むかし書いた随筆(一)


お 知 ら せ

★ 新刊、『日本人は何に躓いていたのか』
10月29日刊 青春出版社330ページ ¥1600

★ 新刊、ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』
 Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ

意志と表象としての世界〈1〉
10月に完結(中公クラシックス)(中央公論社)
旧「世界の名著」シリーズの再版だが、今回は解説をショーペンハウアー学会会長の鎌田康男・関西学院大学教授におねがいした。

★ 福田恆存歿後十年記念―講演とシンポジアム

日 時:平成16年11月20日 午後2時半開演(会場は30分前)
場 所:科学技術館サイエンスホール(地下鉄東西線 竹橋駅下車徒歩6分、北の 丸公園内)

 特別公開:福田恆存 未発表講演テープ「近代人の資格」(昭和48年講演)
講 演:西尾幹二「福田恆存の哲学」
     山田太一「一読者として」
シンポジアム:西尾幹二、由紀草一、佐藤松男
参加費:二千円    
主 催:現代文化会議
(申し込み先 電話03-5261-2753〈午後5時~午後10時〉
メール bunkakaigi@u01.gate01.com〈氏名、住所、電話番号、年齢を明記のこと〉折り返し、受講証をお送りします。)

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 むかし書いた随筆(一)

 このあいだ友人とカウンターで酒を飲んでいたら、しきりと私の名を口にする人が少し離れた席にいる。気にしないでいたが、気にならないでもない。1時間ほどしたら、先方がやはり二人づれで、帰ろうと立ち上がる。その拍子に一人とひょいと目が合った。

 「西尾先生ですね。」「はい。」「いやあ、さっきからそうだと思っていました。たいてい読んでいます、先生の本は。」「ありがとうございます。もうお帰りですか。」「江東区から来ました。友人のところへ遊びに来たのです。」と、彼は相棒を指さして言った。

 それから席を代わってもらって少し話しこんだ。有名な商社――たしか日商岩井――にご勤務のかたである。そのかたが言うには、私には随筆の才能があるそうで、もっとたくさん随筆を書いてくれという。

 「そう言われても、注文がないと書けないんですよ。ジャーナリズムは私を保守論客ときめつけて、それ以外の活躍をさせてくれません。」「でも、何と言ったかなァ。お見合いのことを書いた面白い随筆がありましたよね。」「あゝ、あれね。」

 私は17年前に『婦人公論』に書いたある随筆を思い出していた。読んだかたもいるかもしれない。最近の新しい読者は知らないだろう。これからしばらく私の「むかし書いた随筆」にお付き合いいただきたい。

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*** 女の夢男の夢 ***

 私の家で一人の若い女性と一人の若い男性が出会った。女性の方は私がむかし若い男性であったとき、地方都市で知り合ったある家族のお嬢さんで、当時は十歳ほどの、快活で利発な小学生だった。私はそこの家族がもう使わない離れに下宿していた。離れは何千坪という宏壮な屋敷の一角にあり、地方の素封家の住居らしい静かな、やや鄙(ひな)びた庭が拡がっていた。私が勤めから帰って来ると、彼女は六つくらいの妹さんと一緒に離れに遊びに来て、取り留めのないお話をしたり広い庭の中で私の周りをくるくるとび跳ねたりした。まだ世に出ない鬱屈した青年の無聊を慰めてくれた彼女には、私が東京に戻って以来、もう十五年も会っていなかった。その間、女子大を卒業し、立派な婦人に成人していることは風の噂に聞いていたが、私は自分の仕事にかまけていたし、向こうもはにかんでいて、出会う機会はずっとなかった。

 ある日、まるで忘れていた思い出がふと甦ったとでもいうように、御母堂から私信があり、田舎にいるとなかなか本人の望みの人物に出会えないので、何処(どこ)かに心身ともに立派な、見識と将来性とを具えた――そう文字通りに書いて来たわけではないが、およそそういう意味になる――男性はいないものか、という依頼を受けた。私には早速一人の青年の姿が思い浮かんだ。私のところに出入りしている、真面目な、堅実な仕事に就いている一人の青年だった。礼儀を弁(わきま)えた、しかも会っているとどこか心の温かくなる、今どき珍しいタイプの青年だった。彼はどうだろうか、という私の問いに、家内も賛成したので、私は彼を口説いて段取りをつけ、事は急速に運んだ。

 私は元来、お見合いなどという他人の運命に関わることをする柄ではないし、そういうことを道楽とする年齢でもない。私も家内も他人の生活にお節介するのをできるだけ慎みたいと、つねづね自戒している。だからこの一件はまったくの例外だったし、気紛れだった。それだけに事柄が順調に動きだすと、私はにわかに落ち着かなくなった。どう考えても、私の一つの無責任な思い付きから発した選択で、賽子(さいころ)が投げられ、この先どうなるか分らないが、ともかく運命が展開し始めている。そのことが私の気を重くした。お二人ともに私の生活圏に関係のあった男女であるだけに、いわば彼らの人生の軌跡は、私という人間において交叉する、そのことだけでも大それた重大事だが、それを私が気楽にお膳立てし、演出家よろしく、面白おかしい舞台まわしをしきりにしている。何ともはや軽率な行動であった、となぜか私は後悔し始めていた。若いお二人がともに相手に好意を持った内意が伝えられると、私の気持ちは逆にはずまず、これでいいのかなァと思い直していた。

 私はこのまま話が沙汰止みになればよい、とにわかに思ったり、いやせっかく私に近寄った二人が自分の周辺からまた遠い処に行ってしまうのは面白くない、と思ったりじつに我儘な感情のたゆたいの中に揺られていた。そばで私の心の動きをじっと観察していた家内が、「あなたは嫉妬し始めているのよ」と言ってのけたので、私はまたあらためてぎくり(傍点)としたのだった。言われてみれば慥(たし)かにそうかもしれなかった。かつて十歳であった明朗な少女は、本当にいいお嬢さんに成人していた。顔立ちもいいし、気品もあり、生活に対し地味で手堅い考えを持っていた。財産家なのに、小遣いを制限されて育った、持ち物なども華美をできるだけ避けた心配りが滲み出ていた。「あれだけの方はそうはいないわよ」と家内もわけ知り顔に言った。確かにそうだった。十五年振りに再会して、私はかつての童女がこんなに美事な婦人に成長していることがにわかに信じられなかった。

 私は、まるで私自身が永年捜しつづけていたタイプの女性にようやくめぐり会えたのではないか、とさえ思え、何度か彼女がわが家に出入りするうちに、なにか陶然とする感情が胸中を包み始めるのを感じた。私はこれはいけないと思った。若い二人の動きがどうなろうとも、この際私自身は意見らしい意見は言わないのが正しい態度なのだと思った。しかし、そう思いながらも、私が推薦した男のことを力不足ではなかったか、などつい口走ってしまう自分を、私はじつに嫌味な人間だと思わずにはいられなかった。私はこのとき彼が失敗することを望んでいたのだった。

 三ヶ月ほどしてこの話は突然破談になった。女性のほうからの一方的な拒否通告だった。誰でも結婚を決める前にはあれこれ考え、最大限のエゴイズムを発揮するものである。この控え目なお嬢さんも、その点では決して控え目ではなかった。相手の学歴とか、収入とか、財産とか、そういうものに彼女は決して欲張りではなかった。ただ、多くの若い女性がそうであるように、彼女もまた、自分の期待(傍点)そのものに対して欲張りだった。見るからに男らしい人がいいと言う。それでいてやさしい人がいいとも言う。これは難しい。安定した生活を望みたいと言う。それでいて型通りの面白味を欠いた人間は厭だとも言う。これはある意味で矛盾である。男の夢も同じで、私にも覚えがあるが、結婚前に女性への要求は過大になり勝ちである。だから彼女の気持ちも分らないではなく、私の推薦した男は、要するに彼女の夢と幻想のお相手には到底なれなかったというだけのことであろう。彼が悪いわけではない。厳密に考えると、彼が失敗したわけでもない。彼女が勝手に独りで踊っていただけである。そう考えると、私は彼に同情的になった。そしてなぜ彼がもっとうまく立ち回れなかったのかと腹立たしく、私は彼の失敗を内心自分が望んでいたということなど、身勝手にも忘れてしまっていた。

 もうあれから何年経つだろう。このお嬢さんも今では二児の母である。

初出『婦人公論』1987年2月号

「むかし書いた随筆(一)」への1件のフィードバック

  1. 若い頃の僕にとって西尾先生の「随筆」はまさに精神を誘惑するものでした。
    西尾先生の精神の誘惑者は誰だったのでしょう?

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