*** 子犬の奇跡 ***
わが家には一歳二ヶ月の雌の柴犬がいる。中学生になった一人息子が犬を飼いたいと言い出したとき、私が一番反対した。世話をするのは必ず私か家内かになる。子供はすぐ飽きる。愛犬家の知人が一日に二時間は飼犬のために割いていると聞いて、忙しいわが身には不可能だと思った。しかし、一度犬を意識すると、不思議なもので、駅前通りのペットショップの前に立ち止まるようになった。立ち止まると、自然に檻の中の子犬が目に入る。私はこましゃくれた犬が好きではない。いかにも犬らしい素朴なのがいい。生後四十日の柴犬の兄妹が組んずほぐれつしているのを目にして、ほとんど衝動的に飼う決心をした。
しかしそれでも家内はなおためらっていた。小さな座敷犬でないと持ち運びに大変だというのである。わが家では夏になると必ず軽井沢の山荘に行く。車を運転しないわが家の場合、籠に入れて、提げて運べる程度の犬でないと、成犬になってから手に負えなくなるという、いかにも女性らしい実際的な慎重意見だった。
私は家内をペットショップに連れて行った。檻の中で一番元気のいいのは一匹の雌だった。雄をもしのぐ勢いだった。私は最近の大学に多い、男子学生をしのぐ活撥な女子学生のことを思い出しておかしかった。家内は内懐にその生きのいい雌を抱き上げた。急におどおどと怯えているその小さな生き物の仕草と手触りが彼女からためらいを取り除いた。大きくなったらどうしよう、などと言いながら、彼女は衣服の内側に包むように抱いて、家に持ち帰った。
子犬には息子がミミという名を与えた。何だか猫の名前みたいだな、と思ったが、息子の小学校時代の好きな女の子の綽名がミミちゃんだと聞いていたから、まあいいやということになった。後でオペラ『ラ・ボエーム』の悲運のヒロインの名前もたしかミミであることに気がついた。ミミは終幕で哀れな病死を遂げたはずで、縁起でもないと思ったが、時すでに遅い。
ミミは最初足許も覚束なく、行動範囲はわずか一平方メートルていどだった。顔が可愛いというのでもない。口許がまっ黒で、不細工である。何という珍妙な顔だろう、狸の子みたいだ、と私は言った。いつか外に出すつもりだったが、季節も寒いので、しばらく室内で飼った。やがて家中を走り回るようになるのに多くの時間を要さなかった。スリッパをくわえて廊下で暴れる。洗濯物置場から下着や靴下を引っぱり出すのには弱った。屑入れ箱は何度叱ってもひっくり返した。階段を昇りたくても、最初昇り方が分からず、恨めしそうに見上げていた。三段ほど昇って、用心している期間がわずか一、二日で、あっという間に最上段まで駆け上がれるようになった。私は犬の成長の早さに驚いた。六ヶ月で初潮を見た。最近は食べ物が良くなったので、昔の犬より早いのです、とペットショップの人が言ったのも、人間世界のことを言っているように聞こえて、おかしかった。
予想どおり息子は犬の世話をしない。家内にはもとより、私にも相当の負担が掛かってきた。毎日の散歩は私の課題、というより義務になった。運動不足の身には決して悪いことではない。私は勤務のない日には、時間の許す限り、犬と歩く。朝起きると、必ず近所の井草八幡宮の境内から善福寺川沿いの道を約三十分歩く。犬は一回の散歩では満足しない。夕方、もう一回連れ出し、しばしば一時間歩く。
途中で犬好きの人によく声を掛けられる。まだ子犬の頃は道往く人から可愛いと言い寄られ、私は得意だった。帰ると家内に、また今日も誉められたよ、と報告した。路上で若い女性たちに取り巻かれることもあった。彼女たちはミミの周りに群がって、なでたり、抱き上げたりした。私はもとより悪い気がしない。
ミミはこうして誕生日を迎え、成犬になった。そして、一つの奇跡が起こった。母犬は十五キロほどの中型犬だが、ミミは一年たっても八キロを超えない。大型の猫とさして変らぬサイズである。一体どうしてこういうことになったのだろう。いかなる遺伝のなせる業であろう。ミミは今でも私の膝の上にのる。柴犬は小型の方が良いのだ、と聞いて、大満悦である。勿論、今夏も山荘には手提げ籠に入れ、汽車に乗せて連れて行く。
初出 時事通信社『内外情勢』1994年5月号
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追記:
「子犬の奇跡」の後日談をお伝えします。ミミはいま11歳の老犬で元気ですが、体重が8キロ超えなかったのは3歳まででした。その後妊娠し、3匹の子をもうけてから、ブクブク肥って、遺憾なことにいま13キロもあり、運ぶのは容易ではありません。仔犬はもらわれ先で「モモ」「リリ」「ヤヤ」と名づけられてそれぞれ元気です。
11/8加筆修正