赤塚氏は元福島県立高校の校長先生でした。教科担当は世界史。
ゲストエッセイ
赤塚公生
昨年の11月~12月にかけて、西尾先生のお話を直接伺う機会がありました。最初は、岡田英弘著作集の出版祝賀会、後の機会は12月8日の市ヶ谷での講演会でした。
私は、公立高校で丁度10年間、「世界史」という教科を担当した経験があり、かねてから「西尾世界史像」に多大の関心を持っています。「国民の歴史」は、一万年の縄文文明から現代まで続く日本人の精神文化の連続性、とりわけ、「日本語」の起源と発展について深い探求と考察がなされた名著であろうと思われます。
「江戸のダイナミズム」に至っては、西洋古典文献学との対比において、江戸の国学・儒学を解析し、併せて清朝考証学を比較参考にするという、(多分、世界で西尾幹二という思想家にしか書けない)離れ業が行われています。
「日本史」と「世界史」を統合した真の意味での「歴史」を考えていく上で、「西尾世界史像」と「西尾幹二が示す日本人の歴史認識」は大きなベースになるものであり、一つの「哲学」として生きてくるのではないでしょうか。
ところで、暮れから正月の慌ただしさの中で、西尾先生の近刊「同盟国アメリカに日本の戦争の意義を説くときがきた」を読み進んでいるうちに、「アメリカ人ならどう考えるのか」とふと気になり出しました。そのとき、昔読んだ一冊の本を思い出しました。マイケル・アームストロングの「日本人に感謝したい」という1981年6月に発行された書物です。
この表題は相当に皮肉なもので、趣旨を簡単に言えば「アメリカのプロパガンダと洗脳に唯々諾々と従って、アメリカの世界戦略に協力してくれるナイーブな日本人に感謝したい」というものです。しかし、同時に、著者は、日米関係の「現実」を美辞麗句ではなく直視すべきことを、相当親切に忠告しています。そして1980年代以降、アメリカは、必ず「経済戦争」を日本に仕掛けて来るだろうと予告しています。
アームストロング氏が1981年当時書いていたことの要点は、次のようなものです。これは或いは「アームストロング氏の教訓」と題しても良いかも知れません。
1 レーガン・中曽根「同盟」による「日本の防衛策」は、日本人の汗と金による、アメリカによるアメリカのための「アメリカ防衛策」である。しかし、日本人はそれを「日本の防衛策」と信じ込まされている。
2 アメリカにとって日本は、未だに「仮想敵国」であり、「日米安保は一面占領継続」を意味しているのだが、日本人はその現実をみようともしない。
3 「民主主義」「経済成長」「福祉社会」・・・。こういったものは本来「目標」ではなく「手段」に過ぎない。アメリカの洗脳で、日本人は、それが国家目標たるものと思い込んでいる。アメリカの「目くらまし」に過ぎないのだが、騙されていることに気がついていない。
4 「通産省と民間企業が一体化した日本」などという批判を真に受けている日本人は愚かである。アメリカは、政府と銀行と企業と国家情報機関、シンクタンクが一体化して戦略目標を決定していて、それを経済活動に移そうとしている。数千という軍事衛星もコンピュータ産業も全てそのために活用されている。
5 日本人は「アドバルーン」も「ブラフ」も区別がつかない。海外から批判されると日本のマスコミが「世界から孤立する」と大騒ぎして政府を責め、政府も立ち往生する。これは、外国から見ると楽しい見せ物である。外国政府がその意志を通そうとするなら、「ブラフ」を多用すればいい。「ニューヨークタイムズ」や「エコノミスト」の論説など巧みに米英の国益を底に秘めた、アドバルーンや雑多な思惑に満ちたものなのだが、日本の評者たちはそれを国際基準から見た公正な判断であると勘違いしている。
6 日本の「総合商社」は、アメリカから見れば、ものの数ではない。彼等がある程度利益を蓄積したところで、合法的に乗っ取るだけである。1980年代は、そういう時代になるだろう。既に、アメリカは着々と準備を進めている。
正直なところ、当時、読み進むうちに額から血が引き、冷たい汗が流れたことを覚えています。日本の「総合雑誌」や「論壇」で語られていることとあまりに異なる現実が、説得力を持って語られていたからです。
しかも、氏の予言は正確に的中していました。レーガン政権と中国共産党は中曽根首相の「美辞麗句」と実際の「政治行動」の乖離、オポチュニストである本質を見逃さず、後の「プラザ合意」「日米経済構造協議」といった経済戦争と「靖国」に象徴される歴史問題での執拗な攻撃を開始しました。
アームストロング氏は、金融に明るく、「俳句」も作るという知日家であったようで、当時、4、5冊、本を出しています。いずれも若き日の宮崎正広さんが翻訳されていますから、宮崎さんはこの方について何か知っていらっしゃるかも知れません。いずれにせよ、30年前に日本人の読者の前から姿を消された方ですから、今、何かお話しを伺うことはできません。しかし、「アメリカの本音」を語っていただくにはうってつけの人物だったように思います。もし、この方が西尾先生の「この本」を読んだときに、どんな感想を語るのか、甚だ興味深く思います。
さて、「12月26日安倍首相の靖国参拝」をめぐるマスコミの騒ぎは「アームストロング氏の教訓」の一つをまざまざと思い起こさせました。「日本人は、アドバルーンとブラフの区別もつかない」という教訓です。
中国や韓国が何を言ってきても、彼等は、「言ってなんぼ」の国益だけでくるのだから関係ありません。ロシア外務省がああ言ったこう言った。関係ありません。プーチンなど「安倍はやっぱりサムライだ」と内心評価しているだけでしょうし、アメリカ国務省が「失望した」と表明したと聞けば、イスラム世界は安倍首相をむしろ過大に評価することでしょう。こういった国際政治の現実をきちんと踏まえているのは当の安倍首相だけで、日本の一般の政治家やマスコミには決定的に欠けている視点です。
ところで「アームストロング氏の『書かなかった教訓』」が、一つあります。
アームストロング氏は、「民主主義」とか「経済成長」とか「福祉社会」といったものは「手段」に過ぎず、国家目標たり得るものではない、と書いています。ですが、日本の国家目標が何かとは、当然ながら書いていません。
しかし、中韓の外交攻撃に晒され、「尖閣諸島」では中国との武力衝突も起こりえる今こそ、私たちは、真剣に、そもそも「日本の国家目標とは何か」という問題を考えるべきです。この自覚を明確にすることによって、戦う意志が生まれ、眼の前の事象に左右されない、しっかりとした生き方ができるからです。
「大東亜戦争」以前は、この国家目標は議論の余地のないほど、はっきりしたものでした。「『国体の護持』と世界の一等国になること」「アジアに新秩序をもたらし、各民族の独立と覚醒を促し、その中で我が国が名誉ある地位を占めること」。こういった目標に疑いがないからこそ、日本という国家は一つにまとまっていました。
現在であれば、例えば、次のように表現することも可能です。
「我が国固有の文化と伝統を守るとともに、自由と民主主義の価値観に立ち、世界の法秩序を守り、世界の政治経済的安定に貢献して、豊かで個人の意志が尊重される社会と国家を目指す」。面白くもおかしくもありませんが、こんなふうに言うことは可能です。現実の問題として、日本がアジアの民主主義国家であり経済大国として、日米同盟を基軸に据えた上で、中国と並存し、世界の自由と人権を擁護し、貢献する、といったことは、常識的なこととして理解されることでしょう。ただ、中・長期的な政治的課題というべきものが「国家目標」そのものなのか。強い疑問が残ります。
この疑問は、恐らく「日本人としての生き方」或いは「日本という国家の本来的な在り方」が文章に反映されていないためだろうと思います。
それでは、次のような文章は、いかがでしょうか。
「日本人の魂の伝統的な性格とは崇敬である。われわれは祖先の霊を敬い、内外の和を尊び、誠を貫き、自然にひそむ人間より大きな目に見えぬ意志に謙虚たらんとする。そして、進取の気性、勇気、忍耐、礼節を重んじ、何より名誉と正義の感覚、ときによりて尚武の気風を尊重する。このような日本人としての生き方を基本に、我が国固有の文化と伝統、国民統合の象徴である「皇室」を敬い、自由と人権を尊重し、国際平和を希求することを国家の目標として掲げるものである」
一読してお気づきの方もいらっしゃると思いますが、これは平成14年に「中央公論」が企画した「日本国改正憲法前文」の西尾先生の「私案」の一部を借りて作成したものです。(この原文は「天皇と原爆」157p~に所収されています)
三十年前に私は、アームストロング氏によって「おまえの考える日本という国家の目標は何なんだ?」という問いを突きつけられました。怠惰な私は、時折思い出すだけで答えを書き付けることはありませんでした。
今、それを私は、一言で「日本人らしい生き方ができる国家」と答えたいと思っています。実は、後期水戸学の「尊皇攘夷」も「国体の護持」も、その根底にある精神は「日本人らしい生き方をする」ということでしかない、と思えるのです。
「経済大国」「世界の安定のために利害を調整できる国家」「国民に自由で豊かな生活を保証する民主的な福祉国家」などというものは、全て、その結果に過ぎない。それ自体、二次的、三次的な目標でしかない、そんなふうに思えます。
本文は、西尾先生の「同盟国アメリカに日本の戦争の意義を説くときがきた」の感想を書くつもりで書き出したものでしたが、アメリカ人の考え方に思いをめぐらせるうちに、内容は「アーロストロング氏の教訓」になってしまいました。
しかし、ここまでお読みいただいた方にはご理解いただけると思いますが、アームストロング氏が30年前に述べている見解と、西尾先生がかねてから展開されている戦後日本人の国際認識への批判は、立場が異なるだけできわめて近いものなのです。
アメリカ人の中には、少数であってもフェアな精神が息づいている。それにきちんと向き合って、本質的な議論をすれば、立場は異なっても理解と敬愛の念は生まれる。このことは西尾先生が繰り返し述べられていることでもあります。
「日本の戦争の意義を『説くときがきた』」という表現は、まさしく現時点でふさわしいものと思われるのです。
ご報告します。
赤塚さんの文章に対する感想ではありませんが、ここに表示させていただきます。
『新 報道2001』の記事にお寄せいただいたコメントが一部削除されてしまいました。原因は特定できていません。もし、コメントいただいた方で、ご自分のものがなくなっていると気が付かれた方、そのコメントを保存しておられる方、再度投稿していただきたいと思います。
また、削除は、西尾日録の方針ではないことをお伝えしておきます。
近年パスワードが盗まれることが二度ありました。
管理には十分に気を付けて行きたいと思います。
申し訳ございませんでした。
わきから、すみません。
実は私も数ヶ月くらい前からおかしいなと思っていたのですが、ひょっとして各投稿者の投稿初回分だけ残して、あとは(たとえば二回分以降を削除、あるいは無作為に削除など)自動的に削除されるという処理が、なにかのタイミングで走っているのではないでしょうか。(たとえば記事掲載後に1週間経過したらディスク容量削減のため処理が走るとか)
もし管理者パスワードが奪取されていたら、もっと破壊的な工作がなされるような気がします。(西尾先生の記載内容そのものが加工されるような。また、通常は管理者パスワードが盗んだらサイト自体を破壊してまったく見えなくしてしまいます)
Wordpressは詳しくありませんが、規定の日時を過ぎたら自動的に投稿を削除するWordPressプラグインなどもあります。プラグインが悪さをしている可能性もあります。できれば投稿削除したタイミングでログをはくなどしたような気がよいと思います。(あるいは現在のログになんらかの形跡が残っている可能性もあります)
素人ですので、まったくのピントはずれの空想でありましたらごめんなさい。
小姑みたいにすみません。
暫定対策としては定期的に(たとえば1日おきに)バックアップをとる方法があります。
(入力作業のみでも大変なところに横槍いれて失礼しました)