「つくる会」顛末記

――お別れに際して――
          (一)

 私は「新しい歴史教科書をつくる会」にどんな称号であれ戻る意志はありません。

 一度離別決定の告知を公表しており、新聞にも報道され、誤解の余地はないと思っていましたが、産経(3月1日)に私が「院政」をもくろんでいるとわけ知り顔のうがった記事が出ましたので、あえて否定しておきます。

 私は理事会にも、評議会にももはや出席する立場ではなく、会費を払っているので総会の一般席に坐る資格はあるでしょうが、これも今後遠慮しようと考えています。すなわち、いかなる意味でも私は「つくる会」に今後関係を持たないこと、影響力を行使しないことを宣言します。

          (二)

 名誉会長の名で会長より上位にある立場を主宰することは二重権力構造になり、不健全であるとかねて考えていましたので、いわば採択の谷間で、離脱を決意しました。

 次に新版『新しい歴史教科書』は私の記述の主要部分が知らぬ間に岡崎久彦氏の手で大幅に改筆され、この件で、執筆者代表の藤岡氏からいかなる挨拶も釈明もなかったことを遺憾としてきました。採択が終るまでこの件を表立てて荒立てることは採択に悪影響を及ぼすから止めるようにと理事諸氏に抑えられ、今日に至りました。

 旧版『新しい歴史教科書』にのみ私は責任もあり、愛着もあります。旧版がすでに絶版となり、新版のみが会を代表する教科書となりましたので、私の役割はその意味でも終っています。

 また『国民の歴史』は「編/新しい歴史教科書をつくる会」と表紙に刷られていますが、会とも版元とも契約期限が切れましたので、今後の再販本は私の個人的著作として自由に流通させていただくことになります。

          (三)

 しかし1月16日に重要な理事会があり、17日に名誉会長の称号の返上を公表したのですから、昨秋より最近の会内部のさまざまなトラブルに対し私もまた勿論無関係ではありません。私が自らの判断と言動で一定の影響力を行使したことは紛れもありません。

 そこで会の一連の動きに対し私が今どういう見方をしているかをできるだけ簡潔にお伝えし、私の責任の範囲を明らかにしておきます。感情的対立を引き起こしているテーマなので、私に関心のあるポイントだけ申し上げます。他で公表されるであろう資料文献などと併読してご判断ください。

 今回の件はたった一人の事務系職員の更迭をめぐる対立から始まった内紛ですが、人間の生き方の相違、底流にあった思想の相違がくっきりと露呈した事件でもありました。

 「つくる会」は過去にも内紛を繰り返しましたが、今回は今までとは異り、異質の集団の介入、問答無用のなじめない組織的思考、討論を許さない一方的断定、対話の不可能という現象が、四人の理事(内田智、新田均、勝岡寛治、松浦光修の諸氏)からの執行部に対する突然の挑戦状で発生し、私は自分がもはや一緒に住めない環境になったと判断せざるを得ませんでした。

 1月16日の理事会は、さながら全共闘学生に教授会が突上げられた昭和43年―44年ごろの大学紛争を思い出させました。「あァ、会は変わったなァ、何を言ってももうダメだ」と私は慨嘆しました。四人の中の新田理事は、「西尾名誉会長はいかなる資格があってこの場にいるのか。理事ではないではないか」と紋切型の追及口調で言いました。一体私は好んでつくる会の名誉会長をつとめているとでも思っているのでしょうか。八木会長は彼をたしなめるでも、いさめるでもありません。

 「新人類」の出現です。保守団体のつねで今まで「つくる会」は激しい論争をしても、つねに長幼の序は守られ、礼節は重んじられてきました。とつぜん言葉が通じなくなったと思ったのは、12月12日の四理事の署名した執行部への「抗議声明」です。その中には、執行部のやっていることはまるで「東京裁判と同じだ」とか「南京大虐殺問題を左翼がでっちあげて日本軍国主義批判を展開することを想起させる」などとといった見当外れの、全共闘学生と変わらぬ、おどろおどろしい言葉が並んでいました。

 いったいこれが保守の仲間に向ける言葉でしょうか。私がもう共に席を同じくしたくないと思ったのはこのような言葉の暴力に対し無感覚な、新しい理事の出現です。

 今回の件はいろいろな問題点を提起しましたが、私が痛憤やるかたなかったのは、何よりもこのような荒んだ「言葉の暴力」の横行でした。保守の思想界ではあってはならないことです。

          (四)

 宮崎正治事務局長は人も知る通り性格も温順な、優しい人格です。デスクワークに長け、理事会の記録の整理は緻密で、遺漏がなく、人と人とを会わせる面談の設定などもとても親切で、気配りがあり、私など随分良くしてもらいました。個人的には感謝しています。総会などの運営もぬかりがなく、シンポジウムの開催ではベテランの域に達していました。

 けれども私たちは次の採択のために事務局長の更迭をあえて提言しました。「私たち」とは八木、藤岡、西尾の三人です。三人の誰かが先走っていたということはありません。八木さんは単なる同調者ではありません。率先した提言者のひとりでした。例えば、宮城県県知事が変わり、「つくる会」に好意的な人物らしいと分って、八木会長は対応を宮崎氏に申しつけました。しかし彼は行動を開始しないのです。

 宮崎さんはいい人ですが、独自のアイデアはなく、また果敢な行動力もなく、私が提案したいくつものアイデアも「分りました」というだけで実行されたためしはありません。「難しいからやらないという弁解を最初に口にするのは官僚の常で、つくる会の事務局が官僚化している証拠だ」と叫んだのは遠藤浩一さんでした。

 採択戦の最も熱い場面で、もっと目に立つ運動をしてほしいという現場会員からの支援要請があるにも拘らず、文部省が「静謐な環境を」といったことを真に受けて、積極的な運動をむしろ「やってはいけない。敵と同じ泥仕合をしてはいけない」と抑えつけたのが宮崎さんでした。杉並の採択戦でとうとう藤岡氏が怒りを爆発させました。鎌倉その他からも不満の声がいっせいに上りました。

 宮崎さんは自分の性格の消極性をよく知っています。他人と四ツに組んで対決する人間としての気迫の欠如もよく承知しています。くりかえしますが、彼は几帳面な人ですが、「つくる会」の「事務局長」という対決精神を求められるポストには向いていないのです。

 こう申し上げることで多分ご本人を傷つけたことになるとは私は思いません。自分の性格の長短は誰でもかなり正確に自ら気づいているものです。性格だから変えようがありません。

 ですから、事務局長更迭は穏当な案件なのであって、宮崎氏の雇用解雇はこの段階ではまったく考えられていません。昨年の9-10月頃のことです。

 彼の生活のこともありますから、どういう立場で彼の名誉と給与を守るかが執行部の悩みの種子であり、鳩首会談の中心テーマでした。どこかで誰かが報告してくれるであろうコンピューター問題などが出てくるのはこの後だいぶたってからのことでした。

          (五)

 事務局長としての宮崎氏の不適任性は、事務局を内側から見ている役目を長くつとめた種子島理事や、会計監査の冨樫氏の共通認識であり、私を含む六人の執行部もまた、身近で彼を見ていたから言えることでした。地方にいる理事や、新しく入ってきたばかりの理事にいったい何が分るというのでしょう。

 いいかえれば、こうしたボランティア団体で局長人事に限らず一般に事務局人事は「執行部マター」であります。他の理事は事情がよく分らないのですから、追認するのが常識です。

 ところが今回に限ってそうはならなかった。先述のとおり「言葉の暴力」の乱舞する挑戦的な行動が突如として四人の理事によって展開されました。しかも、驚くべきことが時間と共にだんだん分ってきました。この四人のうち三人は保守学生運動の旧い仲間であり、宮崎氏もまたその一人であり、昔の仲間を守れ!という掛け声があがったかどうかは知りませんが、私的な関心が「つくる会」という公的な要請を上回って突如として理不尽なかたちで出現したことは紛れもありません。

 私はだんだん分ってきて、驚きましたが、同時にひどく悲しくなりました。こういうことはあってはいけないのではなかろうか。

 しかも困ったことにどうもこの動きには背後になにかがあるのです。そしてその背後を八木会長が配慮する余りに、彼がずるずると四人組の言い分に引きずられて、事務局長辞任は西尾や藤岡氏の意志であって自らの本来の意志ではなかったかのごとき声明を出したり、またそれを再び打ち消す逆声明を出したりと、ほとんど信じられない迷走ぶりをくりかえしだしたのでした。これらの文言はすべて証拠として残っています。

 八木さんは会長として会を割れないという一念があったのでしょう。私は今はそう理解しています。宥和を図る、というのが彼の一貫した態度でした。しかし宥和といっても一方に傾きがちで、四人組にいい顔をして、他方に配慮が足りないために、遠藤、福田、工藤の三人が副会長を辞任し、八木氏を諫止しようとする挙に出ました。八木氏には宮崎辞任を急がせるようにという三人の意志がぜんぜん伝わらなかったようでした。この点では他方を甘く見ていたのは失敗だったときっと彼はいま後悔しているでしょう。

 であるなら、八木さんをこんなにおびえさせた背後のもの、それに対する配慮のために自分を失いかねなかった背後の勢力とは何でしょうか。じつは、ここからが微妙で、言いにくい点なのですが、要するにわれわれにとって兄弟の組織、親類のような関係にある団体「日本会議」です。

 「つくる会」は一つの独立した団体です。人事案件はあらゆる独立した団体の専権事項です。どんなに親類のような近い関係にあっても、別の組織が人事案件に介入することは許されません。

 「つくる会」の地方支部は大体「日本会議」と同じメンバーで重なります。日本会議を敵に回すことは「つくる会」の自己否定になる、と八木さんはおびえていました。四人組に対し強く出ることは会を割るだけでなく、日本会議の今後の協力が得られなくなることを意味するのだというのです。

 しかも当の宮崎氏は「俺を辞めさせたら全国の神社、全国の日本会議会員がつくる会から手を引く」と威したのでした。私はこれを聴いて、いったん会を脅迫する言葉を吐いた以上、彼には懲戒免職以外にないだろう、と言いました。それが私が会長なら即決する対応です。四人組が彼を背後から声援していることは明らかです。

          (六)

 会の幹部は日本会議の椛島事務総長にも、また、同じように背後から宮崎事務局長の立場を守ろうとしていた日本政策研究センターの伊藤哲夫さんの所にも出向いて挨拶に行っています。私は行っていませんが、八木、藤岡、遠藤、福田の諸氏は互いに都合のつく者同士で組んで挨拶と相談のために出向いているのです。

 しかし、ここで一寸変だと思われる読者が多いでしょう。事務局長更迭は独立した組織である「つくる会」の専権事項であって、他の組織の長におうかがいを立てるべき問題ではありません。しかし八木執行部はそうしたのでした。そして余り色よい返事をもらえないで帰って来ています。

 どう考えても妙です。日本会議も日本政策研究センターも、ご自身の事務局員の人事案件について他の組織におうかがいを立てたことがいったいあるでしょうか。私は「つくる会」の「独立」が何よりも大事だと言いつづけました。

 椛島有三さんも伊藤哲夫さんも私がよく知る、信頼できるいわば盟友であることは先刻読者はご承知のとおりです。椛島さんとは夏の選挙戦で大分から宮崎を共に旅し、伊藤さんとは九段下会議の仲間です。宮崎人事に口出しして「つくる会」の「独立」を脅かしてはいけないとお二人はまず何よりも考えたでしょうし、考えるべきでもあります。

 椛島さんは、「宮崎君をまあ何とか傭っておいて下さい」というようなお言葉だったそうです。伊藤さんは「つくる会」の案件だから自分は関知しないし、「つくる会」の運動には政策センターとしてももう直接参加するつもりはないと言ったそうです。(ですが、宮崎氏は反対のことを言っていて「伊藤さんは自分の解任に最終的に同意したわけではない」と最後まで言い張っていました)。

 椛島さんも伊藤さんもあの古い保守学生運動の仲間なのです。今はもう関係ないと仰有るかもしれませんが、日本的なこの古いしがらみが八木会長の行動を徒らに迷わせ、苦しめたことは動かせない事実でした。

 彼は会の「宥和」を第一に考えました。そして、日本会議や日本政策研究センターが協力しなくなるという恐怖の幻影におびえつづけたのです。私の前でもくりかえしそう語っていました。それが事実であることを、椛島さんも伊藤さんもよく考えて下さい。ご自身がそう意図しないでも、相手に知らぬうちに激甚な作用を及ぼすことがありうるということを。

 お二人は何の関係もないと仰有るでしょうし、また事実関係はないのです。しかし「関係」というのは一方になくても他方にあるという心理現実があります。そのことを少し考えておいて下さい。

          (七)

 八木さんは会長ですから会を割るわけにいかないと必死でした。私は会の独立が大切だと思いました。一つのネットワークが一つの会組織に介入して、四人組をその尖兵として送りこんできているのではないかとの疑念を抱きつづけました。

 私だけでなく、他の理事たちは強く危機感を私と共有しました。私がまだ会を立ち去る前です。そして、その危機感は2月27日の理事会までつづいて、四人組のこれ以上の影響を阻止するために八木会長解任という結果をひき起したのではないかと考えます。八木さんの迷いぶりが彼の身を打ったのです。

 コンピューター問題とか、会長中国旅行の正論誌問題とか、いろいろ他にもあるのでしょうが、私は他の問題の意見を述べるつもりはありません。

 八木さんが不手際だったとも思いません。彼は彼で精一杯会を守りたいと念願していたのでした。しかし藤岡さんはじめ他のメンバーも会を守りたいと考え、激しくぶつかるほかありませんでした。

 まず最初に四人組が組織と団結の意思表明をしました。全共闘的な圧力で向かってきました。そこで反対側にいるひとびとは結束し、票固めをせざるを得なかったのだと思います。

 票の採決がことを決するのは「つくる会」の歴史に多分例がありません。初めての出来事です。組織的圧力がまずあって、ばらばらだった反対側があわてて組織的防衛をしたというのが真相でしょう。

 ひょっとすると思想的にみて、現代日本の保守運動に二つの流れがあるのかもしれません。その対立が会のこの紛争に反映したのかもしれません。しかしそれを言い出すとまたきりがなく難しい話になりますので、ここいらでやめておきましょう。

 いずれにせよ今日を最後に、私は「つくる会」の歴史から姿を消すことにいたしたいと思います。

 皆さまどうも永い間ありがとうございました。

 (了)

〈追記〉
 関係者以外の人に誤解の生じる恐れがあると読者の一人から指摘されましたので、追記します。「つくる会」で給与が支払われるのは事務系職員だけで、会長以下理事の活動は無料のボランティアです。ただし講演や出張に対しては報酬が支払われます。給与も報酬も一般平均より著しく低廉であることはいうまでもありません。

エピクテトス・皇室と信仰・権力への態度

――刊行のお知らせに寄せて――

docu0193.jpg(1) 新刊『人生の価値について』WAC新書版を出しました。
(ワック株式会社 ¥933)

 この本は1996年新潮社より出版された『人生の価値について』の改訂新版。

 新版まえがき「断念について」が追加され、川口マーン恵美さんの新しい解説「ドイツからの手紙」が巻末にのっている。

 「断念について」は奴隷であったローマの哲人エピクテトスの「放棄」への覚悟こそが「自由」である、という徹底した思索を扱っている。

 2月26日刊だが、すでに店頭に出ている。

(2) 3月1日発売の『諸君!』4月号の皇室問題特集に「『かのようにの哲学』の知恵」を寄稿した。

 皇室問題の本質は歴史にあらず信仰にあり、が原稿に私の付けた仮題であった。信仰であるから懐疑もあり得るし、ゆりもどしも起こり得る。波風も立つ。

 歴史家は天皇の観念は古代から同一であったと誤認している。カミの観念としての天皇像は歴史と共に動いている。神格をもたない西洋の王権とも中国の皇帝とも異質である。三者の比較が必要。私は江戸時代以後の神話と歴史の関係に注目した。王権の根拠を神話に求めているのは日本の天皇だけで、江戸時代に早くもその矛盾が露呈している。16世紀以前と以後とでは天皇観は同一ではないはずである。22枚と短い枚数なので十分には論じられなかったが・・・・・。

 田中卓、所功、高森明勅の古代日本史研究家が女系論に傾くのは歴史と信仰をとり違えているからである。歴史を信仰して、信仰は歴史とは別の心の働きだということに気がつかないからではないか。この話題のテーマにも私なりの分析を加えた。

(3) 3月8日発売の『SAPIO』の「著者と語る肖像」の1ページ・インタビューにて、拙著『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』について語った。

 1時間半も語って短い記事になるのは残念だが、この書名はいい題であるとSAPIOの編集者は言ってくれた。小泉批判本がたくさん出始めているので、これくらいはっきり言わなければダメとも。それでいて11月下旬に出ていた本なのに、SAPIOが取り上げてくれたのはこのように政権末期と分ってきてからなのだ。マスコミと権力の関係こそがこれからの厄介な問題となる。

 すでにポスト小泉を確定的に予想して、言論人が政権の「追っかけ役」をするのを思想と心得る見当外れがあちこちに始まっている。ポスト小泉内閣に注文をつけ、厳しい監視役であることを今から言明していくのが真の思想家の役割なのではあるまいか。

 言論人は政権の「ぶら下がり」でも「お守り役」でもない。保守にも革新にもみられる永遠に変わらぬ日本の知識人の「自我の弱さ」である。

藤岡信勝氏正論大賞受賞への私の祝辞

 2月15日赤坂プリンスホテル別館で行われた第21回正論大賞の贈呈式にひきつづく祝賀会で、指名されて私は祝意を述べた。そのときの内容を以下にできるだけ正確に思い出して再現しておく。

 

 藤岡さん、また奥様、本日はお目出とうございます。会場の皆さまは本日は多数ご来場ありがとうございます。

 私が藤岡さんについてつねづね感服していることをまず二点申し上げます。その一つはご文章の論理的明快さです。筋道がはっきりしていて、構造的で、枝葉を取り払った幹のような、ムダを省いたご文体で、私が推定いたしますに、欧文脈に翻訳された場合に原文とのズレが最も少い、日本では数少い文章書きのお一人であろうかと存じます。

 第二点は藤岡さんの比類ない行動力、迅速果敢さ、運動へのエネルギーです。今回も採択が終って直ちに大洗町に跳び、栃木市に走り、大分市に足を運ばれました。時間の許す限り、他の仕事を犠牲にしてでも行動する瞬発力には、私は見ていて凄いな、これは負けた、真似できないなと再三思いました。

 皆さん、私はつねづね思うのですが、人間にはどこか自分を捨てている処がなければ面白くない。人間として鑑賞に耐えないなと思うことがございます。今の日本の首相が見苦しいのは、いつも私心が先立つことが見え見えだからです。

 藤岡さんには自分を捨てている処がある。愚直なまでそういう処がある。それを言いたくてこういうことを言い出したのですが、自分を捨てるというのはどういうことかというと、誤解されるのを恐れないということです。誤解されるのを恐れる心がある、それはどういうことかというと、物書きの場合ならいつでも日の当る場所に出たいということです。

 若いときには誰でもこれがあって、藤岡さんも若いときはそうだったでしょう。私もそうだった。否、今だってそうかもしれない。それは人間誰にもあって責められませんが、年がら年じゅう誤解されまいと、そんなことばかり考えている人は見苦しく、結局自分を見失ってしまいます。

 藤岡さんはたった一つのある事柄に関してだけ徹底して自分を捨てている。教科書問題に関してです。そこは見事です。私心を去っている。そこいら辺に、多くの人の目が狂いなく見ていて、今回のご受賞になったのだと思います。おめでとうございます。

 最後に皆さん、本日はフジサンケイグループの首脳の方々がお集りで、この受賞を共にお祝い下さっていますが、今回の受賞はつくる会に対してフジサンケイグループが「藤岡の教科書で行け!」と指令を発して下さったのだと私は理解しております。

 また扶桑社の社長さんほか皆さん、本日お出でいたゞいているかどうか分りませんが、以上のような次第ですから、扶桑社の方々もこれによって勇気と刺戟を与えられたと思っています。どうか教科書を出しつづけることにたじろがないでいただきたい。そのようにお願いしておきます。

名誉会長辞任の新聞報道について

 1月17日の私の決定(日録参照)について、18日付日刊三紙が報道した。各紙ともに誤報はないが、取材に対する私の電話回答と少し違う所があるので補っておく。電話回答は記事より文字数が多いので、違う所が出てくるのは当然である。

産経新聞

西尾幹二氏が名誉会長辞任
教科書をつくる会
 
 新しい歴史教科書をつくる会名誉会長の評論家、西尾幹二氏(70)が17日、八木秀次会長に名誉会長の辞意を伝えた。西尾氏は「会の新しい指導体制が確立したため書斎に戻ることにした。教科書の執筆者は、要請されれば続ける」と話している。

 西尾氏は平成9年1月の発足時から会長を務め、13年10月から名誉会長。

 私は現行教科書の執筆者の一人であるから、教科書が使用される限り私が執筆者であることは当然続く。それ以上の意味ではない。私が新たに教科書を執筆することは要請されてもない。

読売新聞
西尾氏、つくる会離脱
 「新しい歴史教科書をつくる会」(八木秀次会長)の創設、運営に携わってきた評論家の西尾幹二氏は17日、同会の名誉会長の称号を返上し、完全に同会から離れたと発表した。西尾氏は「若い人と言葉が通じなくなってきて、むなしい。これからは自分の著作に専念したい」と話している。

毎日新聞
 「つくる会」西尾初代会長が退会 新しい歴史教科書をつくる会(八木秀次会長)の中心メンバーで初代会長を務めた評論家の西尾幹二氏が17日、名誉会長の称号を返上し、退会したと発表した。西尾氏は「若い世代とは話が合わなくなった。個人の著作に専念したい」と話している。

 毎日は「退会」と書いているが、年会費を払う「会員」であることに変わりはないので、読売の「離脱」のほうが適切である。

 両紙の記者に言ったと思うが(あるいは詳しく言ったのは片方の記者にだけだったかもしれないが)、私は私の思想活動においてつねに「個人」であった。『国民の歴史』も個人の著作であった。それがたまたまある期間、つくる会の組織の精神と一致した。組織は時間が経てば変容する。そこにはズレが生じる。

 私は今年『江戸のダイナミズム』という700ページ余の大著を刊行するが、マスコミから「またまたつくる会の打ち出した新しい手か」とこの本が評されるのはたまらない。私は個人として活動し、個人として書いてきた。つくる会の始まる前から、そして今も同じ「個人」でありつづけていることに変わりはない。

 「なにか会の内部に思想上のトラブルや路線対立があったのか」という質問を各紙から受けたので、「それはまったくない」と答えた。「なにもないのに辞めたのか」と重ねて尋ねられたので、「その精神活動をよく知らない新しい理事が最近多数入ってこられて、立派な方も勿論おられるが、私とは話が合わなくなってきた人が増えてもいる。言葉が通じなくなってきた。会議などでの論の立て方、合意の仕方が理解できない。私が苦労しつづけるのはだんだんバカらしくなってきた。そういうことはある。歴史観が大きく違うということはない。」

 私と記者との対話は大体以上の通りである。

 このあとに書くのは今日の若干の感想である。私は自分が研究上の場所とした日本独文学会を60歳で退会した。私は「個人」として生まれたのだから「個人」として死ぬ。どんな学会にも属する必要がないと思ったからである。そのあと新しい歴史教科書をつくる会に参加したのは矛盾と思われるかもしれないが、参加したのも「個人」としてであり、そこから離脱するのも同様に「個人」としてである。

 しかし私はいうまでもなく「個人」ではない。私は父と母の子であり、日本国民である。私は日本の民族文化と歴史の一部にすぎない。歴史や民族は私を超えている。しかし「新しい歴史教科書をつくる会」は私を超える概念ではない。それだけの話である。

今年の私の計画

 「今年の計画」を立てても実行できないことが多いので、年頭に大口は叩くまいと禁欲的になっていたのだが、本欄の「特設掲示板」に次のように書いて下さる人がいたので、あゝそうか、そういう方もおられるのかと感謝の念を新たにしたことから話を始める。

■81 / 親記事)  西尾先生の今年度の計画を教えていただけませんか
□投稿者/ j 一般人(1回)-(2006/01/07(Sat) 19:30:30) [ID:MXCszFYq]
西尾先生は昨年、確か年頭において一年の計画・目標を日録において発表なさったと思います。

先生の一年の計画・目標を見ると、なにかこう、やる気というか勇気が湧いてまいります。

ぜひとも先生のこの一年の目標を教えてください。

 今年の最初の課題は『江戸のダイナミズム――古代と近代の架け橋――』(文藝春秋)の出版である。約700ページの大著となる予定だが、『諸君!』連載の稿は書きっ放しなので、まだ幾つも越えねばならぬ資料文献上の山がある。

 この本を出さない限り、別の次の本は出さない。本当は昨夏にもそう決意していたのに、小泉政変が起こって心が乱れてしまった。この本が私の手を離れたら、遅れに遅れている次の二つの仕事を必ず果す。

 翻訳 ニーチェ『ギリシア人の悲劇時代における哲学ほか』(中公クラシックス)

 ちくま新書『あなたは自由か』

 以上二点は年来の約束である。前著は旧訳の再刊だが、ニーチェの少年期の小篇を新訳で追加しようと計画している。後者は三分の一ができあがっているのに中断し、担当編集者にご無礼のしっぱなしである。

 これとは別に絶版の旧著『人生の価値について』がWACより同標題のままに今年の春に改版刊行される。川口マーン恵美さんが解説を書いて下さる。川口さんは今ドイツのシュトゥットガルトにご在住で、昨年末に『ドレスデン逍遥』(草思社)という歴史と現代を織り絵にしたような美しい、深い内容の本を出されたので、これも読んでいただきたい。

 雑誌のほうではようやく決心がついて、というより制限時間いっぱいになって、追われるような雑誌の事情があってのことだが、「わたしの昭和史」の『正論』連載を初夏までにはスタートさせる。

 これとは別に二つの共同研究を実行する。インテリジェンス研究家の柏原竜一さん(ハンドルネームは無頼教師さん)と二年つづけている戦間期以後の世界史と日本史の関係究明がその一つである。もう一つは年末にお会いした作家の佐藤雅美さんと、専門家に就いて、荻生徂徠の『論語徴』の講読を開始する。

 以上は必ずやらなくてはならない。これをやり遂げるためには、今年は激動の年と分っていても、言論誌への寄稿は最小限に控えることが必要である。雑誌原稿を書いていると、歳月はあっという間に過ぎる。まとめて本にしても、充実した本にはなかなかならない。

 私には残された時間は少い。執筆に追われていると学習の時間が足りなくなる。書く方を少くして読む方を多くしたい。今年は次の歳月の表現のために蓄積の年にしたい。したいというより、そうしないわけにはいかないほどに文献や書籍の山にとり巻かれているのである。

 仕事場を三つに分けることとする。書籍の置き場をさらに工夫することとする。それが忙しい日々における今の私の目前の課題である。

年末の銀座(三)

 江戸の小説を書く佐藤さんとの間で新井白石が話題になった。佐藤さんが自分は白石を何処となく軽く見ているふしがある、と仰言ったのは面白かった。徂徠と比べれば白石はどうしても軽く見える。徂徠には神がある。神秘主義もある。白石がその歴史観において津田左右吉のような近代の合理主義者の先駆をなしていたのも紛れもない。「けれども白石にも鬼神論があるのですよ。それから、徂徠は中国一辺倒だったが、中国の古典を同じくらいよく読んでいた白石が中国を論じないで、儒者の中では例外的に、日本史を論じ、叙述した、これが面白いところですよ。」と私は言った。

 酒の場にふさわしくないそんな話をした記憶も残っている。

 社会経済学者で、有名なエコノミストの斎藤精一郎氏――12チャンネルでお馴染みの――が座に加わったのはそれから一時間も経ってからだった。彼は上等な赤ワインを飲みだしたので私も一杯ご相伴にあずかった。焼酎もすでにいただいている。よく若い頃酒のちゃんぽんは身体に悪いと聞いたが、私は意に介したことはない。

 話題は自然に経済に移った。斎藤さんは日本経済の破産はないと仰言る。世界最大の債権国が破産するいわれはない、と。私はただし債権の内容、76兆円に及ぶ米国債が債権の大部分を占め、これを売却すれば米経済が破産し日本も共倒れになるから処分できない。とすれば債権がいくらあっても動かせない金なら、債権はないに等しいのではないですか、と。

 これに対し斎藤さんがどう返事なさったか、思い出せない。私がこの通りにきちんと意向を伝えたかどうかの自信もあまりない。斎藤精一郎さんが来る前にすでに四人は出来あがっているので、口々に何か言っていて、座は混乱していた。佐藤さんが「西尾さんの徂徠はいいが、債権債務の話はいかん」などと叫んでいる。かなり酔っぱらっているのである。

 文藝春秋の齋藤さんに連れられて二軒目の「倶楽部シュミネ」へ行った。有名な人がいろいろ出入りしている上等な店である。ここで珍しい二人の人物に出合った。一人は初めて会う人、もう一人は旧知の人。

 初めて会う人は黒鉄ヒロシさん。私の方はよく知っていて、出合いしなに会釈すると「先生、愛読しています」といきなりにこやかで、愛想がいい。私は「私も巨人ファンなんです。原は嫌いだけれど。」とわけもなく口走っている。黒鉄さんは巨人ファンの代表だと頭の中にこびりついているかららしい。すると彼は「私も靖国ファンなんです」とすかさず応答されたのにはびっくりした。こういう言い方が面白かった。

 外務大臣がお見えになった、と店の人がいうので私は席を立って挨拶に行った。私が知る政治家は多くはない。麻生さんは40年前からの旧知の仲である。大臣は二人の男性を前に熱心に話しこんでいた。私が行くと立ち上がって「あまり合わない処でお目にかゝる」と破顔一笑、握手の手を出された。

 彼は礼儀正しい人である。いつ会っても感心する。なにかしてさしあげると巻紙で墨筆の礼状がくる。礼状はすぐ出せ、というのは家訓なんです、と仰言っていたことを思い出した。

 ホステスもいる店だが、浮いた処のないオープンな席であった。寒風の中をタクシーに乗って一路家へ走った。

年末の銀座(二)

 そんな話をしているうちに酒はすゝんだ。甕酒といって、竹の柄杓で甕の中から掬って少しづつ盃に移す。私もこの手の酒は寒中にいただいたことがあるが、冷却保存がむつかしい。店のマダムは勿論ずっと冷蔵庫に保管していると仰言る。家庭では冷蔵庫を狭くするといって、家内がいやがるので、私は地下室の書庫の奥に保管するんです、と語った。

 そうこうするうちに人の気配がした。路を間違えて探しあぐねたといって二番目のお客さんがやっと現れた。前早稲田大学総長の奥島孝康氏である。佐藤さんが年末に西尾と会う約束だと話した処、かねてこの方も西尾の年来の愛読者であるから同席したいと齋藤さんに申し入れがあって、私に異論のあろうはずもなく、賑やかな会合は歓迎で、座はいっぺんに江戸時代の思想を離れて、現代のよしなしごとに転じた。

 法律学者の奥島氏は丸顔の明朗豁達、なにごとも腹蔵なく語る気持のいい方である。私より四歳下で、今は早稲田を去られている。在任中は大きな抵抗を排しながら、教授陣から早大出身者を減らす方針を一貫して推進されたそうだ。早大の教授陣の純血比率の高さは自閉的無風状態と競争力の低下、研究成果の下降を招いて、いわゆる「学生一流、教授三流」と陰口を叩かれる土壌を生んできた。私は『日本の教育 ドイツの教育』(1982年)でもこの問題をとり上げている。

 奥島氏の果断な改革については私は予備知識を持たなかったが、よほどの意志がないと実行できない抵抗の壁の厚いテーマである。氏は早大の出身者の占有率はついに5割を切った、という話をされた。そして、東大出身者に入れ替わった。そうなると「早大は東大の植民地ではないのだ、という愛校精神がワッと湧いてきて、大変な苦労ではないですか」と私は言った。

 「東大出身の某私大医学部の教授から聞いたことがあります。余り大きな声ではいえないのでしょうが、自校出身者が5割を超えてから研究レベルが急降下したというのです。私のいた電気通信大学にも同じ問題がありました。偏差値支配の日本の教育体系そのものの歪みの反映なんですね。」

 私は奥島氏はことなかれ主義を徹底して嫌う意志力と行動力とのともに長けた方なのだと拝察した。官僚的タイプから最も遠い方であるに相違ない。にがい現実を認めて、甘い理想を否定するのは、氏が空想家ではなく、実行家だからだと思う。

 西原春夫という早大総長がいた。私が中教審委員であったとき、事実上私が書いた中間報告を彼が愚弄した。テーマは小学生の受験競争、「お受験」の抑制である。ここから変えないと偏差値体制は壊れない。初等教育の公正のために私学の我侭に枠を嵌めるべきだという中教審の思想に対する私学側の反発の、代表をなしたのが西原氏だった。私が週刊文春(1991年1月31日号)で批判を書いた。

 あの事件を覚えている人はもうほとんどいないだろう。論文の題は「西原前早大総長は教育界のフセインだ」だが、これは勿論編集部が勝手につけた題である。それにしても30枚ほどの枚数が許された。10ページはあったろう。齋藤さんは「誰が編集長だったかなァ。週刊はそういうテーマによく10ページも与えたなァ」と不思議がっていた。

 奥島氏は「あの事件はよく覚えていますよ。西原さんが反論を書く、っていうので私が必死で止めたんです。反論を書いたって勝てっこないですよ、と申し上げた。」軍配を私にあげ、内心で快哉を叫んでいたらしい。

 週刊誌上のこの論文は『立ちすくむ日本』
(1994、PHP)という私の単行本に収録されている。

 その一部に次のような文章がある。

 

西原氏よ。よく心して頂きたい。
 私大代表の名において中教審を批判する貴方のどの発言の端々にも、私大全体の問題と早大一校の問題との混同がある。早大は東大に負けていないと自他に言い聞かせる怨念の情、自尊と劣等感の複雑なコンプレックスが、貴方の発言から、日本の教育を国民的見地で考える責任ある視点を奪っている。

 早大総長の補佐役でありながら心秘かに私の論の正当さを見抜いていた奥島氏が、客観的にものを見ることのできる稀有な人物であることをこの一件はよく物語っている。

年末の銀座(一)

 久し振りに銀座でお酒を飲んだ。8丁目にあるヤナセのベンツのショールーム裏にあるビルの地下一階「ふく留」に行った。文藝春秋の役員の齋藤禎さんが待っていてくれた。小部屋に用意ができていて彼は私に坐るように真中の席を指して、「ここは小泉首相がいつか来て坐った席ですよ。」というので、大笑いになった。

 先客がひとり私を待っていてくれた。先客は作家の佐藤雅美氏である。明治維新を経済的視点でとらえた『大君の通貨』はユニークな金融小説で、「幕末〈円ドル〉戦争」という副題がついている。氏の作品の中で、私が読んでいるのは当時の英国大使オールコックを描いた、この一作だけであるが、よく勉強しなければ書けない堅実な手法の小説である。

 私が『諸君!』11月号に書いた「最後の警告!郵貯解体は財政破綻・ハイパーインフレへの道だ」を佐藤さんは読んで、まさにこの通りだと膝を打ち、齋藤さんとの間で話題になり、ぜひ会いたいと言ってこられたのでご紹介たまわることになった。佐藤さんは私がまだ本にしていない「江戸のダイナミズム」の荻生徂徠の扱い方にむしろより大きな関心をお持ちであることが会ってすぐに分った。

 『諸君!』連載が完結してすでに一年以上経過している「江戸のダイナミズム」についてはどうしているのかと各方面からお叱りをいただいている。首相の悪口を言っている暇があるなら、さっさと徂徠や宣長や契沖や富永仲基を論じたあの本に早く集中しろ、と痺れをきらしている向きから今にわかにお小言をちょうだいしている。目下注をつける作業に没頭中で、まだまだ古書の山との格闘はつづいている。

 佐藤さんは「お酒を飲む前にうかがいたいのですが」と私に向って第一言を投げてこられた。「徂徠の門弟たちをめぐる小説を今書いているのですが、徂徠の思想を西尾さんほど分り易く、読み解いて下さった人はいない。どうやって核心を見抜かれたのですか。」

 さあ困った。私は核心を見抜いていない。第一、テキストを十分に読み切れていない。徂徠のテキストを十分に読める人なんて今日本に何人もいまい。中国人の学者でよく読んでいる人を知っているが、中国文学や中国哲学の専門家ででもないとあの白文には今では簡単に近づけないだろう。

 「『論語徴』を丹念に読みたいのです。誰か先生について、解読してもらわないととても無理ですね。小川環樹の和文書き下しがあるけれど、あれをいくら読んでもよく分かりませんからね。」
 「私は西尾さんが全文読み抜いておられるのだと思っていました。」

 随分痛い処を突いてこられる。
 「徂徠に比べれば宣長の文章は平明で読み易いと思うかもしれないけれど、あれだって現代日本語に訳してはじめて納得がいくんですよ。小林秀雄の『本居宣長』には訳文がついていないですよね。読者の方は引用された原文を読んで分かるんでしょうかね。」

 と、私は鉾先をかわした。
 徂徠にも一部現代語訳があるが、必ずしも納得のいく文章ではない。『論語徴』にはそのような訳文もない。闇につつまれている。あれを読み抜かなければ徂徠は、――日本の儒学は分からない。
 「徂徠は孔子に嫉妬し、孔子を超えようとした反逆者です。日本の知性では類例をみません。そこが私には面白い。」
 「そういう話をもっと聴きたいですね。」と佐藤さん。
 「私は『国民の歴史』で7世紀の日本語のドラマ、中国語と日本語の格闘のドラマを予想しました。7世紀に訓読みという決定的方法が発明された。しかし訓読みは余りに便利すぎるので、永い歳月のうちに習慣化し、中国の古典の正しい読み方では必ずしもなくなった。そこに徂徠が出現した。中国書にもどり、すべてをもう一度白紙にもどした。その内部から宣長の国学が誕生しました。中国語との戦いの内部から日本語が誕生した7世紀のドラマが1000年たって再現された、そう感じているのです。言語ルネサンスのトータルな構造を描きたかったのですが、そもそも私には手にあまる仕事でした。」

つれづれなるままに(11月第一週)

 暦のうえでは11月は立冬であり、小雪である。旧暦だから約一ヶ月ずれると考えても、10月は寒露であり、霜降(そうこう)である。てんでそんな気候ではない。外出するとき上着は羽織るが、散歩中に暑くなってぬぐ。

 このところ睡眠障害で、なんとか身体のリズムを建て直すため、朝日を浴びて歩くようにするが、起きられなく午前中眠っていたり、散歩から帰って寝入ってしまったりする。

 31日に西野晧三さんの誕生日パーティに出席した。人も知る「氣」の大家で、西野さんに近づくだけで自分の身体がほてる、という人がいる。一定の訓練をしていないと、そうはならない。訓練をしていると、西野さんがさし出す指の先の「氣」の力によって自分の身体が数メートルも飛ばされる。これはすごい力で、神秘主義ではない。

 10年ほど前に私も道場に通ったことがあるのだが、根氣がつづかなくて初級で中断した。それでも、忘れずにパーティへの招待状をくださる。

 睡眠障害だといったら、西野さんに笑われた。以前はよくがん治療の結果が報告されたが、今年は講演で骨量の著しい向上がデータで報告された。日本を代表する医学者や科学者が次々と演壇に立って、自分の体験と西野さんへの感謝、そして21世紀は生命の源である「氣」の解明が自然科学の最重要の課題の一つになると語っていた。

 道場は私も実体験しているので、「氣」の実在を少しも疑わない。私もすでに身体が壊れかかっているので、訓練を再開したいと思った。西野塾の師範の一人に、別れぎわに、「正月からやります。お願いします」と言った。「整体」はダイナミズムがないので続かなかったが、「氣」は道理があるように思えてならない。自分の呼吸法をいかに換えるかが基本である。

 11月2日に旧友夫妻を吉祥寺に招いて、私共夫婦で接待した。近くに住んでいるのだが、しばらく会わない。過日の大雨で善福寺川が氾濫し、床下浸水の被害を受けられたので、その慰労会のつもりである。むかし気難しかった友人がやけに軽口になってよく話すので、驚いた。老人になるということは不思議である。

 このところ「新しい歴史教科書をつくる会」の事務局の再生のために、非常に多くの時間とエネルギーを取られている。11月2日と4日にはそれぞれ数時間づつ、事務局の8人のメンバーと交互に分けて懇談した。八木秀次、藤岡信勝、遠藤浩一の三氏が事務局再建委員会を作った。私は相談役で末席にいる。

 理念的な方面に先走ってきたこの会はまず足許から見直す必要に迫られている。それほどの大敗北であった。しかし事務局の事務に専門性はなく、頼るべきは常識だけである。みんな何も知らない素人が集って始めた会である。

 若い事務局員にこれから果すべき課題を書いてもらった。みんないい意見を持っている。敗因は何であったかの洞察も鋭い。問題を見出すのは易しい。ただ、一つでもそれを実行するのが難しいのである。

 事務の日常の平凡な事柄が必ずしも実行されていない。若い女性のメンバーが時間の厳守と饒舌の中止、各自の分担の明確化とそれとは矛盾するが分担の相互乗り入れを語っていた。案外こんな処に、会の前進の秘密があるのかもしれない。理事たちにも同じ課題が求められていると見るべきである。

 これらの時間を縫って、私は毎日せっせと、PHP研究所より12月初旬に出す小泉首相批判の一書――ついに300ページを越えた――の最終ゲラの校正作業を急いだ。現政権の徹底的批判、政治的、経済的、かつ道徳的批判は恐らく読書界に例を見ないであろう。私の全人格を挙げての闘争の一書である。11月5日夜に校了となった。

 11月3日の文化の日に小石川高校時代の友人、早川義郎元高裁判事が昔でいう勲二等の勲章をもらったことが新聞に出ていたので、早速に電話で祝意を述べた。お祝いには花がいいか、酒がいいかと聞いたら、赤のワインがいいというので、上等のブルゴーニュを贈ることにした。

 早川君は私とクラスで、たった二人、現役で東大に合格した仲である。今も一年に二、三回は酒杯を交している。しかしいつも日本酒である。ワインが好きとは知らなかった。現政府批判の激烈な一書が間もなく彼の手にも届く。きっと「西尾は相変わらずだなァ」と苦笑するだろう。

 11月4日には夕方に、WAC出版(ワック株式会社)という新しい出版社の松本道明出版局長に荻窪の魚のうまい店にて落ち合う。この出版社は他社の既刊本で、もう絶版になった本を次々と出してベストセラーにしている智恵ある会社である。渡部昇一さんや黄文雄さんの本がすでによく売れている。新書よりやゝ大型のソフトカバーの本で、最近本屋さんによく置いてある。

 私の昔の本もこれから次々と出して下さるということで、ありがたい。この日の夕方、第一弾『日本はナチスと同罪か』を10冊ぶら下げて、「いよいよ出来あがりました」と持って来て下さった。文藝春秋より1994年(文庫は97年)に出された『異なる悲劇 日本とドイツ』の改題再刊である。

 旧著が蘇えるのはことのほか嬉しい。以上一週間の出来事を綴った。

十月の私の仕事

 平井さんの貴重なバーゼル報告、写真とともにまことに有難うございました。たしかに40年前とバーゼルは変わりありませんね。たゞニーチェの下宿の前庭にもっと茂みがあって、暗かった印象でしたが、少し変わったようです。

 日録に私の昔のエッセーが長期間載ったり、ゲストの方のご文章をいただいたりしている時間は私が執筆や講演で最も激しく活動している時期であるとご理解下さい。両方に気を配ることはできないのです。

 10月は山紫会(元参議院議員板垣正氏の会)と自民党兵庫県県議団の年次総会(明石市)で講演を行いました。後者は教育論で、ある言論誌にそっくり掲載される手筈を整えられていたので、乱れない構成で話すことを心掛け、神経を使いました。脱線せず予定通りに話すのは難しいことですね。

 また月末には倉敷と岡山で時事通信社主催の講演会「日本人は何に躓いていたのか」を行います。25日には女性塾といって、元鎌倉市議の伊藤玲子さんが全国の保守系女性を300人も集めて、キャピタル東急でシンポジウムを行います。私も最初に相談を受けて応援してきた会なので顔をみせます。安倍晋三氏と山谷えり子さんと稲田朋美さんがシンポジウムに出るようです。安倍氏が小泉首相にいまどういう距離意識をもってお話になるのか、の一点に私の関心があります。

 尚二冊の本の出版がいま同時進行しています。

 一番エネルギーを注いで、このために日録が長期休載になったのは次の二評論でした。

 (1)保守論壇を叱る
   ――経済を論じない政治評論家たち――
      Will 12月号(10月26日発売)
 
 (2)誤解するな、小泉首相は左翼である
   ――日本の北朝鮮化――
      Voice 12月号(11月10日発売)

 Voice論文は今日が〆切り日で、今なお執筆中です。尚、今月のこの評論のあとしばらく別の仕事に没頭するためオピニオン誌の時局論は手控える予定です。