秋の嵐(四)

 余りにも課題は巨魁で、探査の行方は深海に下ろす錘のごとくである。われわれは水面に浮んでいる浮標のごとく呆然とするのみである。第一次資料を読むなどという処へはとうてい行かない。他人の研究成果を追いかける以上のことはできない。

 それでも二つの裁判を重ねて見る、という方法と問題意識だけは最初から、そしてこの後も見失うまいと考えている。

 幾つかの新しい疑問にぶつかったので、ここに簡単に個条書きにしておく。

(1) 「戦争犯罪」と「人道に対する罪」は別の事柄であると今ではやっと広く認識されるようになってきた。前者は戦勝国にもあり、後者はホロコーストを指す。ところがニュルンベルグ裁判ではこの二つは必ずしも明確に区別されていなかったのではないかと疑われる。

 初期のナチ犯罪、テロ、人種政策、ユダヤ人迫害は、明かに「人道に対する罪」に結びついているが、戦争と直接結びついていないので、裁きの対象にはしないというのがニュルンベルク法廷の意見だった。この点は後日歴史判断にどう影響してくるだろうか。

 そもそもドイツの再軍備はベルサイユ条約に違反していた。しかし再軍備も、オーストリアやチェコの奪取も、「侵略戦争」のうちに入れられず、「侵略行動」とされたのみだった。

(2) 共同謀議、国際法が認めていない個人の責任、戦争は犯罪ではないのを無視した侵略戦争の概念、侵略の定義の不可能、遡及法(条例の事後律法的性格)、等々の国際法上の矛盾として知られる東京裁判の諸問題は、ことごとくニュルンベルク裁判にすでに同じ矛盾した問題として提起されていた。

 東京裁判はニュルンベルク裁判の結論をそのまゝ押しいたゞいている。前者は後者によって基礎づけられ、決定づけられている。

 ニュルンベルク裁判は「ジャクソン裁判」といわれたほど一人のアメリカ人の検察官の理念と活動に支配された。東京裁判ではそれがキーナン検事に引き継がれた。そしてマッカーサーが最終決定権を握っていた。アメリカによる「人類の法廷」の性格は両裁判にきわ立っていた。

 東京裁判ではフランスやオランダなどの欧州法との食い違いがたびたび露呈したが、ほとんどつねにアメリカによって押し切られた。人類の名における「アメリカの法廷」であったといっていい。

 私が気づいた疑問の根本は、ドイツの戦争犯罪を戦後裁判で裁くという計画が最初に意識されたのは1941年秋であったことだ。真珠湾より前である。

 日本が参戦するより前に、戦勝国による敗戦国に対する「裁判」が計画されていた。これは驚くべきことではないだろうか。

(3) 罪を問われた被告は両裁判ともに国家の行った戦争の正しさを主張し、個人に責任のないことを唱えたが、ニュルンベルク裁判の被告人には例外があった。

 シュペアー軍需大臣(判決20年)は裁判の正しさを認め、「裁判は必要である。官僚制度の下でもこのような恐るべき犯罪に共通の責任がある」と語り、ナチズムとナチスの指導部をこき下ろした。シャハト財務大臣(判決無罪)もゲーリングを面前で批判した。

 ドイツ人弁護人の中には犯罪の大きさと恐ろしさにショックを受け、被告のために最善の弁論を尽くせない人もいた。東京裁判ではこのような光景はみられなかった。日本人弁護人はけなげなまでに戦闘的に最善を尽くした。アメリカ人弁護人も、東京裁判の不成立である所以をくりかえし熱弁した。

 ホロコーストは「自然法」に反する。それゆえに「人道への罪」という概念が出て来たといっていいが、ニュルンベルク裁判で初めからホロコーストと戦争犯罪を区別する意識があったかどうかは上記(1)(2)からみても不明である。

 当時は勝者が敗者を裁くことに急だった。それは東京裁判だけでなくニュルンベルク裁判においても同様だった。

 裁判にかかった巨額の経費を負担したのはアメリカ一国だったという記載をどこかで読んだ――未確認だが――おぼえがある。これが案外問題を考える決め手かもしれない。

つづく

秋の嵐(三)

 東京裁判が最近も日本の国会では、首相答弁に出てくるほどホットなテーマであるのに、ニュルンベルク裁判のことは、ドイツ人の大半が問われて学校でさえ習った記憶がないと答えるそうである。ましてや東京裁判についてほとんどのドイツ人は存在自体すら知らないらしい。ドイツ在住のエッセイスト、来日中の川口マーン恵美さんから10月3日に聞いた話である。

 日本では東京裁判については今でも新刊本が相次ぐ。ニュルンベルク関連の本はたまに出るが、これはこれまですべて翻訳ものであって、日本の研究者によるニュルンベルク裁判の秀れた研究書が出たとは寡聞にしてきかない。東京裁判に関するアメリカ人の研究書はあるが、ドイツ人の研究書はこれまた私は耳にしていない。(間違えていたらどなたか教えてほしい。)

 戦争責任や戦後補償をめぐって世界の目はかってドイツにのみ厳しく、今は逆転して不当なまでに日本に厳しくなった、そしてドイツに優しくなった、とどなたかが書いていた。しかし本当にそう言えるのかどうか、まだ私にははっきりは分らない。新聞のトピックスに出てくる話題では多分そうなのかもしれない。中国人ロビーがアメリカ政府内で暗躍していろいろなことが起こっているということはあると思う。

 ニュルンベルク裁判では三人無罪だった。東京裁判では全員有罪だった。しかし終身刑まで含めて日本人のA級戦犯は講話締結後に釈放されている。

 国内でこれは国民挙げての要望であった。外交手続きを踏んでの措置ではあっても、不満や非難が国際的に起こって当然であった。なのに、不可解という声は少しは起こったらしいが、海外から目立つ批判や抗議は起こらなかったようだ。

 このことは謎である。東京裁判そのものへの戦勝国側の後めたさが反映しているのではないかと私は推量している。ニュルンベルク裁判の法的手続きと同じ鋳型を嵌めるような、「共同謀議」などといった乱暴な措置をしたのは間違いだった、という内心の気まづさが作用したと考えるのはいささか甘いだろうか。

 釈放のときの不問が今頃になってまだごたごた言われる原因になっていると考えることが出来るかどうかもよく分らない。ニュルンベルク裁判がナチスの犯人を裁いてナチズムを弾劾し、国家としてのドイツを免責したのと違って、東京裁判は「一億総懺悔」の日本人を問責し、国家としての日本を裁いている。その不当さに日本人は納得しないから、裁判に対する不服従はドイツ人よりも頻繁に表に出る。それが今でもごたごた言われる原因だろうか。

 とにかくドイツと日本は歴史上後にも先にもない異例中の異例の国際軍事法廷の裁きを受けた。東京裁判史観の克服をとかくに口にする人が多いが、ニュルンベルク裁判をよく知り、両裁判を比較研究しなければ、われわれの認識が新しい地平を拓くことはこのあと決して起こらないだろう。

 私は『異なる悲劇 日本とドイツ』の著者としてずっとそう思ってきた。しかしどこから手を着けてよいか分らなかった。

 私は1992年を最後にドイツに行っていない。98年を最後にDer SpiegelやDie Zeitや Frankfurter Allgemeineを読まなくなってしまった。信頼できるドイツ在住の、同じ問題意識を持つ日本人の協力を得なければドイツの州立図書館や公文書館の窓を開くことももうできない。

 そう思いつつ半ば諦めていた処へ『ドイツからの報告』(草思社)の著者川口マーン恵美さんと出会う機会に恵まれた。われわれはたちまち肝胆相照らし、共同研究への意志が固まり、メイルで文献や書物の情報交換をした。

 そして10月3日に二人だけの第一回の討議を行った。

つづく

秋の嵐(一)(二)

 9月の末から10月6日までの私の身辺の出来事を「秋の嵐」と題して綴り始めたところ「北朝鮮核問題」が発生し、(一)を出した直後にすぐ中断せざるを得なかった。

 本日は(一)(二)の両方を一緒に掲示することで連載を再開したい。

 
 秋の嵐(一) 

 晩夏から秋に入っても、今年は雨が多かった。10月6日には関東は嵐に襲われ、ある会合に出ていた私はタクシーを拾えず、ずぶ濡れになって帰った。

 9月は月の半分を軽井沢で過したが、雨ばかりだった。一夕知人を迎えて草津の温泉宿に遊んだ。が、その日も強い雨だった。

 浅間山の稜線がくっきり美しく明晰に見えたのは滞在も終りに近い最後の二、三日だけだった。私は山荘で独居し、読書ばかりしていた。選んだのはゲーテだった。暫らくして当「日録」のゲストコーナーに伊藤悠可さんが登場して下さって、書かれた文章の主題をみたらゲーテだったので私は偶然に驚いた。

 このところ私が日々何を勉強し、誰と会い、どういう会合や対談に参加しているか、「日録」らしい記録を提示していなかったので、9月末から10月6日の嵐の日までに身辺に起こった毎日の出来事を少し丁寧に語って、報告を兼ねて、近事の感懐を述べておきたい。

 今年の6月イギリスを旅行したときにエミリー・ブロンテ『嵐が丘』の古跡を見る予定になっていたので、この長篇小説の新潮文庫訳を持参し、往路の機内とバスの車内で全巻を読み切った。むかし子供向きのあらすじを綴った簡略本でしかこの小説をまだ読んでいなかったからである。

 しかし感動は乏しかった。30歳で病死した若い女性の頭の中の妄想がこの小説の内容のすべてではないかとさえ思った。最後まで読ませるのは構成がよく出来ているせいである。登場人物がすべて異常人格で、語り手の老女だけが僅かに人間としてまともである。こんな世界はどうみても不自然である。

 昭和の初期に西洋の長篇小説に対抗できない日本の文壇は、「私小説」は小説でないといって自嘲ぎみに自信を失っていたが、誰かある作家がこう言ったものだ。「西洋の長篇小説は要するに偉大な通俗文学である。」

 『嵐が丘』は復讐ドラマとしてみても観念的で、一本調子で、この世にあり得ない話である。あれだけ長い作品の中に、人間や人生に関する深い観察のことばがまったくといっていいほど出てこない。全篇これ若い女の妄想の域を出ていない、と言ったのはそのような意味をこめて言った積りである。

 軽井沢で読んだゲーテはドイツ語の格言集や日本語翻訳の長編小説などいろいろあるが、『親和力』を望月市衛訳で久し振りに読み直した。私も年をとって発見したのだが、小説の上手下手、出来映えの良し悪しではなく、人間や人生に関する含蓄のある観察のことばが随所にあるか否かが、作の魅力のきめ手である。

 ゲーテは人間をよく観ているな、とたびたび思う。が、意地悪な眼でじろじろ見ているのではない。何処を引用してもいいが、こんな例はどうか。


 「それはたいへん結構なことです。」と助教は答えた。
 「婦人はぜひとも各人各様の服装をすべきでしょう。どんな婦人も自分にはほんとうはどんな服装が似合い、ぴったりするかを感じ得るようになるために、誰もがそれぞれの服装を選ぶべきでしょう。そしてもっとも重要な理由は、婦人が一生を通じてひとりで生活し、ひとりで行動するように定められているからです。」

 「それは反対のように考えられますわ。」とシャルロッテは言った。
 「わたしたちはひとりでいることは殆どありませんもの。」

 「確かに仰しゃるとおりです!」助教は答えた。
 「他の婦人たちとの関係においては、そのとおりです。しかし愛する者、花嫁、妻、主婦、母親としての婦人をお考えになって下さい。婦人はいつも孤立し、いつもひとりであるし、ひとりであろうとします。社交ずきな婦人もその点では同じです。どの婦人もその本性からして他の婦人とは両立できません。どの婦人からも女性のすべてが果さなくてはならない仕事の全部が要求されるからです。男性にあってはそうではありません。男性は他の男性を必要とします。自分がほかに男性が存在しなかったら、自らそれを創造するでしょう。婦人は千年生きつづけても婦人を創造しようとは考えないでしょう。」

 よく日本の小説について女が描けているかどうかが取沙汰される。例えば漱石の『明暗』は男を全然描けていないが、女は良く描けている、などと。しかしゲーテが何げない登場人物に語らせているこの対話は、女が描けているかどうかの話ではない。

 私は詳しく解説する積りはない。読者はオヤと何かを感じ、考えるだろう。ことに女性の読者は大概納得するだろう。否、男性の読者もわが母、わが妻、わが娘を見て、あるいは職場における同僚の女性の生活を見て、正鵠を射ているなときっと思うだろう。

 女性の強さも、悲しさも、けなげさも、そしてその確かさも全部言い当てていると恐らく思うだろう。女性を突き離しているのではなく、包みこむようにして見ているゲーテの大きさをも感じるだろう。

===========================

 秋の嵐(二)

  『親和力』はゲーテの作品の中では珍しく小説らしい首尾の整っている一作である。ほかに、『若きヴェルテルの悩み』くらいしか小説として迫力のある作品はあまりないといっていい。

 物語としての出来映えを言い出したらゲーテの小説は大概落第である。舞台作品だって迫力の点でシラーにかなわない。『ファウスト』は舞台にかけるとあまり面白くない。ことに『ファウスト』第2部の上演はいつもそれ自体が問題である。

 ゲーテは作品に結晶度が現われる作家ではなく、彼の人生そのものが作品だといえばいちばん分り易いかもしれない。『嵐が丘』の作家とは丁度正反対である。ゲーテの作品の中では失敗作も十分に魅力ある構成要素をなすという意味でもある。

 なぜこんなことを今日しきりに言うのかというと、私が急にゲーテを読み出したことも関係があるが、ゲーテの生涯の中で失敗作が山ほどあって、しかも彼の文学全部を象徴するような位置を占めるある重要なテーマが、十分に扱われないで今まで放置されてきているからである。

 10年ほど前に私が関心をもって、「私の書きたいテーマ」というアンケート誌に答えていたのを『諸君!』編集長が覚えていて、「次の連載にあれをやってみませんか」と誘われた。そして私は今にわかにその気になり出している、そういうテーマがある。

 「ゲーテとフランス革命」がそれである。

 フランス革命はゲーテの後半生を蔽った大事件であった。彼は心を強く揺さぶられ、いつまでもこだわりつづけた。

 彼は革命を嫌悪し、否認した。ゲーテは恐らく近代史において最も高貴で、最も深慮に富んだ、言葉の最高の意味における保守主義者であって、エドマント・バークの比ではない。

 革命をめぐる数多くの散文や劇を書いたが、ことごとく失敗作である。時代とどうしても一致しない何かがあった。彼は18世紀を生きた人で、19世紀以後を拒絶した。しかし、自分の目の前で起こる秩序の破壊に深く傷つき、いくどもそのテーマに立ちもどって、文学上の失敗を繰り返した。

 彼はナポレオンに会って救われる思いがした。秩序を回復してくれたからである。彼は革命だけでなく、ナショナリズムも嫌いで、ドイツの解放にも同情的でなかった。むしろウィーン会議でヨーロッパの秩序を再び建て直したメッテルニヒに期待し、好意を抱いた。

 ゲーテにとって「秩序」とは何だったのだろう。単純に政治的な「反動」の意味にこれを解釈したならば、今までのゲーテ論の過誤を繰り返すことになる。

 ゲーテの往きつ戻りつした文学的失敗の反覆の中に、恐らく問題を解く秘密がある。

 フランス革命との格闘の歳月は、ドイツ文学史によってゲーテが道を踏み誤った一時期として切り捨てられ、顧みられなかった。日本のドイツ文学者に至っては問題それ自体に気がつかなかったほどだ。まさにそのように隠されてきた心の秘密を私は知りたい。

 研究書めいた書き方ではなく、自由評論めいた書き方で展開したいのだが、それでもいざ始めるとなるとこれは容易ではない。時間がかかる。

 私の準備は始まっている。(1)このテーマに関するゲーテの作品、箴言、書簡、当時のワイマル宮廷とドイツの状況の調査・文献を蒐める。(2)フランス革命の歴史研究書を蒐める。(3)ゲーテの全体像を深める。(4)フランス革命からロシア革命をへてソ連崩壊の今日までの歩みをみて革命とは何であったかを考える。

 以上のうち(1)(2)(4)は比較的簡単である。もう半ば揃え終ったともいえる。考えも重ねてきた。しかし(3)がむづかしい。

 (3)は私の文章の背後からにじみ出るもので、それだけに付け焼き刃はきかない。「秩序」という概念も、ゲーテにとっては政治的な意味ではあり得ない。

 一見政治的にみえても――政治的側面も持ってはいるが――そこには彼の自然観や宗教観が反映しているはずである。18世紀にあって19世紀以後になくなった秩序。うまく言葉ではいえないが、人間と自然、人間と人間との間にあった自足的で、調和的な、個人の節度と社会の位階序列と宇宙感情がほどよく釣り合った関係の全体である。

 ヨーロッパ文明はフランス革命以後、200年間この「関係」を破壊しつづけてきた。日本もその潮流に棹さしている。

 そして200年たった今、18世紀人ゲーテの、フランス革命拒絶の意味が感覚的にも、思想的にもずっとわれわれの身近になってきたように思えるのである。

 ゲーテ以外に他のドイツの同時代人は、ヘーゲルも、フィヒテも、ヘルダーリンも、みなフランス革命に熱狂し、興奮した。

 ゲーテの心も震えていたが、逆の方向へ向けてであった。彼の抵抗と冷静は半端なものではなかった。

 そこにわれわれが今共感し、心をひそめて向かっていくべき「高貴とは何か」の鍵がひそんでいるように思えてならないのである。

つづく

秋の嵐(一)

 晩夏から秋に入っても、今年は雨が多かった。10月6日には関東は嵐に襲われ、ある会合に出ていた私はタクシーを拾えず、ずぶ濡れになって帰った。

 9月は月の半分を軽井沢で過したが、雨ばかりだった。一夕知人を迎えて草津の温泉宿に遊んだ。が、その日も強い雨だった。

 浅間山の稜線がくっきり美しく明晰に見えたのは滞在も終りに近い最後の二、三日だけだった。私は山荘で独居し、読書ばかりしていた。選んだのはゲーテだった。暫らくして当「日録」のゲストコーナーに伊藤悠可さんが登場して下さって、書かれた文章の主題をみたらゲーテだったので私は偶然に驚いた。

 このところ私が日々何を勉強し、誰と会い、どういう会合や対談に参加しているか、「日録」らしい記録を提示していなかったので、9月末から10月6日の嵐の日までに身辺に起こった毎日の出来事を少し丁寧に語って、報告を兼ねて、近事の感懐を述べておきたい。

 今年の6月イギリスを旅行したときにエミリー・ブロンテ『嵐が丘』の古跡を見る予定になっていたので、この長篇小説の新潮文庫訳を持参し、往路の機内とバスの車内で全巻を読み切った。むかし子供向きのあらすじを綴った簡略本でしかこの小説をまだ読んでいなかったからである。

 しかし感動は乏しかった。30歳で病死した若い女性の頭の中の妄想がこの小説の内容のすべてではないかとさえ思った。最後まで読ませるのは構成がよく出来ているせいである。登場人物がすべて異常人格で、語り手の老女だけが僅かに人間としてまともである。こんな世界はどうみても不自然である。

 昭和の初期に西洋の長篇小説に対抗できない日本の文壇は、「私小説」は小説でないといって自嘲ぎみに自信を失っていたが、誰かある作家がこう言ったものだ。「西洋の長篇小説は要するに偉大な通俗文学である。」

 『嵐が丘』は復讐ドラマとしてみても観念的で、一本調子で、この世にあり得ない話である。あれだけ長い作品の中に、人間や人生に関する深い観察のことばがまったくといっていいほど出てこない。全篇これ若い女の妄想の域を出ていない、と言ったのはそのような意味をこめて言った積りである。

 軽井沢で読んだゲーテはドイツ語の格言集や日本語翻訳の長編小説などいろいろあるが、『親和力』を望月市衛訳で久し振りに読み直した。私も年をとって発見したのだが、小説の上手下手、出来映えの良し悪しではなく、人間や人生に関する含蓄のある観察のことばが随所にあるか否かが、作の魅力のきめ手である。

 ゲーテは人間をよく観ているな、とたびたび思う。が、意地悪な眼でじろじろ見ているのではない。何処を引用してもいいが、こんな例はどうか。


 「それはたいへん結構なことです。」と助教は答えた。
 「婦人はぜひとも各人各様の服装をすべきでしょう。どんな婦人も自分にはほんとうはどんな服装が似合い、ぴったりするかを感じ得るようになるために、誰もがそれぞれの服装を選ぶべきでしょう。そしてもっとも重要な理由は、婦人が一生を通じてひとりで生活し、ひとりで行動するように定められているからです。」

 「それは反対のように考えられますわ。」とシャルロッテは言った。
 「わたしたちはひとりでいることは殆どありませんもの。」

 「確かに仰しゃるとおりです!」助教は答えた。
 「他の婦人たちとの関係においては、そのとおりです。しかし愛する者、花嫁、妻、主婦、母親としての婦人をお考えになって下さい。婦人はいつも孤立し、いつもひとりであるし、ひとりであろうとします。社交ずきな婦人もその点では同じです。どの婦人もその本性からして他の婦人とは両立できません。どの婦人からも女性のすべてが果さなくてはならない仕事の全部が要求されるからです。男性にあってはそうではありません。男性は他の男性を必要とします。自分がほかに男性が存在しなかったら、自らそれを創造するでしょう。婦人は千年生きつづけても婦人を創造しようとは考えないでしょう。」

 よく日本の小説について女が描けているかどうかが取沙汰される。例えば漱石の『明暗』は男を全然描けていないが、女は良く描けている、などと。しかしゲーテが何げない登場人物に語らせているこの対話は、女が描けているかどうかの話ではない。

 私は詳しく解説する積りはない。読者はオヤと何かを感じ、考えるだろう。ことに女性の読者は大概納得するだろう。否、男性の読者もわが母、わが妻、わが娘を見て、あるいは職場における同僚の女性の生活を見て、正鵠を射ているなときっと思うだろう。

 女性の強さも、悲しさも、けなげさも、そしてその確かさも全部言い当てていると恐らく思うだろう。女性を突き離しているのではなく、包みこむようにして見ているゲーテの大きさをも感じるだろう。

桜の咲く少し前

 三月は人の亡くなることが多い。桜の咲く少し前によくある。今年もドイツ文学の恩師登張正実先生が89歳で逝った。先週護国寺で葬儀があった。

 先生はご長寿で、東大をやめてから20年近くになる。成城大学をおやめになってからもかれこれ10年になるのではないか。

 若い頃よくお宅に伺ってお酒をいただいた。先生は酒豪だった。奥様のお手ずからのお料理でご接待いたゞき、学生の頃から先生を囲む若い人の輪ができていて、私もその仲間に入れてもらっていた。

 先生ご夫妻は私が結婚したときの仲人でもある。今から14年前までは普通にご交際はつづいていて、そして、突然切れた。切れた、というより私が遠ざかった。平成4年(1992年)夏のことである。

 私はマックス・ウェーバーをめぐる勉強会の席で丸山真男氏に二度ほどお目にかかったことがあり、登張先生のことが話題になった。格別に政治的な話題ではない。お互いに知人の動静を語り合うざっくばらんな雑談である。私はこのようにいわゆる左の知識人とも隔意なく附き合っていたし、向うも私に気兼ねする風はなかった。彼らは今では左翼知識人として名だけ有名なかたがただが、大抵はもう死亡されたか、第一線から退かれている。

 ところでゲーテの研究家、ドイツ教養小説(Bildungsroman)を専門とされた登張先生は左翼などというものではまったくない。いわゆるノンポリである。人柄の良い、穏やかな方で、普通の程度の「進歩的」考え方の持ち主であった。

 平成4年は天皇訪中の是非をめぐって世論が湧いていた。私は訪中に反対だった。大概の知識人はそうではなかった。天皇は中国に行って自らのことばで謝罪すべきだ、という考え方に立つ人が圧倒的に多かった。

 登張先生もそうだった。今でこそ天皇の訪中反対は普通だと思うが、私の異論は当時は少数派だった。司馬遼太郎氏に対中謝罪の名文を書いてもらってそれを天皇にもたせて中国で謝らせろ、などという「大胆な」意見を申し立てる人もいたほどの時代の空気であったから、平均的な登張先生が訪中賛成の論に傾くのは当然だったかもしれない。

 先生はとにかく天皇に中国に行って謝ってもらいたいの一点張りだった。私との間で数度に及ぶ往復書簡があった。私は先生に異論を申し上げるのにも、世の中に抵抗するのにも、緊張感とエネルギーを要した。先生と電話で論争したこともある。

 「新しい歴史教科書をつくる会」の始まる5年前の出来事である。

 私は朝日新聞論壇欄に天皇訪中に反対する意見を書く機会を与えられた。平成4年(1992年)7月17日付の次の記事がそれである。

いまは天皇訪中の時期ではない
 

 東欧とソ連の共産主義体制が雪崩をうって崩壊した後、世界の人の目は中国、朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)、ベトナム、キューバという残された国々の動向に注がれてきた。ことに中国の動きが焦点である。私は最近二ヶ月ほど東欧と旧東独を歩いて来たが、いまだに密告、秘密警察、強制収容所が支配するアジアの共産主義諸国のことは想像するのもいやだ、という人が多かった。東欧では過去を忘れたがっていた。過去を思い出すと頭がしびれるという人もいた。

 ドイツでは、なぜアジアでは変化が起こらないのか、と問われた。ところが中国は近ごろ、海空軍力を増強し、これまでの領海防衛から一歩出て、外洋への前進作戦に転じている不気味な動きさえある。地図入りでこれを私が初めて詳しく知ったのもドイツの新聞でだった。台湾や東南アジアはすでに神経質になっている。世界から置き去りにされた唯一の大国である中国はいまいら立ち、焦り、次にひそかに何を画策しようとしているのか分らないのが恐ろしいと書かれていた。しかし中国が独り共産主義体制を維持できるわけもなく、変化は早晩、時間の問題であろう。

 7月9日の本欄で、民社党国際局長の伊藤英成氏が、今こそ日中友好のために天皇陛下の訪中を実現すべきである、と書いているのを読んで、私は正直いってほとんどわが目を疑った。自民党内部でも天皇訪中問題が首相による最終決断の時期を迎えていると報じられているので、世界の常識と日本の常識とがいかにかけ離れているかをここでも痛感しないではいられなかった。いったい陛下のご訪中は今が果たしてその最適の時期だろうか。この際ぜひ、慎重に考えてみていただきたい。

 私は欧米の中国政策がすべて正しいといっているのではない。天安門事件の直後、中国を見捨てなかった日本外交を私は理解した。天安門事件を人権侵害として非難したフランスは、ソ連がリトアニアに兵を入れても、ゴルバチョフを見捨てなかった。距離の近い者には特殊な事情がある。それを私は分っている。だから日本政府が欧米の反対を押し切って中国に経済援助を再開したことを私は是とした。

 しかし、われわれが是とすべきはそこまでである。われわれが孤立する中国に同情の手を差しのべるのはいいが、世界から誤解されないのはそこまでである。われわれが友邦とする欧米各国、われわれと体制を共にする台湾や東南アジアが批判し、疑問とする現在の中国に、天皇が赴き、世界中の批判や疑惑をわが皇室がもろにかぶってよいのだろうか。天皇を政治にまき込まないのが、戦後日本の大切な約束だったはずである。

 日本の政官界には、ロシアに対しては警戒心が盛んだが、中国に対しては心情的にのめり込む人々が少なくない。そして大局を見失う。2月に訪欧した銭其琛外相は、天安門事件を忘れていない欧州各国の外相から、握手を拒まれたといわれる。中国は今年、国防予算を12パーセントも増額した。パキスタン、アルジェリア、イランに原子炉を売り、シリアにも売ろうとしている。

 中東から北朝鮮まで核武装地帯を作ろうと裏で画策しているという疑惑も、欧米にはある。中国の平和意図をもっと信じてもよいという人もいるだろう。私も中国を好戦国とは思いたくない。

 ただここで大切なのは中国の評価ではなく、そういう疑惑や不安が世界に広がっている折にわざわざ天皇が訪中することの当否である。中国が共産主義体制を克服してから訪中されるのでも決して遅くはない。訪中を断って日中関係が一時的に悪化しても、長い目でみればその方が中国の民主化には寄与するはずである。なおこれまでに中国の現職の国家元首が来日した例はないことも付記しておく。

 登張先生は私の新聞の記事内容に怒ったらしい。それからフツリと連絡がなくなった。記事のどこかが先生の逆鱗に触れているのである。それがどこかは分からない。

 私の書いた文章は今でこそ当たり前の内容であり、穏和しすぎるくらいに思う人もいよう。しかし、時代の空気はまだこの程度の段階であって、これを書くのにも抵抗があったのだ。

 人生は哀しい。恩師との関係はこれで切れた。私にも強いこだわりがあったからである。往復書簡の中の先生の片言が私を深く傷つけていた。私も沈黙しつづけた。そして歳月が流れた。

 マックス・ウェーバーの勉強会からも私は次第に足が遠ざかり、会そのものも消えてなくなったのか、連絡もいつしか途絶えた。

 興味深いことだが、平成4年のこの朝日への寄稿を私に取り持ったのが、明治神宮だったかの意を体して接触してきた高森明勅氏であった。このとき初めて聴く名で、お互いにまだ面識はなかった。高森氏がたしか「神社関係の保守派はかえってはっきり物が言えないから」と言っていたと覚えているが、明瞭には記憶していない。

 私の個人のこの15年史の中にもこうして政治は激しく影響した。会って謝罪することもなく、恩師は逝去された。謝罪する理由はない、というかたくなな心が私の内部にもどっかり居坐っていた。

 誰でもこのように歴史の中で個人の心が試されている。ひたすら自分の「神」のみを信ずればよい。それ以外にない。

 天皇訪中に反対したこんな程度の政治的見解でさえ人々の心に亀裂を走らせた時代を私は潜り抜けて生きてきた。これからはきっと私の15年史には出てこないもっと新しい、未知の問いが日本に迫ってくるに相違ないのである。結局はそれぞれの心が試される。それに耐えられない人々が恐らく無数に出てくるに違いないと私は予想している。

 何に耐えられなくなるかといえば恩師や先輩や同僚、あるいは組織の中の人間関係に過度に配慮して、妥協して、自分が自分でなくなるようなことをして、それでいてその自覚がまるでない性格障害者が急増することである。知能も高く、才能もあって、ただ自分でしていることが社会的に何であるかだけが分らない人を性格障害者というのだ。今の時代に早くも至る処で急速に増えているのがこうした人々であるのはじつに恐ろしい。言論人、知識人の世界にむしろ例が多いことこそ真の問題であろう。

寒波襲来の早春――つれづれなるままに――(五)

 たてつづけに二つの映画を見た。「男たちの大和」と「Always 三丁目の夕日」である。どちらもあと数日で上映が終わると聞いたので、都内でかろうじて上映されている場所と時間をインターネットで調べて、仕事のあいまを抜って見て来た。

 呉に行って海事歴史博物館「大和ミュージアム」でこういう映画があることを知った。それでともかく見なくてはと思った。博物館にあった大型模型が映画にも使われたそうだし、あの近くに別に野外セットがまだ残っていて、そちらにも観光客が押し寄せているらしい。そんな噂話に私も釣られたのである。

 でも、何だろうなと思った。あゝいう作り方をされるとかなわないな、と私は少しやりきれない気持だった。映画館の内部では終わりに近づくにつれすすり泣きで一杯だった。私も涙が溢れた。雪の降る中の母と子の別れ、岩壁に手を振る赤子を抱えた将校の妻、なじみの芸者に黙ってあり金を全部渡して立ち去る男、そして僅かな兵隊の給金の中から田舎の母に送金する15歳の少年兵、生き残ったもう一人の少年兵も父母兄をすべて戦争で失い恋人も広島の原爆で逝く。「私は何も守れなかった」と老いた彼は呟く。―――

 私もたしかに涙を抑えがたかったが、後で考えると妙なのである。感傷的につくられていて、完全な反戦映画である。大和の最期については本も多く、私はあまり読んでいないが、こんな個人的なエピソード集にしてよいのだろうかなと疑問に思った。

 映画は戦争の運命をぜんぜん描いていない。「亡国のイージス」という映画も肉親の愛憎のテーマにすぎなかったが、たしかにあれよりは歴史を扱っている分だけ現実感はある。けれどもイメージとして観客の心に残るのは巨艦の自爆出動という愚挙と若者たちの犬死のスペクタクルシーンにほかならない。いまだにこういう映画しか作れないこの国では九条改正ですら難しいのかなと思った。

 けれども、あの映画の製作者は自分では真正面から戦争の運命を描いているつもりになっているのではないかとも思った。反戦映画の意図はなかったかもしれない。製作者の心事を私は測りかねて今でもいる。

 最近つくられる戦争映画は軍人の動作が軍人らしくない。どことなく誇張されていて不自然である。兵役のない国でそれはある程度致し方ないとしても、問題はシナリオである。なぜ日本が戦争しなければならなかったのかが分らないストーリーである。運命感がにじみ出ていない。なぜ軍は自爆とみすみす分って一機の飛行機の護衛ももうなくなってから航行に向わせたのか。あるいは兵は承知で死地へ赴いたのか。

 この「なぜ」を映画は語らないからリアリティがない。否、この「なぜ」はいまだに日本の国民が答えていないので、そもそも映画がトンチンカンになるのは仕方がないのかもしれない。というよりも、この手の映画はいまだに日本人の手では作れないし、作ってはいけないのかもしれない。

進歩のない者は決して勝たない 負けて目ざめることが最上の道だ

日本は進歩ということを軽んじ過ぎた

私的な潔癖や徳義にこだわって、本当の進歩を忘れていた

敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか

今目覚めずしていつ救われるか 俺たちはその先導になるのだ

日本の新生にさきがけて散る まさに本望じゃないか

 映画の中で白渕磐大尉が男たちの死ぬ決意の前の乱闘をおさえてこれを語るシーンがある。遺言からの再現らしい。この語は尊いし、重い。たゞストーリーの全体と画像の展開がこの語を生かす組み立てになっていない。突然この言葉が語られても、観衆には重さがよく伝わらない。

 いったいいつ日本人は自分の戦争を正確に表現する映画を作り出す日が来るのであろう。

 「Always 三丁目の夕日」は昭和33年の東京、私の大学四年生の頃の下町の舞台を再現し、なつかしい事物と風景に溢れていたが、ストーリーはやっぱり人情哀話である。庶民の笑いと涙の物語である。こういう話にしたてないと日本では映画はつくれないのだろうか。

 二つの映画を見た日はどちらも寒く、私は帽子を吹き飛ばされるほどに風も強く、まさに「寒波襲来の早春」だった。

寒波襲来の早春――つれづれなるままに――(四)

 日録のコメント欄に、ある人が拙論をほめて次のように書いてこられた。

 

 西尾先生、諸君4月号-『かのようにの哲学』が示す智恵-、密度の濃い素晴らしい論文でした。皇統の問題は、日本人の実質的宗教的信仰心の問題であると同時に、近代合理主義に対する懐疑的態度としての保守思想の問題でもあるわけです。つまり日本人固有の問題であると同時に普遍的な問題でもある。この問題を同時に解決してくれる一つの在り方が「かのようにの哲学」です。本西尾論文がここ最近沸き起こった皇室典範改定慎重論の流れの中で達した結論ではないかなと思います。(以下略)
                    総合学としての文学 2006年3月1日

 方向は大づかみされているが、こんな風に理路整然とまとめてもらえるような立派な仕上がりの論文では決してない。たゞ私は一寸考えてみて論じ尽くせなかった難しいテーマの入り口を示すことは出来て、探求はこれからだと思う一問題に突き当たった。それは日本、中国、西洋のそれぞれにおける王権と神格との関係の比較である。

 西洋にはGODという、中国には「天」という絶対超越的な神がいて、代りに世俗の王権はいかに専制的であっても神格をもたないのではないか。ところが日本の天皇はカミである。神格をもつ御一人者である。たゞし、カミの概念が西洋や中国のそれとは異なる。

 どう異なるかはむつかしい。あの論文では神話と歴史の関係で少し考察してみて、途中で深追いせずに引き返した。入り口を示すだけで終ってしまった。天皇はカミである代りに世俗の権力を持たない。一方武家のような世俗の権力には神格がない。こういう日本の歴史の二重性、いわゆる「権威と権力の分立」は、地上に神を持たない西洋や中国の権威と権力の構造とは自ずと別のはずである。

 それはそうとして、鴎外の「かのようにの哲学」は今回の論文の中心主題では必ずしもない。論文の標題は編集長がつける。私が草稿に添えた原題は「皇室問題の本質は歴史にあらず信仰にあり」であった。長過ぎたので「かのようにの哲学」が用いられたのであろう。そのために誤解される可能性がある。

 別の編集者の加藤康男さんが新刊の『人生の価値について』の礼状に添えて、次のように書いてこられた。冒頭に「書斎人」とあるのは、つくる会決別の挨拶状に私が「これからは書斎にもどる」と書いたことに応じている。

 ご無沙汰しておりますが、「書斎人」として充実された日々をお送りかと拝察申し上げております。
さて、「諸君」の信仰論を拝読して、誠に腑に落ちていたら「人生の価値について」をご恵贈いただき、後半は特に一挙に読了させていただきました。先生ご自身が過去の病との戦いの中で、何か信仰にも似たものがあって、それが読み手の側にも伝わってきたのではないかと思えたからです。
信仰とは、例え神の存在を信じていない者にでも、伝わるのでしょう。ブログにも書かれていたご友人の病へのお気遣いの中にも、似たような一種の「信仰」が見えました。
この「信仰」なるものの正体は、小生には分かりませんが、こういうものが長い年月、日本人を繋いできた皇室問題と不可分であることはもっと多くの人に知って欲しい問題です。

 「信仰」といわれるとたちまち照れ臭くなるのが私の常である。否、大概の日本人がそうである。が、皇室問題はつきつめるとそういう方向の問題ではないかと考える。それを勘違いして、歴史、歴史と人々が騒ぐので、女系でも皇統はつながる論拠が歴史の中にあるとかないとかいう横道にそれた議論(田中卓、所功、高森明勅諸氏の)になるのであろう。

 「信仰」といわれて応答の言葉に困って私は加藤さんにすぐ次のように返書を認めた。

 お久しぶりです。年をとると行動力鈍く、集中力も落ち、そのぶん一日が短く、せわしない日々をおくっています。

わたしに信仰はありません。どんな宗教もわたしには遺憾ながら単に文化的知識です。日本の平均的人間がそうであるように。しいていえば信じているのは亡き母の愛です。最近犯罪事件をみて、母に愛されなかったひとがあんがい多いのではないかと考えたりします。私はその点では幸せでした。
拙著「人生の価値について」をご一読賜りまことにありがたくぞんじます。

「諸君」4月号論文はいまの言論界に熱っぽい天皇論がおおいので、あえて声なき声をチラットだし、皆さん、ほんとうに天皇の存在をそんなに大事に思っているのは、それ本気ですか、って聞いて見たかったのです。あの論文には少し意地悪がこめられています。江戸前期の「大日本史」が古事記も日本書紀も認めていなかったのを知っていますか、なんてキザな知識をふりまわして、いまどきの保守派をからかって、ほんのすこし戦後の進歩的知識人めいたことをいって、おどかしてやりたいのです。これからもこの手を使ってみます。今の保守派はほんとうにダメです。戦後の進歩的知識人がダメだったのとよく似た意味でダメなのです。

つまり、みんな正しいことを言いすぎるのです。正しいことは犬に食われろです。正しいことの範囲が言論誌ごとに定まっていて、みんなその枠のなかで優等生です。編集者が悪いのか、読者の好みに原因があるのか。というようなことをまた一杯やりながら話したいですね。荻窪にいい店を三軒もみつけましたよ。

つくる会のことはいまあまり考えたくありません。自分から考えなくても、情報が忍びよってきて憂鬱です。今日は週刊新潮からの取材を受けました。記者は何人にも聞くのでしょうから、わたしの考えはどうせ落ち葉の中の一葉です

寒波襲来の早春――つれづれなるままに――(三)

 今月他の都市でした講演のテーマは皇室問題であった。1日に大阪倶楽部で、13日に時事通信社内外情勢調査会の鳥取支部で、14日に同会米子支部で同じテーマについて話した。

 13日に鳥取は雪が降っていた。着陸できない可能性があると知らされたまゝに11:50に羽田から搭乗した。案の定鳥取上空まで行って30分も旋回して、伊丹空港へ戻った。ANAのリムジンバスで新大阪へ案内され、「超特急はくと9号」に乗って鳥取へ向った。さて、「はくと」って何だろう、と不審になりだすと、車掌さんが来るまで落着かなかった。

 「白い兎と書くんですよ」と車掌さんにいわれ、「あゝ、そうか因幡の白兎ですね。」「そうです。」と笑顔で答えられ、やっと納得した。大阪も兵庫もずっと青空が見えた。2時間半の汽車の旅の終り約40分ごろに長いトンネルに入り、トンネルを抜けると外は一面に白い雪国だった。

 駆けこむようにして間に合った駅前のホテルニューオータニ鳥取の会場で、用意されていた夕食会の私の食事は摂らないで早速に話を開始した。今まで雑誌などに書いてきたような内容を思いつくまゝに自由に語ったが、終って不動産会社の社長さんという70歳くらいの方が、米国の占領政策の完成がついに天皇制の破壊という形で到来した、と独り静かに語り出した。聴衆はみんな帰ったのに、彼はしばし席を立たなかった。郵便局のアメリカへの身売り、農地の解体、病院の株式会社化、そしてついに天皇制度のなしくずし的消滅に手をかけるに至って、アメリカの占領は満足すべき終結を見た、と怒りとも悲しみとも言い表せぬことばで語りつづけた。私の言いたいようなことはみんな心ある日本人には分っているのだなと思うと、胸を打たれもし、心強くもあった。

 「あなたの周りの人はあなたの怒りを共有しますか」と私は聞いた。「いえ、ダメです。少数です。この間講演会で竹中平蔵さんの話を聴いて、アメリカにここまで奪われてよいのかと私は質問して食らいつきましたが、司会者に打ち切られました。わしらは無力ですよ。」

 ニューオータニの最上階のラウンジから眺める鳥取の夜景は雪もやんでしっとりと静まりかえっていた。私の年下の友人、鳥取大学の武田修志教授が訪れて来て、夜景を見ながらウィスキーを飲んだ。武田さんは学生に本を読ませる教養の本道につらなる実践教育をすることでよく知られ、そういう体験の教育書も書いて、大学の教養部解体の波に抵抗している理想主義者である。いま小林秀雄に関する本を書いている。

 「先生、驚かないで下さい。」と彼は突然思い出したように言った。「私はいま講義室の掃除を始めているんです。清掃予算が減ってペットボトルや紙屑で教室がよごれる。私が率先して始めてみたんです。手伝う学生もボツボツ出て来ています。教官で手伝う人はいません。こんなことから始めなくてはどうにもなりません。きたない講義室で教育はできないとだんだん気づく人が出てくるでしょう。」

 武田さんは気負っているのでも、気取っているのでもない。質朴なお人柄である。彼は『諸君!』4月号の拙文「『かのようにの哲学』が示す知恵」にしきりに関心を示した。宗教心と皇室問題についてわれわれはしばらく話合った。香奠袋の買い置きをしない日本人の慣習に関する私の書き出しの部分が印象的だったようだ。

 私は武田さんこそが日本人らしい宗教心の持ち主なのだと思った。率先して黙々と講義室の掃除を始めた大学教授。日本の現実のひどさを反映している逸話である。同時に日本人の本来の信仰心のようなものを強く感じさせる方だと思ったが、口には出さなかった。

 西洋の旅をして、教会の内陣でひたすらお祈りをする西洋人を見て、日本人には宗教心がないと口癖に反省を語った一昔前の知識人のエッセーの底の浅さを思い出した。宗教心なんてそんなにご大層な、ことごとしいものだと考えるべきではないと私は思う。

 70歳くらいの不動産会社の社長さんといい、武田教授といい、良い人々に出会って静かに更けていく鳥取の雪の夜の出来事であった。

寒波襲来の早春――つれづれなるままに――(二)

 私は翌7日の12時30分には、海上自衛隊から車が迎えに来た。羽田空港に向った。同行して下さる一等海佐の大塚海夫さん――いつ会っても爽やかで気持のいい紳士――に、プリントアウトしておいた「つくる会顛末記」を機内で読ませた。「まことに残念ですね、まことに。」が彼の口から出た唯一の言葉だった。彼にはそれ以外に言いようがないようだった。

 その夜は呉に泊まり、江田島の副校長先生ほかから接待を受け、その後大塚一佐の昔仲間である艦長さんや軍医さんと一緒にカラオケを楽しんだ。私は「イヨマンテの夜」まで歌わされた。翌日午前中に講演。演目は「二つの前史」。江戸時代は近代日本の母胎であり、戦前・戦中は戦後の繁栄の前提である。歴史は連続していて切れ目がない。今の若い人を惑わせている暗い江戸時代像も、北朝鮮のような戦争時代のイメージもともに間違っている。明治維新も第二次世界大戦の敗戦も決してそれほど大きな切れ目ではない、等々を具体例をたくさんあげて話した。副校長先生があとで「このはなし、まとめて小さな新書のような本にはなりませんかねぇ」と言って下さったのは嬉しかった。

 午後は江田島の中の教育参考館を見学。ここは二度目であるが、特攻隊の展示は再び眼に痛い。日清日露の貴重な海戦図も初めて見る思いだった。そして、呉市に渡り、ひきつづき新設の「大和ミュージアム」を見学した。

 最近「男たちの大和」という映画が上映されたこともあってか、江田島にも「大和ミュージアム」にも観光客が大挙して押し寄せているらしい。そして不図思った。鞄の中に入っている平松茂雄さんの『中国は日本を併合する』は軍事大国たらんとし、アメリカとの宇宙兵器による戦争をさえ用意し始めている中国の今の現実と比較して、「昔の偉大な日本」を懐かしむ日本人の心を私はどことなく悲しくも、哀れにも思った。展示物が大規模で、展示内容が「軍事大国日本」「技術大国日本」をデモンストレートしていればいるほど、私の心は沈み勝ちだった。

 翌日平松さんがこんな話をしている。「職業柄、人工衛星や宇宙開発の政府の会議によく出席するのですが、今の官僚も学者たちもですがね、びっくりすることに、アメリカの人工衛星や宇宙開発の知識はもっていますが、お隣りの国でこれがどんどん進展していることについては、知識もなければ、関心もないのですよ。」

 私はこう答えた。「毛利さんその他の宇宙飛行士がテレビによく登場しますが、私にはイチローやマツイのように見える。アメリカの宇宙開発という名の大リーグに招かれているいわば招待外国人選手なんですよね。日本人が自分の大リーグを作らなくてはダメなんですよ。」

 そうしなくてはならないという疑問も今の日本人には指導者でさえ思い浮かばないらしいということが、私にはただただ悲しかった。

寒波襲来の早春――つれづれなるままに――(一)

 3月の前半は毎年税金の整理であっという間に時間を空費する厭な歳月である。最後は税理士に頼むのだが、そこまで持っていくまでが容易ではない。家内の援けを必要とする。

 3月の前半にたまたま今年は講演が集中して、3月1日大阪、8日江田島、13日鳥取、14日米子を旅して、私は疲れながら結構楽しい旅行だったが、税金の方は家内に任せる分が多く、税理士に渡すのも遅れて、両方から恨まれた。

 旅行中に『中国は日本を併合する』(講談社インターナショナル)という刺激的な標題の本を読んで、その著者の平松茂雄さんと9日に『Voice』5月号のための対談をした。毛沢東の巨大な戦略によって東シナ海から沖縄に及ぶ広大な海域がしだいに中国のものになりつつある情勢がしっかり描かれている。

 一方に、宮崎正弘さんの「こうして中国は自滅する」の副題をもつ近刊『中国瓦解』(阪急コミュニケーションズ)のような本を読んで、この国に未来はないと思い、少し安心するのだが、平松氏は全然別の考えをもっておられる。中国ダメ論を氏にぶつけてみると、中国がダメな国であることは100年前も、今も同様である。それでいて中国が核大国、宇宙大国、海洋大国を目指して、少しづつ前進し、30年前と今とを比べるといつの間にか驚異的地歩を占めているのは争えない。中国が道徳的、法秩序的、生活的な面においてダメな国であることは今も昔も変わらないし、これからも同じと思うが、そのことと日本への脅威とは別であると仰有っていた。

 原稿のない時間帯には、夜ごとに人と会合する機会がふえてくる。3月3日には扶桑社の編集者真部栄一さんと荻窪で酒を飲み、「つくる会」の今回の推移をみていると、西尾は会を影で操っている「愉快犯」だとさんざんな言いようでからまれた。2月27日の、私がもう参加しない理事会で会長、副会長の解任劇があったことを指している。

 私は会の動きに関心はもっているが――それも日ごとに薄れていくが――影で操れるような魔力を持っていると思われるのは買い被りで、残った他の理事諸氏に対し失礼な見方である。新会長に選ばれた種子島氏がたまたま私の旧友だからだろうが、私が「院政」を企てているという妙な憶測記事を出した3月1日付の産経記事がどうかしているのだ。このところ産経の一、二の若い記者に、一方に肩入れしたいという思いこみの暴走があるのではないか。私は「つくる会顛末記」を書く必要があると感じた。

 八木秀次氏から会いたいと電話が入り、3月5日の日曜日の夜、西荻窪の寿司屋でゆっくり会談し、肝胆相照らした。彼は私の息子の世代である。彼が会を割ってはいけないという必死の思いだったことはよく分った。しかし、それならなぜそのことを辞表を出した三人の副会長や私に切々と訴えておかなかったのか。言葉が足りなかったのではないか、と私は言った。電話一本をかける労をなぜ惜しんだのか。

 すべてことが終ってからの繰り言はこんなものである。八木さんは自分の解任は不当で、自分を支持する勢力はなお大きいので、どうしたら良いかと私に質した。これが会談を求めてきた眼目だったようだ。私は答えようがない。再び指導力を結集して再起を図るなら、次の総会で再選される手を着実に打っていく以外にないだろう、と答えた。そのためには11、12日に行われると聞いている評議員・支部長会議に無理してでも出席した方がいいよ、と忠告した。日程がつまっていて困った、と言っていたが、出席して熱弁を振ったのであろうか。

 八木さんと会った翌日の6日は新設の女性塾の塾長伊藤玲子さんと6人の幹部メンバーから謝恩だといって市谷グランドヒルに招待された。私が塾の設立に少し協力していたからである。その席上でも「つくる会」のことが話題になった。女性塾の幹部のひとりの女性が「西尾先生はつくる会の会長として会に戻り、藤岡先生とは絶縁すると宣言してほしい」と言ったのにはびっくりした。

 私はこう答えた。「別のある人は『西尾先生は会長として会に戻り、八木先生と絶縁すると宣言して欲しい』と言っている。私にはどちらもできない。だから私は会を離れるしかなかった。藤岡・八木の両氏から等距離であることは、会にとどまっていてはできない。会を離れる以外になかったことはお分かりでしょう。」

 するとその女性は「西尾先生は会を離れてはいけない。藤岡先生を支持してもいけない。どっちも許されない」と言って、さらに私をびっくりさせた。

 「つくる会」の会員内部の心理は混沌としていて、もう私の手に負えない。ことに女性の心は底深く、見えない。女性には愛憎があるだけで認識はない、と誰かの箴言にあったが、やはりそういうことだろうか。

 伊藤玲子さんの昼食会から帰って、「つくる会顛末記」を約8時間かけて書いて、日録に掲示した。私が書いている傍らで長谷川さんが広島からタイプ稿を送り返してこられて、校正も終り、全文清書が終了して掲示されたのは7日午前0時58分であった。主婦の長谷川さんに夜更かし労働を強いたことになり、ご家族の皆様にお詫び申し上げる。