『西尾幹二全集 第十一巻自由の悲劇』(その二)

目 次

序に代えて ほら吹き男爵の死

Ⅰ 1989年
世界史の急転回と日本

Ⅱ 1789年
フランス革命観の訂正
侃侃諤諤、フランスの「自由」
勝利した「自由」こそ最大の悲劇

Ⅲ 共産主義の終焉
共産主義とは何だったのか
歴史の失敗と思想の失敗――東大五月祭での廣松渉氏との公開討論
ゴルバチョフが鄧小平になる日
ロシア革命、この大いなる無駄の罪と罰
ソ連消滅 ! 動きだす世界再編成と日本
動き出す世界再編成と日本
日本よ、孤立を恐れるな
フランス革命から天安門広場の流血へ
対中国外交をめぐる私の発言
天安門事件の直後に――日本の慎重外交に利あり
いまは天皇訪中の時期ではない
1970年代に見え始めていたイデオロギーの黄昏
小国はつねに正義か――小田実の論理破綻
不惑考――私が四十歳の頃

Ⅳ「再統一」に向かうドイツ人の不安な足踏み
1989年12月における私の見通し
ドイツ統一は今や時の勢い
消えてなくなるはずのない東独人の東独愛国主義
統一ドイツの十字架
旧共産圏の人々のGefühlsstau(感情のとどこおり)
ギュンター・グラスと大江健三郎の錯覚

Ⅴ 自由の悲劇
第一章 自由の衝撃
第二章 自由の混沌(カオス)
第三章 自由の教義(ドグマ)
第四章 自由の砂漠
第五章 自由の悲劇

Ⅵ 自らを省みて
政治家の顔
試される日本
日本人のなけなしの自我合意社会日本の落し穴
欧米の傲慢は外交を考える前提である
アングロサクソンの後始末をしている地球
ポール・ケネディ『大陸の興亡』を読む
空漠たる青年たち――「左翼のニーチェ主義化」(アラン・ブルーム)
教養の無力を知った時代

Ⅶ 難民時代と労働力
当節言論人の「自己」不在――猪口邦子氏と大沼保昭氏と
日本を米国型「多民族国家」にするな――石川好君、皮膚感覚で語る勿れ
人手不足は健全経済の証拠
外国人単純労働者受け入れは国を滅ぼす
受け入れ是非に米国の干渉を許すな――「ニューズウィーク」批判
外国人技能実習と指紋押捺全廃の問題点
元シンガポール大使に苦言を呈する

Ⅷ「労働鎖国」のすすめ(1989年)
第一章 労働者受け入れはヒューマニズムにならない
第二章 世界は「鎖国」に向かっている
第三章 知識人の「国際化コンプレックス」の愚かさ
第四章 日本は二十五億のアジアに呑み込まれる恐れがある
第五章  労働鎖国」で日本を守れ
あとがき
私の最後の警告――文庫版まえがき(1992年)

Ⅸ 新稿四篇
自民党「移民1〇〇〇万人」受け入れ案のイデオロギー(2008年)
外国人地方参政権 世界全図――中でもオランダとドイツの惨状(2010年)
中国人に対する「労働鎖国」のすすめ(2013年)
トークライブ「日本を移民国家にしていいのか」における私の発言(2014年)

追補
孤軍奮闘の人              長谷川三千子
『「労働鎖国」のすすめ』について       西部 邁 

後記

『西尾幹二全集 第十一巻自由の悲劇』(その一)

宮崎正弘氏のメルマガより

共産主義は大間違いの思想という根源を問う
  なぜ西側に共産主義残党が生き残り、マスコミは彼らを支持するのか?

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 かねてから不思議でならないのは、冷戦で西側が勝利したはずなのに、なぜ共産主義の残滓である中国が大国として躍進し、ソ連崩壊後のロシアが帝国主義の道を歩み、国際政治で巨きな発言力を維持しているのかということである。

 冷戦に勝利した筈の自由陣営に、なぜいまも共産主義を礼賛し、日本を貶めることに熱狂する左翼が残ることが出来たのだろうか不思議でならない。自由、民主の側の怠慢なのだろうか。

 いや、「自由」とはいったい何かの根源の哲学を問われているのではないのか。

 本巻で西尾幹二氏は、縦横無尽にこの難題に挑み、多角的に論じている。過去の作品のなかから「自由の悲劇」「労働鎖国のすすめ」「日本の不安」「日本の孤独」「たちすくむ日本」の五冊を基軸に編集されたもので、重厚な思想の書でもある。

 まず「ソ連型共産主義はまちがっていた」とする左翼人も、「マルクス主義は間違っていない」として、「これからの社会主義運動はマルクスの原典に立脚すべき」と言い出しかねない手合いがまだ日本にはごまんといて社会を攪乱している。

 西尾氏はこう書き出される。

 「日本では左翼と呼ばれる言論人も左翼政党も、ソ連型共産主義は否定してきた。しかし悪いのはスターリンであって、共産主義思想ではないと言い張っていた。歴史は失敗したが思想は失敗していない。じつはそういう言い遁れは二十年も前から準備されていた。『新左翼』と呼ばれた運動がそれである」。

 かれらは環境問題、南北格差、そして人権問題に潜入し、いまは沖縄や反原発にぞろぞろと蝟集し、時代遅れの主張をがなり立てて、それなりの付和雷同組を集めているし、左翼マスコミがまだ支援しているから始末に負えない。テレビ討論には聞くに堪えない言説をはくブンカジンがまだ大手を振って出演している。

 近未来に関して、西尾氏はかく予測されていた。
 

「共産主義体制の崩壊の後に、次第にはっきりと浮かび上がってくると予想される世界は、近代ヨーロッパの価値観が到るところで普遍と見なされる平板な世界ではなく、宗教、言語、人種、歴史の異質性が相互に主張され、相克しあう世界であろう。人類はイデオロギーの対立を克服し得ても、人種問題や宗教的信条から血を血で洗う葛藤を永遠に克服することはできないかもしれない」

「世界の新しい対立の構図はこのあたりから形成される可能性もある」

とした冷戦終結直後の氏の予想は、じつに正確に当たっている。

 ISILのテロ、旧ユーゴスラビアの地を血で洗う内戦、いまシリアでイエーメンで、そこら中で宗教対立、人種対立の紛争がつづいている。

 そして中国の近未来に関して次のように言われる。

 「暴力によって獲得した権力は、暴力によってしか維持できない。流血の惨劇に出会った人には気の毒だが、(天安門)事件はまことに単純きわまりない性格をもつ。中国もまた暴力革命を建国の起点にもつ国だ。中国がいまのソ連と同じように、中心の権力を死守するために、周辺の防衛戦を後退させる必要に迫られたとしたなら、やはり、周辺の国々の思惑など気にせず、好き勝手に行動するだろうから、東欧と同じような混乱と流血が起こるだろう。また逆にソ連が自分の経済や政治のシステムをなんとか能率的に切り替えようと努力しても、変えようのない宿痾を抱えているため、ある限界を超え、内乱状態が生じ」

るだろう、と不気味な中国とロシアの近未来を予測する。

 本巻では西尾氏が「共産主義の敗北をみとめず欺瞞的議論」を撒き散らす左翼の論客を次々と痛烈に批判している。
俎上にのせられたのは加藤周一、大江健三郎、小田実をはじめ、一見保守とみられる堺屋太一、大前研一、舛添要一らを切り、猪口邦子は「単純なおばかさん」、石川好は「無頼派を意気がっているひとに過ぎない」と一刀両断、大沼保昭、木村尚三郎、高畠通敏には「気味の悪さ」を感じたと言われる。さらに立花隆、加藤典洋、内田樹、加藤陽子、中島岳志、保阪正康、香山リカらは「加藤周一らの後続部隊」とみる。

 それにしても批判するからには、こういうオバかさんたちの著作を読まなければならないだろうが、西尾氏はじつに丹念に左翼陣営の著作を読み込んだ上で批判しているのである。根気強い人である。

 評者など、二、三ページ読んで当該書物を投げだした人たちで、丸山真男は『正真正銘の馬鹿』であり、読んでみて左まきのアホと判断してあとは立花も内田も保阪も、まるで読まない。ほかの人は中嶋岳志をのぞいて、名前も知らないし、読む時間が無駄と思われるような「論客」には付き合っている時間がもったいないと考えているから西尾氏の苦労は並大抵ではないだろうと推察するのである。

 いずれにしても、本書の基幹は共産主義が大間違いの思想という哲学的根源を問うものであり、冷戦に勝利したはずなのに、なぜ西側に共産主義残党が生き残り、マスコミは彼らを支持するのか? 

 この謎に思想的に重層的に挑戦した巻となっていて、ぎっしりと読み応えがある。
   

書評:昭和天皇 七つの謎 

書評:昭和天皇 七つの謎 加藤康男著(ワック・1600円+税)

評論家 西尾幹二

きわどい皇室の歴史に肉薄

 皇室の中心部、すなわち天皇の側近に国民の常識とかけ離れた異質な集団が入りこんだら恐ろしいことが起こる。ことに非常時においては国家の運命を左右しかねない。私はそういう不安をずっと抱いているが、本書の「七つの謎」のうち最重要の第3章「天皇周辺の赤いユダ」、第7章「皇居から聞こえる賛美歌」は戦中戦後に皇室を現実に襲った事件を論じ、日本民族を本当に危うくしたきわどい歴史に肉薄している。

 近衛内閣は支那事変の不拡大方針を表明していたがどうしても実行できなかった。軍の中枢に共産主義者がいて、計画的に支那事変を拡大し、日米戦争までもっていって日本を破壊し、敗戦後の共産革命を一挙に果たすと計画していたらどうなるか。関東軍司令官の梅津美治郎にその疑いがあった。近衛文麿の身辺にマルクス主義者を配置したのは彼である。近衛はゾルゲ・尾崎グループの謀略に乗せられたことに時を経て気づき、不明を恥じるが、終戦の決断を急ぐように陛下に上奏(じょうそう)した際、和紙8枚を陛下側近の木戸幸一に渡した。その日のうちに梅津の手に渡り、2ヶ月後に吉田茂以下の和平工作派が逮捕された。

 木戸幸一は「赤いユダ」の中心人物だった。ソ連との和平交渉役に木戸は身内の都留重人を立てた。都留はハーバート・ノーマンらと組んで戦後日本の共産化を企てた学者だ。「天皇の知らないところで木戸は共産主義者と手を結び、近衛を陥れた」

 皇室が危うくなったもう一つのドラマは戦後のキリスト教への改宗の危機である。宮内庁長官、幹部、侍従職、女官まで含め、皇室とその主だった周辺はクリスチャンだった。天皇はもとより皇居や各宮家も聖書研究会を催し、キリスト教に感化された。「マッカーサーの戦略」は着々と進んでいた。

 共産主義とキリスト教は根が一つで、民俗信仰の独自性を大切にする皇室の伝統とは相いれない。著者は通説を疑い、批判し、そこから先は言えないぎりぎりまで推理し、誰も書かなかった歴史の闇を切り拓(ひら)くことに成功した。

産経新聞6月7日 読書 この本と出会った より

 この書評はわずか800字という制約があったので、同書の主張の中の最も重要なポイントの一つを私は取り上げることができなかった。それはさきごろ刊行された『昭和天皇実録』への加藤氏の疑問である。

 加藤氏は『実録』をよく調べておられる。昭和天皇の事績の中で、当然記されるべきことが『実録』には記されてなかったり、詳しく書かれるべきことが略記されたりしている例を多数発見している。実録と称して実録ではないのではないか。人を欺く一面がありはしないか。

 あまりにも早く編纂刊行された『実録』にはある種の政治的動機が潜んでいはしないか。私は氏の疑問を正当な批判であると感じた。

 上記書評では言及できなかったので、読者の皆さんは同署の、とくに最終章に注目して読んでいただきたい。大変に重要な氏の洞察であると私は思う。

中国、この腐肉に群がるハイエナ(五)

 さしあたり大動乱が起こる兆しはもちろんまだない。AIIBにしても、世界銀行やIMFやアジア開発銀行と最初協調しようとするだろうし、日本やアメリカも監視役として内部にはいったほうがむしろいい、という声にも一理あり、六月末にもそうなるのかもしれない。それは政策論上の議論であって、思想の問題ではない。

 アメリカは外からであれ内からであれ、自分の望ましい方向にAIIBを変えて行くであろうし、アメリカがやらなければ日本が率先してそれをやらなくてはいけない。両国の参加または監視は、明白な意図を持つ中国の帝国主義的野望にとって必ずや邪魔になるだろう。中国が知的財産権無視、非法治主義、人権問題を改善せずに、この侭プレゼンスを高めていくことは許せないという気運は、共和党優位の米議会の大勢を占めるようになるであろう。近頃ではキッシンジャーやブレジンスキーのような反日親中の指導者たちですら中国非難の声を挙げるようになってきている。

 半世紀先は分からないが、経済の世界ではさし当たり十年はアメリカが独り勝ちで、中国は下降線を辿るばかりであると考えられている。中国経済はもう成長できないと見込まれている。国内が右にも左にも行かなくなっているのにグローバルに風呂敷を広げてもうまく行くはずはない。まずは内需を高め、消費を増やす方向に行かなくてはならないのに、いきなり海外展開、それも中国の自己都合で展開しようというのだから、外国との摩擦が生じ、国内経済にもマイナスに働くだろう。すでにミャンマーやスリランカやアフリカ諸国から、中国不評判の現地との摩擦はすでに多数報道されている。アメリカは必ずや大がかりな中国封じ込め政策――9・11同時多発テロ以前には手をつけていた――を再開するだろう。大統領選挙の行方も勿論これに大いに関係してくる。

 ただアメリカ民主党は過去において共産主義を理解し許容した兇状持ちである。このことに一言触れておきたい。

 中国に毛沢東政権を作るに任せたのは後に国務長官になったマーシャル将軍だった。毛沢東は確信的共産主義者ではなく、民衆のために働く「農地改革者」だという甘い触れ込みをアメリカに流布し、信じさせた。毛沢東によって中華人民共和国が成立したのを黙認していた早くも翌年に、中共軍が朝鮮半島に侵攻し、朝鮮動乱となって交戦を余儀なくされたのは、たしかにアメリカの手痛い誤算だったことは間違いない。けれどもそれを誤算だったと声を大にして、マーシャルの非を唱える人はほとんどいない。戦後の初期になぜ中国を共産主義者に譲り渡したのか、今日問われるべき価値のある重大な問いは、その後も久しく、そして今もなお、アメリカでは伏せられている。容共的進歩主義をムード的に歓迎するリベラリズムへの傾斜は日本だけでなく、アメリカをも席捲しているのである。それゆえ、AIIBの見え透いた虚偽は分かっていても、現代中国封じ込め政策が断固として行われるかどうかにはまだ疑問の余地がある。

 以上のような次第で、世界どこを見ても暗雲の晴れる場所はなく、各国迷走しているようにみえ、それがまたモンスターには絶好の機会を与えることになるが、大きなカネが動きそうな処にハイエナのように群がる国々を尻目に、日本はたとえ孤独でも、アメリカを主導して法治主義を知らない国の闇を取り払わなければなるまい。なぜなら戦前においてすでに共産主義の危険を知り尽くし、甘い迷妄からの脱却を国家方針として確立していたのはアメリカではなく、わが国であったからである。


「正論」6月号より

中国、この腐肉に群がるハイエナ(四)

 私はかつて、アメリカは超大国らしい振る舞いをしないのにまだ超大国のつもりでいて、行動と意識がずれていると書いたことがある(本誌平成二十六年五月号)。ウクライナの件でも、今度のAIIBの件でも、アメリカの失政が困難を招いている。最初ウクライナの反ロシアデモをアメリカが強力に支援したことがロシアの不安と不満を引き起こし、争乱になった。アメリカは資金と技術を中国に与え、長期にわたる元安政策を支え金満大国を作り上げておきながら、世界銀行やIMFやアジア開発銀行で力にふさわしい役割をこの国に与えなかった。アジアのインフラ開発の必要度が今や非常に高まっている時であるのにである。中国はうまくタイミングを掴んだといえる。諸国に広がるアメリカの高姿勢と不決断への不満をかき集めることに成功した。

 アメリカの失政というより、オバマの失敗である。シリアの開戦処理に彼が逡巡して、稚拙な残虐を誇示する「イスラム国」というテロ集団を引き出してしまい、制禦できずにいるのも、オバマの気質的無能に端を発している。加えて同盟国のヨーロッパ諸国の反アメリカ感情をまで呼び出してしまった。ロンドン・シティの新たな行動はわけても厄介である。

 超大国アメリカの衰弱とよくいわれる現象が背後にあるともみられるが、しかし別の目で見ると、そこには不気味な混沌、地球全体をいま揺さぶっている精神的無秩序の次第に大きくなる暗い広がりも感じられる。それはアメリカだけが原因ではない。経済のグローバル化、無制限に移動する資本、IT技術が可能にする巨大化した目に見えない金融の闇。国家を超える有効な機関が存在しない現代世界の無政府的状態は、中世末期の個人同士と同じように、国家と国家とが互いに対立し合い、相互に恐怖を感じ合う状態に近づいている。同盟を組んだり、毀したり、また新たに組んだり、そのうち大きなパワーとパワーが衝突することにもなるだろう。

 もともと近代とはイギリスの世紀のことであった。スペインが開いてイギリスが受け継ぎ、オランダ、フランスを圧倒して、アメリカに引き渡したのが近代史の大筋だ。そのイギリスの中核をなす王室は海賊と手を組んでいた。貧しい二流国家だったテューダー朝がスペインを破り、オランダに追い迫る過程で、カリブ海の奴隷貿易による利益が国運を決める役割において決定的だった。肝要な点はエリザベス女王が海賊の取引に最初から深く関与していたことだった。金銀満載の南米帰りの外国船を襲撃、掠奪してイギリス財政がささえられたので、女王はこの件でもつねに投資団の先頭に立って旗を振った。

 そういう時代だったといえばそれまでだが、第一次大戦まで地球を支配した英海軍による制海権なるものが、海賊の侠気と智謀と背徳に起源を発していたことはいくら強調してもし過ぎることはないだろう。

 追いつめられた野獣は何をするか分からない。私は、歴史はいま五百年前に戻りつつあるような気がしている。国家と国家が互いに恐怖を抱き始めている。地球上をほぼ隅なく劫略したのはイギリスだったことを忘れてはならない。そしてスパイと金融という得意分野はまた中国の得意分野でもあるのだ。

 一九九五年海部元首相が中国で江沢民主席と会ったときのことである。中国の核実験に日米ともに反対だと言ったら江沢民は、核兵器はアメリカが世界一だ。そういう国が反対だというのは「州の官吏は放火してもいいが、百姓は電灯もつけてはならないということか」とアメリカの言い分に食ってかかった。面白い喩え話ではある。海部氏は「それなら日本が電灯を点けても貴方は文句を言いませんね」とひとこと言い返せば見事なのに、彼にそんな度胸もないし、ユーモアもない。ひたすらへりくだって唯一の被爆国の悲願とか何とか言い「ぜひ中国は懐の深さを示してもらいたい」と言うばかりであった、と当時の新聞が伝えている。

 江沢民の心意気は私には分からぬではない。欧米に包囲され追い込まれた昔の日本の苦境を思い出させるからである。彼の意気盛んで己を恃む態度は、ワシントン会議から開戦までの日本に一脈通じているように思える。そして私は、中国はこのまま侭いけばいつかアメリカと正面衝突するな、とそのとき思った。 

 いまの世界には中心点がなく、ばら撒かれているいくつもの力点が揺れ動き、衝突し合っている。どの国も成算がなく、予測が立たなくなっている。

つづく
「正論」6月号より

中国、この腐肉に群がるハイエナ(三)

 ロシアに猛威を感じても中国には感じないヨーロッパ諸国は、他方では強過ぎるドルを抑えこみたいという一貫した政策を持ちつづけている。そもそもEUの成立が、ひところ世界のGDPの四割を占めた日米経済同盟に対する危機感に発していた。湾岸戦争もドルに対するユーロの挑戦という一面があった。ギリシアの混乱以降、ユーロが基軸通貨としてドルへの対抗力とはなり得ないことが判明して、他に頼るべき術もなく、人民元を利用しようとなったのだ。ルーブルを強くするのはヨーロッパにとっては不利だが、人民元なら怖くない。それに日本がアジアへの投資において、日本が得意の総合総社のパワーで自由自在であるのを見て、ヨーロッパ諸国は、元植民地支配者の流儀が今や通用せず、すっかり立ち遅れているので、中国の申し出は渡りに舟でもあった。

 中国の力を味方につけて中露分断を図り、ロシアの力を少しでも抑止したいのがヨーロッパの政治的欲求であることはすでに述べた。遠い国と結んで近い国を抑えるのは古代の昔から不易の法則で、安倍政権がロシアへの接近を企てているのも――ウクライナ紛争でいま中断しているが――、北方領土のせいだけでなく、中国を牽制したいと考えるからであろう。アメリカにこの点を理解させるのが日本外交の要点である。いま経済的にロシアは困窮している。積年の問題を解決するチャンスではないか。北朝鮮にロシアが力を貸し始めているので、拉致の問題でも突破口となる可能性はある。ロシアと敵対しているアメリカをどう説き伏せるかに成否はかかっていよう。

 ヨーロッパは経済的に日米から、政治的にロシアからずっと久しく圧力を感じつづけていて、そこからどう自由になるかが政策のモチーフとなり勝ちである。AIIBへの彼らの参加はそう考えると分かり易い。日米ほどに抵抗がない理由はここにあると思うが、しかしそれなら共産主義の解消の問題、「ベルリンの壁」がまだアジアでは存続しているあの歴史への責任問題をヨーロッパではどう考えているのか、という疑念が強く浮かび上がってくる。とりわけイギリスが率先して加盟に動いた事実は日本人にとって、ことに保守層の日本人にとって小さくない衝撃であった。明治以来イギリスがヨーロッパ文明の代表である時代はずっとつづいていた。今でもまだその基調は変わっていないと思われてきた。しかし何か変だ、と今度初めて感じる人も出てきたと思う。

 私見では、イギリスは国際情報力と金融業以外になにもない、生産力を失った弱い国になったことに真因があると思われる。イギリスは追い詰められている。スコットランドにあわや逃げられかかったあの一件が象徴的である。もし国民投票が通っていたら、国名もイングランドとなり、国連の今の地位も失って、二流国に転落したであろう。

 イギリスとアメリカはつねに利喜の一致する兄弟国ではなかった。一九三九年まで日本政府も「英米可分」と判断していた。しかし第一次大戦で疲弊したイギリスは、その頃も何かにつけアメリカを楯に利用するしかなく、第二次大戦にアメリカを誘い込むために謀略の限りを尽くしたことはよく知られている。この知謀の国はまた何かを企んでいる。

 国際金融の世界では「タックスヘイブン」とか「オフショア」とかいう巨額脱税の一種の・いかさま・が実在していることはよく知られていよう。アメリカはそれを解消しようとしたが、表向きで、一部の州で企業に有利な法体系や特定の人への税の優遇措置が認められている。アメリカはそれでも不公正な闇に批判的ではあるのだが、イギリスはそうではない。国家ぐるみの大規模なアングラ・マネー隠しの構造を死守しようとしてきた。金融立国イギリスの中心地シティがその役割を果たす場所である。
 
 「世界のマネーストック(通貨残高)」の半分はオフショアを経由している」とか、「外国直接投資総額の約三〇%がタックスヘイブンを経由している」とか、そういう証言を読む度にただただ驚かされるが、ヴァージン島とかキプロスとかケイマン諸島といった地名も近年では新聞紙上に瀕出するようになった。そのいわばグローバル金融のハブがロンドンのシティなのである。シティは二〇〇八年のデータで、国際的な株式取引の半分、ユーロ債取引の七〇%、国際的な新規株式公開の五五%を占めている、等の記述を関連文書の中に見ると、世界の経済がどこで誰によってどのように動かされているのか、私ごときには謎が深まるばかりで、じつに息苦しい。

 冷戦体制下に繁栄をきわめていたタックスヘイブンの運営は、国際的な反対運動の力もあって次第に難しくなり、富裕層が頼みとするスイスの金融業が批判にさらされ一部危うくなった等のニュースは私もたびたび耳にする。シティもまたオフショア金融センターとしての機能を次第に失いつつあるといわれる。ただしシティはイギリスにとっては「国家の中のもう一つの国家」といわわれるほど大きな存在で、自治区として中世以来の特権的立場を認められ、なにびとも指を触れることのできないイギリス財政の聖域であった。これが危殆に瀕していることはこの国の生存に関わるであろう。何とかしたいというのがイギリス政治の必死の思いであることは分からぬではない。

 けれども、イギリス金融業界が目をつけたのがこともあろうに中国との連携であったのはただの驚きではすまないように思える。シティは人民元取引のセンターとなることにより、凋落しかけたその立場を復活させようというのが狙いであろうが、これはドル基軸通貨体制への挑戦であろう。ブレトンウッズ体制を覆す引き金にならないとも限らないではないか。アメリカが衝撃を受けたのは余りにも当然である。しかもキャメロン首相率いる保守党政権が企てたのだ。

 アメリカと対決する中国がなり振りかまわずイギリスを必要とするのは当然であるが、イギリスが腐敗して崩れかけたモンスター国家に飛びつくのは理解できない。そこまでこの国は追い込まれ、零落したのだろうか。それとも中国の明日にも知れぬ経済破綻についての情報が届いていないのだろうか。というよりここ数年ではなく国家百年の計に賭けた歴史的取り組みだというのだろうか。人口十三億は二百年来の世界貿易の垂涎の時だったが、やはりそういうことだろうか。
 それにしても、と私は言いたい。イギリスはじめ西欧諸国はナチスの全体主義と闘い、戦後はソ連のスターリ二ズムに耐え抜いて、やっと「近代的自由」を手に入れたはずだった。習近平が何を企てているかが見えてないはずはあるまい。歴史に逆行するこの見境いのない選択は、余りといえば余りのヨーロッパ人の倫理的気質の喪失でなくて何であろう。

つづく
「正論」6月号より

中国、この腐肉に群がるハイエナ(二)

 ヨーロッパから見るとロシアも中国も東方にあるが、脅威を受けて来たのはロシアで、中国は久しく哀れで無力な国であり、いま力をつけて来たからといっても、ヨーロッパには直接危害の及ばない政治的に無関係な国である。じつは昔から、大戦前からそうだった。イギリスやアメリカが日本の大陸政策にあゝだこうだと難癖をつけて来た戦前のある時期を思い起こして欲しい。イギリスは例えば満州の実態を何も知らないで、国際連盟の名において、満州の治安には正規軍を用いず憲兵で当たれ、というような要求をしてきた。大陸は軍閥の内戦下にあった。千々に乱れていたその治安をどうやって憲兵だけで守れるであろう。日本政府は呆れてものが言えなかった。国際連盟を相手にせず、の気持になるのはきわめて自然な成り行きだったのだ。

 こんな風に遠いアジアのことには無理解で、しかも植民帝国としてさんざん利益を吸い上げた揚げ句、危いとなったらさっさと逃げて行く。それがヨーロッパやアメリカのしたことだった。政治的負担を背負うのはつねに日本だった。今また同じようなことが始まっている。

 中国主導によるアジアインフラ投資銀行(AIIB)に英国を先頭に仏独伊などヨーロッパ代表国の参加意思が表明され、世界57カ国にその輪が広がり、日米両国が参加しなかったことが世界にも、またわが国内にも、少なからぬ衝撃を与えたように見受けられる。中国による先進七カ国(G7)の分断は表向き功を奏し、アメリカの力の衰退と日本の自動的な「従米」が情けないと騒ぎ立てる向きもある。

 しかし中国政府の肚のうちは今や完全に見透かされてもいるのである。これまで中国のGDPを押し上げる目的で用いられた産業は不動産業だった。今や不動産はバブルとなって、次の時代の何らかの高付加価値の新産業の創出が課題となっているが、残念ながらそれは見当っていない。自動車販売は中国市場が世界一である。けれども平均して民衆の所得水準が上がるにつれて中国車は売れなくなった。価格は安いが故障が多く、先進国との技術の差は埋められないどころか、ここへきて一段と引き離されているのが実態であると聞く。

 中国が改革解放の時代を迎えた三十年ほど前、道路、鉄道、そして不動産に向かったのは、格別の独自技術の開発を必要とせず、先進国からの技術移転と模倣、そして得意の人海戦術で、一息にGDPの拡大を図ることが出来ると見たからであろう。事実それは成功し、GDP世界二位を豪語するに至っているが、しかしこの先どうなるのであろう。中国は過去三十年間の国力上昇時代に重大なチャンスを逸したのではないか。発展する国は必ず次の時代を予告する技術革新をなし遂げているものである。中国にはそれがなかった。移転と模倣にはもう限りがある。これからの労働力減少に備えてはロボット技術の発展が不可欠だといわれるが、中国の水準はあまりに低すぎる。

 であるならいまこの国が考える政治的経済的戦略構想が、自分の国の外への、自分の国をとり巻く地域へのインフラ投資となるのは理の当然であろう。道路、鉄道、港湾、ビル建設を外へ広げる。今までやって来てうまく行った方策を海外展開する。それ以外にもう生きる道がない。中国は鉄鋼、セメント、建材、石油製品などの生産過剰で、巷に失業者が溢れ、国内だけでは経済はもう回らないことは自他ともに知られている。粗鋼一トンが卵一個の値段にしかならないとも聞いた。

 加えてこの計画には人民元の国際通貨化、ドル基軸通貨体制を揺さぶろうとする年来の思惑が秘められている。南シナ海、中東、中央アジアの軍事的要衝を押さえようとする中国らしい露骨な拡張への布石も打たれている。こんなことは世界中の人にすべてお見通しのはずだ。

 さらに、他国は知っているかどうかは不明だが、日本でさかんに言われているのは中国はじつは資金不足だという点である。この国の外貨準備高は二〇一四年に約四兆ドル(約四八〇兆円)近くに達しているが、以後急速に減少しているとみられている。中国の規律委員会の公認として一兆ドル余は腐敗幹部によって海外に持ち出されているとされているが、三兆七八〇〇億ドルが消えているとする報道もある。持ち出しだけでは勿論ない。米国はカネのすべての移動を知っているだろう。日本の外貨準備高は中国の三分の一だが、カネを貨している側で、海外純資産はプラスであるのに、中国はゼロである。最近知られるところでは、中国政府は海外から猛烈に外貨を借りまくっている。どうやら底をつきかけているのである。辞を低くして日本に参加を求めてきている理由ははっきりしている。日本人に副総裁の座を用意するから参加して欲しいと言って来たようだ。

 AIIBは中国が他国のカネを当てにして、自国の欲望を果たそうとしている謀略である。日米が参加すれば当然巨額を出す側になるので、日本の場合、ばかばかしいほどの額を供出する羽目になる可能性がある。ドイツのメルケル首相が日本に参加を求めたというのも自国の據出金の負担を減らしたいからだろう。安倍政権がいち早く不参加を表明したのは賢明であり、六月末に延ばされた締め切りにも応じるべきではない。

 中国は生きる必要から必死になっているのは確かである。それはどの国も同じだから理解できなくはない。世界銀行やアジア開発銀行やIMF(国際通貨基金)など既成の世界金融機関がアメリカの意向に支配されていて、力をつけてきた中国には面白くない。この点に同情の余地はある。中国を支持する声のひとつである。もちろんこの範囲においては理解できる話ではある。

 しかし、最大の問題は、中国が遅れて現われたファシズム的帝国主義国家だというあの事実である。「ベルリンの壁」はアジアでは落ちなかったのではなく、いま崩落しつつあるのである。共産主義独裁国家が同時に金融資本主義国家の仮面をつけて、情報統制された国家企業が市場マーケットの自由を僣称する摩訶不思議な現代中国というモンスターの出現こそ、ほかでもない、「ベルリンの壁」のアジア版である。

 何とかしてこの怪異なる存在を解体すること、すなわち壁を撤去すること、分かり易くいえば中国共産党体制をなくすことがアジアの緊急の課題である。十三億の中国民衆に自由を与え、中国経済を本当の意味で市場化し(変動相場制を導入させ)、中国人民銀行を政府から独立した近代的金融機関に育て上げること、等である。アジアに残存するすべての不幸の原因はこれがなし得ないでいることである。拉致、領土、韓国の対日威嚇など日本を苦しめているテーマも究極的にはここにある。来たるベルリンサミットでは安倍総理におかれては、中国共産党の消去こそが日本国民だけでなく、中国国民の久しい念願であることを訴え、ぼんやりしているG7の首脳たち、アジアのことになると金儲けのことしか考えない、ていたらくな指導者たちに喝を入れていただきたいのである。

 四月十二日午前九時からのNHK日曜討論を拝聴したが、出席者の榊原英資、河合正弘、渡辺利夫、朱建栄、瀬口清之の五氏のうち、自国の矛盾を国際的に解決しようとする中国の暴慢をたしなめ、この国の国家的に偏頗な構造にAIIBの動機があることを指摘していたのはわずかに渡辺氏ひとりであった。他の方々は中国に対するやさしい理解者であろうとばかりしている。しかもそれを日本の国益の立場において語るからどうしても日本の国家と国民を惑わす話になる。朱建栄氏のような政治的理由で収監され、今も中国政府の監視下にあると考えられる中国人を討議者に選ぶNHKの不見識も問責されてしかるべきである。

 習近平がアジア版独裁者「聖人」のカリスマ性を誇示し、スターリンや毛沢東の似姿であろうとしている現実に、隣国の日本国民は少しずつ恐怖と警戒感を感じ始めている。テレビの発言者だけが不感症である。イギリスを先頭に、西欧各国が怪異なる国の現実を知らずに――漢字が読める読めないはかなり決定的な差異であるように思える――この国に手を貸そうとしているかに見えるため、日本国民の対中イメージに新たに不安な混乱が生じているように思える。

つづく
「正論」6月号より

中国、この腐肉に群がるハイエナ(一)

 ヨーロッパから見るとロシアも中国も東方の大国で、専制独裁の皇帝制度の歴史を擁した国々である。イワン雷帝やスターリンのイメージがプーチンに投影されるし、歴代の中国皇帝は毛沢東や蒋介石だけでなく、金日成にも、カリスマ性という点だけでいえば李登輝にも、典型としてのある雛型を提供している。これに対し欧米の国家指導者は性格を異にしている。前者のアジア型指導者を「聖人」、後者を「法人」の呼び名で興味深く整理したのは中国文学者の北村良和氏だった(『聖人の社会学』京都玄文社、一九九五年)。私は面白いな、と思った。「聖人」の「聖」とは道徳的宗教的意味ではない。

 欧米の指導者はたとえ独裁者でも、例えばナポレオンやヒットラーを見てもアジア型皇帝の非法治主義の系譜は引いていない。皇帝がいなければ国家統一がどうしてもできないという民衆の心の古層にある暗黙の前提、奴隷的依存心の欲求度が違う。欧米型独裁者は永つづきしない。アジア型は伝統を形づくり、同じパターンが繰り返される。民主主義にはどうしてもならない。

 ひるがえって日本はどうかというと――ここからは北村氏とは少し違う考えになるが――日本は昔から法治主義の国ではあるが、二典型のどちらにも入らないのではないかと思う。天皇はどの類型にも当て嵌まらないからだ。日本の政治が何かと誤解されつづけるのはそのためである。また、カリスマ的政治指導者がわが国に出現しないのもそのためである。欧米も、アジアの国々も、自分たちの歴史の物指しで日本の政治権力を測定し、勝手に歪めてああだ、こうだと騒ぎ立てることが多い。まったく迷惑である。

 今はアメリカがアメリカ型民主主義をアジアに移植した成功例としてわが国を、再び歓迎しようとしている。しかし少し違うのである。民主主義に関する微妙な誤差が大問題になる可能性もある。

 他方、中国や韓国は、実証主義を欠いた歴史認識、歴史を自己の政治的欲望の実現に使おうとする前近代的意識に立てこもり、そこを一歩も踏み出すことはない。討議も論争も成り立たない。そのいきさつをアメリカは理解しているのだろうか。

 しかしここに来て新しい厄介な事態が出現した。技術や生産力を高め豊かになれば体制を転換させ、民主主義国家に近づくであろうとアメリカが期待した中国が逆の道を歩き始めたのだ。習近平はスターリン型独裁者、アジアのあの「聖人」になろうとし始めている。中国国民はひょっとしてそれを希望し、期待するのかもしれない。

 中国の大学ではマルクス主義の教育理念の再確認がはじまった。次々と上層部に逮捕者の出る汚職撲滅の名において独裁的手法が強化されている。経済データひとつ正確には公表しない秘密主義。日本の国家予算規模の巨額を海外に持ち逃げする党幹部の個人犯罪とその犯罪を罰すると称して政権の権力闘争にこれを利用する二重の犯罪。そこに法治主義のかけらもない。水・空気・土の汚染と急速に広がる砂漠化によって人間の住めない国土になりつつある理由も環境保護の法を守るという最低限の自制が行われないためだ。格差の拡大などという生易しい話ではない富の配分のデタラメさ。臓器移植手術にみるナチス顔負けの人間性破壊。チベット・ウィグル・内モンゴルでの終わりのない残虐行為と南支那海・東支那海への白昼堂々たる領土侵略。しかもこれらの情報のいっさいから国民が疎外されている言論封圧の実態こそがスターリン型国家がすでに再来しているしるしといってよいのではないだろうか。

 一九八九年十一月九日の「ベルリンの壁」崩壊のあの喜びの声はアジアではいったいどうなり、どこへ行ってしまったのだろう。

つづく
正論6月号より