西尾 日本にもドイツではなくてイギリスと手を結べという親英米派が多数いました。本当に微妙な運命の分かれ目でしたが、結局はアメリカの圧力で次第に追い込まれた日本が勢いのあったドイツ側に付いたと今では解釈されています。ただイギリスとアメリカは別だ、と永い間分けて考えられていました。
福井 日独伊三国同盟は、アメリカの圧迫に対するディフェンシブな同盟だという見方もできます。ドイツも日本も地域の覇権国になりたかっただけなのに、アメリカがそれを認めなかった。そのために、ソ連と組むという試みも現実に進めていたわけですよね。
西尾 松岡洋右が当初目指していた日独ソ伊の四か国同盟ですね。
福井 日独ソが組むと、さすがのアメリカも攻められないだろう考えた。それは一つの考え方だったと思います。結局失敗しましたが。
西尾 スターリンは日独と手を結ぶような玉じゃなかったでしょう。それは日本の計算違いでしたね。
福井 いわゆるウィッシュフル・シンキング(希望的観測)だったのかもしれません。スターリンは一国社会主義者だと当時強く言われて、ただのロシアの帝国主義者であるという見解も有力でしたから。
西尾 なるほど。
福井 この日独と手を結ぶというのはソ連にとっても悪くない話でした。いわゆる対英「グレート・ゲーム」でイランとアフガニスタンも手に入る。しかし、スターリンの思惑はそんな小さなことではなくて、世界征服だった。
西尾 アメリカと一緒だな。
福井 ええ。前回紹介した『救済する国家(リーディマー・ネイション)』(アーネスト・リー・トゥーヴェソン)に従えばそうなります。復習すると、同書の概要は、アメリカの外交政策は、世界を救済するというミッション、使命感に支えられてきた歴史であり、アメリカで支配的な一部プロテスタントの神学の「千年王国を実現する」という強い志向に支配されているというものです。その手段として、アメリカン・デモクラシーの普及が言われているわけです。
西尾 それが「ワン・ワールド」オーダーへとつながるわけですね。シングル・ネイション、ヴァラエティーに富む単一国家が組み合わさったシビリゼーションというものを信じている我々からすれば、非常にはた迷惑なんだ。我が国の国体にも合わないわけでね。
福井 マルクス主義が、キリスト教の源流といえるユダヤ教の救済史観に強く影響された思想であることは常識です。アメリカの世界一国支配思想と共産主義は根が同じだともいえるわけですね。
西尾 マルクス主義思想の根本に千年王国論があるのは間違いない。
福井 太平洋問題調査会(IPR)という国際組織がありました。ゾルゲや尾崎秀実も関係していたソ連エージェントを含む共産主義者の巣窟でした。ビル・クリントンが最初(一九九二年)の民主党大統領候補受諾演説で自らに大きな影響を与えた人物として言及したことで話題となったキャロル・クィグリーという国際政治外交研究の泰斗がいます。彼は千頁を超える大著『悲劇と希望』で、IPRがウォール街と密接に関係していたことを詳述しています。ロックフェラーやモルガンが資金を出していた。IPRとロックフェラーを結ぶ中心人物だったのが投資銀行家ジェローム・グリーンで、日本生まれ、宣教師の息子です。
そして、共産主義とウォール街をつなぐキーパーソンはトロツキーだという説さえあります。トロツキーは、じつはロシア革命の前にはアメリカにいました。ヨーロッパからアメリカに渡航する際には、一文無しに近かったはずなのに、家族で一等船室を利用し、上陸時には円換算で百万円程度の現金を所持していました。革命直前のロシア帰国も含めて、イギリス情報機関の暗躍があったのではないかとも言われています。これは極右の妄想ではなく、現代ロシア史研究者リチャード・スペンス教授(アイダホ大)が学術誌に発表した論文の内容です。
西尾 マルクスの共産主義研究に資金援助したのはロスチャイルド家で、ドイツ出身のアメリカの哲学者で、フランクフルト学派のヘルベルト・マルクーゼの文化破壊的な研究に資金援助していたのがロックフェラー財団です。核兵器の一元的管理を考えたアインシュタインやバートランド・ラッセル、湯川秀樹ら科学者が作った「パグウォッシュ会議」も、それを実現するために世界統一政府を主張していましたが、そこでもユダヤ人のイートン財団が大きな役割を果たしていました。
福井 日露戦争のときに日本の戦費調達にユダヤ人銀行家は協力的でした。当時はロシアが世界最大の反ユダヤ国家だったわけですから。
西尾 反ユダヤだった帝政ロシアをユダヤ人は非常に憎んで、革命の推進派になったわけですよ。
福井 ロシア革命は抑圧されていたユダヤ人が中心だったこともあり、アメリカは革命を転覆させる意図などなく、旧体制が残るほうが困るというぐらいに考えていた。だからロシア革命を本気で阻止しようとしていたのは、日本とフランスだけだったとも言われています。
西尾 そのとおりだと思わせるのが、日本のシベリア出兵をめぐるアメリカの批判、あるいは嫌がらせです。その後の歴史も全部そうです。ヨーロッパはロシア革命に危機感を持っていました。アメリカにシベリア出兵を依頼した派遣団の団長はフランスの哲学者ベルグソンでした。だというのに、アメリカはルーズベルトまでずっと親ソ連だった。
福井 先ほど、イギリスの対独協調派と反独派の話をしましたが、後者の伝統的ドイツ嫌いのチャーチルやその周囲には、彼らを支援するユダヤグループがいました。
西尾 そうすると、チャーチルとユダヤ人、そしてコミンテルンがひとつにつながりますね。中国大陸では、西安事件(一九三六年、蒋介石を張学良が拉致した事件。これを機に第二次国共合作が行われ、国民党の掃討により壊滅寸前だった中国共産党は延命した)の前後にイギリスが介入してコミンテルンと手を握ろうとしていました。そこにユダヤ人が暗躍していました。そしてイギリス介入して、一挙に米英ソという連合国陣営が出来上がり、第二次世界大戦の構図が明確になった。
『正論』平成25年1月号より
(つづく)
「アメリカ観の新しい展開」(一)
「アメリカ観の新しい展開」(二)
「アメリカ観の新しい展開」(三)
「アメリカ観の新しい展開」(四)
「アメリカ観の新しい展開」(五)
「アメリカ観の新しい展開」(六)
「アメリカ観の新しい展開」(七)
「アメリカ観の新しい展開」(八)
侵略の意味が問われている。これは諸国間の侵害関係だから、不正行為の一種である。不正には法的な不法と倫理的な不当の二面がある。この二つを区別することが肝要である。植民地には多様な形態があるから、その支配が侵略に当たるか否かを法的に規定することは至難の場合もある。だが、倫理的な不当性の判断は比較的容易に思われる。倫理的な正義はソクラテス⇒プラトン以来、議論されてきたが、その一つの有力な到達点はスミス『道徳感情論』(1759)に見られる。つまり、「観察者」の「同感(sympathy)」を得られない度合に応じて、不当性の度合が高まるという観点である。それは世評と同じように見える。大方の場合は世評で済むが、それも歪んでいる場合の歯止めとして、「公平な観察者(impartial spectator)」が提起された。それは partial(偏った)の反対で不偏という意味である。これを逆に考えれば、倫理的な判断が法的規定を可能にするということでもある。
前信で省いた肝心な点は、「同感」の対象である。それは二種類あり、第一は被害者の憤慨で、第二は侵害者の侵害行為そのものである。観察者が前者に同感し、後者に反感を抱く場合に、その行為が「不正(injustice)」とみなされ、「不正」を行わないことが「正義」と規定される。その判断が別れても、最終的には「公平な観察者」(「第三者」とも言う)の判断により決着すべしと言う。大変に大まかで緩やかな判断基準だが、スミスによれば、元来、倫理的・道徳的判断とはそういうもので、ソクラテス⇒プラトンの見方も緩やかであった。それを余りにも厳密に規定するところから、中世「決疑論」のような誤りに陥ってしまうと言う(法と倫理の混同)。
この伝からすると、侵略問題の判断は、当事国でない第三国に委ねることが望ましいということになろう。
上述の観点からするスミスの格言、「商業は平和の絆なり。」(『国富論』第4編)この格言を無視した列強の植民地囲い込み競争が度重なる戦争の原因となってきた。こうして、この格言は上述の道徳哲学的裏付けをもって提起されたものであり、偶々の筆の走りでないことは明らかだ。確かに WTO 体制の中で、その格言は継承されてきたが、上述の裏付けまでは理解されてこなかったために、今ひとつ説得力に欠けるようだ。しかも、そこに過剰ドル金融問題が絡んできたために、その格言とは裏腹に歪みを来たしていることも確かである。その歪みを是正しつつ、先の格言の精神を維持し発展させていくことが今後の世界にとって不可欠であろう。その意味で、スミス体系は今の時代にも有効であり、尊重されるべき観点だと私は考える。米国に野心家的問題点があるとすれば、それは経済外交を通じて是正されるべきだ。
法と倫理の関係は、倫理的(自然的)正義に基づいて法律(実定法)や判決(判例)が定められるべきで、その逆ではない。それは論理的にも歴史的にも人間生活が先行して、政府機関は事後的に成立するものだからである。
人口希薄な時代には、人口過剰な地域から希薄な地域への移住は頻繁に見られた。北米や豪州への移民はその名残とも言える。その植民地開拓が契機となって、資源獲得等のための植民地化に振り変わってきた。スミスはその時代に先立って、植民地を含む自由貿易を唱えた。これは植民地の門戸開放と同じことだが、受け入れられず、列強は植民地獲得・囲い込み競争に狂奔してきた。もしその門戸開放が実現していれば、植民地独占の意味が失われるから、それは大幅に抑制されただろう。ただし、過剰人口の捌け口としては求められただろう。後発の日本は急速な過剰人口化を抱えつつ、移民を拒否されたり、軍部の都合で産児制限をしなかったことが、その後の植民に関わる軍事行動の大きな要因となったように思われる。
要するに、近現代の「侵略」の原罪は、英国を筆頭とする列強諸政府がスミスの些細な提唱を受け入れなかったところにあると言えよう。その当事者たちには、その些細なことがその後の大惨事の契機になるとは思いもよらなかったことであろう。しかし同様なことが今後も繰り返されないとは限らない。つねに歴史を洞察する冷静・沈着な対応が求められるところである。