憂国忌シンポジウム(七)

 私は今日ずっと最初からお話したことの中では、この国家のことを強く意識する時代、民族を強く意識する時代は国境観念が希薄になるということを一貫してお話したつもりであります。

 歴史は物語りだというのも、国境観念が希薄になるということに結果としてなるのではないかと私は思っているわけです。つまり、半分自分は世界の中の一つだと言う自覚が明確にないと、そうすると結局自己喪失に陥っているのではないか。それは、私が一番いいたいテーマでありまして、今現在、これから今、天皇の問題が本当に危くなっちゃっているのは何が原因かと言うと、本当は我々が無自覚に天皇ということを信奉していて、あまりそれを自覚的に意識してこなかったこともあると思います。

 これは、天皇が危うくなっているという、この今の時代は天皇の外にある原理と言うものを日本人が信じないということにあるんじゃないか。つまり、我々は、福田さんが最初におっしゃったことですが、我々は、二重性を持って生きなくてはならないと。天皇を否定するのではなくて、天皇と別に並存する何かの理想がなくちゃいけない。そういうものの理想を我々は過去において、中国の儒教に求め、また、ヨーロッパのキリスト教、近代文明に求めた、そういうことだったと思うんです。

 で、それがあったために、天皇を信ずる、あるいはまた日本の民族を信ずるということとバランスが取れていた。ところが外なるものの明確な理想像を失ってしまったために、軸が一つになってしまうと、今のような、天皇もどうでもよくしてしまうような、「有識者会議」とやらのやっているようなことが起こってくるのではないかと思う。

 つまり、日本文化の優位と言うことを言うのではなくて、歴史の独自性というのはあくまで、認めるんですけれども、この自分の優位と言うことだけを言っていると、相対の泥沼に入っちゃうよと、いうことが私のずっと考えてきている一つの問題であります。我々は、どうやって他者を認識できるか、その問題に直面しているのではないかと。それをちゃんとしていないから、今度は一番大切に思っていた、自分の神様を根底から失ってしまう。

 つまり、これは皇室典範有識者会議の人たちはまるでなんか、頭の中が真っ白な人たちですが、大真面目に議論している。あんな知性も位も高い人たちがなんで、こんな馬鹿なことしか考えていないのかというのが、本当の真の驚きなんです。その真の驚きはどこから来るかといいますと、私たちが本当に歴史を失っているということなんでしょうけれども、ただそれは、そう喘ぐことばかりではなくて、私たちが外に理想を失っていることに原因があるんじゃないか。

 私たちは、二重の理想をかかげて生きる、二重性をもって生きなければならないのではないかと思います。

憂国忌シンポジウム(六)

 私の若い友人だった坂本多加雄君の書いたものをじっと読んでいると、なんか死の一点に向かって歩んでいるところがあるんですよね。不思議でしょうがないのです。現代では52歳の死は夭折ですからね。
 
 彼が歴史は「物語り」だと言ったことはよく知られております。つまり、国家と言うのは歴史という物語の一貫性の中に根拠がある、みんなが人々が共有する物語の内部に、人々がすんでいる。彼は、例えば旧東ドイツを例に挙げ、旧東ドイツは、自らがナチスドイツとは関係がないということを神話にした国家であると言っております。

 そうなると、これは、坂本さんは挙げていないけれども、金日成の抗日戦、日本に対する戦いを神話とした朝鮮民主主義人民共和国もそれなりに国家の来歴、物語りを持っているということになるんじゃないかと言いたくなるわけです。

 とにかく、そういう意味でそれぞれの国家は、それぞれの来歴を持ち、物語りを持ち、そこに歴史認識が成り立つ。これは教科書をつくる会としてはありがたい、便利な思想でしたが、しかし、すごく危ない思想なんです。私は、危ないなと思いました。そのときも思ったし、彼にも言ったかもしれませんが、亡くなった後で、私は書きました。

 これは、歴史は民族の外にはないと言っているのと同じですから。つまり、歴史は物語りで、民族の物語りだと言ったら、もうそれはさっき言ったように、東ドイツも北朝鮮もということになってくるし、日本もその内の一つかと言う話になっちゃう。これは、すごく危ない話で、歴史はそうすると客観的な歴史と言うものは否定するし、人類の歴史、世界の歴史というのを否定することになるんじゃないかと。そういうようなことを私は、思ったわけであります。

 そのような私の坂本君に対する思い、つまり坂本君に対して向けた疑問と言うのが、福田恆存先生が三島先生に向けた疑問とどこかパラレルではないかと言う気がいたしております。

 坂本君も、死と言うのが契機になって、歴史を考えている。ご自分の死も問題になるんでしょうけれども、そうではなくて、日本の歴史が死に面したことが過去に二度あったと彼は言う。すなわち、幕末と終戦。19世紀初頭と8月15日。

 これは日本の民族が死を意識したときで、このときよみがえった観念こそが、思い出、歴史の喚起、すなわち国体の観念であると、そういう意味で死を契機としたときに初めて危機感から初めて、国家、こういう意味での民族。

憂国忌シンポジウム(五)

 つまり日本人で国境意識というものを生み出したのは、中国を学んだ儒者達ですが、中国そのものには、国境観念がない。本国の儒教と学んだ儒教との違いを今申し上げているわけです。

 そこでパラドックスは次に移るのですが、これも仮説ということを理解していただきたいのです。国学というのが儒学の中から出てきますが、この国学というのはどういうわけか、国境観念を持っていないんです、実は。

 本居宣長は、これはじつに不思議なことなんですが、国学は、天照大神は日本一国の神ではなくて、全世界普遍の神だというふうに信じるわけです。したがって、国学の考え方は中国の儒教にむしろ似ている。そういう意味では、国境の観念がないんです。天照大神は、全世界の神であると。これで通用しろと言っているわけですから、ここから国境意識は生まれません。

 つまり、本居宣長には、元々政治から離れるという意識がずっとありまして、彼からは国家を構想する力はでてこない。国学には国家観念が希薄だといわれます。内面的文学的すぎるのであります。宣長はね。それはそれでいいんです。

 ですから、日本の日本たるもの、国家イデオロギーが出てくるのは初期の儒学者と、それからずっと下って水戸学が出てくる幕末です、国家意識が。水戸学がそれを可能にしたわけですけれども、これは初期儒学者たちの、影響が幕末にでてきたということです。それが、水戸学です。

 さて、三島さんは水戸学ではなく、この本居宣長に似ているんです。天照大神は日本一国の神ではなくて、全世界普遍の神だと。三島さんの天皇論は、読むとどこまでもそういう感じがします。どこまでも、日本の天皇は「特殊」だ、「普遍」だという話ではないんです。突き抜けてその先が、彼はその先が普遍だといいたいのでしょうが、普遍とか特殊ということは、ここではやめる、そういうことに捕われないということでしょう。

 天照大神は全世界の神である、それを貫くというのが、三島さんの精神運動であったと思います。そして、ここから一つ逆転して考えるのですが、本居宣長や国学が盛んに唱えられる時代というのは不幸な時代とよく言われます。戦時中の日本は国学が流行します。そして三島さんが、「今日に至る戦後日本、これはやはりこの国が、決して幸福な安定した国家ではない、ある危機が宿っている」と言っている。ということは、宣長も三島さんにも、国家というか天皇というものを突き抜けてそれが、世界の普遍の神だと言わざるを得ないような、情熱があるということは、これはある意味でこの国が、大きな危機に晒されているということを物語っているのではないかと、私にはそんな風に思えます。

憂国忌シンポジウム(四)

 先ほど、福田恆存氏と三島由紀夫氏の違いに西洋観があるのではないか、前者には国境の観念があるが、三島さんは国境の観念を突き抜けてしまうところがあると、逆にいえば、三島さんには他者としてのヨーロッパというのがあまりないのかもしれないということを申し上げたつもりでございます。

 これは、日本が「特殊」で、ヨーロッパは「普遍」だとか、そういう話ではございませんから、誤解のないようにと再度申し上げておきます。

 しかし、ヨーロッパを意識する前の日本はどうであったかという問題を、ものすごい大きな尺度で取り上げてみたいと思います。

 ともうしますのは、今の時代はヨーロッパ対日本というよりも、中国というものが大きくクローズアップされてきました。「現代に生きていたら三島は何を考えるか、どう考えるか」というのが今回のシンポジウムのテーマですから、中国がこれだけクローズアップされた時代にあって、我々はどう考えるかというと、江戸時代をとり上げてみる必要がある。江戸時代の日本というものは結局中国を意識することでヨーロッパを意識した日本人と対比されるべきであろうと思うからであります。

 実は、ヨーロッパを意識する前の日本で、国境を意識させたのは中国の存在であり、そうしたのは日本の儒者達だったということです。日本の儒者達は初めて日本に、日本的なものというものを自覚させたわけであります。中国を他者として認識した。中国は国境観念を日本人に結晶させた。ところが、ここからがものすごいパラドックスに満ちているのです。

 その反対に、中国人にはそもそも国境の観念がないのではないか、ということです。つまり、中国の観念の中に、『詩経』のなかに「普天の下王土にあらざるはなし」と、大空の下、どこまで、どこまで行っても、王の土地であって、自分がどんどん膨張して行って天下と一体になってしまうという、そういう考えがあります。それが中国です。広大無辺な地域に住む中国人は、自分が世界の中心だというふうに見なしている、とよく言われますが、それはつまり、他者がいないということであります。中国人には他者がいないということです。

 つまり、近代的な意味だけではなく、もともと中国人には国境の観念がないのではないかと思う。自分を限定して認識することがない国民ではないかということを一つの仮説として出してみたいわけです。

 ところがさらに、ものすごい逆説的なことなんですが、江戸時代になって中国を学んだ儒者達が、儒学(朱子学)を日本が直輸入したと思った途端に、日本の国家観念が生まれた、ということなんです。

 つまり、これは面白い逆説でございまして、林羅山、熊沢蕃山、あるいはまた中江藤樹、山鹿素行などは皆中国の観念を受け入れたかもしれないけれど、「中華の『華』はわが日本なり」と、「我が朝廷こそ中国の華だ」と言い出したのは初期儒学者たちです。

憂国忌シンポジウム(三)

 お二人には、西洋観の違いがある。西洋に対する、ヨーロッパに対する見方の違いがある。だからといって福田さんが言っていることを「普遍」と「特殊」というと、誤解を招きます。正確じゃない。日本は「特殊」で、ヨーロッパは「普遍」だ、「普遍」が大事だと福田さんが言っているという、そういう図式は建てたくない。

 そうじゃなくて、外にあるものに対する自己限界みたいなものが、福田さんには非常につよい。それに対して、三島さんには国境の観念がないのです。これは、ある意味ではすごいことです。ある意味では、突き抜けちゃっているんです。

 だから根源的には他者も自分も一つだったかもしれない。天皇に突き抜けていくこの情熱そいうのは、ここで言っていることは、国家のエゴイズム、国民のエゴイズムというものの反対の極のところに出て行ってしまう。そういう意味で天皇が尊いんだから、天皇が自由を縛られても仕方がない。その根源にあるのは、とにかく、お祭りだということです。天皇がなすべきことは、お祭り、お祭りと彼はいう。

 このお祭りというのは、祭祀ということで、今日朝日新聞で、岩井克己さんという編集員で、この方は立派な方ですが、皇室典範のことを問題に出していて、天皇のこの宮中のつまり、23日夜か24日未明にかけて闇に包まれた宮中参殿の紫宸殿で最も重い祭祀の一つのおこなわれるという、この祭祀のお話を新嘗祭、これはお祭りなんですね、この祭りをやる天皇というのが、三島さんの言っている天皇で、これは、普遍でもなければ、特殊でもない。それを突き抜けちゃって、何か外へ出て行こうとするんですね。

 それに対して、福田さんはやはり常識の人です。小林秀雄の言ったような意味での広い意味での常識の人ですから、国家というものを超えるものを意識している。国家のエゴイズムを押さえるとは何かを気にしている。国境観というものがある。その二つの対比を私は、ヨーロッパではなくし次には中国を意識した江戸時代の日本人はどうだったか。そして三島さんに比すべき人として、本居宣長にも国境意識がないということを取り上げてみたい。この話は続けたいと思います。

憂国忌シンポジウム(二)

 シンポジウムの発言は一人約6分、それを三回に分けて語ったので、自由討論は成り立たなかった。時間が少なく討論にはならないと私はいち早く見て、三回で全体がまとまるような話の展開にした。以下に私の発言部分だけを(二)から(七)で掲示したい。

 尚シンポジウムは全文が『月刊日本』に掲載されると聞いている。

(二)
 西尾幹二  昭和42年―43年当時、『論争ジャーナル』という月刊誌があり、ここを據点に保守系論客が結集していました。当時はまだ『諸君!』も『正論』もなく、『自由』とこの雑誌だけでした。

 その11月号で福田恆存氏が三島由紀夫氏との対談で、西欧の王室と天皇とを比較してこんなことを言っています。

 「エリザベス女王はカンタベリー大僧正によって戴冠式を行なふ。ちやんと二つに分けてある。ところが、天皇は自分で自分に戴冠しなければならない。」 

 すると三島さんが
 「それは日本の天皇の一番つらいところだよ。同時に神権政治と王権政治が一つのものになってゐるといふ形態を守るには、天皇は現代社会で人より一番つらいことをしなければならない。それを覚悟していただかなければならない。といふのが僕の天皇論だよ。皇太子にも覚悟していらっしゃるかどうかを僕は非常に言ひたいことです。」

 こう述べる三島さんに対して、福田恆存氏が、 「今の皇太子には無理ですよ。天皇も生物学などやるべきぢやないですよ。」

 三島氏が続けて 「やるべきぢやないよ。あんなものは」福田恆存氏が 「生物学など、下賎な者のやることですよ。政治家がさういふ風にしちやつたんだけど」

 三島さん 「ただ、お祭りなんだ。天皇は、お祭りなんだ」

 ここで天皇というのは昭和天皇、皇太子は今上陛下です。

 こういう対話が、昭和42年(1967)年の『論争ジャーナル』で行われた。当時この雑誌には村松剛氏、日沼倫太郎氏、高坂正堯氏、遠藤周作氏、佐伯彰一氏などが、多く寄稿しまして、私も一番若い世代として参加しておりました。

 当時の『論争ジャーナル』は、精神的に「楯の会」の母体のような位置にあり、そこで活躍していた人々の、私は最後の残党でございます。

 ここまでは本当は何を二人が言っているのかよく分からないのですが、こんな風な、活発な、赤裸々な対話が昭和42年の11月号に載っております。

 そこで福田恆存氏が、次のようにかなり手厳しいことをおっしゃっている。

 「僕にとって、問題なのは、エゴイズムの処理なんですよ。個人のエゴイズムといふのは、ときには国家の名において押さへなければならない。それなら、国家のエゴイズムといふのは何によつて押さへるかといふと、この原理は、天皇制によつては出てこないだらう。日本の国家のエゴイズムを押えへるといふことは、天皇制から出てこない。僕は、天皇制を否定するんぢやなくて、天皇制ともう一つ併存するなにかがなくちやいけない。絶対天皇制といふのは、どうもまずいんだ。(中略)天皇制の必要と、それを超える――これは優位といふ意味ぢやなくて――他の原理を立てなければならない・・・・・・」

 これは、三島さんの当時の生き方に対する、ある種のアンチテーゼとしておっしゃっている言葉だと、私は思います。つまり、国家のエゴイズムと個人のエゴイズムと、エゴイズムは両方にあるけれども、個人のエゴイズムを超えている国家というものがあって、国家がこれを抑えることはできるけれども、国家のエゴイズムは国家では超えられないと。

 私が、ここからすぐに思いついたことは、次のようなことです。

 ドイツ人、フランス人、イギリス人は自らのドイツ人であることを、フランス人であることをイギリス人であることを何とか超えることができるんです。それは、ヨーロッパというものがあるからです。だけれども、日本人は日本人であることを超えることができるか、日本の外に枠があるか。いうことは、永遠の課題として我々は考えなくてはならない。

 ここで、そういう問題が一つ突きつけられているということをまず意識していただきたい。これに対して三島さんが、どんなことをおっしゃったかというのが大変面白いのであります。

  「僕はその問題はかういふやうに考へてゐる。つまり、僕の言つてゐる天皇制といふのは、幻の南朝に忠勤を勵んでゐるので、いまの北朝ぢやないと言つたんだ。戦争が終つたと同時に北朝になつちやつた。僕は幻の南朝に忠義を尽くしてゐるので、幻の南朝とは何ぞやといふと、人にいはせれば、美的天皇制だ。戦前の八紘一宇の天皇制とは違ふ。

 それは何かといふと、没我の精神で、僕にとつては、国家的エゴイズムを掣肘するファクターだ。現在は、個人的エゴイズムの原理で国民全体が動いてゐるときに、つまり、反エゴイズムの代表として皇室はなすべきことがあるんぢやないかといふ考へですね。そして皇室はつらいだらうが、自己犠牲の見本を示すべきだ。そのためには、今の天皇にもつともつと、お勤めなさることがあるんぢやないか。

 そして、天皇といふのは、アンティ(反)なんだよ。今我々の持つてゐる心理に対するアンティ。我々の持つてゐる道徳に対するアンティ。さういつたものを天皇は代表していなければならないから、それがつまりバランスの中心になる力だといふんです。国民のエゴイズムがぐつと前に出れば、それを規制する一番の根本のファクターが、天皇だね。そのために、天皇にコントロールする能力がなければならない。

 その僕の考へが、既成右翼と違ふところだと思ふのは、天皇をあらゆる社会構造から抜き取つてしまふんです」

 ここまで読んでもやっぱり難しい、なんか分りにくいことをお二人でおっしゃっておるんですが、福田さんには、国境の観念がある、一方三島さんには、国境の観念が希薄なんじゃないか。これ、国家概念とはいわないですよ。国家観の有無じゃないですよ。国境の観念の有無と言いたいんですよ。

憂国忌シンポジウム(一)

三島由紀夫 11月25日は三島由紀夫自決から35周年目で、九段会館大ホールに800人近くが参集し、憂国忌が催された。

 最初に第一部として、舞台上で乃木神社が司る厳粛な鎮魂祭がおこなわれた。次いで国際的に有名な写真家・細江英公氏の解説付きで、スライド『薔薇刑』が映写された。天皇制や自衛隊入隊や檄文や愛国とはまったく異なる三島の世界である。裸体と「光と闇」とイタリアルネサンス。私が「三島さんには国境意識がない」とシンポジウムで語った仮説はこのスライドを見せられた直後であったせいもある。

 第二部は記念シンポジウムで、私のほかには井尻千男、入江隆則、サイデンステッカー、そして村松英子(司会兼任)の諸氏が加わる。一人6分ずつ三回話すだけの時間しか与えられなかった。

 この日の出来事については文芸評論家山崎行太郎氏ご自身のブログで上手に語ってくれているので、最初にその一部を引用させて頂く。

 

 昨日は憂国忌に出席。35周年ということで、例年と違い今年は、九段会館大ホールで鎮魂祭とシンポジウムが行われた。僕は、25周年の憂国忌以来、発起人にもなり、毎年出席している。僕にとっては、憂国忌は今や、年末が近くなる頃にやってくる年中行事のようなものになっている。保守論壇の友人や先輩達に会えるのも楽しみの一つだ。たまには未知の若い読者やフアンに遭遇することもないわけではない。(中略)

 シンポジウムでは西尾幹二さんや井尻千男さんの話も、たっぷり聞くことが出来た。西尾氏が、最近の保守に象徴されるような、他者を見失った「一国中心主義的歴史観と愛国論」を批判して、外部や他者を意識した「複眼的・相対的な歴史観と愛国論」を主張したのが印象的だった。これは、僕なりに言い換えれば、昨今の唯我独尊的な「左翼なき保守」思想批判である。つまり昨今の保守論壇や保守思想の貧困と退廃という問題である。西尾氏の保守思想・保守論壇批判に、僕は共感する。

 また入江氏が最後に、江藤淳に触れて、三島の死を「病的、衰弱」と言って批判的に嘲笑した江藤淳も、最後は三島の死の意味を理解し、それを反復せざるを得なかった形で自決・自死した、と語ったのが、江藤淳の弟子を自認する僕には印象的だった。(中略)

 二次会は神保町の中華料理屋だったが、出席者の多くが実は思想的には「反小泉」で、言い換えれば、主催者の宮崎正弘氏を中心に保守論壇の「反小泉一派」が総結集したような形で、なかなか盛況だった。帰りがけに、一昨日、西尾幹二氏から新著が届いていたのでお礼を言うと近づいて行くと、意外な話になった。「あなたに送ったあの本は、10冊の中の一冊だからね。」と言うではないか。まだ見本刷りの段階で贈ってくれたものらしい。「エッ!」というわけで驚きと共に感激したわけだが、西尾氏は実は、僕のこのブログを読んでいるらしいのだ。「小泉マンセー」ブロガーで、西尾氏のブログを荒らしまくった「ゴリ氏」一派のの話をすると、「あんなもの小さい、小さい…」と意に介していない様子だ。「それよりあなたのブログ期待しているよ」と言われて、またまた感激した次第である。

 西尾氏の新著は、『狂気の宰相で日本は大丈夫か』(PHP)というタイトルだが、徹底的な「小泉政権批判」の書である。冒頭には、産経新聞「正論」に掲載を拒否されたというエッセイをかかげ、本文は「保守論壇を叱る」という最新作から始まっている。「保守論壇」内部で孤独な戦いを続ける西尾氏の気迫がヒシヒシと伝わってくる過激な論争の書である。

前橋講演における皇室問題への言及(六)

●日本の皇室

 日本の皇室というのは神主の代表で、言ってみれば神話の系譜を継承している神主の代表でありますから、祭司やお祭りの主でございまして、外交なんて関係ないんです。従って皇室外交という言葉を作った人は罪が深いと思います。皇室に外交を求めてはいけないのです。皇室外交を期待して嫁がれたりすると、それは小和田家の雅子様の父上が誤解、誤認を与えて嫁がせたことになるのではないかと私は思います。

 皇室外交。それは存在しないのです。社交はありますけど。社交と外交は別ですから。それらのことを考えますと、それでもなお皆さんはこうおっしゃると思うのですよ。「なぜ男系でなければいけないのか。」説明がつかないではないかと現代人は言いたがりますが、天皇制度そのものの説明がつかないのではないですか。そんなことを言い出したら歴史史上のことは何でも説明がつかない。「なぜ男系でなければいけないのか」に説明はいりません。なぜ理由説明がいるのでしょうか。いらないんです。それが歴史というものなのです。歴史というものは説明を超えているものなのです。

 それからこういう人もいますね。古い時代のことなのに正確に系譜をたどれるのか。途中でいろんなことがあったじゃないか、と。血筋について正確かどうか分からないじゃないか、と。そうです。それは分かりませんと申し上げるしかない。そんなこと正確かどうか議論する必要はない。そういうものなんですよ。

 ですから過去にそういうことがあったということと、我々がそれを継承してきたということがあるだけです。それに違反する事実はひょっとしてあるかもしれないが、言い出せば切りのない屁理屈であって、疑い出せば「解釈」が生じるだけだというふうに申し上げるしかない。「解釈」は人間の数だけあり得るのです。だとしたら過去に起こったことはそのまま尊重しなければいけません。そこでそれは終わるということを意味するだけなのです。

 非常に大事なことを申し上げますが、皇室を崇拝している方にもかなりセンチメンタルな人がおられまして、皇室というファミリーが大事だと思っているのですが、歴史が大切なのです。歴史は皇室というファミリーをさえ超えているということを認識してみる必要があるのではないでしょうか。確か水戸学でもそういうことを言っていましたね。

 いろんな問題がございますが、今日私は初めてこういう意見を公的な場で自分の考えとして述べたのでございまして、実際にはまだそれほど深く勉強している訳ではないので、これからもうちょっと研究します。でも私の見通しは大変困難な今日の時代に関するものです。津波に押し寄せられる防波堤の一角が戦後ぼやぼやしているうちに破られ、本当に取り返しのつかない事態、そして左翼の憲法学者たちが何十年か後に嘲りの声を上げるのを黙って指をくわえて見ているほかないような時代を少しずつ迎えつつあるということに、皆さんの注意を向け、ちょっとギョッとする話で本日の講演をスタートさせてもらいたいと思った訳であります。

(追記)なお、これで終わらず『正論』4月号の私の詳しい皇室論を読んでください。同論は5月刊行予定の新刊『民族への責任』(徳間書店)にも入っています。

前橋講演における皇室問題への言及(五)

●皇室の婚姻

 しかしはっきり言って、戦後60年放置していた、そして必ず皇子様がお生まれになるだろうと何となくみんなそれを期待してきました。私は宮家の問題に関しましては、今の陛下が美智子皇后様、つまり民間人と結婚なされたときには旧宮家の中で憤慨の声を上げていたのをテレビで覚えていますよ。当時。ところが皇太子殿下がハーバード大出、東大出の学歴エリートと結婚なされたときには、すべての旧宮家、旧華族は寂として声なく、結構でございますということでした。もう時間がたって、諦めてしまったのだと思います。

 天皇制度というのは、みなさん、民主社会の持っている日本の競争原理から離れているものではないでしょうか。競争社会、近代社会で出世して戦って、そういう競争原理から遠いところにあるのが天皇家だと思うんですね。地位は隔絶したものだと思うのですよ。ところが、東京大出、ハーバード大出の学歴エリートというのは言ってみれば近代競争社会の頂点を形成するもので、そうした方と婚姻が行われたというときにですね、すでに危機が胚胎したと私には思えてなりません。

 つまり天皇家自身が万世一系の天皇制度を無力にする皇位継承を繰り返されているのではないのか。それをお諌めるものもおられませんでした。園遊会で日の丸、君が代普及への努力を進言する者がおられた時に、陛下が即座にネガティブな反応をなさったご発言をニュースで知って、ああ何か恐れておられるものがある、陛下は何かをこわがっておられるという胸が痛む思いが致しました。つまり陛下のご意思がそういうものであるならば、もはや我々の手に負えるものではないが、しかしながら聞くところ陛下は女帝でいいと必ずしもおっしゃっていないという話でございます。何か期待するものがあるようなことをおっしゃっているという風にも伺っております。詳しいことは分りませんが。

 いずれにしましても、この問題を長くお話しても私にも専門でないのでどんどん動いていくこの時代が怖いものですから、その象徴的な一例としてこの国が津波に脅かされてあっという間にこの危険な時代にたちいたってしまうのではないかという不安を申し上げる上で、皇位継承のテーマがその不安の最初の表現なのでございます。

 皆さんはきっとそこまで考えなくていいのではないかと仰言るでしょう。イギリスやヨーロッパの王室を見たらいいじゃないかと、こう新聞は書きますよね。そういう意見は圧倒的に多い。ところが、日本の皇室とヨーロッパの王制とは違いまして、古代から連綿と続いている王家は日本しかないですよね。それ以外は中世末からですから。もう一つ大事なことはイギリスの王室、オランダの王室、スウェーデンの王室はみな相互に婚姻を重ねます。国民は国境を画していましたが、王家だけは国境を越えて昔から自由に婚姻関係を結んでいるのはごらんの通りでございます。それに対して、日本の皇室が外国人を迎えるということは考えられません。

 それは日本が島国で閉鎖しているからでしょうか?そうではない。ヨーロッパの王家は日本の旧大名と思えば分りやすいのです。旧大名は互い藩を超えて婚姻を結び合い、それから改易されて城替えがよくありましたよね。例えば、熊本城は加藤清正の城でしたが、細川家に改易されたとか。そういうことであり、それからお興入れも国境を越えて自由に行われた。ちょうどヨーロッパ全体と日本列島というのがパラレルであると考えると分り易い。日本をイギリス、オランダ、スウェーデン、スペインという国と一つ一つパラレルと考えるのではなくて、ヨーロッパ全体と日本が一つだとこういう風に考える。歴史的にそういうことが言えます。

 そういう風に考えれば、法王というのが向こうにいましたが、日本の天皇というのは法王のような役割を一方では果している訳でございます。政治権力は別の者が権威を握るというのが日本の天皇制度ですから、法王みたいなものです。もっとも法王はヨーロッパではすごい権力を持っていましたけどね。ですからそういう風に考えますと、どうもイギリスの王室がどうだとか、オランダの王室がどうだとか比較に出すのは」当を得ていない。

前橋講演における皇室問題への言及(四)

●30年後を憂慮する

 そんなことを考えますと、万世一系の天皇制度が危いところに来ているということが今分ります。このことを非常にいろんな方が言い出しています。高崎経済大学の八木秀次氏、若い憲法学者が言い出していますし、小堀桂一郎氏やその他いろんな方が発言なさっておるのですが、私が実はこのことで心を痛め始めたのは左翼の論客が、マルクス主義の憲法学者がこのことに気が付いていることです。

 すでに私は論文を二つ三つ読んでいます。憲法学者は圧倒的に左翼の人が多い。保守の憲法学者というのは本当に数えるほどしかいないのです。保守系の思想家というのは概して文学者が多いのですよ。私みたいに。ですから気が付かないですね。普通の人は皇室典範を読みませんし、あまりそういうことを日常的に考えませんから。

 こういう時局になってみて初めて法律学者が役割を果たすべき時ですが、その時ちゃんと敵には凄い法律学者がいるのです。共産党系の憲法学者が「万世一系の天皇は男系であって、もし女帝ままでいけば30年後はしめたものだ」ということを何となく臭わせるようなことを言っている訳ですよ。「しめた」という言葉は使っていませんけども。

 つまり、天皇制をなくそうと思っている勢力にとって、時期が到来したと。これはなし崩しにこのままいってしまったら、みんな国民は深く考えないから「女性天皇万歳」と言っているうちに30年たち、天皇否定論者が一斉に「ああ今の天皇制度はもはや歴史上のものではない。万世一系とは言いがたい。形骸化している、にせものだ」という批判を必ず言い出すに決まっています。

 その時、保守側が守ると思ったって、もう間に合わない。守ろうと思ったって打つ手がない訳ですよ。それらのことを知っている学者、あるいは宮内庁の長官をなさっていた方や皇室関係の学問を積んでいる人や古代史に通じている人が日本にはいっぱいいますが、政府の今の懇話会の中には入っていないのですよ。

 ですから「30年後を憂慮する」というのが、私が今一番考えている不安です。しかし非常にこれは難しい問題だということです。理由を申しますと、宮家は4つしか残っていなくて、ご承知のように大正天皇には男子のお子様がおられます。昭和天皇以下、秩父宮、高松宮、三笠宮でございますが、秩父宮、高松宮家にはお子さまはなく、三笠宮は今の世代のあと、女のお子さんがおられるだけです。それ以前の天皇、明治天皇のお子様はみな内親王であられる。そうしますと、男系というのを遡ると、江戸時代に遡らないと見つからないということになる。

 つまり江戸時代に確立していた宮家をGHQが廃絶してしまいました。その宮家に復活していただかないと、男系はたぶん得がたいということになる。歴史を見ると、そういう風に思い切って幾代も遡ったことはいっぱいあります。7代ぐらい前に天皇家の血筋を遡るということに国民の理解が得られるか、という問題がもう一つありますね。いち早くそこまで気が付いた政府側は「国民の理解が得られる範囲で」ということで「女帝よし」としようと、押し切ろうとしているのではないかと。私が今述べたみたいなことは気が付かないはずはない。気が付いてあえて、ということではないでしょうか。

 さあ、僕は非常に不安です。というのは、方法としては宮家を復活して江戸時代につらなる旧宮家であろうとも皇統、男子系統の皇統の方々で「皇室に戻ってもいい」という方々を秩父宮家や高松宮家の養子に迎えて、そしてその方と最も皇統に近い秋篠宮の内親王様や雅子様の内親王様などに結ばれていただくというような、直系とそれから今の天皇家のファミリーの血のつながりとのバランスというのを考えるしかない。

 しかし、そういうことまでを画策してテニスの恋の物語とか、そういう物語を作らないと国民が納得しない時代ですから、うまくいくかなあ、遅すぎないかなあと、私は強硬な原理論を唱える人に対しては果してうまくいくものかなぁという不安を申し上げる。しかし、また、安易な女性肯定論を言う人には「いや30年後が怖いよ。これは天皇制がなし崩し的になくなるということを意味するのだからね」と言わざるを得ない。非常に難しい問題です。