中国人スパイ事件と八木秀次氏(一)

 藤岡信勝氏の「つくる会を分裂させた中国人スパイ」(WiLL8月号)は反響を呼んでいる。氏は9月号にも続篇を書くべく準備を進めているようである。

 「つくる会」分裂は私の身にも及んだ痛恨事だった。私も当時から思い当る節があり、分裂に至ったいきさつには「なにか外からの強い力が働いた結果」という推定を下していたが、今度の李春光スパイ事件であゝそうだったのか、成程、と合点がいった。

 分裂に至ったいきさつは予め会に複数の新勢力が理事としてもぐり込んでいて、私が名誉会長を退任したスキを突いてクーデターに起ち上がり、つくる会乗っ取りを策したこと、それと前後して八木秀次会長(当時)が理事会に諮らずに中国を訪問し、有能な学者ではなく同行した事務局員を代表に仕立てて中国の学者たちと討論したことに端を発する。その余りの不用意と行動の軽さが会員の怒りを買った。

 私は『諸君!』(2006年8月号)に「八木秀次君には『戦う保守』の気概がない」という一文を寄せ、この一件についても論評している。そのくだりを二回に分けてここに掲示する。(以下は拙著『国家と謝罪』徳間書店刊93-98ページより)

(一)
 
 八木秀次氏が事務局員を同伴し、2005年12月末中国社会科学院日本研究所を訪れ、中国人歴史家と意見交換(記録は『正論』2006年3、4月号)した一件は、どうやらつくる会が今まで掲げて来た本来の理想とはまるきりかけ離れた、裏切り行動であったように思える。これは新しい事件である。記録を一読してまずいと思ったのは、中国の掲げる普遍性を動揺させようとする日本側の気概や決意がまったく感じられないことである。

 記録を見る限り、日本側は中国側に対し、貴国の立場は立場として尊重しますが、当方にも当方の立場があるので、どうか当方の立場も認めて下さるようにお願いします、という態度で終始一貫しているように見受けられた。しかしこんなことを中国側に言ったとしてもほとんど何の意味もなさないだろう。中華思想を暗黙の前提にしている共産主義国の相手に対し、貴方は貴方、私は私と住み分けしましょうという相対主義的立場を言うことで何かの譲歩が引き出せたとしても、それは錯覚であって、歴史認識の一部を認めてもらっても――例えば田中上奏分のような今さら問題とすべきではない偽史の承認、等々――全体としての歴史観は中華文明の一部にすぎない東邦の小国の言い分を聞く理由はない、とはねつけられるのが落ちである。八木氏らの中国側との意見交換は事実その通りに経過している。

 いったい八木氏は『国民の歴史』『国民の芸術』『国民の文明史』を心を入れて読んでいるのであろうか。氏の根本的な間違いは、最初に中国の立場は中国の立場として認めます、という受身の姿勢を打ち出してしまったことである。中国の立場は中華思想であるから、これを認めることは日本をその一部として包み込む普遍思想を認めたと相手が受け止めてしまうことであって、そう言った後で日本の立場を認めてもらったとしても、それは中華支配下の一地方の歴史をそれ相応に認めていただく、という以上のことにはならない。

 日本軍が中国の領土内で戦争した以上どんな理由があれ「侵略」だと言い張ってきかない、意見交換の場で彼らの議論は、勿論子供っぽいともいえよう。近代政治史が分っていないと反論もできよう。しかし彼らは聴く耳をもつまい。彼らは近代化していないのでも、知識不足なのでもない(八木氏はそう誤解しているようだが)。そうではなく、そういう子供っぽい表現で、中華思想を主張しているのである。

 だとしたら、中国に対応するやり方は次の唯一つしかない。

 日本の天皇と中国の皇帝は政治史的にみてどちらが秀(すぐ)れているか。日本の天皇にはカミ概念があるが、中国の皇帝にはそれがない。カミ概念は政治力としての絶対化を招かない。日本の天皇は連続性を本質とするが、中国の皇帝は易姓革命(えきせいかくめい)でたえまなく廃絶され、歴史の中断と社会の混乱を惹起した。15世紀以後にユーラシアには四つの大帝国があった。ロマノフ王朝、オスマン・トルコ帝国、ムガール帝国、清朝。これらはそれぞれ静止した小宇宙で、富も多く学問も秀れていたが、西から迫るヨーロッパの暴力にあっという間に席捲(せっけん)された。日本はなぜひとり難を免れ、たちまち先進国となったのか。清朝の支配下にない、別体系の、ヨーロッパに対応する独立し完成した文明だったからである。(『国民の歴史』第19章「優越していた東アジアとアヘン戦争」に詳細を譲る)。

 中国の歴史学者に対してはまずはこういう本質的議論を吹きかけていくことが肝腎である。大東亜戦争はこの文脈における文明的行動の一つであった、と言い張って譲らないことが鍵である。

 そして、この立場とこれを主張する方法論こそ、ほかでもない、「新しい歴史教科書をつくる会」の、日本の歴史始まって以来の本当の意味での新しさだったはずである。戦後思想を克服する、といった小っぽけな話ではなかったはずである。私は今、会の外に出たからこそ思い切ってそう申し上げたい。八木氏とその一派による「会の精神を変えてしまうクーデターは許せない」と私が書いた理由はお分りになったであろう。

 八木氏は天皇崇敬者だそうだが、中国人の前で天皇を歴史に持つ日本の優位をなぜ堂々と開陳しなかったのか。

つづく

「中国人スパイ事件と八木秀次氏(一)」への1件のフィードバック

  1. 八木アンテナの発明者八木秀次は戦争中でなければノーベル賞確実だつた - 八木が助手の発明を盗んだといふ噂もあるが、研究の組織者として一流だつたことは否定できない。
    八木の父親は高名な秀次にあやからうとしてのかも知れないが、本人はそれを知ってか知らずか大科学者の名前を汚すやうなことをしたのだから消滅してしまつたのは仕方がない

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