平成16年6月刊の『文藝春秋』臨時増刊『第二の人生設計図』にたのまれて「第二の人生もまた夢」という3.5枚のエッセーを書いた。書いたのを私はすっかり忘れていた。書いたのは昨年の2月頃である。お目に留めていただこう。
私は65歳で大学を停年になって、この3月でまる3年になる。私の場合、在任中も退職後も、同じ著述活動がつづいていて、明確な切れ目がない。だから「第二の人生の設計図」を描けといわれると、そういうことをきちんと考えていないので、困惑の思いがまず先に立つ。
けれども70歳を目の前にすると、さすがもう時間は刻々と迫っているのだと、厭でも考えざるを得ない。しかし真先に思いつくのは、仕事の上の新しい計画である。つまり「第一の人生」へのこだわりであり、なにも悟っていない愚かさである。昨年と同じように今年に期待している鈍感さでもある。いつ急変が身を襲うかもしれないのに、永遠の無変化を幻想している自分が、変化への恐怖を一日延ばしにしているだけかもしれないことに薄々感づいている。
そんな自覚もあってか、生活の上でいくつかの小さな新しい試みをし始めた。若い友人と歩いていて、私が駅の階段を昇るのを見ていた彼が言った。「先生、今のうちですね。」「何が?」「外国旅行には脚力がいるんですよ。先生はまだ大丈夫です。」「そうだなァ。」という会話があって、一大決心をした。年に春と秋の二度、老夫婦で外国旅行をするという多くの人のやっているのと同じ平凡な慰安を考えた。まだ行っていないヨーロッパへ行く。北欧、南フランス、アイルランド、ルーマニア、ブルガリアに私はまだ行っていない。それで、北欧と南フランスの旅はすでに実行した。
さて、そうこうするうちに、仕事とは別に、私は人生の終らぬうちにやっておきたいと思うことを心に確かめてみると、若い頃い実行していたことをもう一度してみたいという欲求がいま次第に募っている。まだ行っていないヨーロッパもいいが、昔留学していたミュンヘンの、私の住んでいた学生寮はもうないので、付近の街角に宿を得て半年くらい過ごしてみたい。毎晩のようにオペラ座へ行く。ミュンヘンを拠点にイタリアやスイスへ旅行し、またミュンヘンに帰ってくる。ドイツの新聞やテレビだけで世界を考える。酒場で見知らぬドイツ人と口論する。バーゼルやシルス・マリーアの“ニーチェゆかりの地”をとぼとぼ一人で歩いたあの旅と同じコースをそっくり再現したい、等々。
それから、もうひとつ試みてみたい若い日の感激の再体験は何かと考えているうちに、私の場合は映画でもスポーツでもなく、長篇小説を読むことだった。バルザック、ドストエフスキー、トーマス・マン、ハーディ、ディケンズ、スタンダール、フォークナーなど、夢中で読み耽って、夜を明かしたあの忘我の感動を忘れてすでに久しい。違った世界を体験させてくれる唯一のものが世界文学全集だった。忙しさにかまけて若き日のあの感動をもう一度味わうことなしに人生を終るのは惜しい。昔読んだものと同じ作品でよい。学生時代の体験は、老人になってどう変っているかを知るのも得がたい。
そう思いながら、きっとどれも実行できないだろうな、という不安もかすかに抱いている。じつは一年前に同じことを考え、『チボー家の人々』を用意したのだが、十分の一も読めないで、本は参考文献資料の山の下に押しこめられたままなのである。
後記 その後ルーマニア、ブルガリアにも行った。アイルランドが残っているだけである。