三島由紀夫の自決と日本の核武装(その五)

 核を持ち込ませた西ドイツ

 その発見を説明する前に、NHKが2010年10月3日夜「スクープドキュメント“核”を求めた日本」で報じられた、佐藤政権で密かに日本の外務省が西ドイツ外務省に、アメリカから離れ、両国共同で核開発を行うべきではないかと相談を持ちかけ、西ドイツに退けられたという話について、私の知るドイツの政治的並びに心理的実情とあまりに違うので、一言述べておく。

 番組は核開発を嫌った西ドイツ政府は平和主義で、秘密にこれを画策した日本政府を悪者のように扱っていたが、とんでもないことである。

 西ドイツは戦後NATOに加盟する際、核を開発しないことを約束させられた。しかし、核の保有を断念したわけではない。ことにアデナウアー首相が強い意志で核を持つという政策を掲げていて、圧倒的多数の国民に支持されていた。アデナウアーの流れの保守政権から社会民主党系の政権に移っても、基本の姿勢は変わらなかった。

 日本が非核三原則と言っている間に、西ドイツは核は作らなくても、持ちたい。それがダメなら、せめてアメリカの核を持ち込ませたい。切実にそう願っていた。自国の安全のためである。非常に強いリアリズムとしてドイツ人はそう考えていた。

 冷戦時に、西ドイツ国防軍には有事に際しアメリカの核弾頭が提供される仕組みになっていた。NHKの番組が取り上げた一件で西ドイツ外務省が日本提案を断ったのは、日独共同で開発することの拒否にすぎない。西ドイツが日本風の平和主義であったからでは決してない。

 ドイツ人が一貫して、何とかしてアメリカの射程の短い戦術核を持ち込ませたい、そうしなければやっていけないという危機感を抱いたのは当然である。そう考えない日本人が異常なのである。

 保守政権から交代したシュミット政権になったときに周知のとおり、ソ連が配備したSS-20という中距離核弾頭に対応してアメリカのパーシングⅡと巡航ミサイルを西ドイツが率先して受け入れ、かつヨーロッパ各国にそれを説得して配備させることで末期のソビエトと対決し、これを屈服させるという一幕があった。はらはらさせたが、しかし断固とした措置であった。これに似た対応がなければ、日本はおそらく、中国と北朝鮮の連合軍による核の威嚇をはねのけて、自由で平和な今のような祝福された国土と国民生活をこのまま維持し続けることはできなくなるだろう。その意味で60-70年代の佐藤政権が「持ち込ませず」まで宣言したのは、どう考えても大失策であった。

 原因は、単なる彼の性格的ひ弱さだろうか。唯一の被爆国というマスコミへの媚(こ)び諂(へつら)いだろうか。アメリカの政策にすり寄りたい点数稼ぎだろうか。それとも、結局は彼の頭脳も旧社会党型平和主義者のそれなのだろうか。

 日本を売った佐藤栄作

 三島由紀夫の自決は、もとより半分は文学的動機によるものであり、政治的動機であの事件のすべてを説明はできない。文学者としての思想的理想がなければ、あのような極限的行動は起こらなかった。しかし、ドイツ大使シュタンツェル氏が言ったように、国の外にhostile enemyを見ない、自閉的で幻想的な行動、世界の政治現実をいっさい映し出していない、リアリティから隔絶した自虐的な行動だったのだろうか。

 私は過日、「檄」を読み直してアッと驚いた。三島由紀夫はNPTのことを語っているのだ。今まで気がつかず読み落としていた。彼が自衛隊に蹶起(けっき)を促すのは、明らかに核の脅威を及ぼしてくる外敵を意識しての話なのである。このままでよいのかという切迫した問いを孕(はら)んでいる。

「この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこかへ行かうとするのか。

 繊維交渉に当つては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停止条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジエネラル一人、自衛隊からは出なかった。

 沖縄返還とは何か?本土の防衛責任とは何か?アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。

われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。・・・・・・(以下略)」

 六年前に中国が核実験に成功し、核保有の五大国として「核停止条約」(NPTのこと)で特権的位置を占め、三島が死んだこの年に台湾を蹴落として国連に加盟、常任理事国となるのである。「五・五・三の不平等条約」とは、ワシントン会議における米英日の主力戦艦の保有比率であることは見易い。

 三島は、NPTに署名し核を放棄するのは「国家百年の大計にかかはる」と書いている。NPTの署名を日本政府が決断したのは1970(昭和45)年2月3日で、同じ年の11月25日に三島は腹を切った。

 そして、NPTの署名と核武装の放棄を理由に、佐藤栄作はノーベル平和賞の名誉に輝いた。佐藤は三島の最期を耳にして「狂ったか」と叫んだ。政治家の穏健な良識がそう言わせたのではなく、自らの虚偽と欺瞞と頽廃と怠惰と痴愚と自己愛とが三島の刃に刺されたがゆえに、全身を襲った恐怖が言わせた痛哭(つうこく)の叫びだったのだ。

 文中にある「アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である」は、すごい一言である。私もずっとそのように認識し続け、またそのように書き続けてきた。

 親米保守に胡坐(あぐら)をかく自民党の軍隊は「村山談話」に屈服して、田母神空将を追放し、ついに民主党の軍門に下った。今の自衛隊を風水害対策班にし、別の新しい「真の日本の自主的軍隊」を創設すべき秋(とき)は近づいている。

 「あと二年のうちに自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであらう」の「あと二年」とは1972(昭和47)年を指す。沖縄返還が72年に実現した。その頃から準備と工作を続け、74年にノーベル平和賞である。三島の死んだとき防衛庁長官は中曽根康弘だった。

つづく
 (『WiLL』2月論文より)

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