私の書くものは全て自己物語(一)

 『WiLL』2011年12月号が「西尾幹二全集刊行記念特別対談」と銘打って、遠藤浩一さんとのトーク「私の書くものは全て自己物語です」という10ページ仕立ての企画を打ち出してくれてのは大変にありがたく、あらためて編集部にお礼申し上げる。

 このトークの全体を四回に分けて掲示する。

出会いは高校三年生

遠藤 私が西尾先生とはじめて出会ったのは、三十五年前の一九七六(昭和五十一)年のことで、まだ高校三年生でした。私が通っていた石川県立金沢桜丘高校の創立記念祭で、講演をしていただいたことがきっかけです。

西尾 数年前に、遠藤さんが電話でその講演の話をなさって、内容をすっかり忘れていた私に「ちょっと待って下さい」と言ってどこからか講演録をさっと持って来られた。「どこにあったの?」とその早さにビックリしていると、書棚にいまでも置いてあると聞いてさらにビックリ。大いに感激したのを覚えています。

遠藤 その講演を聞いて、まさに目から鱗が落ちる思い、知的刺激というものをはじめて体験した瞬間でした。「個人・学校・社会─ヨーロッパと日本の比較について」と題したお話でした。いまから考えると、高校生を前に、よくこのような内容でお話しされたなと感心してしまうのですが(笑)。

西尾 ちょうどモントリオールオリンピックの年で、たしかその話題からはじまったかと。

遠藤 オリンピックの選手たちは一体、なんのためにトレーニングするのか、君たちは何のために受験勉強するのか、どちらも自由な意志のなかでやっている。そして、自由とは孤独であり、そのこと自体に価値がある、とのお話からでしたね。

西尾 韓国の選手たちは金メダルを取ると高い報償金をもらえるのに、日本の選手にはそれがない。しかし保証のない自由、それが本来の自由だ。自由とは自己決定であり、自己決定とは安全とはかぎらず、身を誤るそれなりの危険や毒を孕んでいる、それでよいのだ、というようなことだったかな。そこいらからはじまって……。

遠藤 人間はもともと毒や危険を抱えている存在であり、そういった自己を直視すべきだという物の見方を示されて、人間を、世間を見る視点を得たような気がいたしました。それから、西尾先生の様々な書籍を読みはじめたわけですが、若い頃はとくに文学論に関心を持ちました。芥川賞作家の日野啓三氏の『天窓のあるガレージ』に対する批評は鮮烈でした。  人は仕切りのなかで自由というものを感じはじめる。仕切りがあることは実は幸せであるという批評文を読み、これはよほど面白い小説に違いないと思って読んだのですが、小説自体は面白くもなんともなかった(笑)。

西尾 一人の少年が天窓のあるガレージに一日中閉じこもっていると、そこに蜘蛛がツーと落ちてきて、やがて夜空に月が上がるという、それだけの話です(笑)。

遠藤 自分の部屋に閉じこもって一日中インターネットをやり、そこだけが外界との接点になっているという現在の多くの若者像とも重なる話なのですが、「自由」というものの本質を抉る批評でした。

西尾 現代人が自閉的になりがちなのは、宇宙開発とか、一万三千年前の縄文時代とか、科学が「自由」を拡大したことと関係がありますよね。空間的にも時間的にも広がり過ぎて、自閉は自己防衛なんです。生命維持装置なんです。今回の全集の第十一巻「自由の悲劇」はそのテーマでした。戦前にはなかったテーマですよ。「自由」という概念については、第十三巻「全体主義の呪い」も実は自閉と自由の問題でした。

「自由」が与えられた恐怖

遠藤 「全体主義の呪い」は、一九八九年のベルリンの壁崩壊以後の東ヨーロッパ情勢について、先生が実際に現地を歩かれ、取材されたルポルタージュですね。

西尾 一九九二年というベルリンの壁崩壊から間もない時期に、東ドイツ、チェコ、ポーランドに行き、ジャーナリスト、哲学者、詩人と「自由」を語り合った探訪記です。日本人には心を開いて語ってくれました。ドイツ人や他のヨーロッパ人には引き出せないような討議だったと思いますよ。「自由」のない閉ざされた共産圏の人たちはかえって安定して生きていて、ベルリンの壁崩壊で突然、「自由」が与えられた恐怖に襲われているのではないか、と観察しました。  彼らは「西側の自由主義社会では敵が見えなくて恐い」「自由はテロールである」「言論の自由も恐いが、商品の自由も恐い」などと語り、セックス情報の氾濫や商品の洪水へのめくるめく思いにおののいていました。

遠藤 東ヨーロッパで暮らしていた人たちは、物資と情報が極端に不足した社会から、突如として物資と情報が極端に溢れかえっている社会を目の前にして、目眩を覚え嘔吐したとお書きになっていますね。

西尾 ある東ドイツの知識人が西ドイツに来て、高い山の広い所に出たとき突然、「小さな狭い檻」に閉じこめられた幻覚に襲われ、嘔吐したという体験を語っています。子供のときから、小さな狭い檻に入れられて息を殺して生きていたからです。

遠藤 日本だって同じですよ。民主党という幼い政党が政権を取り、権力というものの前で当惑してこれを弄び、失敗を重ねている。そのイメージと東ヨーロッパのお話は、ピタリと一致します。  つまり、野党という仕切り、あるいは壁のなかで、これまで思う存分いわゆる「政治ゴッコ」をしていた人たちの眼前に突如、権力という巨大なものが現れたときに、彼らにまともな政治的感受性があったならば、当惑して……。

西尾 目眩を覚え吐き気を催さなければならない(笑)。

遠藤 そうです。つまり、西尾先生が指摘されていた問題はいまも残っている。本質的、根源的な提起をされてきたということです。

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