「『WiLL』現代史討論ついに本になる(四)」への8件のフィードバック

  1. 初めてコメントいたします。
    いつも先生のブログおよびご著作で学ばせていただいている者です。

    今回のユウチュウブ映像で紹介されている新著『自ら歴史を貶める日本人』も大変興味深く拝読させていただきました。

     ひとつ気になったことがあるのですが、番組中でも朗読された箇所で、先生のご発言「『論語』は嘘の固まりですから」について一言申させて頂きます。

     これが支那人批判の文脈でなされたご発言で、それに限っていえばその通りで異論はないのですが、先生はまた、いわゆる昭和史家を非難される際、日本の歴史の必然性が理解できていない、という趣旨のご発言をされています。

     支那は秦の始皇帝の統一以来、「韓非子」的世界観に生きていて、『論語』や『孟子』はそれが纏った衣のようになってしまいましたが、一方で、日本には、日本人本来の清浄明直の心によるこれらの思想受容の伝統があったのではないでしょうか。

     西欧に由来する保守思想にどっぷりと浸かってしまった眼から見れば、これは終ってしまった伝統かもしれませんが、日本の伝統を温故知新的に守ってきた一要素にもかかわらず、この伝統を否定していては、保守思想の基盤も揺らがざるをえないのではないでしょうか。というより、いわゆる保守の脆弱さはこんなところにあるのではないかと思ったりします。

     戦後の吉川幸次郎以来『論語』を性善説的に読む風潮が今でもあるかもしれませんが、一流の先人はこれを克服していたと思います。

     維新期で言えば、渋沢栄一もそうですし、吉田松陰も、西郷隆盛も、これらの価値規範を批判的に克服して、教師または反面教師として、維新回天の事業に取り組んでいます。
     副島種臣などは、『論語』を中心とする漢籍を政治・外交の規範とし、清朝に出向いて、総理衙門の固陋尊大な官僚をやり込めています。あなた方の態度は、中華であることに驕り怠けて衰亡しつつあり、日本は君子国になろうと謙虚に努力するから興る、という堂々たる趣旨です。

     彼らの学問の前提となった江戸期の学問にしてもそうで、江戸期の学問流行の風潮を作った徳川家康自身が漢籍で言えば『貞観政要』や『論語』を好んで天下構想に役立てました。そして、そういった江戸期の学問流行の中で、荻生徂徠や、その影響を受けた本居宣長の偉大な業績があったのではないでしょうか。本居宣長が、徂徠の影響を強く受けていて、「からごころ」を強く排撃しつつも、孔子を愛してやまなかったのはよく知られています。

     ちなみに宣長は『古事記伝』の「仁徳天皇」に関する考察で、「スメラミコト」に「天皇」の字を設けて、この大御号を立てたのは、百済から来た和邇などではないか、という趣旨のことを述べています。和邇が、仁徳天皇の御父君で先代の応神天皇の御代に「論語」を日本にもたらした人物であることは周知の事実で、日本における「論語」受容の伝統はここに始まります。「日本書紀」によれば、応神天皇は後の仁徳天皇のお兄さんに当たる太子に和邇をつけて、学問をさせたと言います。当然その影響は、仁徳天皇にも及んだはずで、民の竈の話も、その学問的影響のあらわれだったかもしれません。

     日本語の宿命として、漢字を主体とする「からごころ」は「やまとごころ」をしっくりと取り巻くようなかたちで伝わって来て、俗人の目が「から心」の方ばかりに向いていたからこそ、本居宣長は「からごころ」を排撃しながら、その本来の「やまとごころ」を生涯かけて明らかにしようとしたのではなかったでしょうか。

     それはともかく、保守の人は、中国を馬鹿にするあまり、勢いあまって、あるいは日本の伝統に対する無智から、支那文化受容の伝統まで軽視してしまう傾向があります。ひどいと孔子もまた人の肉を食っていたとまで言う人もいます。しかし、一言つっこませて頂くと、それこそ支那人の読み方ではないか、となります。

     日本の歴史上、一流とされる人物はこれらの古典を、そんな程度の低い読み方はしてこなかった。もっと深く、また高度に読み込んで、活動を積み重ね、日本の国体形成に寄与してきた。それだけは言えるのではないでしょうか。
     これも日本の歴史の必然ととらえるべきと思いますが、いかがでしょうか。

     その点、先生の先のご発言は誤解を与えかねないもので遺憾に思い、長々とコメントさせていただきました。

     これからもご活躍を期待しております。
     寒い日が続きますが、お体に気をつけて仕事にお取り組み下さい。

  2. ピンバック: 西郷隆盛
  3. 稲垣秀哉さんへ。

    私に『江戸のダイナミズム』(文藝春秋)という著作があります。これを読んで下されば誤解の余地はないはずです。

    『論語』に限らず、すべての聖典に対して動かない真実、言葉の一致を求めるのは間違いだという意味です。『聖書』も例外ではありません。

    すべては後世の解釈にすぎません。シナ人にはシナ人の『論語』の解釈の歴史があり、日本人には日本人の解釈の歴史があるのです。

    動かない真実を探しても無駄です。

    西郷隆盛さんへ。

    面白い内容のブログを教えて下さり、ありがとうございました。

  4. お忙しい中、貴重な御返事を頂き、たいへん恐縮です。

    貴著『江戸のダイナミズム』は、関心の高いテーマであるとともに、奥深い内容ということもあって、『国民の歴史』同様、何度も読み返しております。
     ですから、ご趣旨は理解しているつもりです。

     逆に、だからこそ「『論語』は嘘の固まり」との言い切りが引っかかって、思わずコメントを書いてしまいました。

     先生の読者だからこそ、これは支那批判の文脈での発言とわかるのですが、私が批判するような、支那を見下すあまり、三段論法で、支那の古典を出鱈目、野蛮と決め付ける保守の人々の誤解を増幅しかねない、と心配になったのであります。

     故白川静氏も『孔子伝』で書かれていますが、『論語』の原典批判は難しく、真理、言葉の一致を求めるのは間違いである、という先生のご発言もよく理解できます。
     それを読む人個人の資質や器量によって、様々な解釈となる。
     これは聖典、古典に限らず、神話にも当てはまることだとおもいます。

     しかし、誤解や思い込みを含むものであっても、それを解釈してきた歴史、それに魅了され信じてきた歴史、あるいは、これを批判し遠ざけてきた歴史があり、またそれによって動かされてきた歴史が厳然としてある以上、これらを歴史の必然ととらえることは間違いでしょうか。

     それはあたかも、西洋文明を取り入れざるを得なかった近代日本が、西洋保守思想を、誤解や思い違いも含めながら、受容し、あるいは排除しながら、一つの勢力となって、歴史に影響を及ぼしてき、また、していくようなものではないでしょうか。その過程で、日本古来の伝統と保守思想の習合も行われていく。

     維新以前の日本が置かれてきた国際的環境を考えると、『論語』を中心とする支那文化の日本的受容は、必然的なものではなかったでしょうか。
     いわゆる保守の人士の中には、支那を見下すあまり、この受容の歴史までも否定してしまう人がいて、これでは歴史と伝統を重んずることを説く保守は自己矛盾に陥ってしまうのではないか、と余計なことながら心配してしまいます。

     もちろん先生がそのような考えで発言されているのではないことは重々承知しております。

     ところで、先生はどこかで、『論語』より『韓非子』の方が好きだ、という趣旨の発言をされているのを読んだことがあります。
     先生が世界史的な視点に立った思索を続けてこられたことを思うと、今は、日本人が好んでこなかった、この『韓非子』を好まれることの意味に大変興味があります。

     浅学の徒ではありますが、これからも先生のお仕事から学ばせていただきます。
     さらに充実した思索を続けられることを希望して止みません。
     お体に気をつけてお取り組み下さい。

    稲垣拝

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