地震・津波の心配はいつの間にか原発事故への心配ごとに変わってしまいました。余震はまだつづいていて、東京でも日に一回か二回かは軽く揺れていることに気づくていどの余震を体感していますが、そのことへの不安よりも、原発事故がうまく収まるのかどうか、それがもっぱら気懸りです。19-21日の連休は街に賑わいがありません。みんなひっそり家でテレビの事故解説に暗い顔で向き合っているのかもしれません。
技術による問題は当該技術のより一層の進歩によってしか解決し得ないというのが原則です。技術は走り出すと引き戻すことができないからです。同じ路線の上をいっそう早く走って、立ち塞がって押さえるしか制御のすべがないからです。原子力も恐らく例外ではないでしょう。
たゞ原子力の利用は「選択」のテーマが先行しています。「選択」しないという道があります。フランス以外に積極的な国はありません。アメリカもドイツも消極的です。事故がこわいからです。恐らく日本も今後、撤退の方向へ少しづつ進み、原子力消極国家へ変わっていくでしょう。経済的にいかに有利でも、原子力エネルギーへ世論をもう一度よび戻すことは今後難しいと思います。
そうなると原子力発電を外国に売るという産業政策も恐らく立ち行かなくなるでしょう。それよりもなによりも電力の約三分の一を原子力に依存している今の国内の体制をすぐに中止することはできず、維持しながら、少しづつ減少させていくのは至難の技です。また国内各地に存在する54の原子炉の安全確保、ことに今度問題になった電源装置を万一に備え複数用意することなどの事故再発防止策が急いで求められねばなりません。
私は原子力発電については今度新たに知ることが少くありませんでした。簡単に解体することも廃炉にすることもできない厄介な装置だということは知っていましたが、使用済核燃料は水につけて冷却し、再処理するまでに10-50年も置いておくのだということは今度はじめて知りました。
重くて長い使用済みの、放射線出しっ放しのあれらの数千本の棒を最後にコンクリートで永久封印して抑え込むのに、何年にもわたって、「水」だけが頼りだというのはあまりにもプリミティブすぎて、可笑しいくらいです。焚火の跡に危いから水をかけておくのと同じで、人類の考えつくことは恐しく単純ですね。
自衛隊が水をヘリコプターで空から撒いて、青空に白い水しぶきが衆目にさらされました。あれじゃあダメだとみんな思いました。東京消防庁がホースで放水し、うまく行ったようですが、水が壁に当って飛び散ったり、うまく入らないケースもあったようで、放射能漏れが心配されています。関係者のご苦労には頭が下がりますが、暴れ出した巨獣を小人(コビト)が取り巻いて取り抑えようと四苦八苦している様子にもみえ、どんなに進歩した技術社会でも、思いつくことは子供のアイデアと同じです。
今度の事故ではっきり分ったことは、事故の正体は原子力の制御と活用の技術そのものの故障ではなく、電源装置やポンプや付帯設備(計器類など)の津波による使用不能という事態だということです。これを防止する保護措置を幾つも用意しておかなかったのは大失敗だといわざるを得ないでしょう。核燃料そのものは幾つもの防壁で守られていて、そのうち鋼鉄の圧力容器と格納容器は今でも安全です。熱を出しっ放しの使用済核燃料が悪さをしつづけているのです。それを抑える水、水を送るポンプ、ポンプを動かす電源、これらが使用不能になったことが事故のすべてでした。
私の記憶に間違いがなければ、ポンプはたしか海側にありましたね。外部電源の取り込み設備が使えなくなったことが最大の問題のようです。Aの電源がこわれたらBの電源・・・・・C、Dと用意しておくほど重大な予防措置が必要なはずでした。福島では非常用ジーゼル発電機が用意されていて、今回はそれが動いたのでした。しかしこれを冷却する必要がやはりあり、海側のポンプが流されて冷却できなかった、ここに致命的ミスが起こったのでした。設計ミスといわれても仕方がないでしょう。
津波のたえない地域です。今回は1000年に一度という規模の地震で、「想定外」だったことは分りますが、50年に一度、あるいは100年に一度の規模の地震がくりかえされる地域です。最悪の中の最悪を考える思想は果して存在したでしょうか。
原子力発電はどの地方でも怖がられ、地元の人は逃げ腰です。やっと設置を許してくれた地域に企業側は過剰期待し、あれもこれもと押しつけ、バランスを欠くほど無理が重なっていなかったでしょうか。福島第一原発は昭和42年スタートで、老朽化していなかったのでしょうか。
原子力発電は東電という企業の中でも荷厄介扱いされ、一種の「鬼っ子」であったということを聞いたことがあります。福島の事故が切っかけになって、日本の電力エネルギーの方向が少しづつ原子力から離れていく趨勢は避けられないと思います。そうなったときの安全確保は今まで以上に難しいといえるでしょう。なぜなら、企業は安全のための予算を渋り、人員配置を手薄にすると考えられるからです。各地方はさらに逃げ腰になるでしょう。国全体が「鬼っ子」に冷たくなれば、残された原発を安全に維持し、運転する情熱もしだいに衰えていくからです。しかし危険なものを抱えていく情勢は変わりません。
私はこのような未来にいちばん不安を抱いています。福島原発を抑止し、今の危険を解決するのは可能だと思っています。しかしこれから手に負えぬ50個の「火の玉」をいやいやながらどうやって抱き擁えていくのか、これが問題で、電力会社のテーマではなく、一国の政治のテーマです。
今の政治にその力のないことは歴然としています。現政権は東電という一企業に責任を丸投げして、無力をさらけ出しています。半年前に那覇地検に責任を押しつけたのと同じ手口です。
現政権に期待しないとしても、原子力から他の新しい何らかのエネルギーの開発に成功するまでの長い道のりを、危険な「火の玉」をあやしながらこれを利用し、しかも上手に「火」を消していく安全な道程としなければならないのですからこれは大変です。私どもはいずれにせよそんなことのできる新しい政治力の成立に夢を託さざるを得ません。