ヨーロッパを探す日本人(一)

 私が昭和43年(1968年)4月、ドイツ留学から帰国して半年余しか経っていない時期に、同人雑誌に書いたあるエッセーをご紹介したい。私は当時32歳で、静岡大学の専任講師だった。

 同人雑誌はドイツ文学の仲間で出していたもので、Neue Stimme(ドイツ語で「新しい声」)といい、「しんせい会」という同人会を結成していた。小説を書く者もいた。芥川賞作家も出ている。

 このエッセーは私がまだ著述家としての活動を開始していない習作期の作品である。新潮社から出してもらった最初の評論集『悲劇人の姿勢』(1971年1月刊)に収録されているので、未公開ではないが、この本自体が古書店にももうないので、同エッセーに記憶のある人は今ではほとんどいないと思う。(ただ同書の別の評論から一昨年ある大学の入試問題が出ているので、本を知っている人はまだいるのだと、嬉しかった。)

 「ヨーロッパを探す日本人」は短編小説くらいだと思って読んでいたゞきたい。読み易いと思うが、かなり長い。何度にも分載されると思う。

 途中から読まないで欲しい。面白そうだと思ったら、(一)に戻って読んでいただけたら有難い。

 このあいだ「第二の人生もまた夢」というエッセーを日録に掲示したあとで、スイスのバーゼルに住む若き友人平井康弘さんが出張で来日し、新丸ビルで落ち合い、久闊を叙した。急にバーゼルが懐かしくなって長谷川さんのお手を煩わせること容易ならずと思いつつ、ここに長文の分載をお願いした次第だ。

■ヨーロッパを探す日本人 

第一節

 しらべてから来るべきだった。アドレスがわからないのである。

 ホテルの受付の女性にまず訊ねてみた。

 ニーチェ?さあ、どこかの町角でその名前見たことがあるわ、はっきりしないけど、・・・・・・肥った中年の婦人がそう答えた。駅の案内所に問い合せてみましょう、そう言って電話をその場で掛けてくれたが、生憎日曜で、電話口にはだれも出ないらしい。

 バーゼルは観光都市としてはまことに不完全な町である。

 ベルン、ルツェルン、チューリッヒ、いずれにも、駅のなかに立派な旅行案内所があり、数人の係員が休みなく応対している。チューリッヒなどはいかにも国際空港のある都市らしく、駅構内の案内所でさえ、三方にガラスを張った宏壮な事務所だった。この三つのホテル案内と旅行案内(汽車の時刻などを教える事務も含む)とは、それぞれ別々の場所に別々の事務所をさえもっている。バーゼルの駅の構内にはそれらしきものはなにひとつなかったのである。

 駅前広場に、木製の電話ボックスのような小屋が立っていて、無愛想な女の子がひとりホテルの案内係をしている。私は昨夜、この無愛想な女の子の世話で、いま泊まっているホテルを見つけた。このときよほどニーチェの昔の下宿のことを聞こうかと思った。しかし、なにしろ百年前である。こんな年若い子が知るわけはない、そう思って聞かずに置いた。ホテルの受付の中年女性が電話を掛けようとした相手はこの女の子なのだ。

 私は受付の女性に言った。
「昨日スイスの小学校の先生と話をして、ニーチェの家はたぶんミュンスター教会のそばだろうということを聞きましたが・・・・・」
「ああ、そうそう、ボイムリ・ガッセですよ。ありました。私も見たおぼえがある。むかし哲学者が住んでいたと書いたプレートが壁に打ちつけてありました。」

 午前中、ホルバインの蒐集で名高いバーゼル美術館を見て、その足で早速ミュンスター教会の近くに行ってみた。バーゼルは小さい町である。人口20万、スイスではチューリッヒに次ぐ第二の都会だそうだが、べつに乗物に乗る必要はないのである。

 ミュンスター教会はその濃い赤茶色のゴシックの尖塔を9月末の蒼天につき立てていた。

 ボイムリ・ガッセはすぐ見つかった。左右を見ながらなだらかな坂を降りていくと、そこにあったのは、エラスムスが晩年の一年間を客人として過ごしたというプレートの打ちつけてある洒落た構えの家だった。小学生の先生も、ホテルの受付女も、ニーチェとエラスムスとを間違えていたことは確かだった。エラスムスは16世紀の人で、彼が死んでからすでに四百年以上たっている。この町におけるエラスムスとホルバインとの出会いを誇りに思っている人もいるらしく、美術館で買ったカタログにもそんなことが書かれてあるのをたったいま読んだばかりだった。

 ホルバイン筆になるエラスムスの肖像は有名である。なるほどあれはこの町で描かれたのか、私が合点がいったが、それ以上の感慨はなかった。ボイムリ・ガッセはかなり広い通りで、しかも、目抜きの繁華街とミュンスター教会前の道路とを結んでいる重要な通りだから、町のひとびとはここをたびたび通り、なにやら妙なプレートが打ちつけられてある家をなにかの折に目にし、ニーチェであったか、エラスムスであったか、そんなことまでいちいち覚えていられないというところが真相だろう。

 ヨーロッパの町には大抵、観光案内所という看板を掲げ、地図や絵などを張ったガラス張りの大きな事務所を町角にみかけるが、バーゼルにもそれらしきものは二、三あったから、昨日のうちにそこへ行って置けばすぐにでも分ったかもしれないが、なににしても今日は日曜日で、あらゆる店は扉をかたく閉めていた。どうにも仕方ない。案内所は日曜日にこそ開いているべきなのに、この古い、地味な、ドイツ風の町では、日曜はいかにも日曜らしく商店街はしんと静まりかえっている。

「ヨーロッパを探す日本人(一)」への3件のフィードバック

  1. 先生は以前船橋焚書事件の原告の一員として活動しておられるとのエントリーを拝見した事があります。
    某掲示板でこんな書き込みを見つけました。もしよろしければ控訴審での追求の際の参考になればと思います。

    726 :名無しさん@6周年:2005/10/04(火) 10:20:30 ID:/iKWJVmM0
    井上センセはこんなおヴァカな活動やってないで船橋焚書事件で有罪判決受けた
    土橋悦子とつるんでお手盛りやってた事についての釈明会見をとっととやって下さいw
    http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H15/1510/1510034dobashi.html

    このレビューは参考になりましたかw
    http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4834016218/qid%3D1128327000/250-6540333-9224212

    子どもと本の出会いの会(会長井上ひさし)は2000年2月に「2000年出会いの本50冊」をはっぴょうしました。
                   ~~~~~~~~~~~~~~~~~
     これらの本は、最近1年間の間に出版された本から選ばれており、いずれもおすすめの本ばかりです。
    また、これらの本は、書店でも優先的にそろえるようになっていて入手しやすいようになっています。
                 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    http://www015.upp.so-net.ne.jp/kodomodokusho/deainohon98.HTM
    http://www015.upp.so-net.ne.jp/kodomodokusho/99deainohon50.htm
    http://www015.upp.so-net.ne.jp/kodomodokusho/deainohon50.2000.htm ←あれぇ?なんでこの時だけ土橋氏選考委員外れてるの?
    http://www015.upp.so-net.ne.jp/kodomodokusho/deainohon2001.htm

    3番目のURLより抜粋
    >小学校低学年向き
    >ぬい針だんなとまち針おくさん 土橋悦子、作

    憲法なんてどうでもいいから会長として説明責任果たしてくださいよ~wwwwwwwww

  2. 若かりし頃の先生がどのような思いでニーチェの足跡を辿ったのか、興味が尽きません。若さとは裏腹に人間の心理として人は少しでも先人に近づきたい心理が生まれるものですが、おそらく先生に於かれましてもその心理は当初強かったのではないかと想像します。そして徐々にニーチェの臭いが漂い始めた頃、ある種の拒絶も生まれたのではないかと想像します。
    つまりは初恋の女性に対する思いに似た何かがそこにはあるのではないでしょうか。最初はとにかくニーチェの事なら何でも知りたい心理から、いつしかそれが逆の心理に支配される自分に気付き始めるのではないかなどと、今私は勝手に想像しながら続編を期待しています。
    先生の人間としての「若さ」がどのように表現されるのか楽しみでなりません。

  3. 32歳の西尾先生ですね。

    私が西尾先生の文章を誉めると、なんだか「やらせ」か「さくら」みたいですが、若い頃から本当に文章を綴るのがとてもうまかったんだなぁと思いながらタイプしています。

    自分までバーゼルに行って、あてもなく町を歩いている気分になります。

    あきんどさん、こういう「日録」もいいですよね。

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