アパグループの第五回「真の近現代史観」懸賞というのがあって、坦々塾会員の中村敏幸さんが「優秀賞」を受賞したことは当日録でお知らせしてあります(12月25日)。その内容の要約文もご自身がすでにここに書いています(12月9日)。しかし私の見るところ、要約文では当選作の魅力は十分に伝えられていないので、皆さんに内容全体をじっくり読んでいただきたいと考え、以下に三回に分けて掲示します。
日米百五十年戦争と日本再生への道標
坦々塾会員 中村敏幸はじめに
現在、我が国を襲っている精神的荒廃と国威低迷の根本原因は、我が国が主権を回復したサンフランシスコ講和条約発効後60年を経た今日でもなお、言論マスコミ界、政官界、教育界、学界、法曹界が深く侵され宿痾と化している東京裁判史観とGHQによる日本弱体化工作にあり、これを打破根絶し、その洗脳から脱却しない限り我が国の真の再生を成し遂げることは出来ない。
支那事変から大東亜戦争に至る戦いは、日本が戦うことを望まず、平和を希求したにも拘わらず、米英ソ支が巧妙な連携の下に日本に対して行った執拗な挑発と、米英蘭による経済封鎖に続く、事実上のアメリカの対日宣戦布告文書である「ハル・ノート」によって日本を追い詰めた結果起こった戦争であった。しかしその史実に反して、戦後アメリカを中心とする連合国は、戦争を仕掛け、かつ日本各地への無差別爆撃や原爆投下によって100万人近い無辜の民を殺戮した自らの邪悪さを覆い隠すために、東京裁判とGHQ工作によって、逆に日本は残虐非道な侵略国家であり、平和と民主主義はアメリカによってもたらされたとの洗脳工作を行った。
戦前の我が国は、政党政治の未熟さや統帥権干犯問題に見られるように軍部の横暴や二・二六事件のような不幸な出来事はあったものの、五箇条の御誓文によって誓われたように「広ク会議ヲ興シ、万機公論二決スル」れっきとした議会制民主主義国家であり、「上下心ヲ一ツニシテ盛ニ経綸ヲ行フ」君民一体の比類なき国体を有していたのである。かつて、先住民(インディアン)を滅ぼし、奴隷制度を有し、1950年代以降の激しい公民権運動を経た後の1971年まで黒人に参政権を与えなかったアメリカが民主主義をもたらしたなどという物言いは悪い冗談でしかない。
GHQの強要によってもたらされたものは、「国の為に義務を尽くして権利を主張しない」我が国民の高貴さと精神的基盤の破壊であり、「義務を尽くさずして権利のみを主張する」スペインの思想家オルテガが言うところの「大衆の反逆」であった。
昭和史家は先の大戦を「満州事変」を発端とする「十五年戦争」と捉えるが、そのような近視眼的な見方では、「先の大戦の真相と世界史的意義」を見極めることは出来ない。日米武力戦争は昭和20年8月15日に終結したが、これはボクシングに例えれば前半戦に於いてワンダウンを受けたに過ぎず、筆者はペリー来航以来、「日米百五十年戦争」として今日もなお姿と形を変え継続しているものと捉える。更に、先の大戦の真相は、遠くはアメリカの建国以来の清教徒的理想主義の仮面を被った覇権主義と欧州列強の東洋侵攻を、また近くはコミンテルンの世界共産化計画を抜きにしては究明出来ないと考える。よって、本稿ではこの視座から大東亜戦争に至る歴史の真相を明らかにすると共に、東京裁判とGHQによる日本弱体化工作とそれに続く日米経済戦争も一貫した日米戦争と捉え、最後に、日本再生への道標を示したい。
近年、欧州大戦についても、ヒットラーは米英ソとの戦争を望んでおらず、戦争を挑発したのはルーズヴェルト、チャーチル、スターリンの三者であったとの説が出始めており、満州事変についても、日本の一方的な侵略と傀儡国家の建設であったという従来の定説が覆されつつあるが、この問題については紙幅の制約により本稿では触れない。
アメリカ建国の歴史と覇権主義
キリストは身を捨てて律法(旧約聖書の最初の五書)(1)を狂信したパリサイ人の不正を諌めて「愛の宗教」を説いたが、ローマカトリック教会に対する抗議(プロテスト)として起こったプロテスタントは「旧約に帰れ」と説いた。中でも、1620年以降にアメリカに渡り、建国の父と言われた清教徒は旧約の持つ選民意識、残忍性、世界支配欲(2)を色濃く反映したカルヴァン派の流れを汲み、アメリカに入植した清教徒にとって、アメリカ大陸は約束の地であり、自分たちは選ばれた民であった。そして、彼等清教徒は入植直後から、滅ぼされるべき劣等民族として先住民の掃討を始め、それはその後1890年まで250年余りに亘って進められ、500万~1000万人いたと言われていた先住民は絶滅に近い仕打ちを受けた。
独立宣言直後に制定されたアメリカの国章にはANNUIT COEPTIS(ラテン語で「神は我々の企てにくみせり」の意)及びNOVUS ORDO SECLORUM(同じくラテン語で「新世界秩序」・英語ではNEW WORLD ORDER)(3)の文字が記されており、また、1935年に発行され現在も使用されている1ドル紙幣の裏面にも同様の文字が記されているが、これは「アメリカが神意によって『新世界秩序』を築く使命を有している」ということを国家として表明しているものである。
アメリカは1783年に東部13州で独立建国を果たしたが、建国後直ちに西へ西へと領土の拡大を開始した。そして、1845年にジョン・オサリバンによって「マニフェスト・ディスティニー(明白なる使命)」なる標語が提唱されると、アメリカの西進は更に正当化され勢いを増してテキサスを併合し、3年後の1848年には「米墨戦争」によってニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニア等の西部諸地域を強奪して太平洋岸に達した。
ペリー来航はそれから僅か5年後のことであり、太平洋の制覇に乗り出したアメリカは、1898年(明治31)には「米西戦争」によってフィリピン、グァムを領有すると共にハワイを併合して太平洋の覇権構築への橋頭堡を築くに至ったのである。
なお余談ながら、「米墨戦争」に先立ちアラモ砦を陥落させて「リメンバー・アラモ砦」を、また、「米西戦争」では老朽艦メイン号を爆沈させて「リメンバー・メイン号」との合言葉を唱えて戦争の正当化と戦意高揚を謀ったが、対戦相手国に先に一発を打たせるのがアメリカの常套手段であった。そのようなアメリカ戦史を知ってか知らずか、山本五十六並びに海軍統帥部は真珠湾先制攻撃を行ってアメリカの仕掛けた罠に進んで嵌り、「リメンバー・パールハーバー」の合言葉によって、当時のアメリカ国民の反戦気運を一転させ、戦意を一気に高揚させた。更に、彼等は我が国の基本戦略であった「漸減邀撃作戦」を覆し、陸軍をも巻き込んだ南太平洋に於ける消耗戦に陥らせ、我が国将兵の多くが敵の弾に当たるのではなく、補給路を断たれて餓死病死するに至る悲惨極まりない結果を招いたのであり、彼等の罪は万死に値する。昭和史の大家と称せられる輩が、今日でもなお唱える山本五十六名将説や海軍善玉論も打破されなければならない。
アメリカの対日攻勢と排日・日支の離間工作
アメリカは早くも、米西戦争の翌年、1899年(明治32)には国務長官ジョン・ヘイによる「門戸開放通牒」によって支那大陸へ触手を伸ばし、日露戦争が終結(明治38)するや、セオドア・ルーズヴェルトは「余は従来日本びいきであったが、講和会議開催以来、日本びいきではなくなった」と述べると共に対日戦争計画である「オレンジ計画」の策定を開始し、1909年にはホーマー・リー(後に孫文の軍事顧問)の「日米必戦論」が刊行されて脚光を浴び、この著作は日本でもその2年後に翻訳刊行された。
また一方、1907年(明治40)のカリフォルニアにおける反日暴動に端を発した排日は、1924年(大正13)の「絶対的排日移民法」制定によって、それまでの排日が州単位であったのに対し連邦法となり、アメリカは国家として日本人移民を完全に拒否した。しかし、同時期にヨーロッパから渡ってきた移民は毎年50万人前後に達していたのであり、日本人移民の数はその1パーセントにも満たなかったのである。
支那に於いては、ジョン・ヘイの提案により、義和団事件の賠償金によって、1911年に支那人クリスチャン留学生の予備校である「清華学院」を北京に設立して多くの留学生を渡米させ、彼等は帰国後反日親米勢力として活動したが、これは日露戦争後に起こった支那から日本への留学ブームに対する対抗措置でもあった。また、当時支那へ渡っていたアメリカ人宣教師もその数は2千人以上に達しており、彼等は支那の排日運動の黒幕として暗躍した。1919年に起こり、排日運動の発端となった「五四運動」に於いても、背後に米公使館と宣教師による煽動工作があったと言われている。
1921年(大正10)になるとアメリカは第一次世界大戦後、一層国力と存在感を増した日本の封じ込めを謀るために「ワシントン会議」を開いた。先ず、「四か国条約」によって太平洋の島々の領土と権益の相互尊重と非軍事基地化を唱って「日英同盟を破棄」させながら、米英はハワイとシンガポールを除外して軍事基地の増強を進めた。次に、「五カ国条約」によって海軍力の増強を封じ、日支の協調接近を最も恐れた米英仏は「九か国条約」によって日本の支那進出抑制と日支の離間を謀ったのである。
金融の分野では米英仏は日本に対し、1920年に「新四国借款団」の結成を強要し、日本独自の支那への投資に足枷を加えた。(4)
また、言論や文芸の分野に於いても、1931年(昭和6)以降のヘンリー・ルースの「タイム」に代表される徹底した蒋介石と宋美齢夫妻の賞賛と対日悪宣伝が展開され、パールバックの「大地」がピューリッツァー賞に続いてノーベル賞を受賞し、支那に対するアメリカ国民の友好感情を大きく高めたことも無視できない。
阿片戦争とイギリスの支那支配・抗日支援
英仏蘭欧州列強の本格的な東洋侵攻は17世紀初頭の東インド会社設立に端を発し、それ以降、東洋のほぼ全域を植民地化した。中でもイギリスはインド、マレー、ビルマ,ボルネオ北部を支配下においた後先鞭を切って支那に進出し、1840年に起こした阿片戦争と南京条約によって広州、上海、寧波、厦門、福州を開港させて租借地を確保し香港島の割譲を得た。
阿片商人の多くは上海に拠点を構え、その後の「アロー号事件」と「天津条約」によって公認された阿片の輸入に拍車をかけ、清へ送り込まれた阿片の量はピーク時年間約5千トンにも達し、清一国を阿片漬けにして恥じるところがなかった。彼等は、阿片貿易で得た利益を英本国へ送金する為に「香港上海銀行(HSBC)」を設立し、その後、「浙江財閥」とも結託して支那の金融と経済を牛耳るに至った。(5)1937年(昭和12)に支那事変が起こると、英国は国家として援蒋ルートを通じて軍需物資を支援したが、上海の英国系金融資本も国民党軍へ莫大な資金援助を行って抗日を支援すると共に、アメリカに対し盛んに英米仏による対日禁輸を呼びかけたのである。
註1
(1)モーゼが神の啓示を受けて著したとされる旧約聖書の最初の五書、即ち「創世記」、「出エジプト記」、「レビ記」、「民数記」、「申命記」。モーゼ五書ともいう。
(2)選民意識、残忍性、世界支配欲は選民意識、残忍性、世界支配欲は律法の随所に見られるが、代表的な例としては下記のような記述があり、旧約聖書を深く信仰する(アメリカのキリスト教原理主義者は旧約の無謬性を信仰の中心に据えている)ことは自ずと選民意識、残忍性、世界支配欲を抱くことにつながる。「我汝の子孫を増して天の星の如くなし、汝の子孫に凡てこれらの国を与へん、汝の子孫によりて天下皆福祉を得べし」(創世記26章4節)。「汝は汝の神エホバの汝に付し給はん民を尽く滅ぼし尽くすぺし、彼等を憐れみ見るべからず、また彼らの神に事ふべからず」(申命記7章16節)。「我が今日汝等に命ずる一切の誡命を守り行はば、汝の神エホバ汝をして他の諸々の国人の上に立たしめ給ふべし」(申命記28章1節)。〔日本聖書協会編・文語訳〕
(3)父ブッシュは1991年9月11日の一般教書演説に於いて「国連の下での国際協力による新世界秩序が生まれようとしている」と演説し、更に、翌年1月29日の年頭教書演説で「湾岸戦争は新世界秩序という長く待たれた約束を果たすための機会を提供するもの」と言明したが、これは「新世界秩序」が今日のアメリカに於いても生きた標語であることを示している。
(4)「香港上海銀行」他の英米の銀行と日本の「横浜正金銀行」とによって設立された借款団であり、以後、支那への投資は同借款団を通して行われることになり、支那に対する日本の投資の手足を縛った。
(5)宋嘉樹を中心とした、上海を拠点にして支那経済を支配した浙江・江蘇両省出身者による金融資本団。蒋介石による上海反共クーデターを支援。宋霞齢(孔祥熙夫人)、宋慶齢(孫文夫人)、宋子文(国民党幹部)、宋美齢(蒋介石夫人)は宋家の四兄妹。
昨年10月2日の「コメント11」の典拠の一例は、『旧約聖書』「イザヤ書」53-10~12にあることを補足させて頂きます。これはイエス・キリストの贖罪の預言とみなされているそうです。その一部を抜粋します。(現代訳)
10「もし彼が自分の命を、罪のためのいけにえとするなら、主の民はそれによって救われ、主の御心は、彼によって成し遂げられる。」
12「彼は多くの人々の罪を負い、罪を犯した人々のためにとりなしをする。」
歴史認識においては様々ありながらも、大約的には支那事変を中心とした難問が、ここにきて解明されつつある印象が深まりつつあります。
その緒となりつつあるのは、憲政史家である倉山満氏の存在が、若者を中心として今話題をさらっているようだ。
彼の持論は歴史を多方面から探ることにあり、実に細かいところまで探求されていることが理解できる。
私が思うには、倉山氏の最大の武器は、官僚の内部を熟知している点だろう。聞きなれない名前が彼の口からポンポン吐き出される背景には、おそらく彼の経済哲学に官僚抜きの思慮は存在しないという、強い理念がまずあり、彼の予測はご自身の研究はもとより、政治の側面を操る官僚組織の解題がキーポイントとなっている。
おそらく彼の予測は80%正しいが、20%間違っているというのが私の印象である。その理由の一つに、経済面を上げておこう。
彼は経済面においては100%の成功を理想としているようで、特に高橋是清と池田勇人への礼賛は大きい。
その反面戦争史への探求は実に冷静で、特に昭和10年前後の混沌とした昭和史を、独特の言い回しで解き尽くすように語る。
このパフォーマンスは若者にはたまらない痛快劇だろう。
ここまで近現代史をばっさりと裁断してくれる論師は、たしかに稀有だったといえば稀有だったかもしれない。
しかし、天邪鬼あきんどは少しここで考え込むのである。
彼の理論の弱点はなんだろうと。かなり考え込んだのち、少し見えてきたものがあった。
どうやら彼はまだ40歳ぐらいらしい。
つまり私より12歳前後若いのだろう。
ということは、単純に田中角栄が総理になったあたりに生まれた世代だということだ。ここで考えてみよう。少なくとも彼がいくら頭が良いとはいえ、最低10年はこの世を見定めるのには必要不可欠な年数だと考えるべきだ。
つまり、彼が政治を意識しだしたころの総理大臣は、中曽根あたりからとなる。せいぜい三木あたりがかろうじて記憶にあるかないかだろう。
いや絶対あるはずがない。大平も有り得ないだろう。
いや、ここで別に彼の記憶を問いただそうなんて思っていない。
私が言いたいのは、仮に彼の生の政治認識が中曽根時代からだったとしたら、既に佐藤総理あたりからは彼にとって歴史の1ページとなるのは当たり前な世界で、池田・岸となったら完璧に歴史教科書的存在なのである。
この現実をまず押さえてておかなければならない。
なぜなら人間というのは過去は批判できても、自分の人生と同じ時代を裁くのは難しいのが世の常で、司馬遼太郎のそれは、つとに有名なのだが、厳密に言えば、それは誰にでもありうる話だと固めてしまば、倉山氏の歴史認識には、若干思想の偏りがあるようなイメージがある。
特に高橋是清への礼賛は、ちょっと過大すぎる感がある。
彼の戦争史観には国家予算というものが多大なウエートを占めていて、軍備の予算が「力」の源であるという、大雑把な感想だが根底にそれがあるのは異論の無いところだろう。たしかに金がなければ動かす力が生まれないのは一理ある。しかし、経済というのは白黒つけるのがそれほど容易い学問ではない。しかもそこに歴史認識とう掛け算が重なれば、なおさら数式は理屈の範疇を超えるのだ。
彼は歴史を冷淡に扱うところが私には気に食わない。そんなに歴史は単純ではないはずだ。しかも官僚組織が彼のイロハできっちり定まった組織だったとしたら、あまりにもその組織は冷酷すぎて、日本の中枢だとは思いたくもないイメージしか後に残らない。
彼は本当はもっと歴史の起伏を語れる人物だと思う。そこには、人間の理屈を超えた生き方の道筋というものがあって、例えて言うなら、西尾先生が『人生の価値について』という新聞連載論文を一冊の本にまとめる際に、その巻頭に「エピクテトス」という奴隷出身の哲学者の語りからはじめ、新聞連載後にこの哲学者の偉大さを知り、人生の学びの道程にあるご自身の生き様を語ることで、読者に強烈なメッセージを告げる方程式を披露しているのだが、どうやら倉山氏にはまだその力量がないと言わざるを得ないようだ。
けして「うまく語れ」とか「正しく表現しろ」と言いたいのではない。それならすでに彼は完璧すぎるくらいに聞く側に満足感を与えてくれている。
私の要求はその次の次元で強さを表したいのである。
倉山氏レベルの人物ならば、自身の学びの過程を語る余裕を表して欲しいのである。いま最大に自分を悩ます課題を語り、どこまでが自分の範疇で、どこからが未知の世界なのかをわかりやすく語って欲しいのである。
それが本当の現代史ではないだろうか。
未来を語るのは自由だが、自身がまだ未開発な探求があるはずなら、それを示して欲しいのだ。実は平凡な人間はそれが最大の拠り所であり、同時にそれは非凡な人間の最大の課題だと西尾先生はおっしゃっています。
先ほど「人生の価値について」の話題をふりましたが、ここで私がとっぱじめから先生の語りに陶酔した背景は、簡単に申しますと、哲学者エピクテトスは奴隷という絶対の条件にありながらも、自身に起こりうる全ての現象に対して、通常では考えられないほどの「諦め」を覚悟していて、それは奴隷という立場からくる諦めだけではなく、奴隷だからこそ支配者に対等に対するには、絶対の自分の条件を超越する全ての自称に対する計り知れない勝利の感触を自身に内在しなければ成り立たない一種の諦めがそこにはあって、
西尾先生はこの「提要」という作品を読んで、人間には自身の力が及ぶ範囲と、及ばない範囲が絶対的に存在していて、その冷静な「諦め」に初めて気づかされたと語っていらっしゃいました。
倉山氏はおそらく万人に伝わる覚悟を知識の獲得と共に夢想した経験も多々あるはずだろう。それはけして咎めるつもりはないが、仮にそれが万人に伝わる可能性を秘めていても、伝わらない諦めも同時に覚悟できていたかどうかは、確認しなければならない点だといえる。
おそらく今私が語ろうとしている内容は、誤解が生じ易い理論だろうと思っている。その理由には、正しく西尾理論を伝えていないところに最大の原因が或ことは理解しているが、ただこのまま私の説が読み流される事が許されるなら、少なくとも私が申し上げたいことが、異論を述べたいお方に一番理解されるという皮肉な現象がそこにあるということになるわけだ。
いずれにせよ、倉山氏は自身の理論が伝わらない人種の存在を認めることから、新たな認識を構築していかなければならないという他ない。
私は彼は最近の言論者にはない痛快な理論を展開できる、有望な知識者だと認識している。
そこでようやくここで名前を表明できるわけだが、中村敏幸さんの論文は、それに比べ諦めが存在していると感じる。
もしかすると、人生の生き様の理想には「諦め」が含まれていなければならないが、言論界はその現実的な人生論にあえて「諦め」を省く論法が求められているのかもしれないと、今これを書きながら気づいたのが本音であります。どうやら私はやっぱりこの辺が精一杯の論客だと言わざるをえません。
なにやら自分でも難解なところに足を踏み込んでしまった感じがするのであります。
<訂正>
>>自称
>事象
新渡戸稲造『武士道』(岬龍一郎訳、PHP)第12章に次の一文があります。
真の名誉とは、天の命じることをやり遂げるところにあり、それを遂行するために招いた死はけっして不名誉なことではない。………
これらの言葉は、私たち日本人を、「わたしのために命を失う者は、それを得る」と教えた偉大なるイエスの教会の入り口に、なんと近づけていることか。これらはキリスト教徒と異教徒との違いをより大きくしようとする試みにもかかわらず、人類の道徳的な一致を確信させるに役立つ多数の例の、ほんの二、三にすぎないのである。(123頁)
中村氏の博識には敬服し、わが身の勉強不足を恥ずるばかりです。
しかし、私はわが文学青年期に身に着けたある格率を今も大切な人生訓としています。(記憶が定かでなく言葉の明細は極めて不正確ですが以下に記します。)
人は正面から好意を持って付き合わなければ、その人の真価は判らない。ーバルザック
”正面から”好意を持って付き合わなければ真価は判らないのは、人に限ったことではありません。ある民族、国家も同様であります。
中村氏の論文が、わが日本に関しては”正面から”観ているのに、米国に対してはいわば”裏から”ばかり観ている様に感ずるのは非常に残念です。