野口村の思い出 (二)

 我が家の押し入れの片隅に戦前の古い羊羹の木箱が保存されている。あちこち墨で汚れた、なんの変哲もない木箱である。野口村疎開時代に私が学校で使った硯(すずり)箱でもあった。

 箱の中に今は硯は入っていない。平べったい、黄褐色のきれいな石がひとつ蔵(かく)されている。那珂川の川原で記念に拾った手ごろの大きさの石であり、文鎮がわりに使われた。石には父の手で両親と私と私の兄が戦火を逃れて野口村に引っ越して来た日付が書いてある。昭和二十年七月二十八日。いうまでもなく終戦直前である。

 父は東京に勤務し、母と兄と私はそれまで水戸に疎開していた。兄は水戸中学一年生、私は国民学校(当時は小学校をこう呼んだ)四年生だった。

 昭和二十年七月十七日深夜、北関東は轟音に見舞われた。日立市を襲った米英艦隊からの艦砲射撃だった。今も当時の恐ろしさを覚えている人は少なくないと思う。夜11時15分から約一時間ほど、40センチ砲弾など870発が撃ちこまれ、日立の工場地帯は壊滅した。

 それは腹を揺さぶるようなもの凄い音だった。水戸市はまだ空襲を受けていなかったが、もう間違いなく次は水戸だと考えられた。父は地図を広げ、艦砲射撃の弾丸が届かないのは那珂川上流、栃木県境に近いある山村だろう、と当たりをつけ、上水戸駅から茨城鉄道という私鉄=今はもうない=に乗って、終点の御前山駅まで行って、そこはまだキロ数を測るとぎりぎり着弾距離の範囲内にかかるので、そこから那珂川を越えて、対岸の野口村上郷(かみごう)のあたりまで行こう、と言った。鹿島灘が米軍上陸地点とみられていたので、川さえ越えれば、米地上軍に追撃されても行方が遮られていない。もうそこから栃木県の茂木(もてぎ)までは歩いて行けない距離ではない。父は真剣な面持ちでそう計画を立て、家族の避難地を野口村と定めて、直ちに実行に移した。

 しかし勿論、そうして行動することに本当に合理的根拠があったわけではない。敵は海から来る。だから山へ逃げなくてはならない。その程度の判断である。誰にもその頃は何が最も確実かは分らなかった。上水戸駅から御前山駅までわずか二十二キロ走るのに、効率の悪いSL機関車は、石塚での給水時間を入れて三時間も要した。私達四人ははじめて見る土地、御前山駅に降り立った。駅前は閑散とし、桜の樹が緑葉を繁らせていた。蝉の声が静寂さにしみ入るようだった。それほどに何もない長閑な風景だった。

 御前山はこんもり木の茂った、丸い小さな山だった。切り立つ山崖の下の那珂川は濃い翠(みどり)色をたたえ、対岸はそれに反し大小さまざまな石の幅広い川原を形づくっていた。その川原の側が目指す野口村だが、なんとそこに橋がない。驚くべきことに、渡し舟で対岸へ渡るのである。勿論、橋はあったに違いないが、当時は台風のたびに洪水になり、橋は流され、畑も家も冠水した時代で、村の戦時予算には橋を再建する余力がなかったのに違いない。

 対岸に向けて太い鉄の針金が一本ピンと張られていた。船頭は櫂で漕ぐのではなく、手で針金をたぐるようにして小船を前へ動かした。

 景勝の地の風光には清爽とした趣があり、川面に映える夏の光りは小魚の鱗のように輝いていた。日照りの強い午後だったが、私たち一家は涼風に吹かれつつ、渡船場から小船に乗って野口村に渡った。行楽気分といいたいところだが、今でいうなら私たちはいわば難民の一種である。不思議なのは水戸から馬車に山積みされてきた大量の荷物をどうやって渡し船で運んだのかである。また、村の中心の宿場から一里も離れた上郷地区の農家の一室を借りて、わが家がその日のうちにいち早く生活を再開することにどうやって成功したのか、これも不思議である。なぜなら知人ひとりおらず、予め土地の人に打診するなどの手続きも一切なく、水戸の空襲をひたすら恐れて、未知の地に取るものも取あえず逃げてきたのが実情だからである。

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