私はそのへんを歩いている二、三の人に訊ねてみるしかなかった。だが、日曜というのはこういうときまったく不便なのである。日曜の午前中、土地のひとをつかまえようと思ってもなかなかそれらしき人に出会えないのだ。ここがイタリアとの違いの一つであろう。イタリアでは、用もないのに閑をもてあましたひとびとが街頭に屯し、無駄話をし、がやがやと陽気に、賑やかにくだを巻いている。スペインもそうだ。スペインでは交通の邪魔になるほど街角に人間が溢れ出している。バーゼルはバールというフランス読みの名ももっているとはいうものの、たしかにゲルマン系の町なのだ。
それに、もう一つ困ったことは、土地の人と旅行者との区別が容易につけにくいことである。日曜の午後になって、ようやくバーゼルでも散歩をする人がぼつぼつ通りを歩きはじめたが、しかし、日曜日には正装して散歩するのがこうした静かな中型都市の習慣だから、旅行者との区別がつけにくい。イタリアあたりでは、観光客は一目でそれとわかったのに、と私は困惑した。乳母車を押している夫婦者、一人で杖をついて歩いている老人――これは絶対に旅行者ではあるまい、そう当りをつけて尋ねてみるしかなかったのである。
昼食どきなのでレストランに這入った。早速ボーイにきいてみた。勿論ボーイが知るわけもないから、なかなか立派な高級レストランでもあるし、だれか店の人にきいて下さいと頼んだのである。ボーイはニーチェの名前も知らなかった。店の中年の女主人が出て来て、調べてあげますと言って奥に入り、しばらくして地図と紙切れをもって出てきた。
かくて、バーゼル大学のそばに残っている中世の城門シュパーレントール付近の、シュッツェンマット・シュトラーセに古い学校の建物がある。そこにニーチェは住んでいた、あるいはその隣の家かもしれない、だからその辺りに行ってひとに聞けば近所の人が教えてくれるでしょう・・・・・ということだった。
「本屋さんに知合いがいますので、電話でいまきいたのです。」
「それはどうも御親切に有難う。」
「でも、どうしてそんなことを知りたいのですか。」こういう質問をこれまで私は何度うけてきたことだろう。こういう小うるさい質問を一言で片づけてしまう名答をおぼえるまでにも、私はすでに一年ぐらいかかっていたと言えるのかもしれない。
「Ich bin Germanist.」
「ああ、そうですか、でもいまニーチェを読む人はいないでしょうに。私は以前にはドイツ人でしたのよ。ニュルンベルグの出です。兄は子供の頃、ニーチェを読む研究会に入っていました。兄は建築技師で、戦死しましたが、あの頃はゲルマニストでなくともニーチェを読む研究会は町にいくつもあったのですのよ。」そんな話はほかにも私はきいたことがあった。
東ドイツのライプチヒ近郊レッケンの、ニーチェの生家であった村の牧師館に私は墓参したことがある。
ニーチェの墓は小奇麗に手入れされ、季節の花で飾られていたが、それは年老いた寺男の世話であったから、私はなにがしかの金をこの親切な寺男に握らせなければならなかった。
「昔ワイマールからここに墓が移されてきた除幕式の日はとても賑やかでしたよ。ヒットラー総統は来ませんでしたが、代理の偉い人が来ました。村長さんも張り切ったものです。あの頃は、なにしろお墓は国営で、管理の費用もぜんぶ国費でした。ですが今は、こうして私が手入れして、花を飾ってやるほかないのです。」
だからなにがしかの金を置いて行けというのがこの77歳の寺男の言いたかったことなのである。
「西ドイツから墓を見に来るひとがいますか。」
「いません。」
「日本人は?」
「十年前にひとりいました。ほかにはフランス人がときどき来ます。自動車で東ドイツを旅行中にちょっと立寄るらしいですよ。」新しい決定版ニーチェ全集の編纂をしているイタリア人学者モンチナリ氏をワイマールに訪ねたときのことである。
氏は不便な東ドイツでこの難事業にとりかかってすでに七年になるが、ワイマールのシラー・ハウスの前の古本屋にナウマンのツアラトゥストラ註釈本が出ていたはなしをしていたので、私はさっそく買いに行った。店の主人にそれが欲しいと言うと、
「ニーチェ?そんなものはありません。」それから急に居丈高に、声をたかめて、
「ニーチェ、いけません、いけません、(シュレヒト、シュレヒト)あれは悪い思想家です。あんなものを読んではいけません。」あんまりはっきりそう言うものだから毒気をぬかれて引き下がった。あとでモンチナリ氏に再会したときにその話をしたら、
「なに、書庫にあるのですよ。あなたが外国人なので本屋は警戒したのですね。現に一週間前、あそこの主人は私に買わないかと持ちかけて来たくらいですからね。」私はルツェルン近郊のインメンゼー湖畔でスイス人の小学校の先生夫妻に会った。バーゼルのニーチェ・ハウスはミュンスター教会のそばだろうと間違えて教えた人だが、ニーチェはスイス人には好かれていませんね、あの過激思想はわれわれの肌には合いませんよ、顔をすこししかめながらそう言っていたのを思い出す。
「でも、ニーチェの方はスイスを愛していましたね。」
と私は答えたものだった。
「それに、ニーチェは死ぬまでスイス国籍でしたよ。」
「あら、それ本当ですか?」
奥さんの方が急に目を円くして、びっくりした様子で亭主の方を向いたときの顔が思い出される。