いま『正論』で三回連載の対談でアメリカ観の新機軸をお目にかけている。対談の相手は青山学院大学教授の福井義高さんで、専門は会計学、畑違いと思うかもしれないが、彼の独自のアメリカ観に魅かれて、話し合おうということになり、この試みが始まった。迚も新鮮である。私は毎回刺激を受けているし、私も新しいことが話せるようになって楽しい。
今回は三回達成のうちの第一回、12月号をお目にかける。とにかく福井さんの知見は素晴らしい。いま私の周りには、私より若い、有力な研究者や論客が多方面から続々と集まって来ている。これはありがたいことである。対応に忙しくても老いてなお負けないつもりだし、私の関心はますます盛んである。
本から学ぶだけではなく、人から学ぶことも大切なのである。小さく縮こまってしまってはいけない。何にでも自分をオープンにして、激しく変化している世界の情報に身をさらさなければいけない。つねにそう思っている。
この対談は拙著『天皇と原爆』に対する福井さんの関心と論評が起点になっている。三ヶ月以上かかるが、とびとびに全対談をご紹介する。
アメリカはなぜ日本と戦争をしたのか 上
「世界救済」国家論とオールド・ライトの思想
アメリカの戦意を知らなければ、あの戦争は 理解できない。
大東亜戦争研究の新たな地平
評論家●にしお・かんじ 西尾 幹二 青山学院大学教授●ふくい・よしたか 福井 義高「ルーズベルトの対日独戦決意は常識」(福井)
編集部 大東亜戦争の評価をめぐって、戦後、左翼反日陣営と保守陣営の争いが続いてきました。そして90年代、いわゆる「従軍慰安婦」問題や「南京大虐殺」が中学校の教科書にも掲載されるに至って、西尾先生たちは教科書正常化運動に立ち上がり、「日本はアジアで残虐非道なことをしてきた」という左翼陣営の歴史観に基づく記述の訂正を求めてこられた。
世紀が変わり、西尾先生たちの主張はある程度浸透しましたが、他方で、新しい反日的、自虐的な歴史観が台頭してきました。「日本は残虐非道だった」とことさらに言うことはないけれども、開戦に至った経緯を検証する中で日本の誤りや責任や愚かさだけを追及している。代表的なのは半藤一利、保阪正康、秦郁彦、加藤陽子、北岡伸一の各氏らで、一見、「従軍慰安婦」や「南京大虐殺」とは異なり、客観的な史料に基づいた主張のように思えます。これに対しても、やはり保守派から、彼らも結局は勝者による敗者の裁きに左翼が悪乗りして言い続けている「東京裁判史観」、つまりは「日本悪玉史観」「日本侵略国家論」を、装いを新たに唱えているだけではないか、戦争には相手があるのにその相手の戦意を見ず、専ら日本国内の出来事や資料を取りあげているだけの「蛸壺史観」だ、という反論が出てきました。その流れの中で、西尾先生が今年、『天皇と原爆』(新潮社)を刊行された。この本はまさに、その相手国の事情を見ていこう、アメリカはなぜ日本と戦争をしたのかを考えていこうという試みを地でいく内容です。しかも、宗教戦争という新しい視点を取り入れて、幅広い論点が提示されている。今後の第二次世界大戦研究の一つの方向を提唱されたとも言えます。
福井先生は、アメリカのみならず世界各地の歴史研究の潮流を手広く調査されています。今日は、西尾先生の試みが、世界的な歴史研究の流れの中でどう位置付けられるのか話し合っていただきたいと思います。福井 『天皇と原爆』を拝読すると、自虐史観が蔓延したが故の日本の危機に対する西尾先生の焦燥感を強く感じる一方で、先生のお考えは、アメリカ「保守」の現在の主流であるネオコンサバティブではない従来の保守派、オールド・ライトといわれる人たちを含む、伝統的な孤立主義者あるいは非干渉主義者といわれる人たちの歴史観にかなり近いことが分かります。
実はアメリカでも、第二次大戦開戦当時のフランクリン・ルーズベルト大統領は、対日独戦争をやむなしと考えていた、あるいは積極的に両国とは戦争すべきだと考えていたということは、専門家の間では常識です。当時のアメリカ国内には、第一次大戦では英仏帝国主義者に騙されて多大な犠牲を払ったというコンセンサスがあり、非常に反戦意識、厭戦気分が強かった。にもかかわらずルーズベルトが国民を、いわばだますかたちで戦争に誘導していったということは、今ではほとんど誰も否定していないし、日本の卑怯な不意打ち攻撃にガツンと殴られてやむなく戦争をしたなどという話も、一般大衆向けの宣伝や子供向けの教科書はともかく、専門の研究者は誰も信じていません。
ただし、そのルーズベルトと日独戦に対する評価には二通りあります。通説、あるいは主流は、あれは「グッド・ウォー」、つまり「良き戦争」であったというものです。ルーズベルトがとった手法─国民には「戦争はしない」と約束しながら、経済封鎖などで日本を対米戦へと追い詰め、日米戦を口実にして欧州戦線にも参戦した─には、民主国家としては好ましくない手段ではあっても、邪悪な日独を叩きつぶすためにはやむを得なかった、むしろそれはリーダーとして当然であったという見方ですね。
もう一つの立場からの評価は、逆にルーズベルトに対して極めてネガティブです。先ほど触れたオールド・ライトたち、いまではネオコンサバティブに対してパレオコンサバティブと呼ばれていますが、彼らはアメリカという、汚辱にまみれたヨーロッパとは違う新世界で、「理想の国家をつくる」というのがワシントン以来の建国の理念だと考えていて、ルーズベルトの国内・対外政策は、その建国の理念への裏切りであると見なしています。
このオールド・ライトの立場、あるいは孤立主義は、第二次世界大戦が「良き戦争」だという見方が通説になってからは過去のものと位置づけられてきましたが、昨今のアメリカの中東政策の行き詰まりが誰の目にも明らかになるにつれて、復権しつつあります。
例えば今年の共和党大統領予備選挙で、堂々と孤立主義を主張したロン・ポール下院議員が、大手マスコミが基本的にまったく無視したにもかかわらず、大善戦しました。草の根保守の間では、孤立主義的なものの考え方が戻ってきているということを示しています。
彼らの反ルーズベルト史観からいえば、西尾先生と同様に、好戦的だったリンカーン(南北戦争)、セオドア・ルーズベルト(中南米への軍事介入常態化)、ウッドロウ・ウィルソン(第一次大戦)、フランクリン・ルーズベルト(第二次大戦)が、アメリカ大統領史上の「四大悪人」です(笑い)。彼らの考え方は、学界主流からは批判され、日本ではほとんど無視されてきましたが、何人かの著名な歴史研究者の中にいまでも受け継がれています。
『ナショナル・インタレスト』という有名なエスタブリッシュメントの雑誌があります。フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」を発表した外交評論誌で、外交政策に関しては高く評価されています。この雑誌のロバート・メリー編集長が、今年の六月、ホームページに日米開戦の経緯を書いていて、そのなかで、一九四一年十一月二十六日に日系人のリストアップが極秘で始められたと記しています。
西尾 例の「ハル・ノート」、日本に最終的に対米開戦を決意させたあの文書を、アメリカが日本に突きつけた日だね。
福井 ええ。こういうことを権威ある雑誌の編集長が大胆に書いているわけです。全くその通りかどうかはともかく、そうした事実があったことは確かなようです。
西尾 あくまで計画だけれども、その後の日系人収容へとつながる対日戦の準備であったことは間違いない。
福井 メリー編集長は、その当時の情勢と現在のオバマ大統領の対イラン政策を対比して、非常に似ていると指摘しています。ルーズベルトが日本にやったのと同じように、オバマ大統領はイランに厳しい経済制裁を科し、さらに交渉を望む相手の意図を受け止めず、逆にはねつけるように行動している。
西尾 つぶしてかかる。
福井 ルーズベルトがイギリスの首相だったチャーチルに対日強硬策を迫られたのと同様、オバマはイスラエルのネタニヤフ首相から同じようなプレッシャーを受けているとも書いています。 さらに、メリー編集長は、ルーズベルトが日本との戦争を望んでいたことは歴史的に明らかであるのに対し、オバマがイランとの戦争を望んでいるのかどうか、今はまだ分からないという点を大きな違いとして挙げています。対イラン戦争を望んでいるなら今までのオバマの行動はメイク・センス(合理的)だけども、望んでいないのであれば無謀すぎると指摘しています。いずれにせよ、ルーズベルトが対日戦を望んでいたという内容の文章を、堂々とエスタブリッシュメントの雑誌の編集長が書いている。西尾先生の言われることは、過激でも異端でもないということです。
『正論』12月号より つづく
ルーズベルトの本意は景気回復のための参戦です。なんとなれば、TVAなどでニュウディール政策の成功がアメリカを本当に立ちなおさせたのではなく戦争経済に突入したことによる有効需要の創出ができたことです。1次大戦の時の債務国から債権国への劇的転換で肥満病に苦しんでいた合州国!を参戦が救い悪漢ルーズベルトを救国の英雄にしたわけです。