渡辺 望さんによる、第 6 回 「西尾幹二全集刊行記念講演会」の報告です。
7月15日(月)、市ヶ谷グランドヒルホテル三階の「瑠璃の間」にて、西尾先生の全集第七巻「ソビエト知識人との対話」刊行にあたっての記念講演会が開催されました。講演会題名は「スペイン、オランダ、イギリス、ロシアは地球をどのように寇掠したかーその概要と動機」でした。
当日は暑い日には変わりませんでしたが、前日までの猛暑の連続に比べると若干ですが過ごしやすい気候の一日となりました。約一年前の七月の同じ市ヶ谷グランドヒルホテルでの全集記念講演会がたいへんな暑さで汗だくになったのをよくおぼえているせいもあって、自分としては涼しい日という印象がより感じられる日でした。
講演会の主題名はそのようなものでしたが、先生の講演を始めから終わりまで聞いて、独りよがりかもしれませんが、私がもしこの講演に副題をつけるとしたら、「国家というフィクション」がよいのではないかと感じました。この「国家とフィクション」は、先生の今回の全集の中のソビエト滞在記の文章の題名と実は同一のものです。
文明論を語るとき、語る人間を一番制約してしまうのは、何より時間的なスケールの狭さだということがいえます。戦後的視点からしか戦前の語れない文明論、20世紀的視点からしか19世紀以前を語れない文明論、そういった文明論の洪水に私たちはうんざりし、あるいは洗脳されてしまっている。しかし西尾先生は冒頭でまず、「たかが500年、というふうに考えてみたらどうでしょう」と私たちを文明論特有の時間的制約から解放して、先生自身が挑んでいる文明論の世界に誘いはじめてくださいました。
「たかが500年」の以前の時代、実はイギリスという国はヨーロッパの中でも下位に属する弱小国に過ぎなかった、それどころか、国民国家イングランドという形さえ成立しているといえない状態だということを先生は指摘されました。英語文化圏の世界支配に慣れきっている私たち日本人からすれば全く信じがたいことですが、イギリス以外にも、オランダやスペインといった後に世界覇権の中心に躍り出る国々もまだとても強国などといえる段階ではなく、ヨーロッパ内部の力関係の中でうごめいている段階でした。そもそも、ヨーロッパ自体が後進的な地域でした。500年という時間で、世界の情勢は、何もかもが、あまりにも変わってしまった。ヨーロッパの中心はこの当時はイタリアでした。
世界覇権に乗り出すという以前の問題として、ヨーロッパは全体として「中世」という巨大な暗黒を抱えていた、という指摘がそれに続きます。日本人にとって鎌倉や室町という中世時代は別に暗黒でも何でもありません。しかし、ヨーロッパにあった「中世の暗黒」ということこそ、この日の先生の講演会のテーマを読み解く最大のキーワードなのです。まずこの暗黒ということを実感しなければならないでしょう。
「中世の暗黒」ということでたとえば私が思い浮かべるのは、グリム童話ですね。中世のヨーロッパ人の生活観に基づくグリム童話は、その原型の形で読むと、なんとも凄まじい話の連続です。「ねずの木の話」では、母親が腹違いの息子の首を切断、その死体をシチューにして父親に食べさせるなんていう話が出てくる。「赤頭巾ちゃん」でも原型の話だと、赤頭巾が狼に騙されておばあちゃんの「血と肉」を「ワインと干し肉」と騙されて食べるというお話になっている。こうしたグリム童話の猟奇的ホラーのおぞましさに何とか対抗できる唯一の日本の中世民話は「カチカチ山」の姥汁の話くらいのものでしょうか。
中世ヨーロッパと中世日本では「悪」のレベルがそもそも全く違っている。お菓子の家でよく知られる「ヘンゼルとグレーテル」では、実母(のちにグリム兄弟は継母と書き改めた)が食い扶持減らしのために息子と娘を森に置き去りにしてくるという話ですが、中世日本には姥捨て山の話はありますが、少年少女を実母が森に置き去りにするなんていう話はない。あるいはどんなに「悪い親」でも、自分が食べていくために子供を置き去りにしていくような人間は中世日本にはいません。想像を絶するほどの飢餓、衝動的な猟奇犯罪に満ちたまさに暗黒の底、これがヨーロッパの中世というものです。そういうふうな捉え方で読むと、ヘンゼルたちのあの華やかなお菓子の家も、中世ヨーロッパ人の異様な妄想のあらわれのような気がしてきて、なんだか不気味に思えてきます。
西尾先生は中世ヨーロッパについて、平均寿命30歳程度、識字率も極度に低く、また都市というのは、「森」という海の中にぽつりぽつりと存在する島のようなもので、下手に森の世界にいけばまず帰ってくることはできない。フランス革命近くまでパリには狼の襲来があった、そうした事実をあげて、「中世の闇」について説明されました。
こんな救いようのなヨーロッパ世界からすれば、まずこの中世の克服ということが目指されなければ、ただの野蛮な後進地域として終わってしまうことになる。思想哲学もそのことが志向されるようになります。先生は「中世の克服」を志向した代表としてホッブスをあげられます。
自身が清教徒革命などの血なまぐさい中世を目の当たりにしていたホッブスは、万人の万人への暴力や強権を自然権として善悪以前に肯定しました。しかしこの自然権を単に野放しにすると、万人は死に至らざるを得なくなる矛盾ももってしまう。そこで人々は、この自然権を調停調和する存在として「国家」=コモンウェルスというものを社会契約的に必要とするようになる。このホッブスの国家論は、あらゆる非合理や悪が渦巻いていた中世ヨーロッパを実感していなければなかなか理解できないことです。まして、日本人のように、自然発生的国家観が根付いている国ではなおさらです。
ホッブスのコモンウェルスの思想は「国家はフィクションである」ということに言い換えられるように思えます。民族や地域や共同体や個人の延長拡大に「国家」があるのではなく、それら国家以前のものの矛盾混乱を調停調和するものとして国家がフィクションされている。少なくとも、近代以降のヨーロッパにとって「国家」とはそういうものなのです。先生がいわれるように、バルセロナはスペインの一部でなくヨーロッパの一地方であり、ミュンヘンとベルリンの間には、私たち日本の東京と大阪のような共有感情はない。このことについて私が考える例はありふれたものかもしれませんが、よく知られた小説であるドーデの「最後の授業」の話です。あの小説の舞台となった地域はもともとはドイツ語の地域なのであって(主人公もドイツ語名のフランツ君ですね)あの小説のフランスナショナリズムへの感動は「国家というフィクション」の「ずれ」への勘違いからきているともいえます。
ここからが先生の講演の最も重要部分になります。話が次第に現代に、そして日本に近づいてきます。以降の先生の話の展開の方向を二点に集約すると、以下のようになると思われます。
たしかにヨーロッパはホッブス的な思考に従って、血みどろの政争、内乱、戦争を通じて、次第に各コモンウェルスをつくりあげ、「内なる中世」を何とか克服していったのだけれども、しかし「内なる中世」の野蛮さ・残酷さは、ヨーロッパ以外の世界の征服方法に姿を変えて向けられることになったということ、これがまず一つです。
今一つは、先生が引用された20世紀のドイツ最大の法学者カール・シュミットが鋭く見抜いたように、ホッブスが克服しようとした中世ヨーロッパ的状況が今一つ、ヨーロッパ以外の地域に存在していたし存在している。それはアメリカ大陸だ、ということです。たとえば、スペイン・ポルトガルのトルデシリャス条約による世界分割計画のような、地球全体に勝手に線引きするというやり方は、20世紀のウィルソンの14か条原則やチャーチル・ルーズベルトの大西洋憲章に継承されていきます。まったく身勝手な国際政治の手法に他なりませんが、「ヨーロッパ人(アメリカ人)はなぜこんな勝手な方法を採用するのか?」ということについての答えは、ヨーロッパ中世の恐ろしい非合理性に起源をもつのであって、ギリシャやローマの古代文明の合理性の世界にそれを見出すことは不可能だといえるでしょう。
スペイン人の南北アメリカ人への残忍さは、それがライバル国であったオランダやイギリスの宣伝工作だったという誇張を差し引いたとしても、「これが果たして私たちと同じ人間のやり方なのか」と日本人なら驚いてしまうようなものです。侵略や虐殺を肯定するロジックも滅茶苦茶なものです。しかしこうしたことは、「内なる中世」というものが、ヨーロッパ以外の世界で再びよみがえったのだ、というふうにみることもできるのでしょう。
今一つの先生の提示された、カール・シュミットの「アメリカ=ヨーロッパ中世」という捉え方ですが、ここで私がふと思いついたのは、西洋史学者の池上俊一氏が紹介する中世ヨーロッパでの「動物裁判」の話でした。中世ヨーロッパでは、人間の子供をひき殺した豚や、人間の寝床で痒みをもたらした南京虫を裁判にかけて処刑するというような馬鹿げた動物裁判が大真面目におこなわれていました。
この中世ヨーロッパの「動物裁判」と、シーシェパードの反捕鯨テロリズムに代表される、アメリカでの過激な動物愛護主義は、共通の精神的土壌をもっているようにおもいます。中世ヨーロッパでは、人間というものは動物と区別がつかない衝動的で得たいの知れない存在であったのでしょう。実は今のアメリカもそうなのです。人間は動物のようなものであり、動物は人間のようなものである。こうして、「動物に人権を認める」というロジックの錯乱が、現在アメリカでは中世ヨーロッパのように起きてしまっているということができるでしょう。
「アメリカ=中世ヨーロッパ」であるという文化現象は、アメリカ国内でこれ以外にもたくさんみられます。銃規制の不徹底の現実はホッブス的状況の最たるものでしょうし、妊娠中絶をする病院がキリスト教原理主義者に国内で頻繁に爆破されるということは、宗教と社会倫理の峻別という近代社会のミニマムの条件がクリアされていないことを意味しています。「中世」と「コモンウェルス」の間を行ったり来たりしているこのアメリカという国の海外政策は、20世紀以降になっても、中世的な野蛮をたっぷりもっていて、それが日本に向けられているということ、講演全体におけるこの核心部分へと話が進みます。
ここでもう一人、重要な哲学者ジョン・ロックが先生の話に補助線として登場します。いうまでもなくロックは近代哲学と近代法思想の確立に大きな貢献をなしましたが、文明論も多数記した人物であり、ここでは文明論者ロックについての話になります。先生によれば、アメリカの外交政策のしたたかさは、ロックの思想を巧みに利用していることによって成り立っているのだという。これはどういうことなのでしょうか。
まずロックによると、当時、スペイン・ポルトガル等が一方的におこなっていた被植民地地域の人々の権利無視行為は間違いだ、といいます。一見すると自然権者ロックがその人権思想を文明論に敷衍しているかのように思えますが、実は正反対なので、ロックは続けて「アメリカ大陸は例外で、アメリカ大陸は世界全部の所有物である」というのです。なぜか。ロックによれば、「アメリカには無限の土地があってまだ未開拓である。これを開墾し広げていくという行為は平和経済的なことなので、軍事侵略的ではないからである」という。
私はロックがこういうことを言っていることを先生の紹介まで知りませんでしたが、いかにもヨーロッパ人らしいしたたかな論法に唖然とする思いがしました。ロックの論法は、中世ヨーロッパを克服するための啓蒙主義を装いつつ、ヨーロッパ外への中世的に野蛮な世界戦略を肯定する、という二面的な顔をもっているようです。被植民地への暴力を無制限に肯定したカトリック教会の思想に比ると、ロックの哲学のやり口は一層手が込んでいます。
これを踏まえた上でアメリカは日本の中国進出を非難するためにロックの哲学を利用したという先生の指摘の流れは見事なものと感じられました。アメリカは、自分たちの国がそれによってつくられたロックの哲学をそのまま中国大陸にあてはめて「満州・中国は世界全体の共有物である」、つまりその世界共有を侵犯している日本は悪者だといったわけです。
もちろん、アメリカの論理は根本的あるいは現実的にはまったく破綻しています。しかし、アメリカ人が覇権戦争を仕掛けるときに、このロックの哲学を利用することがあり得るということそのものが重要です。それは「切り取りの侵略哲学」とでもいうべきでしょうか。いずれにしても、アメリカの覇権の根底には、中世ヨーロッパ→フィクションとしての国家・コモンウェルス→ロックの哲学、そういったものがあるという先生の指摘の流れは、いつものことながら、目から鱗が落ちる思いでした。
私たちの現実として認識しなくてはいけないことは、中世ヨーロッパは再び世界によみがえりつつあるのではないか、ということです。近代が終焉に向かいつつある、ということはよくいわれることです。では近代の後に来るものは何なのか。国内的にはグリム童話の世界を彷彿させるような衝動的で無目的な犯罪の多発、国際的には中世ヨーロッパの気配をどこか濃厚に漂わせるアメリカの覇権とその影響などです。ニヒリズムの実質とは中世の闇の復活なのかどうか、これは私たちのこれからの生き方にかかわってくる問題だと思います。
最後に、先生の講演全体から受けて考えはじめたことの一つなのですが、ロックの哲学とほとんど同じことをしようとしたのは日本の満州国の理念だ、と先生が言われていましたが、もちろん日本人に満州国をアメリカ大陸にしていくようなしたたかさはできませんでしたが、しかし石原はいったいどこでロック的な考え方の手口を学んだのでしょうか。石原が考えた「五族協和」思想というのは確かにロックの「アメリカ大陸は世界全体のものだ」という思想とほとんど同一のものですが、それを生み出す思想的土壌がどう考えても日本の伝統哲学にはないように思えます。石原は基本的には反米主義者です。ここに解明探求すべき一つの歴史の謎があるようにも思えました。
夕方五時頃に終えた講演会ののち、50名ほどの参加による有志懇親会がひらかれました。東中野修道氏(亜細亜大学大学院教授)、石原隆夫氏(「新しい歴史教科書をつくる会」理事)、二瓶文隆氏(「新しい歴史教科書をつくる会会員、「日本維新の会」参議院議員選挙立候補者)によるスピーチ、そして岡野俊昭氏(「新しい歴史教科書をつくる会」副会長)による乾杯の音頭、最後は松木國俊氏(韓国問題研究家、つくる会三多摩支部副支部長)による締めの音頭の流れで、楽しい歓談のひとときとなりました。
西尾先生、本当にご苦労さまでした。先生の講演会を取り仕切ってくださいました小川揚司さまはじめ坦々塾事務局の皆様にも感謝の言葉を記したいと思います。
渡辺望
分かり易くまとめてくださり、ありがとうございます。ホッブズ論に加えてロック論に言及されたところに、昨年2月12日のこの欄に掲載された私の『天皇と原爆』読後感への回答を読み取ることができました。これ自体が大問題ですが、今は、一点だけ触れますと、下から6段目の最後の行に「侵犯している」日本とありますが、それは同時に「門戸開放しない」を意味しています。私の「読後感」での疑問は、その「門戸開放」をしていれば、相手の共有論に対して反論可能であったはずだ、ということです。それができなかったところに、論理的に優位に立てなかった原因がありそうです。つまり、大義名分が成立しえなかったということです。この「門戸開放」論の代表的先駆はスコットランド人アダム・スミスにありますが、日本はその教訓を学び損なったと言えます。また、スミスのそういう視点と共鳴し合っていたのがカント哲学であることも、注目すべきことでしょう。
アメリカは中世をかかえているという説は新鮮であった。
渡辺京二「日本近世の起源」に描かれたような、混沌と暴力の極致、
その中から、村落の防衛と自治が始まり、共同体が生成する。
今現在の世界は、その前々段階にあるのだろうか。
戦時中は犯罪がなかったという話も面白かった。
直近では、世界的に経済の不調がある。
その解決手段は、昔なら戦争ではないのかと思う。デフレと聞けば戦争だ。
戦争は膨大な需要を作り出す。
しかし戦争は出来なくなった。
でわ。どーするべきか。
戦争に代わる、膨大な需要を作りだせば良いのだ。 巨大な自然災害も膨大な需要を作り出す、が、これは戦争で負けるようなもので、犠牲が多すぎる。
で。
超巨大な、戦争規模の公共事業をやれば良いのだ。
疑似戦争だから、徴税も強権で持って自由自在。
欲しがりません勝つまでは、となる。
統制経済、戦争経済。ある意味共産主義。
疑似第三次世界大戦。これが日本を、世界を救う。
戦争は犯罪をなくし、失業をなくし、国民の紐帯を強固にし希望を
与える。戦争は暗いなんていうのは戦後に作られた神話であったり。
ただだらっと混沌と暴力の中世に向かうのか、
趨勢としては、社会主義的、統制経済的、保護貿易、そんな方向に
向かわざるを得ないのではないだろうか。
西欧近代の闇、神への信仰を大義名分とした自己都合的な合理(化)精神、今また我々日本人の前に立ち現れたシナのこれまた自己中心的で国境概念などどこ知らずの13億の精神!それらの政府に巣くう寄生的グローバリズム経済。日本破壊の超限戦。
安倍さん、がんばってね!
カントの『純粋理性批判』の経験認識とそれを踏まえた理性認識との関係を、彼は「構成的原理」と「統制的原理」に対比しています。その5年前のスミス『国富論』での経験認識と理論認識の対比、また、市場経済と政府の対比に、カントの対比は照応しています。経済学だけでなく哲学でも、このあたりの解明はまったく不十分でした。ヘーゲルの国家論に依拠する前に、このスミスやカントに関わる「統制的」の解明をより正確にしておくことが、現代社会のあり方を考える上においても必須のことかと思われます。なお、上記の対比は、ソクラテス⇒プラトンに由来することは言うまでもありません。それらの余地を残したまま、それらをすべて清算してしまうことは、如何なものでしょうか?
北アメリカは中世をパスした、彼らは故地を捨て自らの新天地を作ろうとした。背骨は新教のプロテスタんティズムであり手本は古代のギリシャと帝政になる前の、ローマの社会制度だと思いますが。銃の所持は民衆の政府の悪逆無道がなされた時に自衛するための権利であり、建国の成り立ちからの経緯でいかに弊害があっても手放すわけにはいかぬものでしょう。
文化人の方の講演を拝聴するのは初めてでしたが、これがプロというものかと深い感銘を受けました。数時間の講演があっという間に終わった感じです。最後をニーチェで締めくくったのも印象的でした。多くの国家論や文化論、歴史論はこじつけとしか思えないことが多いですが、西尾先生にそういうのを感じないのは、いつまでもみずみずしい感性で真正面から巨大な歴史に体当たりをされていること、そしてなんといっても日本人としての確固たるアイデンティティをお持ちであるからと思いました。多くの賢人が喝破してきたように、すべてのアイデンティティへの立脚を拒否して金魚蜂のなかの金魚をながめるのように中立的な人間観察や思考成果を披露したからといって、そんなものは誰も面白いと思わないものです。(面白いと思うのは、それを家業にしている学者くらいでしょう)。かといって自己中心的アイデンティティの押し付けもつまらない。東西の狭間で苦悩してきた日本人としての複眼的で卓越したアイデンティティの自覚というのはこういうことなのかと、素人ながら少しは覚醒することができました。次回の12月講演も楽しみにしております。
(入り口で宣伝活動されていた「西郷どん」は落選されて残念でしたね。へこたれずに頑張ってほしいものです)。
私は一介の社会科学徒で通し、専門外の現実問題には一切関わりを持たないできた。その立場からの署名すら行ったことはない。本欄の上記1で触れたことは、図らずもそれに関わる生涯初の意見表明となった。現実的な問題関心がなかった訳ではない。あればこそ、アダム・スミス研究に徹してきた。
今思うに、日本が戦争にあえなく敗れた最大の原因は、国際的な大義名分を確立できず、それを米国に持っていかれたからである。その中身は何か? それが植民地の「門戸開放」であり、その提唱者はアダム・スミスである。米国は巧みにこれを利用したが、日本はそれができなかった。今さら過去を悔いても致し方ないが、しかし、今後それに類することが無数に起こりうる。そのときに、また、国際的な大義名分を失う愚は避けなければならない。われわれがスミスやカントに学ぶ意義はそういうことにあると思っている。
学術講演ないしは論文を、「わくわくしながら」聞いたり、読んだり出来るということは、稀なことであり且つ幸いなことであると、つくづく思いました。
このことは、ひとえに西尾先生の良い意味での、知的勇気と敢闘精神がなせる業だとも思います。
歴史に対する認識は先生と違う点も在りますが、批判をするつもりはありません。それは例えば、ホッブスの世界観をルソーの世界観で断ずる愚にも似ているからであります。
人間やその集団(国家等)を捉える場合、性善説と性悪説の両極端がありえます。私はスミスと共に黄金の中道説ですが、西尾氏の上記の議論は性悪説的認識と言えましょう。古来、いずれの見方もありましたから、それぞれ一理あると思います。氏はこれを欧米、とくに米国の認識に適用しています。こういう極端な側面もありという認識がかつての為政者にあれば、あれほど相手を舐め切った軽率な行動は取れなかったはずです。とすると、氏の議論は当時の為政者の認識不足による過ちを裏返された形で指摘しているように読めます。私がきれいごとのように言っている大義名分論と同様なことを言わんとしているように思われてきました。穿ちすぎでしょうか?
「株式日記と経済展望」より
2013年7月30日 火曜日
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/344e713b1170d65ccdc714a67d11e74e#comment-list
◆西尾幹二全集刊行記念講演 スペイン、オランダ、イギリス、フランス、ロシアは地球をどのように寇掠したか -その概要と動機ー (前半)
http://www.youtube.com/watch?v=5btjdN2uREE#at=2016
西尾幹二先生の講演会の動画がユーチューブにありましたので、その感想を述べさせていただきます。前半はヨーロッパ史の概略を述べておられますが、ヨーロッパの中世という時代はどういう時代であったかを学校の歴史教育ではほとんど教えていません。しかしヨーロッパを理解する為には中世を知らなければヨーロッパを理解する事は出来ない。
ヨーロッパは大ローマ帝国の継承国ではなく、大ローマ帝国の継承国は東ローマ帝国であり、つまりビザンチン帝国ですが、末期になるとイスラム勢力によって滅ぼされてトルコ帝国が成立しますが、十字軍の遠征なども行なわれても結局はキリスト教の聖地を維持できずに撤退した。当時はイスラム諸国のほうが遥かに豊かであり、中世ヨーロッパは貧しい寒村に過ぎなかった。
西尾氏の話では、フランス革命の頃までは庶民は麦わらに包まって裸で寝ていた生活だったそうですが、パリには18世紀頃までパリまで狼の集団が襲っていたそうです。ヨーロッパの中世は森によって村が孤立していて、森に入っていけば狼に襲われて生きて帰る事は無かった。口減らしの為に子供を森に置き去りにして間引きが行なわれていた。
私の意見としては、それくらいヨーロッパは貧しい地域であり、イスラム諸国は繁栄を誇っていた。ビザンチン帝国がイスラム教化してトルコ帝国になったとも言えますが、1453年のコンスタンティノープルの陥落は宗教がキリスト教からイスラム教に変わる象徴に過ぎない。だからトルコ帝国軍の高官の半数はクリスチャンであり、東ローマ帝国の宗教がキリスト教からイスラム教に変わってオスマントルコ帝国になった。
西ローマ帝国が滅んだのは当時の西欧がいかに貧しい地域であったかの証明であり、イベリア半島はイスラム国家であり、地中海沿岸の都市は船で結ばれていたにすぎず、フランスからドイツは森によって隔てられて野蛮人が生息して、麦わらの中で裸で寝ていた。王様といえども自分の名前を書くのがやっとといった有様であり、蛮族の酋長といった方がいいのではないかと思う。
だから大ローマ帝国の継承国はビザンチン手国でありトルコ帝国に繋がっている。そのトルコ帝国に挑戦したのがスペインですが、イベリア半島は711年にイスラム勢力が入り込んでキリスト教勢力との戦いが1492年のグラナダ陥落まで続いた。西尾先生の話では15世紀まではスペインもイギリスも存在していなかった。その頃はスペインもイギリスも分裂国家であり貧しい地域であった事に変わりがない。
そのような貧しい西欧が一躍世界の覇権をとるようになったのかは、新大陸の発見とアジアへの通商路の開拓に成功したからであり、それが出来るようになったのもイスラムの文明をスペインが吸収して、トルコ帝国との戦いで1571年にレパントの戦いで勝利して力をつけた。つまり真のヨーロッパの歴史はこの頃から始まったのであり、大ローマ帝国の覇権とヨーロッパとは繋がっていない。
スペインから始まってオランダからイギリスへと覇権国家はヨーロッパで移っていきましたが、その成り立ちからして新大陸やアジアでの覇権争いが、500年に渡るヨーロッパ諸国の覇権争いに決定的な影響を及ぼしているという西尾先生の講演が始まりましたが、貧しいゲルマンの蛮族がイベリア半島で始めてイスラム文明を学んで世界に乗り出した。
スペインの繁栄は新大陸のアメリカからの金銀財宝を奪い取ってきたから繁栄したのであり、それをイギリスの海賊が襲い掛かって財宝を奪ってきた。それまでのゲルマンの蛮族が海賊となって新大陸を暴れまわって、新大陸のインディアンを殺戮しまくって来た。鉄砲や大砲などが伝わったのもイベリア半島におけるイスラムとの戦いで伝わったものであり、銃と大砲がイスラムとの戦いや新大陸やアジア征服に使われた。
僅か500名のスペイン兵でもってアステカ王国を打ち破ったのは鉄砲と大砲の威力であり、ヨーロッパの覇権国は鉄砲と大砲で世界を征服した。トルコ帝国も銃や大砲を装備していたが、1683年にウィーンを落とせなかったのも銃や大砲の性能が劣ったからだろう。ヨーロッパがアジアを本格的に支配したのは200年ほどであり、トルコ帝国や清帝国の衰退と期を一にしている。
スペインとオランダとイギリスの覇権の興亡は、アジアにおける支配権の興亡が大きく関与していると言うのは確かだろう。スペインは新大陸やアフリカやインドやフィリピンまで植民地を抱えて最初の世界覇権国家となりましたが、戦争に次ぐ戦争で、あらゆる国と戦い19世紀始めまで広大な植民地を維持し続けて来た。しかし1898年の米西戦争で敗れてフィリピンはじめ、ほとんどの植民地を失った。
オランダにしても、1596年にスペインから独立して東インド会社を設立して、海洋王国として世界各地に植民地を得ましたが、オランダも戦争に次ぐ戦争で三次に渡る英蘭戦争で敗れてイギリスに主導権を奪われましたが、最大の植民地のインドネシアは大東亜戦争によって実質的に失った事でオランダの帝国は消滅した。
イギリスもオランダの覇権を奪ってからは戦争に次ぐ戦争の歴史であり、最終的には植民地だったアメリカに覇権を奪われて、インド独立によって帝国の歴史は終わった。このようにヨーロッパ列強の東アジア支配は200年ほどの歴史であり、オランダの東インド支配も300年に歴史に過ぎない。武力による支配は武力によって敗れれば簡単に終わってしまう。大日本帝国も50年も持ちませんでしたが、植民地支配による繁栄は長続きしない。
現代人は、アメリカの覇権が暫く続くと思っているが、強大な武力をいつまで維持し続けられるだろうか? アメリカの世界覇権は東アジアの日本支配に始まって、日本から立ち去る時にアメリカの世界覇権は終わるだろう。それはスペイン帝国がフィリピンから立ち去ったときに終わったように、オランダ帝国はインドネシアから立ち去ったときに終わった。大英帝国もインドから立ち去った時に終わりましたが、アメリカ帝国は日本から立ち去る時に終わる。
アジアは、古代文明からアジアの繁栄は続いており、中世のイスラム中東諸国の繁栄もアジアからの交易によってもたらされた。アメリカの繁栄もアジアとの交易で世界覇権国家となりましたが、ヨーロッパの繁栄も、新大陸からは金銀など奪うしかありませんでしたが、アジアからは植民地との交易で膨大な利益がもたらされた。アメリカもアジアとの交易が失われれば繁栄も終わるだろう。
中国は西太平洋の覇権を要求している。つまりアメリカはアジアから出て行けと要求していますが、アメリカとしては飲める訳がない。西尾先生の講演から少しそれましたが、ヨーロッパの歴史は実質的には僅か500年ほどであり、それ以前にはスペインもオランダもイギリスも存在していなかった。アメリカの歴史も僅か240年ほどであり、西洋の歴史は中東やアジアから見れば最近の事でしかない。学校で教えるヨーロッパ史は大ローマ帝国から始まっていますが、ヨーロッパ史とは直接繋がっていない。文明史的にはヨーロッパの歴史はスペイン帝国から始まっている。
西尾先生が講演の最後をニーチェで締めくくったので、ひさしぶりにニーチェについて若いときに先生の本を読んだり、色々感じたことを思い出しました。ニーチェはドストエフスキーなどと同様に一個の宇宙だと思います。両者とも地球上を覆った当時の浅薄な合理主義に魂をかけて対峙しました。ニーチェはその結論としてキリスト教を否定し、ドストエフスキーは逆にキリスト教にむかいました。方向性は違えど、両者とも深遠なリアリストですね。夜郎自大的かもしれませんが、この両者を正当に評価できるのは日本人くらいではないでしょうか。とってつけたようで恐縮ですが、西尾先生も深遠なリアリストです。歴史はやはり歴史学者ではなく深遠なリアリストによって書かれなければなりません。
一般的に、懐疑的精神は批判的精神と同様のことを意味する。近代思想史における懐疑的精神の代表的先駆者は、アダム・スミスと同郷のスコットランド人デイヴィッド・ヒューム(1711-76)である。18世紀後半にこのヒュームの懐疑主義を批判精神として受け継ぎ、新たな学として展開したのがスミス(1776)とカント(1781)の各代表作である。前者は、当時の植民地体制を含む重商主義批判を、後者は、独断的観念論批判を主題とした。その意味で、この三者の批判体系は、当時にいたる思想史の一応の到達点を示すものであり、それらが批判精神を根本思想としている限り、その効力は当時の時代や地域だけに限られるものでなく、ある程度は超歴史的な普遍性を内包している。その顕著な一例としては、数世紀にわたる植民地体制の崩壊が挙げられる。
スミスによれば、「中世の暗黒」の主な原因は、ゲルマン民族移動に伴う自由保有地制度(allodial system)だとされる。領地を支配する領主の支配権は自由に放任され、三権分立ならぬ独裁権を手中にしていた。中世後期になると、各国で王政が成立し、封建法によって領主の権力が制約され、この王政を支えたのは各地に発生していた自治都市勢力であった。それらによって、農村内部も徐々に近代化され、これが西欧近代化の主要原因だとされる。こういう文脈で、allodial制度の恐怖性を強調している。このことが認識されなかったために、教科書等で中世=封建制と解され、階級社会を克服する共産主義が唱えられたが、その権力がallodial化⇒暗黒化したことがその崩壊の主要原因であることは、未だ充分には捉えられていない。これについて、私は西尾氏の分析(秘密警察等)から多くを学んできた。