全集の第2回配本、第一巻『ヨーロッパの個人主義』が出ました。私の最初の二作品『ヨーロッパ像の転換』と『ヨーロッパの個人主義』が収録されていますが、じつは巻全体の約半分は、個別のさまざまな小篇と竹山道雄先生との対談で埋められています。
以下に目次を掲げますが、さまざまな小篇の色替えの個所は、私の若い頃の単行本にも収録されていないできた置き忘れられた文章群です。
色替えでないものは、一度は単行本に収められていた文章群ですが、今では覚えている人はほとんどいないでしょう。さらっと書かれたこれらの小篇は、自分で言うのも妙ですが、そう悪くはないのです。
当時本当にたくさん書いていたものだと自分でも思います。ヨーロッパに関するものに限ってもこれだけありました。
Ⅰ ヨーロッパ像の転換
序 章 「西洋化」への疑問
第一章 ドイツ風の秩序感覚
第二章 西洋的自我のパラドックス
第三章 廃墟の美
第四章 都市とイタリア人
第五章 庭園空間にみる文化の型
第六章 ミュンヘンの舞台芸術
第七章 ヨーロッパ不平等論
第八章 内なる西洋 外なる西洋
第九章 「留学生」の文明論的位置
第十章 オリンポスの神々
第十一章 ヨーロッパ背理の世界
終 章 「西洋化」の宿命
あとがき
Ⅱ ヨーロッパの個人主義
まえがき
第一部 進歩とニヒリズム
< 1>封建道徳ははたして悪か
< 2>平等思想ははたして善か
< 3>日本人にとって「西洋の没落」とはなにか
第二部 個人と社会
< 1>西洋への新しい姿勢
< 2>日本人と西洋人の生き方の接点
< 3>自分自身を見つめるための複眼
< 4>西洋社会における「個人」の位置
< 5>日本社会の慢性的混乱の真因
< 6>西欧個人主義とキリスト教
第三部 自由と秩序
< 1>個人意識と近代国家の理念
< 2>東アジア文明圏のなかの日本
< 3>人は自由という思想に耐えられるか
< 4>現代日本への危惧―一九六八年版あとがき
第四部 日本人と自我
< 1>日本人特有の「個」とは
< 2>現代の知性について――二〇〇七年版あとがき
Ⅲ 掌篇【留学生活から】
フーズムの宿
クリスマスの孤独
ファッシングの仮装舞踏会
ヨーロッパの老人たち
ヨーロッパの時間
ヨーロッパの自然観
教会税と信仰について
ドイツで会ったアジア人
【ドイツの悲劇】
確信をうしなった国
東ドイツで会ったひとびと
【ヨーロッパ放浪】
ヨーロッパを探す日本人
シルス・マリーアを訪れて
ミラノの墓地
イベリア半島
アムステルダムの様式美
マダム・バタフライという象徴
【現代ドイツ文学界報告】
ヨーゼフ・ロート『物言わぬ預言者』()マルティン・
ヴァルザー 『一角獣』()ギュンター・グラスの政治参加
()ネリー・ザックス『エリ』()ハインリヒ・ベル
『ある公用ドライブの結末』()シュテファン・アンドレス
『鳩の塔』()ペーター・ハントケ『観衆罵倒』()
ロルフ・ホホフート『神の代理人』()批判をこめた私の総括
()ペーター・ビクセル『四季』()
フランツ・カフカ『フェリーチェへの手紙』()
スイス人ゲーテ学者エミール・シュタイガーのドイツ文壇批判()
言葉と事実――ペーター・ヴァイス小論()Ⅳ 老年になってのドイツ体験回顧
ドイツ大使館公邸にて追補 竹山道雄・西尾幹二対談「ヨーロッパと日本」
後記
willの論文読ませて頂きました。
雅子さんの常軌を逸した行動には、呆れ歎じておりましたが、
立場のある方が強力な発言をされているのを、頼もしく感じました。
雅子さんは、小和田家にお帰りになるのが一番だと思います。
スレッドの書き込みは凄まじくて、生活保護不正受給者とまで書かれていて、言いえて妙と感心しました。
とにかく国の負債が未曾有の1000兆円にも上る現在、彼女にこれ以上不要なお金をかけて欲しくないし、東宮の無駄な職員ー一説には50人以上、賄い方、警備要員はまた別勘定だとかーも即削減して欲しい。
これからも、メディア、新聞・雑誌等に緊急発言を望みます。
全集の二回目の配本が届いた。
小篇から読んでいる。「フーズムの宿」は一度読んだことがあるはずなのに、新鮮な感じで読んでいる。北ドイツの田舎町の光景が、自分がぶらりと旅をしているように浮かんでくる。そのちょっと寂しい雰囲気や、小さな街の様子。・・・・・・お世辞ではないが、本当に文章がいい。べたっと色を塗るような表現の文章ではなく、なんていうのか良く分らないが、情景をそのまま空気や温度や風までも写し取ったような・・・・。
なんだ?この文章の上手さは・・・・・。
ヨーロッパに旅行する日本人は多くなったが、こんな田舎町にはほとんど訪れる観光客はいないんだろう。そういう田舎町にこそヨーロッパの神髄があるのかもしれない。
西部進発言者、三島由紀夫研究会、漁り火会、等々参加しましたが、最近気付きました。西尾先生の発言がどれだけ正鵠を得ているか。
憂国のリアリズムを読んで衝撃を受けまし。西部進などの保守と言われる大物知識人達は、戦後日本の問題を抽象論で誤魔化し、決して本丸に踏み込もうとしなかった。
この様な態度は何らかの利害が有るとしか思えないのであるが、今回、西尾先生が本当の知識人として初めてここまで踏み込んだ発言をしたことは大変な驚きであると同時に、この勇気を讃えたいと思います。
「憂国のリアリズム」を拝読いたしました。
率直な私の感想は、ついに本物の知識人がここに踏み込んだか、というものです。
今まで、まともな知識人はこの議論を避けてきました。
気違い扱いをされるので当然でしょう。
西部進などは、保守を標榜しながら、泥沼の縁に西洋思想という鉄筋コンクリートの要塞を作り、決して落ち込まぬようにし、ただ抽象論に耽っているだけの有様です。
知識だけを蓄えるのならウィキペディアにまかせればよいのであって、この頭のよい男は作られた知識人ではないかとさえ思えてきます。
今回、明らかに己に不利益になると判りながら、西尾先生があえて、ここに踏み込まれたのは、よほどの思いがあったと察することができます。
今まさに、この日本に必要なことは憂国のリアリズムであると思います。
「保守」をカッコイイ看板に担ぎ上げた西部進氏に言及され、思想的根拠にエドマンドバークなどを代表する外国の思想家を求め、日本の歴史のなかに必然性を発見できてないと指摘されておりますが、まさにこのことが大問題です。
西部進氏は自らを福田恒存の一番弟子のごとく表明しておりますが、私から見て、福田先生とは全く異質のものであり、むしろ福田先生なら嫌悪したタイプの人間ではないかと感じます。
西部進氏の発言は、いつも、エドマンドバークが〜と言ったとか、オルテガが〜と言ったとかの、このパターンであり、記憶媒体のような人間で、誰かのアイデアを記憶し、それをアレンジし、大衆に向け発表するのが目的であるように感じます。
これを、カッコイイ知識人と思った人々が「保守」を標榜するようになっており、最近の保守を標榜しメデアに登場する者達の発言は、単なる自己宣伝であり、かつて福田恆存先生が冗談まじりで言った、「責任を己に求めるのが右翼であり、外に求めるのが左翼である」の定義を借りると、明らかに左翼的な人々が自称「保守」を標榜しているのです。
西尾先生がこのことに気付かれていることにほっとしました。
西尾先生がおっしゃるように、三島由紀夫は決して己を「保守」とは言いませんでした。
確かに、命がけで説いた情熱は大事です。
しかし、なぜ、命を賭ける必要があったのか?
私が思うに、三島由紀夫はかなりのマルチ人間であり、その才能が故に自己矛盾も抱えていたことも理由の一つだと思いますが、結局、己の追求をした結果、当時の平和ボケし、左翼思想に犯された日本人に、理屈では説明出来ないもの(最後の言葉で、自分のディオニュソス的なるものを天皇制だと言っております。同時に、今の天皇には興味が無いとも言っております。)に命を賭けて見せたのだと思います。
ちなみに、当時防衛大臣だった中曽根康弘は気違い沙汰と簡単に切り捨てました。
愛国心(パトリオティズム)は理屈で説明するものではないと思います。
日本では意図的にナショナリズムと混同して使っております。