謹賀新年(五)

 年末から年始にかけては独特な忙しさがある。それがいやで、正月は嫌いだという人も少なくない。そういう忙しい時期を津波のように襲ってくるのが年賀状である。

 準備が容易ではない。私は印刷と宛名書きまでは他人の手に委ねている。そこから先は自分の仕事である。ひとりひとりに寸言を記す。今年は約1000枚なので、全部にはとうていできない。

 しかしそれよりも時間を要するのは、元旦の配達から発送リストに合わせて、到来したか否かをチェックする仕事である。住所の変更も確かめる。7日ぐらいまでこれがつづく。そんなことをしなければ良いと思うかもしれないが、ある著名な作家から82歳になったので年賀状を止めるので来年から出さないでくれと書いてきたし、ある物故した私の先生の奥様のご家族から、母は養老院に入ったので、永い歳月のお付き合いを感謝しますと認めてあり、暗に来年から賀状は寄越さないでほしいという意味を認めてある。

 これらは今年のうちにリストから消しておかないと、来年も機械的に発送され、迷惑をかけることになる。一年間で住所を変更した人が少なくない。これらも今年のうちにリストの住所を修正しておかないと、来年は宛先不明で戻ってくる年賀状の山が築かれることになる。郵便局が旧住所でも届けてくれるのは一年間に限られるからである。

 それやこれやで、正月は賀状の山と格闘する時間がバカにならない。津波のように襲ってくるこの波に耐え、何とか泳ぎきると、もう休み明けの日常が始まっている。毎年こんな調子である。

 他の人はどうしているのだろう。やはり年賀状に苦労しているのだろうか。それでも昔と違って、年始回りをしないし、年始客も来ない。年賀状くらいは最後のつとめとも思う。

 昔は元旦に、近所の奥様が正装してお互いの家に挨拶回りしていた。母が応対していた。午後になると必ず羽子板の音が聞こえた。獅子舞いもあって、門付けといって若干のお金を包んで渡した。若い女性は大晦日のうちに髪結いに行って丸髷げに結ってもらって、初詣は必ず和服だった。

 大晦日は美容院も床屋も明け方までやっていた。初詣の神社の境内は、私の記憶では1975年くらいまで、女性の華やかな和服姿で一杯だった。私は正月二日か三日に何軒かの先生や先輩の家に年始のご挨拶に伺い、馳走に与った。

 あんな時代もあったなァ、と思う。会社や団体のお偉いさんの家ではやはり今でも、元旦から千客万来なのだろうか。私は世間のこの面には疎くなって、他家の様子がもう分らない。

 さて、年賀状に戻るが、今年来た中で、印刷されていた文言にハッとなって、私の目を射た一文があった。ご本人の承諾を得て掲載する。元『文藝春秋』編集長の堤堯氏からの賀状である。

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謹賀新年

台湾の命運が気になります。いまやアメリカは独立へ向けての住民投票にすら反対します。かつて米中国交回復のおり、二十年来の忠実な同盟国を冷酷に切り捨てました。日米安保も不変ではあり得ません。ここ数年が、日本の岐路と思われます。

今年も変らぬご健勝を念じております。
2005年元旦

堤  堯

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 住民投票の「住民」に傍点が付ってあった。アメリカは自国の流儀を他国に強制して恥じない。自国の法律を他国に当て嵌めることにも躊躇しない。北朝鮮人権法がそれである。しかし法を施行するかどうかはいつも自国の事情次第である。

 北朝鮮にはせっかくつくった法を発動せず、台湾には法がなくても住民投票にまで無遠慮に干渉する。そういうことになるかもしれない。すべて自国のご都合主義だからである。

 9・11ニューヨーク同時多発テロまで、アメリカは中国を仮想敵国とみなし、包囲網をつくりつつあった。最大の敵はテロだということになって以来、対中国政策を緩和した。中国はその好機をつかんで、巧妙に立ち回り、経済維持につとめている。

 この両国の良好な関係がいつまで、どこまでつづくか分らない。

 堤氏の言う通り、日本は最悪のことを考えておかなくてはいけないのかもしれない。それでもアメリカが100パーセントの鍵を握っているのではなく、台湾防衛に日本がどういう意志をもちどれだけのことをするかひとつで、情勢は少からず左右されるはずである。

 「ここ数年が、日本の岐路と思われます」は、他の何人かから来た賀状にも認められてあった。戦後60年はやはり戦後50年とは少し違うようである。戦後50年は国会謝罪決議などというばかげた猿芝居に現(うつつ)を抜かしたが、さすがにもうそういう空気ではない。

 最後に、年賀状ではないが、「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」の「読者の声」に私と私の講演に関する記事があったので、転載させて頂く。宮崎氏を介して、筆者のご了解を得てある。

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(読者の声2)『いま日本は、いわゆる生ぬるい保守と「共産主義と一体化していた左翼進歩平和主義」とが対立しているものではもはやない。後者は例の゛週刊金曜日゛に屯するていどの矮小グループに転落した。代わりに保守が二つに割れて、日本改造の構想力をもつ行動的保守と、リベラル左翼にほぼ重なっている生ぬるい現状維持の保守、外交的にいえば中国不信派と中国眉態派、威嚇や恫喝に屈しない派と威嚇されれば無限に謝罪する派とに分裂し始めているといってもいいであろう。』以上は《愛国者の死》と題した西尾幹二氏の、坂本多加雄氏追悼文の一節です。年頭この論に接して自分らは”日本改造の構想力をもつ行動的保守”に連なりたいと誓い、また”中国不信派”・ ”威嚇や恫喝に屈しない派”でありたいと念じます。
西尾氏は昨年11月の福田恒存氏に関わる講演会で <文化や学問で人は果たして死ねるか>というマックス・ウェーバーの言葉を引用しています。この鋭い刃を持った言葉を日本の知識人に突きつけたのが福田恒存氏であると。命を懸けてというと誤解を招き反論を浴びるもの云いですが、旧制高校、旧制大学に蔓延った『知的あり方』とそこを拠所とした”知識人”が批判の的です。
微温的で、閉ざされた狭い世界で限られた仲間と薄っぺらな知識と軽薄な自尊心で民を啓蒙しているとうぬぼれている日本の”知識人”への痛罵です。知識や論を弄ぶ輩は所詮いのちを差し出してまで事を行なう覚悟はあるまいという卓見です。その意味で三島由紀夫は日本文化を守ろうと命を懸けた例外的な稀有の存在です。
『日本人が国境を越えた外のものに公平で、憧れをもって遠望し、近づいてくれば無邪気にこれを歓迎するのは、太古からの本能みたいなものではなかろうか。縄文以来といえばべつに証拠はないので大げさといわれるかもしれない。』(諸君掲載の西尾氏論文より)。
そんな無邪気な日本人はいつになったら福田氏の悟達に至れるのでしょう。
文化面だけではありません。80年代あれほどうまくいっていた日本的経営を守れず、90年代にグローバル・スタンダードというアングロ・サクソン基準で見事なまでに欧米に食い潰されボロボロにされた日本経済。それに手を貸したMBA帰りの同胞諸兄。日本の安全、国民生活の安寧を守ることが言葉や言論を以ってどこまで可能なのか。自らを助けることが出来る国に果たしてなれるのか。
それは何時になるのか。そんな自問自答を正月、半酔半醒の中でしています(笑)。
          (しなの六文銭)

 
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 私の昨今の意向をよくつかみ取って下さった一文にあらためて感謝する。この手の文が宮崎正弘氏のメルマガに掲げられ、私の日録の感想掲示板には出てこないのは遺憾である。

「謹賀新年(五)」への1件のフィードバック

  1. 人類史は六十年周期で動くと言う説があります。
    陰陽五行は十干十二支で六十年、経済学における波動理論もエリオットが十年、
    コンドラチェフは五十年・六十年で周期を認めています。
    洋の東西を問わず、陰陽五行や古代エジプト時代より続くといわれる黄金比に基づくフィボナッチ数列が同じようなことを指し示し、
    六十年を人間歴史のある一つの周期としていることはある種古代よりの普遍の人類の英知の表れかもしれません。
    http://www.findai.com/yogo/0068.htm
    http://www.ntaa.or.jp/technical/theory/theory_Elliot.htm
    http://www.ntaa.or.jp/technical/theory/theory_Elliot.htm
    今年は奇しくも戦後六十年、我が日本民族にとっての正念場とも言えましょう。

    また、昨今の米国の「ラスト・サムライ」なる映画に端を発した武士道ブーム、司馬史観などに基づく「坂の上の雲」などをベースにした日露戦争における秋山真之を描いた「日露戦争物語」というマンガがブームになっています。
    http://www.mirai.ne.jp/~ash/comic/cm011107.html
    新渡戸稲造の「武士道」も売れています。

    ただ私には、これらのブームは単なる報われぬ現実生活の閉塞感をひと時だけ忘れるためのある種の薄っぺらいカタルシスからくる似非武士道と思えてなりません。

    今昔物語集にある河内守源頼信の説話がある本で紹介されているのを見てその思いを強くしました。
    源頼信は平忠常の乱を平定し、清和源氏が関東に勢力を伸ばす礎を作った人物とありました。

     -引用-
     頼信が上野守だったとき、近くに住んでいた頼信の乳母子の藤原親孝が頼信の館に駆け込んできた。捕縛した盗賊が枷を外して逃げ出し、親孝の幼い息子を人質にとって倉庫に立て篭もってしまったのだという。
     泣く泣く状況を語る親孝に頼信は、「そんな子供一人くらい突き殺させてしまえ」と笑って言い放つ。もちろん妻子は大事だが、これが合戦の最中であれば、妻子の安全を心配している余裕はない。
     そうは言いながらも、情宜に厚い頼信は、「まあ俺が行ってみてやろう」と、盗賊の立て篭もる倉庫に向かった。
     盗賊は現われたのが頼信と知って狼狽する。そこで頼信は盗賊に「お前が人質をとったのは自分が生き延びたいがためか、それとも子供を殺すのが目当てか。はっきり答えろ」と問い質す。盗賊がか弱い声で「命が惜しいためだ」と答えると、「それなら刀を捨てよ。頼信がこう言うのだから、捨てぬとは言わせぬ。俺がどんな男かは、お前も知っているだろう」この言葉に盗賊はシュンとなり、あっさりと投降した。
     頼信の問い掛けは説得や交渉の言葉ではなく、宣戦の意思の有無を二者択一で突きつける最後通牒である。その気迫、眼光、容姿、身のこなし、声・・・尋常ならぬ気合のこもった頼信の一言は頼信その人の全実力の表現だったのだ。
    -引用ここまで-

    この話は中国や北朝鮮に対する我が国の取るべき態度を示唆すると同時に、私には頼信に西尾先生を髣髴とさせるものを感じました。
    剣をペンに変えれば、その覚悟、気迫、舌鋒の鋭さ・・・まさに西尾先生の言説そのものと言えましょう。

    さて、話は戻りますが今年は戦後六十年の大きな節目の年であり、正念場の年。
    武士の身ならぬ我々も、常有戦場の心構えで持って、口だけ保守、なまくら保守・・・「保守言論オタク」とならぬよう、
    厳に身を引き締めてまいりたいと思います。

    西尾先生のご紹介になった文章の「微温的で、閉ざされた狭い世界で限られた仲間と薄っぺらな知識と軽薄な自尊心」という箇所は堪えました。
    我が国の官僚・政治家のみならず、我々皆が持つ心の虚を突かれたような思いです。
    中島敦の山月記の一節にある、”臆病な自尊心と、尊大な羞恥心”を思い出してしまいました。
    参考リンク:山月記http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/624_14544.html
    いくらたくさん本を読もうが知識を得ようが、そこから何を掴み取るか、自分の血肉として以後の行動に生かせるのか、博覧強記を吹聴し自己満足するだけではただのオタクに過ぎないと、以って自戒の念しきりであります。

    日録掲示板http://nishio.main.jp/masa/c-board354/c-board.cgi?cmd=one;no=311;id=
    で「知に溺れる自慰行為依存症者」という文言にもドキっとさせられ、知もないくせに知に溺れる自慰行為依存症者になりたくないと述べたばかりですが、知の泉に分け入りたいと存じますので、ぜひその道しるべとしての一灯を西尾先生に求めさせていただきたいと勝手に思っております。

    「一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うること勿れ。只だ一燈を頼め」

    上の文章は幕末期の儒者の佐藤一斎先生のものです。
    佐藤一斎先生は吉田松陰先生の師匠の師匠に当る方です。
    明治の元勲と言われる西郷隆盛が座右の書としていたのが、佐藤一斎先生の言志四録です。

    -以下は松下政経塾第23期生/上里直司氏のレポートより抜粋-

    佐藤一斎と言志四録

    言志四録を著したのは江戸後期の儒者、佐藤一斎である。
    1772年、美濃の巌邑藩の藩政を執った家にて生まれる。
    21歳の時、願いによって士籍を脱し、諸国で見聞を広めたのち、儒学の道で身を立てる決意をした。
    幕府大学守林家の塾長を経て、55歳で巌邑藩の老臣となる。
    その後、70歳にして昌平黌(昌平坂学問所)の儒官となり、1859年、享年88歳にて官舎で亡くなるまで、儒学への追求はやむことがなかったという。

    言志四録は、佐藤一斎が林家の塾長となって、塾生に教えていた42歳から晩年の40年にわたって、4篇の文を書き綴ったものである。
    この言志四録、西郷隆盛のみならず、幕末の志士に多く読まれたようだ。
    彼の門下生に幕末の志士に大きな影響を与えた佐久間象山、横井小楠の存在があったからだと思われるが、
    それだけでなくこの文章に書き綴られた言葉がまさに志を発奮させ行動を促しているから幕末の志士が好んだのでないだろうか。
    この書は、現代においても政治家、経営者の行動指針となっているようで、今なお生き続けているといえよう。
    もちろん私の行動指針ともなっており、私が座右の銘としている言葉を紹介したい。

    「一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うること勿れ。只だ一燈を頼め」

    この文章は西郷の手抄言志四録にも挿入されている。
    訳文の要らないほどのシンプルさであるが、あえて意味を付け加えると、

    「暗い夜道を歩く時、一張の提灯をさげて行くならば、如何に暗くとも心配しなくてよい。ただその一つの提灯を頼りにして進むだけでよい。」

     という意味である。どんな人間であれ前の見えない道を歩む時、不安に感じるものである。
    そんなとき、心の中に一つ灯火(ともしび)があると非常に心強い。
    また、灯火は暗闇において、自分の歩むべき道を照らしてくれるのに役立つものだ。
    -引用ここまで-

    皆の一燈たる西尾先生へ

    Web engineer拝

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