脱原発こそ国家永続の道 (二)

『WiLL』7月号より

国にとっての「外部被曝」

 震災後の海と陸に展開された自衛隊の今回の救援活動を日本人は心強く思い、感謝の気持が高まっている。朝日新聞やNHKですら、国民感情を無視できなくなっている。自衛隊のおかげです、ありがとう、の気持ちは自然で素直だが、日本人はかつて戦地で戦う軍人にも、頼もしさとありがとうの感謝の気持ちを熱く抱いていたのである。子供の歌にも「肩ヲ並ベテ兄サント 今日モ学校ヘ行ケルノハ、オ国ノタメニ戦ツタ、兵隊サンノオカゲデスー♪」と歌ったものだった。今の自衛隊に対するのと変わらない自然で、素直な気持だった。
 
 理窟を言い出したのは敗戦後である。人間が愚かで卑劣になったのは戦後である。はっきり言うが、歴史を思い出すとき、なぜあの時代の国民の自然で、素直な感情に戻らないのか。「守る」ということは生命の本来の欲求で、人間がまともなら少しも難しいことではないのである。
 今回は原発事故だが、明日は外敵の襲来かもしれない。尖閣周辺は今もきな臭い。戦争を「想定外」として、いつまでも裂け目の外を覗き見る勇気のない国民には、そもそも原子力発電などを手がける資格がないのである。
 
 震災から二カ月半も経ったのに、被災地で弁当の配達をしているのは自衛隊員であるのを知って、隊員を本務に戻さない政府のやり方に怒りさえ覚えた。中央の官僚の大量投入と現地の被災民の組織化を、なぜしなかったのか。
 
 私は国を守ることも、文明を守ることも、家族を守ることも、自分の生活を守ることも、どれにも共通する「守る」ことに必要な条件があると考えている。それは最悪を想定し、最大限に可能な予防措置を施し、しかも平生はそれを忘れたかのごとく平穏に振る舞い、晴朗に生きる心掛けを創り出すことだと考えている。
 
 最近、放射能汚染をめぐって「内部被曝」と「外部被曝」の違いがよく取り上げられる。口や鼻から体内に入った前者は、後者に比べて破壊力が大きく、取り返しがつかない。この例にならって、国家も人体と同じように考えれば、国内に引き入れられた放射能の被曝は、国外から襲われる被曝よりも、よほど始末に悪い厄介なしろものだということが考えられねばならない。
 
 国にとっての「外部被曝」は、核攻撃と他国の原発事故の影響である。核攻撃から身を守るには、大国の核の傘に頼るか自ら核武装するか以外に方法はない。他国の原発事故の影響は防衛困難だが、日本は国境までの距離が大きいだけに、ヨーロッパに比べていくらか有利であるかもしれない。
 
 それに対し、「内部被曝」すなわち国内の原発事故は、土地が狭く、地震と津波の多い国土である日本は条件的に不利で、今度の経験から、原発はやらないで済ませられるならやらないに越したことはないと考える。「内部被曝」は、一人の人間の身体内と同様に、一つの国の国土内に起こると、被害は深層に入り、汚染は何十年と続く。
 
 しかも、核燃料廃棄物の最終処理が技術的に解決されていない以上、子孫に伝えるべき大切な国土が永久的に汚辱され、廃棄物をどんなに地下深く埋めても、地殻変動で将来どうなるものか分からない。国土は民族遺産である。汚染と侵害は許されない。

原発反対派に転じた理由 

 原発事故が起こってから、私は原発賛成派から反対派に転じた。考えを改めた。今まで原発賛成といっても、経済面で合理的で安全なものなら反対する理由はないと思っていただけで、無関心派に近かった。格別そこに道義や理念を持ちこんで考えていたわけではない。たかがエネルギーの問題で、国家の価値観や歴史の尊厳とは関係がない。
 
 しかし、福島の事故が起こって、原発は経済面で合理的でもないし、安全なものでもないと分かったし、国家や歴史を犯すものと分かった以上、人は選択肢を変えることに躊躇すべきではない。人間は経験から学ぶべきものである。
 
 自分を「守る」とはどういうことか。最悪の事態を想定して生きることであるとさきほど申し上げた。治にあって乱を忘れぬことである。しかし、乱をよろこぶということでは決してない。しなくて済む乱は、これを避けるに越したことはない。
 
 原発の選択は本当に不可避であったか、これまで真剣に問われないできたし、代替エネルギーの開発も原発が合理的という声に抑えられて本格的になされないできた。これから問われ、かつ急速に研究推進されるであろう。
 
 よくこういう問題で、「勇気」を持ち出す人がいる。ことに保守派に多いが、たかが事故の一つや二つ起こったくらいでオタオタするな、というのである。しかし、正直いって私はオタオタしている。福島の情勢が悪化することを、私は最初からひどく心配してきた。その徴候はいま現にある。別の原発で二度目の事故が起こることをさらに心配している。ダブルパンチを受けたら、この国は本当に亡びるかもしれない。
 
 体内の「内部被曝」の怖いことがよく分かった。国も同じで、内側がやられたらもう手に負えない。「勇気」を発揮しようにも発揮できなくなる。勇気や精神力を持ち出すケースでないことは、あまりにも明らかだろう。外敵と戦うのとは違うのである。
 
 それに、子を持つ母親の恐怖は深い。女性の参政権の強いこの国では今後、原発賛成では選挙に勝てないだろう。自治体は財政をかかえるから、すぐに反対はいえないだろうが、一般住民の意識ではすでに原発反対が圧倒的多数を占めている。日本国民は賢明で常識を具えている。

天使のような侵略
 
 私たちは、日常の裂け目からいったん奥を覗き見たのだ。奥にある破壊の相を目にした以上、生命力は奮然としてそこから身を守る戦いを開始したのである。今までの平穏で長閑な日常には、もう戻れないかもしれない。

 「守る」とは何か。本当の「勇気」とは何か。原発に必ずしも反対でなかった者が、私のように突然、慎重になると、戦争支持者が戦後突然、替わり身早く戦前を否定するようなことを言い出すのと同じ話だと騒ぎ立てている人がいるらしいが、これは見当違いも甚だしい。
 
 原子力発電は中曽根内閣からはじまった。そして、経済界が全面的にこれをバックアップした。私はかねて国家というものは政治、経済、外交、軍事の四輪が平均的に揃ってはじめて前へ進める車のようなものとしきりに言ってきた。日本のように、経済だけ突出した商人国家像を否定してきた。中曽根から小泉に至る自民党政治と経団連との野合を批判してきた。最近では『日本をここまで壊したのは誰か』(草思社)で、表紙に人名を刷って、中曽根康弘、後藤田正晴、宮澤喜一、河野洋平、小泉純一郎、小沢一郎、鳩山由紀夫のほかに、あえて奥田碩、御手洗冨士夫、小林陽太郎、北城恪太郎の四人の財界人を告発した。この商人国家路線が、いよいよここにきて破産したのである。自民も民主も同じ穴の狢である。3・11にはじまる原発事故が、日本の国家路線にNO! を突きつける警告のメッセージを発したと考えている。概略すればこうだ。
 
 一九九三年に同時成立した江沢民とクリントンの政権に脅され、絡め取られて再敗戦国家を演じつづけてきたわが国は、米中両国に屈服し、3・11で沈没しかかり、オバマの派遣した大艦隊の「トモダチ作戦」によって、権力の真空地帯を守ってもらった。東アジアに生じた権力の空洞は中国、北朝鮮、ロシアの垂涎の的である。しかも、福島原発はアメリカの危機感を別の面でも揺さぶった。
 
 アメリカのエネルギー政策の進路は、日本の原発の行方にかかっている。加えて万一、放射能が東日本を蔽い、四千万人が西へ移動するパニックが発生すればこの列島は無政府状態になり、アメリカは「臨時政府」を考えなくてはならない立場だ。かつての南ベトナムや南鮮の再来である。あの素早い大艦隊の派遣には、戦後史の記憶が宿っている。ルーピー鳩山以来、ますますアメリカからは日本がそういうレベルの国に見られているのは間違いない。
 
 しかし、私はふとこうも思う。日本は完全に堕ちるところまで堕ちるがよい。アメリカに作ってもらった「臨時政府」は、アメリカの手を借りてようやく「憲法改正」を果たすだろう。アメリカはなにしろ「トモダチ」である。嗚呼! わが国は堕ちるところまで堕ちて、悪魔のような侵略にではなく、天使のような侵略にさらされるがよい。
 
 そして、戦後もそうであったように、国柄そのものを奪われていく。戦後GHQは日本の左翼を利用して伝統文化を破壊したが、今回はオバマが民主党を利用して、TPPや外国人参政権その他を使って、わが国を再占領国家にふさわしく、中国やロシアや朝鮮半島に差し出す操り人形に仕立てあげるだろう。

つづく

「脱原発こそ国家永続の道 (二)」への3件のフィードバック

  1. 「国家とは政治、経済、外交、軍事の四輪が平均的に揃って前に進める車のようなもの」「日本のように、経済だけ突出した商人国家像を否定してきた。」の行を読んで、真に同感している者です。しかし政界、言論界を観てこの事を強弁している有識者は先生のみであり、賛同者は私のみであると言って冗談にならない程に、国民の経済への偏愛と軍事への”偏憎”は甚だしくなっていると思われます。何故でありましょう。この先が残念ながら先生と意見、立場が対立する様に思われます。私は先時大戦が、日本民族にいわば戦争アレルギーを植えつけてしまったと判断する者です。先生の著作を読んで、先時大戦中日本にも、GHQがもみ消したぐらいに正当で立派な戦士軍人、国民がいたことは理解しました。しかしそれは少数であったのであり、多数は、独裁的な軍国主義の無謀な戦争の加害者でありかつ被害者であったというのが私の立場です。(ここで先生は怒り心頭となるか、呆れてものも言えないかのどちらかでありましょう。)先生は大岡昇平や司馬遼太郎が体験で躓いていると仰いました。私見では先生も体験で躓かれているのではと思います。かく言う私も体験で躓いています。イラク戦争の反政府派の執拗な自爆攻撃で戦争の理不尽な一面はとことん感じ入りました。しかし、私は一部を見て全体を見失う躓きからは自由でありたいと思い、義戦を信じて、戦後日本という三輪車に軍事の一輪の再装着を要求し、経済突出の商人国家像を否定する者であります。

  2. >日本は完全に堕ちるところまで堕ちるがよい。

    私も、最近、同じ様に思う様に成って来ました。非常に情け無い事此の上無いのですが、ドン底迄堕ちる以外に日本民族の目が覚める事は考え難く思います。

  3. 追加訂正です。
    私は自己のコメントの中で、「執拗な自爆攻撃」と書きましたが、
    追加訂正します。正しくは、「執拗な自爆テロ攻撃」とします。

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