三島由紀夫の自決と日本の核武装(その四)

 アメリカに保護された平和

 最近の政治家、官僚、学者言論人が、いつ終わるかもしれないぬるま湯のような“アメリカに保護された平和”に馴れ、日本はIAEA(国際原子力機関)に事務局長も送り出しNPTの優等生ではないかなどと呑気な顔をしているのは愚かもいいところで、自国の置かれた最近の一段と危険な立場が見えていない証拠である。

 たしかに、その後今日までにイスラエル、インド、パキスタン、そして北朝鮮が核保有国になり、NPTは半ば壊れているかもしれないが、中国と北朝鮮が日本列島にミサイルを向けている情勢は変わっていない。それどころか、近年にわかにキナ臭くなっている。中国と北朝鮮の対日敵性国家としての連帯は次第に年ごとに露骨になってさえいる。

 三島由紀夫が自決したのは周知のとおり、1970年11月15日であった。右に見てきた諸情勢のちょうど真っ只中において起こった事件だった。

 佐藤栄作が日本に対する核攻撃に対し、必ず日本を守ると言ってほしいとジョンソン大統領に頼み、口頭の確約を得たのが先述のとおり1965(昭和40)年1月であった。この日米会談に先立って、佐藤は沖縄の本土復帰を強く意欲していた。同年8月には那覇空港で、「沖縄の祖国復帰が実現しないかぎり、わが国の戦後は終わらない」という有名な声明を発した。

 核実験の成功から国連加盟へ向けて国家的権威を高める共産中国の動向を横目に見ながら、アメリカから不確実な「核の傘」の約束をとりつけ、沖縄の早期返還を目指した佐藤長期政権の政治的評価は、今日的意味が非常に高いと思われる。

 論評も数多くあることを私は知っているが、その詳しい跡づけをするのがここでの私の課題ではない。返還までの過程で、佐藤は例の非核三原則、有名な「持たず、作らず、持ち込ませず」を言い出した。1967(昭和42)年のことである。

 そして72年には沖縄の完全返還も達成し、7年8ヶ月に及ぶ首相の座を退いた後の1974年秋にノーベル平和賞を授与されたことはよく知られている。授賞の理由は「日本の核武装に反対し、首相在任中にNPTに調印したこと」などとされている。

 しかし、彼はもともと核武装論者であったはずである。沖縄の合意の際に、返還後の核再持ち込み密約交渉があったことは、佐藤の「密使」とされた若泉敬氏の著書の中で明らかにされている。私はこのような密約の存在は、なんら驚くに値しないことと思っている。

 民主党の岡田前外相のように、軍事問題で密約そのものの存在を追及し、暴露するなどはまったくナンセンスなことである。そうではなく、核武装の必要を知っていた佐藤が「持たず、作らず」はともかくなぜ「持ち込ませず」のような、日本を反撃力の完全な真空地帯にしてしまう愚かな宣言に走ったのか、そこが不透明で分らないと言っているのである。否、「持たず、作らず」を含め、非核三原則など自ら言い出す必要はまったくなかったはずだ。

 すべてを玉虫色にしておくのが、国家安全のための知恵である。NPTの署名から批准に至るまで、6年間もためらい続けたあのフリーハンドへの関係者のこだわりは、なぜ見捨てられ、まるで旧社会党か学生が喜ぶような単純な三原則が掲げられたのか。

 三島由紀夫が自決した報を聞いて、佐藤栄作の第一声は「狂ったか」であった。私は若い時分にそれを聞いていて、政治家が文学者の行動に理解が及ばないのは普通のことで、政治家らしい反応だと思い、深く考えることはなかった。佐藤首相を責める気持ちもなかった。責任ある立場であればそのように考えるのは当然だろうと思った。しかし、三島の「檄」を最近読み直してそうではないことに気づいた。今の時代が新しい読み方を私に教えた。

つづく
 (『WiLL』2月論文より)

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