口約束で終わる「核の傘」
三島由紀夫が市ヶ谷台で自決した1970(昭和45)年を境に、その前後の国際情勢と日本の位置を考えてみると、アジアに急激な変化が訪れていたことがわかる。ソ連軍のチェコ侵入は1968年で、世界の眼は共産主義体制の脅威と衰弱のあせりとを見ていたが、中国が別様に動き出していた。ちょうど同時代の文化大革命のことだけを言っているのではない。核実験の成功である。
1964(昭和39)年の東京オリンピックの開催中に、それに当てつけるかのように中国から核実験成功のニュースが飛び込んだことはわれわれの記憶に鮮やかである。やがて、1971年に北京政府は国連に加盟することにも成功した。台湾政府は追放された。これらはアジアにおけるきわめて大きな出来事である。
核実験から3ヶ月後の1965(昭和40)年1月12日に、佐藤栄作首相はホワイトハウスで行われた日米首脳会談でリンドン・ジョンソン大統領に対し、「中国が核兵器を持つなら日本も核兵器を持つべきだと考える」(米側議事録)と述べたといわれる。
しかし、アメリカは日本が核攻撃を受けた場合には日米安保条約に基づき核兵器で報復する、いわゆる「核の傘」の保障を与え、日本の核武装を拒否した。日本とドイツには核兵器を持たせまいとしたのが当時のアメリカの政策だった。佐藤が日本の核武装に大統領の前でどれくらいこだわり、どれくらいその主張を現実に言葉にしたかは明らかではない。
翌1月13日に、佐藤はマクナマラ国防長官との会談で「戦争になればアメリカが直ちに核による報復を行うことを期待している」と要請し、その場合は核兵器を搭載した洋上の米艦船を使用できないかと打診し、マクナマラも「何ら技術的な問題はない」と答えたということである。
さりとて「核の傘」は当時も、そして今も明文の形で保証されてはいない。アメリカの要人が「核の傘」の原則を語り、その都度つねに口約束で終わって、日本に核のボタンを自ら握らせる立場には絶対につかせないという方針があったようで、1965(昭和40)年の佐藤・ジョンソン会談でそれが最初に表明されたのである。
NPTの目的
当時、核保有国は中国が入って五カ国になった。そしてそのころ、同時によく知られている通りNPT(核兵器不拡散条約)が進められていた。旧戦勝国の五カ国が核を独占する不平等条約である。1963(昭和38)年に国連で採択され、今でこそ190を超える国々が加盟しているが、1968年の段階では調印したのは62カ国で、1970年3月に発効している。
日本は2月にしぶしぶやっと署名に踏み切った。西ドイツが1月に署名したのを見きわめて、ぎりぎりまでねばって滑りこんだ。しかし署名はしたものの、なお釈然としなかったといわれる。理由はNPTの目的にある。村田良平元外務事務次官がその回想録で述べているとおり、NPTの七割方の目的は、経済大国になり出した日本とドイツの二国に核武装の途を閉ざすことにあったからだ。
当時日本はアメリカ、イギリス、ソ連だけでなく、カナダやオーストラリアなどからも、NPTにおとなしく入らなければウラン燃料を供給してやらない、つまり原子力発電をできなくさせてしまうぞと脅しをかけられていた。
それでも日本が署名をためらったのは、将来日本独自の核戦力を必要とするときが来るかもしれないので、自らの手足を縛るべきではなく、フリーハンドを維持するのが国の未来のためであるというまっとうな考え方に立っていたからである。当時の外務事務次官はそう公言していたし、自民党内にもそういう意見が少なくなかった。
したがって、1970(昭和45)年1月に日本はNPTに署名を済ませた後も、えんえん6年間も批准を延ばし、条約の批准を果たしたのは、やっと1976年であった。
この6年間という逡巡と躊躇の意味は、今の日本人には忘れられている。当時の日本はまだ国家を守るという粘り強い、健全な意志があったということだ。二流国家になってはいけない、いつの日にか軍事的に蘇生しなければ将来、国家の存続も危ぶまれるというまともな常識が働いていた証拠である。今は過渡期であり、敗戦国はいつまでも敗戦国に甘んじてはいけない、という認識がはっきりあった。
1970年2月3日のNPT署名に際しての日本国政府声明のⅠ「軍備および安全保障」第五項に、次のように記されている。
「日本国政府は、条約第十条に、『各締約国は、この条約の対象である事項に関連する異常な事態が自国の至高の利益を危うくしていると認めるときは、その主権の行使として、この条約から脱退する権利を有する』と規定されていることに留意する」
必死の思いで念を押している切ない感情が伝わってくるような条項だ。
つづく
(『WiLL』2月論文より)