東北沖地震(二)

 十四日(日)も終日テレビを見ていました。仕事に手が着かず、落ち着かない一日でした。

 私は判断を間違えていました。犠牲者は予想外に少いように見えると書いたのは、押し寄せてくる水の前を走り逃げまどう人々の姿が初日のテレビの画面にほとんど映らなかったからです。避難はかなり成功したのかと思っていました。

 南三陸町というところの人口は1万7千人で、うち1万人が行方不明だと聞いてびっくりしました。宮城県警が宮城の犠牲者数は1万人を越えるとの予想を立てていると公表しましたので、逃げられずに家ごと水に流された人の数がおびただしく、あの粉々にされた木材の破片の山は犠牲者の隠された悲劇の証拠で、想像を絶する恐怖のドラマが展開されたことが分りました。

 公表される100人単位の犠牲者数は誤解を生みます。被害の総体はまだまったく掴めていないのだと思います。

 地震学者が1200年前の平安時代に東北でほゞ同規模の地震があったことが学会の総意で推定されていたという話は印象的でした。携帯電話が不通になったのは驚きでした。クライストチャーチから富山県に携帯が通じていたのに、今回は不通で、被害地は情報遮断を強いられました。超近代社会の無力は、原発事故でたちまち国内の電力不足が現実のものとなった点にも現われています。電話が通じないというようなことは戦争中にもなかったことで、情報化社会の盲点です。電力不足で電車が間引きされる今朝からの事態も、戦後の65年間ずっとなかったことでした。

 どういうわけか戦時中をしきりに思い出したのは、決して私だけではないでしょう。テレビは全局同じになり、BSも同じで、コマーシャルが消されて、どこのチャンネルも地震情報で画一化され、世界からその他の新ニュースを知りたいと思ってもそれはなく、ムード的に「挙国一致」があっという間に出現しました。「国難」という言葉が、普段はそんなことを言いそうもない菅総理と女性某大臣の口から出ました。

 「未曾有の大地震」と「壊滅的被害」はテレビキャスターや報道記者の常套句となりました。やむを得ぬ交代制の「計画停電」が告知され、途方もない不便が予想されますが、誰ひとり異を唱える者はなく、国民はこぞって粛々と「運命」を引き受ける様子です。急にガラっと空気が変わりました。あるキャスターは国民は今こそ落ち着いて我慢して行こうと訴え、ほとんど私はむかしの「欲シガリマセン勝カツマデハ」を思い出しました。

 管理された「停電」は私に戦時中の「ローソク送電」を連想させました。暗い夜に「懐中電灯」を用意せよ、のテレビの指示ににもなぜか私には昔の暗い夜への懐かしさを抱かせました。そういえば陸前高田という町の、壊滅した広々とひろがる大地に駅舎がポツンと残る光景は、あの懐かしい空襲後の焼跡にそっくりです。一晩中燃えつづけた気仙沼市の夜景は夜間空襲の惨劇を思い出させました。

 このような国民的記憶を喚起する事件はたしかに65年の戦後社会にはこれまでになく、阪神大震災のときとはだいぶ異なります。日本人が「国難」を本気で意識し、「復興」を叫ぶことばがメールやネットで飛び交っているのは悪いことではなく、原子力発電の重要性(なかったら大変なことになる)が広く分るのも無意味ではありません。

 自然災害の忍耐強い国民性はもともとのもので、そこに今度のような危機感、この国のもろさ、弱さ、頼りなさへの不安、いったい明日どうなるのだろうかという急激な変化に対する心もとなさが加わって、国民的緊張感が高まることは、それ自体久し振りの感覚で、国家としての「めざめ」に多少とも役立つことになるのかもしれません。

 けれども、さて、どうでしょう?いつまでつづくのでしょうか。少くともテレビの世界は遠からず元へ戻り、地震関連のニュースは激減し、本当はもっと解明されるべき悲劇のトータルな総体を地道に追及するパワーは、お笑いタレントなどのあのバカバカしい映像に席を譲ることに再び立ち戻ってしまうのではないでしょうか。

 コマーシャルを消した「挙国一致」の危機意識が地震以外の他のあらゆる方面においても一般的になって欲しいと思います。

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