『西尾幹二のブログ論壇』の表紙を紹介します。
目 次
はじめに 二十一世紀のコーヒーハウス(渡辺 望)
【第一章】 『皇太子さまへの御忠言』の反響
祈りについて
不合理ゆえに美しい歴史
「朝敵」と論難されて
「朝まで生テレビ」皇室問題に出演する
『保守の怒り』の求めるもの
「弱いアメリカ」と「皇室の危機」
【第二章】 歴史は変化し動く世界である
「米国覇権と『東京裁判史観』が崩れ去るとき」『諸君!』二〇〇九年三月号論文
「田母神俊雄=真贋論争」秦郁彦 VS西尾幹二『諸君!』二〇〇九年四月号論戦
『諸君!』四月号論戦への反応
『諸君!』四月号論戦余波
『諸君!』四月号論戦余波(続)
【第三章】 『GHQ焚書図書開封』1・2・3・4… 暗い海への私の73歳の船出
『GHQ焚書図書開封』発刊と新事実発見(石川水穂、力石幸一、中静敬一郎)
『GHQ焚書図書開封2』をめぐって(宮崎正弘)
『GHQ焚書図書開封』3・4と私のライフワーク(新保祐司)
【第四章】 大江健三郎の欺瞞、私の29歳の評論「私の受けた戦後教育」と72歳のそのテレビ朗読
新制中学での私の体験
直輸入教育の犠牲者として
民主教育の矛盾と欠陥
続・民主教育の矛盾と欠陥
教育におけるペシミズム
観念教育のお化け 大江健三郎「戦後世代と憲法」
教師は生徒の模範たれ
【第五章】 『三島由紀夫の死と私』をめぐって 私の35歳の体験と72歳のその総括
死を迎える前に私も全部を語っておく
二〇〇八年憂国忌記念講演「限界を超えた『芸術と実行』の分離の理念」
書評「三島由紀夫の死と私」(松本徹、坂本忠雄、細井秀雄)
【第六章】 ニーチェ・江戸・小林秀雄
『真贋の洞察』について(富岡幸一郎、竹内洋)
座右の銘に添えて ニーチェ『ツァラトゥストラ』より
読書の有害について ニーチェ『この人を見よ』より
『江戸のダイナミズム』感想 (武田修志)
小林秀雄に腰掛けて物言う人々(伊藤悠可)
小林秀雄『本居宣長』のこと
【第七章】 大寒の日々に
佐藤優さんからのメッセージ
加地伸行氏の直言
大寒の日々に
黄文雄氏と東中野修道氏の人生に感動
渡部昇一さんとの対談そのほか
「西尾幹二のインターネット日録」の歴史(長谷川 真美)
インターネットの良いこといやなこと・・あえて八年前の文章を「あとがき」に代えて
執筆者プロフィール(編集者からのお知らせ)
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管理人長谷川より、補記
この『西尾幹二のブログ論壇』に登場する大勢の執筆者の方々には、それぞれ連絡を取り、掲載の許可を得ています。ただし、日録に掲載時に許可を頂いたのですが、その後連絡が取れない人が二三人おられます。今後本が正式に出版された後、自分のところに連絡がないと気付かれた場合、至急ご連絡をお願いします。この本には当日録に過去において掲載された文章が多く転用されています。そして、日録に掲載されていないものも多く掲載されています。私は今回、この本の原稿に目を通してみて、本を作るということは、料理と同じようなもので、同じ材料を使っていても、その調理方法、味付け、盛り付けなどで、全く違った料理となるのだと感じました。日録愛読者の皆さまにも、このたび日録の文章が装い新たに一冊の本となって皆様の手に届いた時、きっとその料理の出来映えに驚かれ、満足されることと思います。是非、楽しみにお待ちください。
苹@泥酔さんによる 読書前読書感想予想文?
目次を見て、思い出そうとすると記憶の不正確さに気付くのはいつものこった。あれか、これかと思い出したのが実は別の稿だったりする事も少なくない。それでもタイトル=ヒントから記憶を辿ろうとするのは必ずしも退屈ではないし、今も不図そう思った直後、そう云えば何年か前に西尾先生が退屈について述べていたな、あれが私には最も刺激的だったな、と振り返っては肝腎の内容を忘れている事に気付く。
最初の日録本は売れ行き不調だったそうな。何年も経ってから読み返すと、その時の「内容が」ではなく「時間の流れが」違和感の一因になっていたりする。そりゃそうだ。読み返しているのは今の私で、過去の私じゃないんだもんね。だからかナ、これを「時間の自動編集機構」と呼びたくなるのは(ここで松岡正剛の云う「編集工学」を想起)。それを制御するのは書かれた中身の方だ。そのためか西尾先生は後々、時間に囚われない内容重視型の日録本を出す様になった。『「狂気の首相」で日本は大丈夫か』然り、『国家と謝罪』然り。…するってぇと、今度の日録本は差し詰め四冊目か五冊目あたりになるのかいな?
どうやら既刊と大きく異なるのは、他の方々の文章の占める割合が激増している点にあるらしい。そこに「ブログ論壇」への視点が垣間見える。執筆者であると同時に編集者でもある形態が、更に本職の編集者の手を経て送り出される。恰も編集行為の重層性が、書物とブログの狭間で(=狭間にあるという手続き記憶が、書物という長期記憶に向かいつつ)他者を呑み込むかの様な。今や西尾先生は或る意味、編集者になろうとしているのではないか。それもただの編集者ではなく、コーディネーターと云うよりはエヴァンゲリスト。マタイとバッハを兼ねたかの様な編集的叙述者。焚書本を次々と世に送り出す西尾幹二のごとくありながらも、焚書本と違って「中の人」は存命中。
だから本は、生きている。そして時間も生きている。もしかしたらこの一冊には、暗に「生きる事で時間を乗り超える」ための思想が提示されてあるのかも知れない。
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