「アメリカ観の新しい展開」(十一)

アメリカは なぜ日本と戦争をしたのか 下

「正義病」の根源 「アメリカ人とは何か」という視点で歴史を 分析して初めて見えてくる日米戦争の深層

 西尾 少し長く話したいと思います。私は、歴史というものは、宗教であったり、人種であったり、金融であったり、地政学的な力学であったりと、さまざまな要因の総合作用の結果なのだと考えています。とくにアメリカの歴史を考えるときには、そうした視点が必要です。  十九世紀のヨーロッパにとって、「アメリカ」とは端的に言って「ラテンアメリカ」、つまり南米大陸を指す概念でした。十九世紀初頭、南アメリカの原住民、いわゆる「インディオ」の人口は千五百万人でした。これに対し、北アメリカの「インディアン」は五十万?百万人です。それだけの差があったのです。移民の数も南アメリカが千七百万人で、北アメリカの五百万人の三倍以上でした。

 ところが約百年後の十九世紀末には、南北の移民の数は逆転していました。南アメリカの六千万人に対し、北アメリカは八千万人。力が一気に北に移動し、いつの間にか北アメリカがアメリカの代表になっていたのです。

 いうまでもなく、南アメリカの移民は主にスペインから、北アメリカの移民はイギリスからやって来ていました。当時の両国の政治体制をみると、いまだ封建末期だったスペインに対して、イギリスは近代国家の道を歩み始めていました。文明が歴史的に辿ってきた段階としていえば、百年から百五十年の違いがあった。あるいは重商主義と資本主義の違いと言ってもよいでしょう。移民も、南アメリカにやって来ていたのはスペイン王朝のための富を求めた人々だったのに対して、北アメリカにはイギリスの王家に反逆し、「新しい土地」で共和主義的自治国をつくろうとした人々でした。

 原住民への対応はどうだったでしょう。スペインからの移民たちの基本政策は、原住民をキリスト教に改宗させてスペイン国王に富をもたらす臣下にするというものでした。一方、文明がより進んでいたはずの国からやってきた北アメリカの移民たちは、インディアンたちを異質な存在として排除し、単純に除去しました。そのやり方がまた凄まじい。単に殺戮しただけではありません。彼らの生きる根拠だったバッファローをまず大殺戮することによって、インディアンたちを衰えさせた。もちろんスペインの移民も原住民を虐殺しましたが根絶やしが目的ではありません。

 この原住民への対応の違いはスペインとイギリスの文明の違いによるものではなく、大きくは原住民の数の違いによるものと思います。南アメリカでは移民よりも原住民の数が圧倒的に多かったために排除できず、混血が広がった。混血によって人種の違いを緩める政策をとらざるを得なかった。つまり、スペインとイギリスの南北アメリカでの振る舞いには、表面的な違いはあっても、膨張主義、占有欲、征服、そして抵抗する意志のある原住民は排除するという共通項があったということです。

 異なっていたのは、北アメリカの移民たちがインディアンを除去するに当たって、宗教的な屁理屈をひねり出していたことです。キリスト教の新約聖書の言葉を使いました。「マタイ伝」二十四章二十七節のイエスの予言です。「神はこの世の終わりにあたって、その福音を西に伝えようと思っておられた。福音はかつて東から昇り、これまでは光によって東方を照らしていたが、この世の後半期になれば西のほうに傾き、沈む前にはこの西方の部分を輝かしい光で照らしたまうのである」

 移民たちはこの福音を、広々とした西部はキリストが与えてくれた征服にふさわしい土地で、拡大することが許される新天地だという劇的な暗号として受け止めました。これが有名な「マニフェスト・ディスティニー」という信仰にもつながります。この言葉は、一八四五年にサリバンというニューヨークのジャーナリストが最初に唱えた特殊なイデオロギーで、メキシコから奪ったテキサス併合の正当化に用いられました。百年以内に二億五千万人もの人口に達する白人がアメリカ大陸を占領するのは明白な神の意思であり、自由な発展のために神が割り当てたもうたこの大陸に拡大していくのはわれわれの運命、「ディスティニー」だとサリバンは述べています。第七代大統領のジャクソンは白人のアメリカ大陸への西進を進歩と文明のマーチだと言いました。西部開拓のイデオロギーを表わすフロンティア精神とは、侵略の暗号である「マニフェスト・ディスティニー」を朗らかな言葉で言い換えたにすぎません。

 さらに、アメリカの西部開拓でわれわれが見落としてはいけないことがあります。映画「アパッチ砦」で有名なインディアンのアパッチ族との抗争で、アパッチ族を捕らえて軍隊の監視下に置いた留置場が一九一四年まで存続していたということです。私がアメリカの対日姿勢のクリティカル・ポイントだと言った一九〇七年よりも後です。カリフォルニアの排日運動も起きていて、米比戦争によるフィリピン征服もすでに終わっていました。米比戦争の過程では桂・タフト協定(一九〇五年、日本がアメリカのフィリピン統治を、アメリカが韓国における日本の指導的地位を相互承認)も結ばれ、太平洋をめぐる日米対立の構図が姿を見せ始めていました。アパッチ砦、つまり「マニフェスト・ディスティニー」に支えられた西部開拓と対日戦争は歴史として連続していたのです。

『正論』25年2月号より

(つづく)

「「アメリカ観の新しい展開」(十一)」への9件のフィードバック

  1. 正義といって、私は孔孟の「義」と福音書の「righteousness」を同一のものと解釈しています。
    さて私事になりますが、私は忸怩として「正義病」であることを認めるにやぶさかではありませんが、戦後日本がいわば「無正義病」に陥っていた事を指弾せずにはいられません。
    三島由紀夫氏がいわば「天皇病」と江藤淳氏に揶揄されても、小林秀雄氏は「ならば、君は歴史を病気というか。」と三島氏を擁護しましたね。
    時代によっては、病気としてしか現れぬ、真の歴史があるのかもしれません。と不遜にも申し上げたいところです。

  2. アメリカはなぜ「西」に進むのか・ 編集 | 削除

    http://www.takedanet.com/2010/06/post_2a67.html

    アメリカはなぜ「西」に進むのか・・・サンデル教授の「正義」に思う

    アメリカは西に進む。

    厳密に言うと、アメリカに住んでいたインディアンは西から来たので、西にもどることは無かったが、東からきた白人は西に進む。

    最初は、ボストン、ニューヨークなどの「東海岸」だった。

    それが「西部」に進み,メキシコと戦い、そして「西海岸」に到達した。その途中で、アメリカインディアンを600万人も殺害した。

    そしてバイソン6000万頭、プレーリードッグ2億匹殺害。

    そして、金を求めてサンフランシスコに達し,あれほど広い太平洋を見てもアメリカの「西進」は止まらなかった。

    20世紀の初めまでには、北はアラスカ、中緯度ではハワイ、そして南はフィリッピンを領有した。

    それから50年、本当は中国がターゲットだったが、その代わりに日本を襲って太平洋戦争を起こし、さらに朝鮮半島(朝鮮動乱)、ベトナム(ベトナム戦争)へと進む。

    ここまでが1970年である。

    日本人の中で太平洋戦争は日本が始めたと考えている人がいるが、私はアメリカの「西進」の力を防ごうとした結果と考えている。「なぜ、日本は戦争を始めたのか?」という問いになかなか答えられないのは、ここに原因がある。

    アメリカはさらに西に進む。アメリカ人の体の中に止めることができないほどの激情が走るようだ。

    「西に向かって進め!そして西の野蛮人にアメリカの正義を伝えよ!これは神の宣託だ!」と。

    2000年になって、ターゲットはアフガニスタン、イラクまで進んだ。地球一周に近づいて来た。

    ・・・・・・・・・

    アメリカは「西進」するときには、何らかの「ウソ」を構えるか、相手を誘って問題を起こし、それに対する報復として攻撃をする。

    日本の時には真珠湾攻撃,アフガニスタンでは9.11である。ベトナム戦争ではトンキン湾事件というウソを構えた。

    このような「西進」に対して「熱情」をもつアメリカは「自分たちが考えることは普遍的であり、正しい」ということを確立してから進撃を開始する。

    それがハーバード大学の講義で見られた、「ギリシャ風講義室」で「権威の在りそうな教授」が、「アメリカの正義」を確定するというプロセスである。

    ・・・・・・・・・

    人間はどこまでなら「言っていること」と「やっていること」が違っても良いのだろうか?

    「多様な価値観を認める」とサンデル教授は言いつつ、そのそばで軍隊はアフガニスタンに突撃する。

    「温暖化が大変だ」と言って、アメリカや東京に住む。

    「節電しなさい」と言って,自分の家の電気代は月30万円(ゴア)。

    「人のものを盗んではいけない」と言って泥棒をする。

    サンデル教授の講義は納得性があるが、詐術である。詐術には、「ギリシャ風講義室、エリート学生、格好のよい教授」が必要で、それを「白人崇拝」が応援する。

    東洋は他国の価値観を尊重する。動物に対しても輪廻思想をもつ。そのような一段も二段も優れた東洋文明が、西洋文明の詐術にかかるのは残念だ。

    なぜアメリカは東に進まずに西に進むのだろうか? 東は祖父の国であり、西は野蛮だからだ。そしてそれは「熱情」によって支えられ、「ギリシャ風論理」によって守られている。

    武田邦彦

    (平成22年6月23日 執筆)

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    太平洋戦争(正確には大東亜戦争)は、急に日本が真珠湾を攻めてきたという論理でわれわれの歴史教科書では学びますが、大東亜戦争の前にアメリカはメキシコの領土を戦争を吹っかけて奪い取っている。
    (第9代アメリカ大統領となったポークは、テキサス・ニューメキシコ・コロラド・アイダホ・ワシントン・オレゴン・ユタ・アリゾナ・カリフォルニア州といった広大な領土をメキシコから略奪した。)

    そしてハワイ、フイリッピンを武力で脅して植民地にし、先に中国を治めていた日本がアメリカにとっては目障りだった。
    西へ西へと戦争を仕掛けながら突き進み続けた先に中国があり、日本が先に統治していたのでアメリカと戦争をするように仕向けたというのが真実であり、日本が理由もなく真珠湾を攻撃したのではありません。(日本がアメリカという領土を欲していたわけではないのです。)

    もともとあったメキシコの広大な領土はアメリカに奪われています。

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  3. Manifest Destiny

    マニフェスト・デスティニー(Manifest Destiny)とは、アメリカ合衆国のインディアンに対する民族浄化と黒人の奴隷使役によって進められた白人種の西部開拓を正当化する標語。「明白なる使命」や「明白なる運命」などと訳出される。

    19世紀のアメリカでは、西へと領土を拡張し大帝国を築くことが、一つの天命であると信じられていました。この領土拡張のイデオロギーは「明白な天命 (Manifest Destiny)」と呼ばれています。当時のアメリカ人たちは、西への拡大が、神から与えられた自分たちの使命だと考えていたのです。「帝国の進路を西にとれWestward the Course of Empire Takes Its Way」あるいは「西へ行こうぜ!Westward Ho!」といった合言葉のもと、アメリカ人たちは次々に西部の荒野へと向かいました。
     

    アメリカはインデアンを虐殺して領土を得ましたが、どれだけ、虐殺したんでしょう…
    narumi875さん

    アメリカはインデアンを虐殺して領土を得ましたが、どれだけ、虐殺したんでしょうか?

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    質問日時:2007/8/27 00:40:02
    解決日時:2007/9/10 03:49:06
    回答数:2
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    nightdancer6160さん

    200万人が24万人まで、殺されて減った。

    http://www.actv.ne.jp/~yappi/tanosii-sekaisi/04_america/04-04_indian.html
    1830年、ジャクソン大統領は強制移住法を制定し、5万人のインディアンをミシシッピ川以西のインディアン=テリトリーへ移住させた。頑として移住を拒否し続けたチェロキー族も、ついに1838年に連邦軍によってジョージアから追いたてられた。1万2000人のチェロキー族一行は、冬空の下、5ヵ月をかけてオクラホマへの長い行程を強いられた。寒さ、飢え、病、暴行によって8000人もの命が失われたという「涙の旅路」である。

    強制移住の結果、ミシシッピ以東の土地はほぼ完全に白人に開放された。そして、連邦政府は移住させたインディアンに対しては「文明化」を推進していく。

    「年々増加していくわが国の自由な発展のために、神から与えられたこの大陸にわれわれが拡大するという明白な運命の偉大さ…」

    これは、1845年にあるジャーナリストが領土拡大と定住地拡大を合衆国の運命として正当化した言葉である。

    19世紀半ばの時点で、ミシシッピ以西には、強制移住させられた部族を別にすると、30万人近いインディアンが存在した。そのなかには、スー・シャイアン、コマンチ、ナヴァホ、アパッチなどの狩猟生活をおくる部族が含まれていた。

    19世紀後半、とくに1860年代から80年代にかけての西部は、こうしたインディアンと白人との激烈な戦いの場となった。

    今世紀に入り、それらの戦いは西部劇の題材としてたびたび取り上げられることになる。ただしハリウッドが創り出した「正義の騎兵隊vs野蛮で残忍なインディアン」という図式が、「明白な運命」的な発想に固執した白人の身勝手な虚構であることはいうまでもない。

    インディアンにとっては、侵略者から自分たちの生活を死守するための戦いだったのであり、実際に野蛮で残虐だったのは白人の側だったのである。

    インディアンは、白人に立ち向かった。

    1866年のフェッターマン大尉以下81名のせん滅や、1876年のスー・シャイアン連合軍によるカスター将軍大隊のせん滅など、インディアン側は輝かしい戦果をいくつも挙げ、スー族のシッティング・ブルやアパッチ族のジェロニモの名は白人を震え上がらせた。

    しかし、白人側の軍事的・物量的優位はやはり動かしがたかった。ジェロニモは降伏し、シッティング・ブルも保留地に閉じ込められた末に、1890年12月15日、ついに逮捕された。

    「わたしは行かない。さあ、みんな立ち上がれ。決起するのだ。」

    こう叫んだ瞬間にブルは射殺された。

    この2週間後、第七騎兵隊は無抵抗のスー族200名を虐殺した。この事件によって、インディアンの武力抵抗は完全に弾圧された。

    同じ1890年の合衆国国勢調査は、フロンティアの消滅を高らかにうたった─。
    合衆国の発展と繁栄は、まさにインディアンの屍の上に築かれたものだったが、白人たちは辛うじて生き延びたインディアンに対しては、生存の条件としてインディアンであることをやめるよう要求した。

    インディアンの文化的抹殺こそが、文明の勝利だと確信されていたのである。 すべてのインディアンが合衆国市民として認められたのは、ようやく1924年のことだった。

  4. 北アメリカへの移民は8千万と言われた際、その移民がイギリスだけから来たように読めますが、19世紀になると、アイルランド(19世紀初頭にイギリスに合邦)、その後ドイツ、ロシアというように雪だるま式に増えて行き、18世紀までのイングランドからの移民はほんの少数派になってしまいます。その広大な大陸はヨーロッパ諸国共通の過剰人口捌け口として利用されてきました。彼らの農地所有権と現地インディアンの狩猟地共有権との原理的衝突が争いの原因ですが、後者のような贅沢な土地利用が許される時代でなかったことは確かです。だからと言って、虐殺行為が認められるはずもなく、それを厳格に防止するのが政府の役割ですが、その辺りにスミス(1776)が当初から懸念した指導者たちの野心家的傲慢が表面化したものと思われます。スミスは南米でのヨーロッパ人の「不正行為」を厳しく糾弾しましたから、それと同様のことを懸念して英米合邦論を提案したのでしょう。

  5. 前述の移民数の推移はかなり以前に文献で調べたもので、私も意外に感じました。ただし、その比較は時代別なので、古い移民層ほど子孫も増えていますから、同時期の8千万の構成比で見れば、イギリス系がさほど少数とは限らないでしょう。しかし一般に考えられているほどイギリス系が多数派というわけでもないようです。指導的階層では、WASP(白人、英国系、プロテスタント)と言われてきたように、人口構成比以上にイギリス系の影響力が強かったことは確かです。

  6. スミスは重商主義の独占体(産軍複合体)から、それに反対する国会議員は命を奪われる恐れもあると明記したが、それはスミス自身にも該当すると考えていたはずだ。幸い彼は命までは奪われなかったが、41年後(リカード著)にスミス著の精神が奪われてしまった。そしてリカードの近辺には東インド会社員の親友がいて、リカード著の出版に一方ならぬ尽力をしていた。その親友も経済学者だから、何らかの形でリカード著の内容に関わっていた可能性も否定できまい。その息子も同会社員でリカード説を普及させた大経済学者だったから、これによりスミス精神は息の根を止められてしまった。しかも、その息子は社会主義の傾向もある世界的泰斗だから、まさか上述のような裏があるとは誰も思わない。現に私自身がそうだった。
    しかし今回ここに連投しているうちに、とんでもない裏があるように思われてきた。少なくともその父子はインド論を含むスミス理解の「公平な観察者」にはなりえない立場であるのに、巧妙にリカードを通してそれに関わる役割を果たし、学界もそのリカードへの偏ったえこひいき(誤解)に気づかないで来た。

  7. ギャング国家アメリカ、
    宗教国家アメリカ、
    虐殺史のアメリカ
    文明を破壊する文明アメリカ、

    アメリカの本質的悪を糾弾する世界世論を作り上げるべきだ。
    アメリカの鉄鎖につながれた日本は、それしか逃れる手はないのではないか。

  8. 上記に関わり、矢内原忠雄『帝国主義研究』(白日書院、昭和23)所収の昭和4年論文(161頁)に、次の一文を見出した。[…]内は星野記
    「イギリス人は19世紀における自国の領土拡張の事実をば夢遊病的無意識的発作の状態 in a fit of absentmind[ed]ness において為されたるものなりと称す。」
    これぞスミスの危惧した産軍複合体の「為せる」業であったろう。リカードやミルのスミス批判は、そこから目を逸らせる役割を果たしたことになる。
    なお、この一文は丸山真男が批判した日本政治の「無責任体制」を想起させるが、近代化したはずのイギリスの政治も似たようなものであった。丸山が対比したナチスの例が、西尾氏も再三指摘したように、お門違いだったと言える。

  9. 前記8への追記です。
    矢内原忠雄は、戦後の日本で結成された「アダム・スミスの会」の初代会長に就任した。

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