高知からのメッセージ

 高知の友人、上野一彦さんから長めの手紙が届いた。13日付である。私と八木さんとの共著が店頭に出たのは12日だから、あっという間に読んで、思ったことをさっと書いてそのまゝ送って下さったものに相違ない。

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 突然失礼します。『つくる会』高知県支部長の上野です。

 先ほど『新・国民の油断』を読了しました。350ページを超える大冊の中に、今後の戦いの強力な武器になるであろう多くの論理を見い出すことが出来ました。また、『新しい公民教科書』の<主敵>がクッキリ浮かび上がったような気がしています。

 「自由とは認識された必然である」というヘーゲルの言葉があったと思いますが、必然(あるいは宿命)と向き合う事に耐えられない精神が、喧騒と狂乱のあげく自ら病んで崩れてゆくのは、個の惨劇として痛ましくはあっても、その様な病理が、あろう事か、公的な権力と資金を裏付けにして健全な社会を浸蝕してゆく、という異様な事態が進行しています。かつてのナチスの台頭がそうであったでしょうし、また、世界の最貧国とも言うべき北朝鮮が遙かに富裕な韓国を飲み込みかねない昨今の情勢も、異端(カルト)が正統を嘲弄し、恫喝し、屈服させる、という点において、あるいは同質なのかも知れません。

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 私はこの状況を同書の中で、次のように書いている。上野さんも多分、私が以下のように分析したことばなどを念頭に置いて、上記のような考えを述べて下さったのではないかと思う。

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新・国民の油断(大).jpg

『新・国民の油断』から

 革命はあり得ない、社会革命はあり得ない時代を迎えて、それにもかかわらず情念だけが白熱して、地下に潜って内向化して、別の形に変化してきました。

 繁栄や平等が実現したら革命などもういらない、と普通は誰でも思うわけです。ところが、そうではないんです。だから形式が変ったのです。自由になって解放されたけれど、さらなる自由、さらなる解放を、と要求は果てしなく続く。

 「砂漠の疾走」と私は呼ぶのですが、病気を探す病気なのです。(187ページ)

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 私は35年前の処女作『ヨーロッパの個人主義』の中でも、長い平和に、長い自由に人がいかに耐えられないかをしきりに論じたが、一生つづけて同じことを言ってきた結果の愚直に、今は自ら少し呆れてもいる。自分に対しても、日本に対してもである。上野さんはつづけて次のようにも書いている。

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 私は息子が通う中学校のPTA役員を務めておりますが、学校の現場で繁茂している“自分らしさ”とか“ありのままの自分”というキー・ワードは、そこから内省が始まる出発点ではなく、逆に思考が次々と頓挫するブラック・ホールなのだ、とつくづく思います。「自分という存在の惨めさ、醜さ、恥ずかしさ、そんな自省を欠いた“自分らしさ”など一片の価値もない」などと発言してもキョトンとした虚ろな空気が漂うだけです。文学や哲学を蔑ろにして育った生白い精神は、それを辛うじて支える実生活の良識や伝統的な知恵をイデオロギーに基づく異形のロジックで切り刻まれても、たとえ痛覚はあっても峻拒する論理を持っていません。「確かに不快だ。しかし、どうするべきか、教わった事がない。」という、アメリカの青年に妻を寝取られたインテリの夫の困惑が小島信夫の『抱擁家族』で描かれていた記憶がありますが、何よりも論理が、自分の痛覚や不快感として表出される、その根拠を明示するロジックが必要と思います。その論理をたくさん提起していただいた事に御礼申し上げます。

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 日本の教育界では「自分らしさ」とか「個性」というと、もうそれだけでそれ以上に何も疑問をもち出せない空気がある。この「自分らしさ」というのは、女子中学生が「誰にも迷惑かけないんだし、私の体を私が自由にして、何の文句があるの」という主張にやがてつながっていく。ドイツにも似た心理傾向があることをあの共著の中では確認している(165ページ以下)。

 上野さんは最後に次のようにも語って下さった。

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 また、ある講演会で性教育のテキストを紹介したら「こんなエロ話を聞くとは思わなかった」と信用が落ち人格を疑われた、という先生の述懐に思わず笑ってしまいました。先生の御著書には、先生の人となりが濃密に溢れ出る一瞬があり、またそこに期せずしてユーモアが漂い、親しみと寛ぎを与えてくれます。それが、私を含めた読者の密かな楽しみであるような気がします。

 またいつか、先生の御尊顔を拝する機会が訪れますよう、心から祈念しております。まだまだ寒い日が続きます。どうか、くれぐれもご自愛下さい。

 平成十七年一月十三日                  上野一彦

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 私は最近誰にも気兼ねなく、言いたいことを言っているし、生きたいように生きている。もう体裁ぶりたいという格別の欲望がないからである。この侭ずっとこうでありつづけたい。

「高知からのメッセージ」への1件のフィードバック

  1. 「新・国民の油断」を読み始めていますが、残念ながらまだ読破していません。
    対談本なのでもっと早く読み終えると思っていたら、内容が濃すぎて自分としてどう解釈すべきか戸惑っております。

    一番大事な子供の教育に触れている部分が多いわけですが、今回私はジェンダーフリーがどう女性に忍び寄るのかを論題にしたいと思っています。
    いま大雑把に頭の中に描いているものは、上野氏や大沢氏がおそらくは世の男性を蔑める事はもちろんの事でその向こうには同性である女性をも凌駕し、女性の持つ能力を利用して社会を牛耳ろうとしている魂胆があるのではないか、そう思っています。

    私はそれを指して「携帯電話の理論」と題していずれスレッドをたてようと思っています。
    「?」と思われるでしょうが、以外にもこれが整理していくと面白い理論になりそうなのです。
    ご期待ください。

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