから、飼い犬に噛まれただけだ、自業自得だ」と批判してきます。けれども日本人が通州事件を持ち出すのは、当時の一部の中国人部隊の民度がどれほどのものであったかを象徴する事件だから出すのです。中国保安隊が日本軍の仲間であったかどうかなど、この際どうでもよいのです。200名以上の日本人女性(朝鮮人慰安婦もいたとのこと)が猟奇的な方法で大量に強姦され一気に殺害されたのだから、数名だけによる犯罪ではない、集団発作的に大勢でやってのけたことから、当時の中国大陸でうごめく暴徒の民度をはかることができる象徴的事件なのです。また当時の中国の民度に翻弄された日本人の悲劇を示す一例です。(もちろん、だからといって中国人全体または国民気質がこの事件に象徴されていると考えるのは明らかに行き過ぎた思考です)。

 重要な歴史的事実を知っていても、それを有効に位置づけなければ「宝」のもちぐされです。通州事件も、そのイメージは南京大虐殺の捏造イメージにそのまま受け継がれていることなどを日本人が見抜く必要あると思います。「南京大虐殺物語」に関しては、中国は外交カードとして、日本の左翼は反日カードして、強欲に「宝」として利用しつくし、日本人としての道徳的尊厳を地獄の底まで突き落とすプロパガンダとして徹底的に利用されてきました。日本を国際社会の舞台から突き落とすつもりだったのでしょう。それこそ年中行事のように悪用してきました。(日本列島を徹底洗脳して一色に染め上げたのは朝日新聞の狂信的な報道力です)

 西尾先生は、ニーチェ流と言ってよいのか、孤独なガンマンのようにご自分の言説をつくっては叩き壊す、矛盾をあまり恐れないということを繰り返してされてきたと私は思われるので、現在のお考えは変動されているかもしれませんが、以前からの西洋中心史観から距離を置くという基本的認識が、現在の「米国中心史観」から距離を置くという考え方につながっているように感じます。西尾先生の根幹には日本人としての自己主張というのがあると思っています。それが非常にわかりやすくまとめられた記述を、10年以上前にされた文部省のヒアリングでの先生ご発言から抜粋します。

(引用開始)

いまの日本人がいちばん誤解している史観というのはヨーロッパ中心史観というものであり、ヨーロッパ文明がギリシャ・ローマ文明の子孫だというふうにみんななんとなく思っておりますけれども、直系の子孫なんかではございません。途中で民族大移動があるし、イスラムの制圧もありまして、中世の暗闘を通じて、その後、ギリシャ・ローマの復活のルネッサンスはありますけれども、あれもアラビア語を媒介としながら、勉強して得たもので、要するにヨーロッパは長いあいだ野蛮な状態で、世界史に登場してこなかった。
つまりギリシャ・ローマの直系だというのは、西洋中心史観のたんなるイデオロギーにすぎません。彼らの自己主張にすぎません。日本は自分が古いシナ文明と古い西欧文明の谷間で、圧迫されてきた中途半端な国だ、みたいに思っているかもしれませんけれども、じつはまったくそうではなく、そういうふうにとらわれるのは意味がないということをここで我々は正しく認識する必要があるのではないかと思うのであります。

 すなわち、ドイツ、フランス、イギリスもそういう観点からすれば全然独自ではありません。他から学んだり、借りたりしながら、やがて独自の文明を築いたのです。日本もその点では同様です。日本は古代のシナ文明に学んだんですが、政治的な独立心は聖徳太子のころからあり、文化的には独自の日本文化とシナ文化からの影響との二重構造をなして、それは長いあいだ続きましたが、しかしながら経済的にはかなり早い時期に、江戸より前の、つまりコロンブスの時代、15-16世紀にシナ文明から独立しているのであります。
こういうふうに考えないと、明治からのわずかな期間での日本の発展の説明はできません。古代ギリシャ文明がどんなに立派でも、いまのギリシャが駄目なように、古代シナがどんなに立派でも、いまの中国は自慢できる状態にはありません。日本は古代シナから学んだのであって、いまの中国人の文化から学んだのではないのであります。そこを誤解してはいけない。他方、ヨーロッパ人は16世紀に二つの大きな先進文明、つまり、シナ文明を追い越し、イスラムの圧力から離脱し、「地理上の発見」に向かっていくわけですが、それと同じ時期に、つまりそれは日本でいえば徳川時代ですけれども、日本も自己確立を果たしているということです。

 鎖国は積極的な概念であって、消極的な概念ではないという理論は、いま近世史研究家のなかから、学界の中心的主流として滔々(とうとう)と流れ出している。だから家光が鎖国令を出したなんていうのは完全な間違いでありまして、あれは寛永16年まで蛮族打ち払いの令を出したにすぎないのであります。日本はポルトガルと断交したにすぎない。
 そういうふうに考えますと、江戸時代の歴史を暗黒に塗り上げてしまったいままでの歴史観を見直そうではないかということになる。ヨーロッパと同じ時期に、地球の東と西は暗闇が続いていた中世から脱して、ともに16世紀から18世紀にかけて、同時勃興をする時期があったんだというふうに考えなくてはならない。・・

(引用終了)

 ちなみに、この西洋中心史観というものも、将来は、イスラム圏の自己主張やアジア諸国の問題提起により世界的に衰退していく時期がくるのではないかという気配は感じています。わき道にそれますが、イスラム諸国に属する学者の主張を読むと、日本人のイスラムに対する歴史観(政治史や経済史、宗教史、科学史など)は、欧米学者のイスラム歴史への偏った先入観をそのまま日本人は受け継いでいると主張しています。日本人は主体的に自画像を描きつつ、それを世界史のなかで客観的に位置づけるために、欧米以外の歴史観や史料をも積極的に取り入れて欧米中心史観を相対化していくべき必要があると思われます。また幻想かもしれませんが、ガラパゴスであるかのように宗教と社会制度が一致した特殊な異空間と日本人が見ているであろうイスラムでもイスラム金融などは世界の金融を劇的に変える潜在力があるかもしれないと私などは空想することがあります。戦前に存在した世界的思考をもった有能な日本人のイスラムへの洞察は現代から見ても瞠目すべきものがあるというので、これらなども発掘され再評価されるべきではないかと考えます。西尾先生の「GHQ焚書図書開封」はいずれその方面へ意識覚醒につながる潜在性があるというのは大袈裟でしょうか。

 先生が上記の通り、西洋中心史観から離脱を表明されたあとに取り組まれた対象が江戸時代でした。分量が大量だったので私はつまみ食い的読み方しかできませんでしたが、江戸のダイナズムは現代に生きる人間が固定観念を排して全知と想像力を傾けて歴史を振り返って自画像を描くという見事なお手本と思いました。あくまで自画像を描くというスタンスです。私の気のせいかもしれませんが、近代史に関する著作とくらべて、より快活でのびやかな筆致と感じましたが、現代政治の呪縛からのがれていること、豊富な文学的史料が中核となるためでしょうか。ともかくこの著作はいずれじっくり読み直したい本のひとつです。自画像とはこのように描く模範であると思います。

 近代から大東亜戦争に至った日本をどう俯瞰するかに関して、基本的に西尾先生は、西洋への挑戦に対する日本の反撃ととらえられているように思います。これに啓発されて、私も新鮮な思いで歴史を振り返ってみましたが、近代における西洋の世界への拡張というのは次の5つの側面があると思われます。
1)近代文明(人権など近代法に基づく考え方)の威光
2)経済圏の拡張(産業革命による経済近代化と世界進出)
3)「2)」の強大な力、特に軍事力をもとに白人支配(有色人種の奴隷化)
4)キリスト教の拡張(西洋人から見ると「異教徒」の駆逐)
5)西洋の鬼子思想としての共産主義浸透

 日本は上記の課題に対して、どのように対応したかというと、「1)」および「2)」については、その普遍性を率直に認めて、日本なりに移植しようとして苦心惨憺、表面上は成功しました。そして、それらの成功をもって「3)」の白人支配脅威に反撃しました。日本は、台湾や朝鮮、満州に対して「1)」および「2)」を移植しました。現代から見れば不十分や矛盾もあるでしょうが、教育への情熱など、有色人種への過酷な白人支配に一石を投じる成果でした。ただし朝鮮民族などにとっては民族自決を損なうものでした。「4)」については特に敵対することはしませんでした。宗教戦争は日本の国民性にそぐわないものであり、廃仏毀釈など起こりましたが、神道と仏教を平和共存させて、国の安寧を祈る天皇を中心とした調和的な信仰をもっていた日本人はキリスト教も平和的に取り入れて土着化させました。西洋のキリスト教をモデルにしたと思われる国家神道は人工的なものであったと現時点では思っています。(そのため無理やり輸出しようとしたり国内で反発が起きた)。ただし、日本人は敵と思ってなくとも、西洋キリスト教は(勿論すべてではなく、その一部ですが)日本人の信仰を敵視して、攻撃の機会を狙っていました。自国の黒人が奴隷化されていることは棚にあげて、日本人が中国人を奴隷化しようとしていると日本を敵視した二重人格的な正義をもつ米国のキリスト教徒たちなどです。最後の「5)」の共産主義は世界を混乱におとしていれました。日本は長年翻弄され、的確に対処できませんでした。共産主義こそ有色人種の奴隷化と白人支配を終わらせるものだと狂喜した世界の知識人は、その後その恐るべき本性を知らさせることになりました。共産主義思想は社会科学の形をとっており、自然科学が権威をもつのに乗じて人々を幻惑した社会科学はあまりにデタラメ(厳格な実験を省いた自然科学みたいなものであり、独善的な理論ばかり横行)インテリの思考を混乱させました。

 もはや「3)」が表面的には無くなったことには日本人の貢献も大きいと考えます。それ以外の課題は現代も続いています。誰も正確に把握できないであろうグローバリズムは、上記が複雑に混在しています。キリスト教とイスラム教の対立や勢力争いは、今後千年は続くのではないでしょうか。

 また東アジアで共通の歴史観をもつことは難しいでしょう。中国や韓国は日本人の悪行だけ協調して功績は認めないでしょう。日本の歴史思想は相変わらず左翼の勢力が強いと思いますが、田母神氏の論文をめぐる西尾先生と秦郁彦氏の対立(というか論争)は色々と考えさせられました。秦郁彦氏はおそらく日本人の白人支配終焉などへの功績を全面否定されているわけではないですが、日本の過去の指導層(政治家および軍人の一部)に対しては、あくまで結果責任を問い、外国の悪意のせいでは済ませられないという姿勢のようです。その基底には、ドイツのナチスと日本の指導者はまったく違いますが、日本人を指導層と一般国民に分けて前者の非を問うという意味で、ドイツ人が一般国民を免責するのと同じような発想をされているのではないかと感じました。

ご講演を拝聴して

感想文 坦々塾会員 阿由葉秀峰

最初から些細な私事で恐縮ですが、当日グランドヒル市ヶ谷に行く前に、開戦記念日ということもあり、靖国神社に参拝申し上げました。参道脇の賑やかな骨董市を横目に拝殿へと向かったのですが、若者の参拝者が多いことに驚きました。参拝の後に中門鳥居の前で、「GHQ焚書図書開封第8巻」と境内を一緒に写真に収めようとしている方を見て、あのひとも同じく講演会に行かれるのだろうか・・・、と思いつつ声はかけませんでした。

ご講演の導入として先生は、「歴史には過去に何かが仕掛けられている。」として、今日の日本は100年前とさほど変っていない、と仰いました。

欧米諸国は領土問題で好意を示す一方、政府が国内の右傾化を煽り、紛争を意図的に惹き起こす意図があるなどと疑っています。明らかに被害を被り続けているというのに、とんでもない無理解ぶりです。

中国の分からず屋ぶりと、利益を掠めつつ逃げ腰な欧米と、不利で孤独な日本、という関係は100年前の繰り返しです。

中国はここ5年ほどでアメリカまでも脅かすほどの猛烈な力を付けましたが、日本の力は不在のままです。韓国は日本から経済や技術の支援を散々受けておきながら、国民が衰頽しているのに日本を貶める外交に力を入れて、まさに中国が裏で操って朝鮮半島という刃物を日本列島の脇腹に突き付けているような状況です。

第一次世界大戦後のパリ講和会議で人種差別撤廃提案を強引に否決とした時のように、近い将来再び日本は正当なことを要求しても不合理な仕打ちを受けないとも限りません。当時日本は異民族ながら国際社会で尽力したけれど、欧米は「反共」ではなく「反日」を選んだのです。

ただし、当時の日本は孤独な立場であっても、毅然としていて、恐怖と不安に押しつぶされず果敢に困難に立向いました。

日本をさんざんに利用しておきながら、追い詰めて虐める。国際連盟からの脱退は、国際社会からの孤立ではなく、単なるアングロサクソンの利権のための同好会に見切りをつけた寧ろ毅然とした行為でした。

ところが今の日本人は終戦までの日本の孤独と悔しさを理解しません。歴史学会は言うに及ばず、保守系とされる知識人でさえも片目は日本、もう片目はGHQの視点です。日本の歴史を語るのにアメリカの視点、立場など交える必要などありません。

東京裁判で、日本がアメリカの多くの行為はハーグ陸戦条約違反であることを訴えたら、アメリカは17世紀オランダの法学者、フーゴー・グローティウスを引合いに出し、「人類」への非道に対して日本の戦争責任への裁き、という「自然法」的な概念を持ち出しました。そんなものが出鱈目である証拠に、アメリカで当時公然と行われていた白人が黒人に対しての苛烈なリンチ刑、今日であれば、チベットやウイグルなどへの中国の残虐行為など、国際的に裁かれるべき非道はいくらでもありますが、あれらはどうなのでしょうか。欧米が胡散臭い「人類」などと言い出す時は必ず利己心や、国益のため、と見てよいのでしょう。昔も今も変わらず利己心のためのレトリックには臆面もありません。

いっぽうの終戦までの日本ですが、130万部のベストセラー、軍神杉本五郎中佐の「大義」は、たいへんな共感を持たれて国民に読まれていたとことと思います。

義公水戸光圀からおよそ300年間にわたり国体思想の研究が行なわれ、民族滅亡の危機が身近に迫った「終戦間近」にこそ、それまでよりもより多くの国民の精神に「国体」「大義名分論」が沁みて、昇華していたのではないかと思います。

杉本中佐の「大義」は、後期水戸学に繋がっています。「大義名分」は日本発祥、後期水戸学の思想だからです。

水戸藩二代目藩主、光圀公に始まる水戸学は藩の四分の一もの予算を投じて17世紀後半、彰考館において「紀伝、志表、十志、五表、論賛」の編纂をはじめました。「大日本史」の完成は明治39年と、249年も費やしているのだから驚きです。

光圀公の没後、およそ80年もの空白の後、18世紀後半の古着屋の商人から生まれた早熟の天才、藤田幽谷の後期水戸学に到って、国風の思想「国体」として熟したようで、「大義名分」は幽谷18歳の著作「正名論」からの出自だそうです。先生は漢心の影響の強い初期水戸学で判断せず、後期水戸学にこそ目を向けるべきと説かれました。

先生は、神童で夭折のモーツァルトと幽谷は同時代と補足されましたが、GHQによる断絶が無ければ水戸学の研究は継続され、誰もが知る重要な日本の古典、クラシックに位置づけられていたのかも知れません。

さらに早熟の天才といえば、先生が「江戸のダイナミズム」で紹介された、18世紀前半に文献学的な考え方をヨーロッパとほぼ同時期寧ろ早くに展開した、大坂のやはり商人の生れで夭折の冨永仲基が思い出されます。

戦後、GHQの指示により学校の教科書も墨塗りされて、先生の「GHQ焚書図書開封」シリーズで紹介されているとおり、欧米の侵略や、国体にかかる内容の書籍など、およそ七千種もの書籍が焚書処分となり、「萬世一系の皇統を肇国にいただく国体の為に英霊たちが散華した真意」もすっかり理解できなくなってしまった。挙句には、彼らは軍の強要した国体思想に洗脳され徒死したと、貶し嘲弄される始末です。

私たちの父祖の戦時中の心意が理解できない、という今の日本はまったく酷いというほかありません。

思えば最初の共産主義国家、ソヴィエト連邦などは膨大な犠牲を払いつつ結局100年も持ちませんでした。残っているのは、迷惑で危険な全体主義国家だけです。

西尾先生は、平成に入ってからでしょうか、全体主義国家の非情、犯罪性をさかんに訴え続けられました。その糾弾が一体誰に向けていたのかといえば、もはや主人の居ないコミンテルンの亡霊に魂を踊らされている、多くの日本人及び全共闘世代に対してではなかったかと思います。

しかし、彼らは主人を中国共産党や朝鮮半島2国に師匠替えして、ついには一時ではありましたが政権を担うまでになってしまった。

いったい主義や思想で、国家など創れるものなのでしょうか。共産主義思想など、歴史は浅いのですが、しかし麻薬のような力はあり熱狂し易いようで、一旦体内に摂り入れると、暫く後に拒絶反応を示し自らを滅ぼし始め、遂には崩壊します。

そんな亡国の思想を日本の財政、歴史及び教育界などなどの中枢が未だに後生大事にしています。

ご講演の冒頭に戻りますが、「歴史に仕掛けられたもの」というのは、じつは日本人の深層心理下に備っている「国体の本義」なのではないかと思いました。

だからこそ、ひとたび国難が襲えば、幕末期や終戦迄、戦後の経済復興も若しかしたらそうかもしれませんが、国民は烈しい変革に曝されても正気を失わず、欧米中心の秩序を変えてしまう程の劇的な行動がとれるのです。そしてその鍵はまさに水戸学、特に後期水戸学にあると思いました。

冒頭のお話で、天皇陛下、皇后陛下のお姿がどこか哀しくみえるとも仰いましたが、それは今の国民が大義を見失っているからなのかもしれません。

失ったものは取り戻さなければいけませんが、そのための苦難は長く続いています。感想文の最後として、単行本「教育と自由」を拝読したときから私の頭を離れない、全集第8巻からの箴言を引用させていただきます。

「真実の認識、絶望的なその困難に面と向かわないでいる限り、半歩の前進もじつは望めまい。壁の厚さを知る者だけが、たとえ小さな穴でもよい。実際に穴のあく鑿(のみ)の振るい方を心得ている。」582頁上段

水戸学も80年もの空白期間(終戦から今日より長い)があり、寧ろ藤田幽谷の後期から劇的に昇華したとのことで、12月8日のまさに開戦記念日の先生のご講演が終戦後の空白からの萌芽であったとも思います。

素晴らしいご講演を拝聴させて頂き、心より感謝申し上げます。

「戦後から戦前を見ている」という意味(講演会まとめ)

――大東亜戦争の文明論的意義から――

坦々塾会員 伊藤悠可

 三時間に及ぶ講演はまたたく間に過ぎました。傍観をゆるさない言葉の力は西尾幹二先生特有のものですが、この日は特に胸に響きました。自分自身の問題として考えなければならず、部外者面ができない話がいくつも含まれていたからです。

 展開は世界と日本、前後二つのフレームを用意され、第一次大戦後の遠い過去に罠を仕掛けた欧米と、民族の地熱によって近代的自我に目覚めた日本との文明的攻防の歴史をたどるというかたちを採られました。尖閣や慰安婦問題における不快と忍耐は、国際連盟成立時の英米の不可解な立ち回りからして、百年前と殆ど変わっていない事実を示されました。

 しかし、狡猾、悪事、詐術にさいなまれながら、それを撥ね除け孤独な戦いをしなければならなかった歴史の運命を知り、危急において民族使命を恢復させた跡をたどり、わが国がこれからも、どのような信仰を得てどのように真実を追求していくべきか、という点が重要であるとして講演は進められました。このことはとりもなおさず、現下の日本人に投げかけられた命題にほかなりません。

 人道や平和の守護者のような顔をして勝手な振る舞いをしてきたアメリカに、“人類の概念”を吹き込んだ「国際法」の誕生があること。翻って、わが国が孤塁を守るのではなく高い理想を掲げて世界を相手に戦えたのは、国体思想の礎をつくった水戸学が原動力であったこと。

これらを詳説されたことによって、改めて大東亜戦争に至るまでの彼我の足跡と交点がはっきり見えてきたのですが、ここでは私が急所と思われる一点に絞って考えを述べたいと思います。

 同講演を告知するリード文にも挿入しましたが、西尾先生がしばしば、洩らしておられた数多ある戦争論や昭和史に対する感想。それは「戦後から戦前を論じていて、戦前から戦前を見るということをしていない」というものです。これを聞いた人はたくさんいるはずです。けれど、私は正直何を言っておられるのか、長い間わからなかった。

 ――現代は戦争からとうに遠ざかった戦後である、その戦後を生きている人間があの戦争を論じる場合、当然戦後から戦前を見るということにならざるを得ない。戦前の人の目で戦前を見るというのは不可能である。一知半解で済ませるのは居心地が悪い。いったん棚に上げておこうとということで、そのまま卸せないできた。とにかくこんなに平易な言葉でこんなに不明になるとは解せない。

 こうして放っておいたのですが、講演の後段ではたと悟るところがありました。「戦後から戦前を見ていて、戦前から戦前を見ようとしない」ひとつの例として、長谷川三千子氏の『神やぶれたまはず』を挙げられました。この夏に上梓され保守層読者の間で話題になっている書です。

 タイトルは折口信夫が終戦直後に書いた詩「神 やぶれたまふ」に対するものであり、「昭和二十年八月十五日正午」という副題をみても、〈終戦〉を核にした論考であることは広告ですぐわかりました。購入し折口信夫、橋川文三、桶谷秀昭、太宰治と読み進めたところでした。私の知人の一人もまた賞賛していました。どこに感銘したのかと問うと、「終戦の日のあの瞬間、日本人が立ち返るべき特別の瞬間ということを教えてくれている」と言います。私より少し上の長谷川氏と同じ戦後生まれですが、終戦の日の追憶に深く共感したのでしょうか。

 例えば、終戦の詔勅を聴いてとどめた河上徹太郎氏の有名な一節があります。記憶している人もあるでしょう。「それは、八月十五日の御放送の直後の、あのシーンとした国民の心の一瞬である。理屈をいひ出したのは十六日以降である」。これについて長谷川氏はこう書くのです。―――「あのシーンとした国民の心の一瞬」といふ河上徹太郎氏のこの言ひ方は、舌足らずのやうでゐて、その「言葉にならぬ」絶対的な瞬間の相貌をよくとらへてゐる。

 終戦の日のあの瞬間。全論考が玉音放送とその関連で書かれているわけではありませんが、〈特別の瞬間〉に対する静かな、そしてたしかな視線を注いだ、或いは注ぎ直して紡いだ長谷川氏の熱い思いであることはまちがいないでしょう。死を覚悟して散っていった人たちへの鎮魂の気持ちが込められていると言ってもよいものです。しかし、私は知人が共感したほどに感銘はしませんでした。立ち止まった保守知識人から出てくる〈情感の完成形〉を感じるのです。

 講師もまたこの書を認めません。これを是としない語調は強いものでした。先生の発言をやや詳しく文字で再現しておきます。

 「あの戦争でなぜ進んで死を選ぶことができたのだろう、などということを言いますが、私はおかしいと思っているんです。戦後の保守を含めて、どうして死を選べたのか、特攻隊はなぜ行けたのか、そういった興味ばかりです。戦争というのは生と死を越えていくのであって、また戦前まで日本人には大義の自覚があったのです。銃後の人にしてもそうです。なぜ死ねるのでしょうではなくて、なぜもっとよく戦えなかったのだろうと考えないのか」

 「長谷川氏は終戦の瞬間に思いを寄せるが、そんな無時間・超時間の抽象ではなく、また八月十五日に至るまでの戦争の歴史ではなく、われわれ民族の世界史における使命に起った日本人があったんです。死は生物として恐れますよ。だが、歴史を自分の運命だと知っていた日本人はさっさと越えていった。死ぬことが生きることだと知っていたんです。あの戦争は正しかったというのが最大の鎮魂になるのではありませんか」

 講師は、拝読してある種の疑問を抱かざるを得ないのです、といって上記の気持ちを語っていたのです。思うに、このとき、西尾幹二は文芸評論家でも思想家でも学者でもないのです。歴史の中の日本民族の一人として語っています。ということは、われわれもまたサラリーマンとして教師として元何々として聞いているわけではない。民族の一人です。

 したがって講師は長谷川美千子氏の作品を批判したのではなく、作品以前に著者が見ている眼の先を批判したのです。戦争ができるまでに近代国家をつくりあげた父祖の姿が全然見えていないと先生が指摘したのです。

 戦後から戦前を見る。それは恰も半分を見てあと半分は見ないということのようです。仕切りをつくって仕切りまでは見るが、そこから奥は見ないで引き返すということのようでもあります。いずれにせよ、私には、「一回終わった日本」と見ている人が片方にいて、もう一方に「戦いは一度も終わっていない」と見ている人がいるように映ります。そして戦前から戦前を見られるという人は、戦いはこれからだと考えているはずです。うまく表現することがむずかしいのですが……。

 戦前から戦前を見る。これはどうか。「戦前の人の目で戦前を見るというのは不可能である」と右往左往した自分ですが、不可能ではないようです。先生が紹介した杉本中佐は死ぬ寸前まで、四人の息子に遺書を綴っています。これが『大義』になりました。世界史において使命を帯びるという意識で、「実はたくさんの議論が戦前はなされていたんです」と講師は強調されましたが、戦前の人間の、戦いに対する高い意識はいくらでも確かめてみることができます。

 原随園は京都帝国大学の西洋史の先生ですが、昭和十九年に『戦力の根源』を発表しています。第一次欧州大戦の結末に冷静な研究を進め「ドイツの敗因は複雑なものがあるにしても、その有力な一つは戦力といふものを、単に武力に傾注して、他の国力を軽視してといふことにあった」と論断しているものです。「真の戦力とは単に武力ではなく、むしろ戦争に傾けられる国民の実力であり精神力でなければならない」。

 この人は、武力戦の終結を以て戦争終れり、とするのは危険だと説いています。「衰へ行く道義心を以てしては、たとへ武力戦に於いて一旦の勝利を得るといっても、それは民族の永遠の歴史の上からするならば、敗北の第一歩でなくて何であるか」と書きました。そして「この恐るべき道義の低下を防ぐ道は、唯一つ民族使命の自覚あるのみである。この意味に於いても、民族精神の昂揚こそ真の戦力といひうる唯一のものである」と言い切っております。

 真の戦力とは民族的自覚にほかならぬ。西尾先生が命題とされた冒頭の言葉と寸分変わりません。

 もう一例を取りあげます。同時期に広島文理大学で理論物理学を研究していた三村剛昴教授は、米国が物量という新兵器を唯一の武器として日本にのしかかって来ているのに対し「日本独得の兵器とは何かといふと飽くまで日本精神なのだ。日本精神こそ独特の兵器であり何れの国も真似出来ない偉大な兵器である。これは現在、特攻隊としてその形がはっきりと現れている。特攻隊精神は新兵器中の兵器である」と高らかに主張しています。

 この明朗さは、戦後から戦前を見てきた人にはわからないし、前者の議論にもこの後者の先生の主張にも、まったく戦後的なるものを見い出すことができません。生と死は問題外であったことは認めなければならないわけです。

 昭和十一年当時、沖縄の尋常小学校六年の女子生徒が書いた次の作文はどうでしょうか。

――日本の女子の覚悟
我々が毎日、安楽にくらす事の出来、学ぶ事の出来るのは何故でありませう。それは申すまでもなく大日本帝国民であるからです。一番大事な年は昭和十一年だといふことを校長先生や、集会ある毎の偉い人々から話を聞いています。何故非常時の一番大事な年かと申しますれば、それは今ロンドンにかいさい中に軍縮会議だそうです。我国は正義の元でいろいろの問題を提出しておりますが、連盟各国が此の問題をみとめてくれなかったら、時によっては戦争にならんとも限らないからであります。(略)世間には軍人だけが戦争をするものと考へる人もおるが、これは大ひにまちがったお話だと思ひます。(略)一朝ある時は男子に負をとらず、国防にあたらぬばならんと思ひます。(沖縄県八重山郡石垣尋常高等小学校 尋六 下地ヨシ=全国小学児童綴方集)

自らを保守だと言う人がこの講演会に来られ、「石油も何もないのになんであんな戦争をしたのか」と、戦後このかた幾百と聞いてきた戦前嘲笑をしていましたが、保守でも左でも中間でも何でもよいから、並ぶ店を間違えないでほしいと言いたい。「大ひにまちがったお話だと思ひます」。

私が雑誌の取材でお会いする、埼玉トヨペットの創業者で現会長の平沼康彦さん(九十三歳)は、特攻隊機を掩護する第二二四隊の戦闘機に乗り、四度不時着しながら生き残った奇跡の人です。「特攻隊が離陸した後を追ってわれわれも飛び立ち、その上空を編隊を組んで掩護して行く。もう大丈夫というところまでついて行って引き返してくる。無言の別れは何ともつらかった」と自著に書いています。八日市基地で玉音を聴いたのだが、ラジオの音が悪くて何もわからず、「ソ連が参戦したからお前たち頑張れって言っているんだろう」ぐらいにしか思わなかったと言います。

まもなく敗戦を知ったとき「勝ちはしないけど負けるのは早いよ」と思わず口に出していたそうです。「祖国のために死ぬのは当たり前と思っていたから、生も死も考えなかった」がそのまま本心です。掩護の途中、敵機と遇えば空中戦です。良く死ぬことが良く生きることであるということを体現してきた人で、こういう人はどこかケロッとしています。

私が戦前の目で戦前を見られているかどうかはわかりません。『大義の末』で杉本中佐を描いた城山三郎でさえも、戦前の目を遠くに置いて忘れ、戦後人の感覚だけになってしまったかと思われる時期があります。昭和五十年八月一日付の東京新聞(夕刊)に『真の勇者とは』と題するこんな随筆を書いています。

「『八紘一宇』とか『大東亜共栄圏建設』とか『鬼畜米英撃滅』とかの大合唱。それは非の打ちどころのない理想のように見えたが、実態はどうであったか。国をあげての大合唱のおそろしさ、愚かさ」。この平板な物の言い方はなんでしょう。

昭和十七年に書かれた田中晃(九州帝国大学助教授)の『生哲学』に、歴史の運命を受けとめ生きて死ぬこととは何かと、追求した部分があります。一節を引いてまとめにしたいと思います。

「日本民族の念願した永生は『七生報国』であって、個人としての永生ではなかった。そこに真の死を公の立場に於いてとらえた意義がある。公とは何であるか。それは個人を越ゆる物であるが、個人を断絶した普遍者ではない」

「いのちは生まれたものであるが故に、いのちの死もまた公なのであった。さすれば、いのちの生まれた源が国家であるとき、その国家に死することが真に公なのである。祖国の体験はそこにある。しかして祖国が、真に祖(おや)なる国としての原理的意義を有するのは、ただ日本に於いて云はれ得ることでなければならぬ」

 戦前の日本人に具わっていて戦後の日本人に欠いてしまったものは何か。この講演で西尾幹二先生が投げかけた問題は、日本人である限り自分は例外だといえないものを含んでいます。
(了)