「アメリカ観の新しい展開」(十)

「言論統制が世界中で進んでいる」(西尾)
「言論統制は『共産主義だ』」(福井)

 西尾 いま、世界は非常に危ないところに来ていると思っています。アウシュビッツ、ナチスによるユダヤ人迫害の事実をいっさい批判してはいけないという法律を、ドイツがつくりましたね。
 
 福井 ヨーロッパのほとんどの国に、同様の法律があります。

 西尾 それが暗黙の内ではなくて、いわゆる法文化されるというのは、およそやっぱり精神の自由とは正反対のことだと思うんです。それはソフトファシズムではなくてファシズムそのものでしょう。そういう傾向が世界的にどんどん強まっているような気がして不気味でなりません。

 じつは、アメリカは二〇〇四年十月に、「全世界反ユダヤ主義監視法」をという法律を制定しています。世界中の反ユダヤ主義の動きを国務省が記録し、各国の行動に対して評価を下すという内容です。一般的に、反ユダヤ的とみなされる指針は、(一)政府・マスコミ・国際ビジネス社会や金融をユダヤ社会が支配しているという主張、(二)強力は反ユダヤ感情、(三)イスラエルの指導者に対する公然たる批判、(四)ユダヤの宗教をタルムード、カバラと結びつけて批判すること、(五)アメリカ政府並びにアメリカ社会が、ユダヤ=シオニストの影響下にあると批判すること、(六)ユダヤ=シオニスト社会がグローバリズム、または「ニュー・ワールド・オーダー」を推進していると言ったり批判したりする、(七)イエス・キリストがローマによって磔刑に処せられたのは、ユダヤ指導者のせいであると非難すること、(八)ユダヤ人のホロコースト犠牲者を六百万人よりも少ないと主張すること、(九)イスラエルが人種主義的国家であると主張すること、(十)シオニストの陰謀があるとの主張、(十一)ユダヤとその指導者たちが共産主義、ロシアボルシェビキ革命をつくり出したと主張する、(十二)ユダヤ人の名誉を毀損する主張、(十三)ユダヤ人にはパレスチナを占領する聖書に基づく権利はない、との主張、(十四)モサドが九・一一同時多発テロに関与したとする主張─などと言われています。
 
 いままで我々が議論してきたことも含まれますが、なるほどこれらの主張内容は単なる妄想的な陰謀論なのかもしれない。そこは分からない。しかし、このような法律の出現は、在米ユダヤ・ロビーの決定的な影響力を示しています。

 前回、アメリカの日系移民政策を批判した『日米開戦の人種的側面、アメリカの反省1944』(翻訳は草思社)という本が第二次大戦中にアメリカで出版されていたことを紹介しました。実はこの本は、ユダヤ系の出版社から出ているんです。ユダヤ人は日系人排斥や収容の動きをみて、自分たちの身の危険をも感じていた証拠ですね。当時は彼らは大変に不安だった。ところが、彼らはいまや監視法まで制定させる原動力になった。我々は長い過酷な歴史を歩んできたユダヤ人は同情に値すると考えていますが、弱者がいつの間にか強者になっていたのではないでしょうか。

 福井 ユダヤ人であるビル・クリストルというネオコンのオピニオン・リーダーが、共和党からイスラエルに対して批判的な有力者を追い出したという趣旨の発言をしています。ブッシュ・シニアや、彼の政権の国家安全保障担当大統領補佐官、国務長官だったブレント・スコウクロフト、ジェームズ・ベイカーたちです。

 西尾 共和党も二色あって、親イスラエル、反イスラエルがいるけれども、後者は反ユダヤなの?

 福井 反イスラエルというより、イスラエルに一方的に肩入れせず、アラブとも仲良くしたほうがよいと考えているだけです。
 
 西尾 国家の指導者として当然のバランス感覚でしょう。
 
 福井 反ユダヤ監視法に署名したブッシュ・ジュニアは、父親が追い落とされる過程を見ていた。だからイスラエル・ロビーを敵に回すと自分も追い落とされてしまうと考えていたのかもしれません。
 
 一方、オバマ大統領はイスラエル・ロビーとは一定の距離を置いています。だからオールド・ライトは今回の選挙で、親イスラエルのミット・ロムニーには批判的で、オバマ再選を歓迎しているのではないでしょうか。アメリカ保守は一枚岩、ひと塊ではないんですね。
 
 西尾 イラク戦争では五千人も戦死し負傷者が十倍いるという。イスラエルを守るための戦争にアメリカ人は確実に疲れ始めています。今度の大統領選挙の結果は、「神権国家」アメリカ像が大揺れに揺れている表れではないでしょうか。それでもアメリカの保守は根強く、何かというとすぐ、ひと塊になりつつあるから怖い。
 
 福井 ネオコンサバティブですね。それでも、ロン・ポールが予備選でかなり善戦したわけですから、共和党の現状に不満のある人も多いわけです。だから、われわれ日本の保守派がネオコンに肩入れしなければならない謂われはない。
 
 西尾 威勢のいいアメリカにくっついていたいだけでしょう。
 
 福井 今のアメリカの好戦的な政策を批判することイコール反米左翼、というわけではないんです。保守派としても批判できるわけです。
 
 西尾 言論を一元化してそれ以外のことを言ってはいけないというのは、民主主義国家・アメリカの建国の精神を裏切っていますよ。

 福井 それでもヨーロッパに比べると、まだ憲法上保障された権利として言論の自由は守られています。ドイツでは、ナチス戦犯を裁いたニュルンベルク裁判を批判したら刑務所行きを覚悟しなければなりません。フランスなども事情はそれほど変わりません。ドイツの移民増加を憂いて政策を批判し、二〇一〇年九月にドイツ連銀理事を事実上解任されたティロ・ザラツィンの問題でも、当初は検察が動いたんです。
 
 さきほど、ファシズムだとおっしゃいましたけれども、アラン・ド・ブノワというフランス「新右派」(Nouvelle Droite)の代表的イデオローグが、こんなことを言っています。「政治的システムとしては、ナチズムはファシズムとはまったく違う。同様に、社会主義もまた、共産主義とは違う」「ナチズムとファシズムを同じ概念にしてしまうのは、結局レオン・ブルム(フランス人民戦線内閣の首相)とスターリン、リオネル・ジョスパン(シラク政権で首相、元仏社会党第一書記)とポルポトを同じ壺の中に投げ込むことと同じだ」
 
 要は、安易に「ファシズム」という言葉を使うのは「スターリン語」(la langue de Staline)だということです。それは「ファシズム対反ファシズム」というスターリンが一九三〇年代に作り出した枠組みにとらわれた見方であって、イタリアとドイツの近さよりも、ナチスとソ連の近さのほうがはるかに密だということが、彼の主張です。
 
 西尾 ファシズムをわりにリベラルに考えているわけだ。スターリニズムが全体主義であるのに、それを例外的に認めているようなものの言いようは、結局ナチスとスターリニズムの近さというものをよく認識してない表れであるということですね。それはそうだ。スターリンとヒットラーは互いに相手を認め、影響し合っていたのですから。
 
 福井 だから、言論統制を「ファシズムだ」と批判するよりも、「それは共産主義だ」と言ったほうが本質を突いているということです。日本の人権侵害救済法案(人権擁護法)を考えれば、よくあてはまっています。この法律を推進しているのが、どういう勢力なのか。
 
 西尾 ヘルベルト・マルクーゼが出てきたので、ひとこと言わせてください。私は一九六五~六七年のドイツ留学から帰国した後に「後遺症」という論文を『批評』という雑誌に発表しました。マルクーゼ批判です。留学したときのドイツは学生運動の最中で、マルクーゼは西ドイツで体制批判をやっていて教祖的存在でした。帰国してみると、日本も同じことになっていた。そのマルクーゼは「左翼の独裁」ということをしきりに言っていたんですね。左翼の言うことは正義だから、これを政治体制化しようというわけです。その後の日本はずっとこの流れの中にある。
 
 その「左翼の独裁」という概念に反発して書いたのが「ヒットラー後遺症」ですが、私はこの論文を当時何冊も発刊した自分の単行本の評論集に入れなかったのです。忘れたのではありません。もう一本、「大江健三郎の幻想風な自我」という大江批判の論文も評論集に載せませんでした。いずれも私の全集(国書刊行会)第三巻には入れましたが、この二本の論文をなぜ当時の評論集に載せなかったのか、今となっては分からないんです。言論界では左翼が全盛の時代で、私が生きるために避けたのかもしれないし、出版社が嫌がったのかもしれない。
 
 人は、自分の心の主人公であるとは限りません。私は今まで自分の言論の自由というものにずっと飢餓感を持っていて、今でもそうです。当時のスクラップを見ると、私が出した三冊の評論集に、全部で三十一篇の書評が寄せられています。それだけ注目を浴びたら飢餓感などないだろうと思われるかもしれないけど、これは心理的に同時に起こる矛盾した現象で、私の心の中にはずっと飢餓感があった。それはひょっとすると、この大事な二本の論文を評論集に載せていないことと関係があるのかもしれない。私は言論界で生きるために載せることを避けたのかもしれない。偽の自分になって生きてきたのかもしれないのです。
 
 福井 同じようなことを、二十世紀アメリカを代表する社会学者ジェームズ・コールマンが死ぬ前に言っています。彼は黒人問題について、人種差別的に受け取られかねない研究を発表した。それでも、「自分は批判を恐れて十分に発言しなかったのではないか」という懺悔の言葉を遺しています。
 
 西尾 マルクーゼの「左翼の独裁」といった思想は、当時全共闘だった今の日本の法務官僚や政治家の頭の中に染み込んでいるのではないか。そのことの表れが、人権侵害救済法案や、日本の「戦争責任」を追究する恒久平和調査局の設置を盛り込んだ国立国会図書館改正法案でしょう。後者は、一定の戦争観以外は許さないという、とんでもない法律ですから。ナチスのホロコーストの歴史のない日本に、ドイツの「アウシュビッツは嘘」断罪法のまねをするようなばかばかしい過誤は絶対にあってはなりません。

『正論』25年1月号より

(つづく)

「「アメリカ観の新しい展開」(十)」への8件のフィードバック

  1. スミスの米国論については、8月15日の本欄5に投稿した通りだが、その議論に続いてインド論がある。西欧諸国はインドとの貿易を17世紀初頭から東インド会社を通して行ってきた。しかし18世紀後半には英国の同会社だけが残り、貿易だけでなく政治的支配にまで関与していた。スミスはこの歪みを痛烈に批判し、その原因が独占にあるとして、同会社の貿易独占を止めて、自由化するよう提言した。しかしこれは受け入れられず、後にはミル父子のような進歩的知識人すら同会社員としてこの独占体に協力していった。しかし後から見ると、スミスの折角の提言を受け入れる機会を逃したことがボタンの掛け違いの始まりであった。ミル等の善意にもかかわらず、植民地は独占支配すべき対象であって門戸開放は論外だという前例ができ、他の列強諸国もそれを踏襲した。これが再度の世界大戦の布石・契機となってしまう。

  2. 上記のスミスの批判はレーニンの帝国主義批判の陰に隠れて余り注目されてこなかったが、レーニンの革命論が破綻した現在、それに代わる本来の批判として正当に評価されるべきだ。米国が植民地だった時代のスミスは植民地そのものを否定せず、その領有国の貿易独占を退けた。しかし植民地との貿易独占を失って自由貿易化すれば、軍事力等で植民地を支配する意味が無くなる。従って、それは植民地否定と同じことを意味していた。スミスの提唱どおりの国際経済が実現していれば、戦後体制と同様で、軍事力は国防的な規模にとどまる。その枠組みの中で、日本の近代化が行われれば、軍事大国にならず、過剰人口問題も産児制限や産業発展により、緩和されていたはずだ。このように見ると、日本は歪みきった世界体制の中に遅れて参加して、その歪んだ矛盾を集約的に体現させられた犠牲者のようにも見えてくる。

  3. 西尾先生に福田恆存先生が憑依したのかと思いました。
    悪い意味ではなく、良い意味での感想です。
    西尾先生の講義を聞いていると、福田先生が喋っていると錯覚します。
    私は、本物と偽物を見抜く能力だけはあるようです。
    西尾先生は本物であると断言いたします。

  4. 三島由紀夫と福田恒存はある意味でライバルであり、友人でもありました。
    三島の自決を、福田先生は、中曽根康弘のように切り捨てず、三島存命中は、あれ程互いを小馬鹿にして、何とか自己の優位性を保とうとしていましたが、三島の自決後、福田先生は三島の行為を真剣に受け止め、その後の態度は素晴らしいものでありました。
    三島をを売った文化人は多数おりましたが、福田先生は決してそれをしまんでした。
    これが本当の友人ではないかと思います。

  5. 侵略問題は上記のような文脈の中で捉えられるべきだ。とすると、それは副次的問題で、本命は植民地問題であることが明白となる。その根源は東インド会社であり、その起源は1600年頃に遡る。スミスはその独占を自由化するよう提唱したが、仮に国会議員がそれを提案すれば、身に危険が及ぶほど困難を極めると述べ、独占的既得権がいかに強固であるかを百も承知していた。そしてその問題を一企業問題でなく、「重商主義」という体制問題として捉えた。とすると、戦争や侵略問題の根源はここに起因するということになる。専門学会では、重商主義は近代化の一環として評価されてきたが、前述の文脈は黙殺されてきた。J.S.ミルのような開明的知識人が同会社員としてこれに関わってきたことが事態を混迷化させてしまったようだ。しかしこれは個人の善意で解消されるものでなく、植民地支配を正当化する体制問題として、その後の歴史の動向を大きく左右する機能を果たすことになった。その意味で、思想論や戦争論はミル以降よりスミスに戻して考えるべきだ。

  6. 重商主義は保護貿易や産業育成政策として解され、植民地政策の一面が無視されてきた。スミスは重商主義の何と戦ったのか? 植民地貿易を一国が独占すれば、貿易航路や植民地内の安全を維持するために軍事力を必要とする。その独占を解消すれば、その軍事力も削減できるが、既得権勢力は削減には必ず抵抗する。このように、スミスが戦った相手は当時の産軍複合体であった。スミス経済学は人気を博し、米国植民地は分離・解放されたが、インド植民地はしぶとく存続し、それに関わる産軍複合体も維持され、スミスの戦いは成就しなかった。それどころか、約半世紀後には著名人J.S.ミルまでが父と共に東インド会社に禄を食む始末であった。ここに植民地支配のモデル・ケースが確立し、他の諸国もこれに追随した。こうして産軍複合体の支配体制が築かれ、遅れて参入した独・日等はこれに翻弄されてしまった。

  7. 上記には一つの裏話がある。スミス理論はオランダから移住したユダヤ人株式投資家のリカードによって、あらぬ根本批判を受けた(1817)が、東インド会社勤務の父ミルとリカードはロンドンで家族ぐるみの親しい間柄であった。父ミルはリカード著の出版に尽力し、その概要をJ.S.ミルに家庭教育で伝授した(ミル自伝)が、そこには重商主義批判がすっぽり抜けていた。なお、リカードのスミス批判が誤解であることは、各拙著(2002,2010)で詳細に解明したが、それまでは内外ともリカード説が通説であった。この両者は独占体としての東インド会社の存在がどういう結果をもたらすかの世界史的洞察力を欠き、その場限りでインドを文明化できればそれで良し(功利主義)と考えていた。もしこれとは逆に、彼らがスミス経済学とその東インド会社批判を継承していれば、世界史の動向もかなり変わっていただろう。

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