「国内でも批判は高まっている」(福井)
「救済思想はニーチェも批判」(西尾)
福井 スワードがアメリカ帝国主義の基礎固めを行ったという西尾先生の御指摘は、今年(二〇一二年)出たウォルター・スターによる本格評伝『スワード』の中心テーマになっています。 「救済する国家」論については、この対談の第一回で紹介しました。トゥーヴェソンという宗教思想史家が『リディーマー・ネイション(救済する国家)』という古典的著作で、アメリカの対外政策史は、「リデンプション・オブ・ザ・ワールド(redemption of the world)」、つまり世界を救済するというミッション、宗教的使命感に強く支えられてきた歴史であると指摘しています。
今から半世紀前の一九五三年に初版が出た、アメリカ保守主義の古典的名著であるラッセル・カークの『保守の精神』(The Conservative Mind)にも「ニューイングランド」つまりアメリカ支配層は「他国の民を善導し、浄化するよう止まることなく誘(いざな)われてきた」とあります。
さらに、トゥーヴェソンを高く評価し、同様の視点から第一次大戦参戦を描いたリチャード・ギャンブルの『正義のための戦争』(The War for Righteousness)がイラク戦争と前後して二〇〇三年に公刊されています。ピューリッツァー賞受賞者でもある歴史学者ウォルター・マクドゥーガルはこの本を絶賛し、こう言っています。「バンカーヒル[独立戦争時の著名な戦闘]からバグダードまで、アメリカの戦争は常に『神聖』であった。なぜなら、かつてのピューリタンから今日の世俗的リベラル、ネオコンサバティブそして福音派に至るまで、アメリカ人は自らの国を、必要ならば武力を用いてでも、世界を救済する使命を帯びた約束の地と思い込んでいるからである」。まさに西尾先生と同じ視点ですね。
一方で、アメリカのオールド・ライトの人たちは、宗教的な救済思想や「ワン・ワールド」オーダーに対して批判的です。アメリカにも西尾先生と同じように考える勢力があるわけです。しかし、これまでのところは「浄化しようとする人々」が主導権を握り続けている。 西尾 ネオコンにみられるように、その勢力は強くなっていますね。 福井 ただ中東介入の最近の泥沼化を見て、リアリストと呼ばれる中間派の人たちからも、やりすぎだという批判が出てきています。
西尾 批判はあっても、それを受けての抑制は戦争という手段にとどまっていて、金融という手段では逆に見境がなくなっていませんか。
福井 金融の場合はアメリカというより、むしろ超国家的なユダヤ人ネットワークの影響も大きいのではないでしょうか。先の金融危機以降、中小商工業者を核とした一般国民を意味する「メイン・ストリート」と「ウォール・ストリート」の対立という構図での議論がアメリカでも盛んに行われています。
西尾 前回、全世界反ユダヤ主義監視法を紹介しましたが、彼らの影響はあらゆる分野に及んでいるように思えます。
福井 アメリカのメディアや言論界では圧倒的な影響力を持っています。たとえユダヤ人の影響力に疑問を持っていても、私もそうですが小心者のインテリは怖くて声を上げられません。政治家として有能かどうかはともかく、人道主義者であることは確かなジミー・カーター元大統領ですら、パレスチナ人に同情的過ぎるとして、徹底的に批判されているのがアメリカの現状です。
西尾 一九六〇年代に世界を席巻した新左翼運動の教祖ともいえるヘルベルト・マルクーゼの影響を受けたリベラルたちが金融界に入り込み、現在の金融グローバリズムの原動力となっている金融工学というものを創り出した。やはりユダヤ金融資本とソーシャリズム、社会主義には親和性があるように見えます。実際、インターナショナリズムという点では同じでしょう。かつてのユダヤ人には国家がなかったから、ナショナルなものを否定する。わが日本もシングル・ネイションですから否定される。いま問題になっているTPPもそうですが、単一文化というものを認めない方向に国際情勢は動いているように思えます。
福井 一方でユダヤ人国家イスラエルは現在、世界で最もナショナリスティックな国です。先生や私の立場は、お互いのナショナリズムを尊重し、それぞれの違いを認めてほしいという「相互主義」に尽きるのですが。
西尾 そういうものでしょう。世界は、そもそも多様なんですからね。ところで、「ワン・ワールド」思想は、ブッシュ・ジュニア大統領のドクトリンである「プリベンティブ・ウォー」ともつながっていませんか。予防戦争、あるいは先制的自衛攻撃。
福井 予防戦争という概念は、かつてドイツも対ソ戦で主張しました。その時は荒唐無稽な説として一蹴されたのに、アメリカならよいのですかと問いたいですね。世界赤化の意図とそれを裏付ける巨大な軍備を持ったスターリン相手でも「荒唐無稽」だとすれば、貧弱な軍隊しか持たず対米侵略など考えられない田舎独裁者サダム・フセインに対する予防戦争など実に悪い冗談です。なぜ、日本のリベラルと称する人たちは、ブッシュ政権首脳を東京裁判と同じ基準で裁けと言わないのか不思議です。 とにかくアメリカは、自分たちは常に正しく、勢力均衡が我慢できない。その点、世界赤化を究極目標としたソ連共産主義と同じです。
西尾 そう、共産主義と精神的につながります。
福井 一種のメシア的、千年王国的な特異な発想です。
西尾 基本はキリスト教ですね。
福井 ユダヤ教に先祖返りしたようなキリスト教と言えるかもしれません。その根底にあるのが救済思想です。
西尾 それこそ、ニーチェが批判した思想ですよ。
福井 ニーチェのキリスト教批判の対象はプロテスタントですよね。カトリックは地上で神の国を実現させようなどとは考えませんから、葬式仏教ならぬ結婚式キリスト教として、ニーチェにとっては無害だったのでしょう。
西尾 ニーチェが救済思想を批判したのは、弱者が宗教的道徳を利用して権力者になろうとし、そこに虐げられし者が必要になるという構造があるからです。弱者は地上で満たされなかった権力遺志を天上で得ようとして救済の理念に走りますが、ニーチェは、そういう弱者を利用して強者になろうとしたり権力を得ようとしたりする人々を、最も賤しい人間、「賤民」だと厳しく批判しました。 カトリックとプロテスタントの違いは、いわば大人と子供の違いです。ヨーロッパ諸国の侵略は、動機が非常にはっきりしていました。奴隷が欲しかったのです。中世ヨーロッパは奴隷を否定していましたから、奴隷がいなかった。騎士道もありました。社会的弱者を擁護するのが騎士たちの義務であり、決闘でも相手を認め、勝者も敗者を許すのが一般的でした。それに対し、アメリカには中世がなく、奴隷を内に抱えている。騎士道もなく、勝者が敗者をとことんやり込め潰滅させるまで止めません。やり方が子供っぽいのは、プロテスタントが主流であることも影響しているかもしれません。
『正論』25年2月号より
(つづく)
混乱した事態の中にも合理性を求めるのが学問の役割だ。8月22日の本欄8で引用した矢内原の一文でも触れたが、丸山政治学は日本政治の無責任体制に対して、ナチスの責任体制を対比するという禁じ手を使った。しかし19世紀のイギリス政治も無責任に見える。思うに、闇のような産軍複合体が後ろめたい植民地推進を失敗覚悟で推進する場合、累が元首に及ばぬように、責任を曖昧にして行動することはその目的にとっては合理的だろう。しかしそれが何だろうか? その産軍複合体の正体、その行動の妥当性が問題だが、政治的合理性だけでは判断できない。『国富論』がそれを解明したが、正体不明の後ろ盾もあってまともには継承されていない。社会科学の最大の弱点は、ここに象徴的に示されている。アメリカの経済学の実態もその延長線上にある。私はこの半世紀来、西尾氏の世界観をこのような観点から興味深く見ている。
私は、両先生の対談の下記の箇所が、まさに日本が主張すべき思想(健全な相互主義ナショナリズム)で、私の7/4付け「息子達へ」で言いたかったことだと共鳴すると同時に、その対極の思想の(アメリカやユダヤやリベラリストなどの)インターナショナリズム、グローバリズム、コスモポタリズムとの戦いの容易ならざることに戦慄し諦念しかかっております。
西尾: ・・・・かつてのユダヤ人には国家がなかったから、ナショナルなものを否定する。わが日本もシングル・ネイションですから否定される。いま問題になっているTPPもそうですが、単一文化というものを認めない方向に国際情勢は動いているように思えます。
福井: 一方でユダヤ人国家イスラエルは現在、世界で最もナショナリスティックな国です。先生や私の立場は、お互いのナショナリズムを尊重し、それぞれの違いを認めてほしいという「相互主義」に尽きるのですが。
8/13付け読売新聞朝刊9面の論点で、元中国大使の宮本雄二氏は、歴史認識問題の外交問題化を回避すべしとして、敗者の歴史物語を国際環境が整わない中で主張しても外交的勝ち目はなく得策ではないこと、当面為すべきはユダヤ人が成し遂げたように数百年後の復権を期して正しい歴史を多言語で書き残すべく人材と資源を使うべきことを説いておられます。また、私の7/4付け「息子達へ」に、7/20付けでコメントして頂いた勇間真次郎氏は、拙文にエールを送られる一方、日本政府が歴史認識について「息子達へ」で提案したような主張をするには国連常任理事国と戦争を覚悟しない限り困難とし、国内世論・歴史認識の是正を優先し、世界のメディアが無視できないようにすべしとされています。
たしかに、現在のグローバリズムの伸長と錯綜した東アジア情勢の中で、日本の物語を主張すれば相当苦しい複雑な外交を強いられ、目的を達成することができないかもしれません。国内の意思統一が先だというのも分かります。私も個人でできることはやろうと思います。 しかし、安倍内閣での憲法改正論議では日本の国柄、歴史観が焦点になり、国内外の思想戦をどう戦うかが焦眉の急だと思います。そして、政府が外交が毅然と主張しない限り、多くの日本人は変わらないのではないかとも思うのです。日本人は統治性が高い性向があるといわれ、政府が毅然とすればその意思が浸透し易い根っこがあり、逆をいえば、フォロワーが旗を振ってもリーダーが冷淡であれば、なかなか火がつかないのではないでしょうか。 政府が毅然としない限り、自主歴史教育は封ぜられたままで、自主憲法も日本の物語も消滅し復活することはないと思われます。戦後約70年の日本の平和実績・国際貢献と、明らかになってきた歴史論拠があるなかで、敗戦間もない頃と異なり、帝国主義時代と異なり、勝たなくとも負けない外交ができないのかと思います。 もちろん、政府が立たなくても西尾先生に続くべく、主張を伝承を続けるつもりですが。
私の「息子達へ」に関連して、ブログを立ち上げるようにとのご助言が何件かありました。それに励まされ、IT音痴で不備だらけですが、とりあえず下記のブログを試作し立ち上げましたのでよろしくご教示お願いいたします。 http://rakuaki.blog.fc2.com 私は工学系の出身なので、文科的教養に乏しく具体的にどうするかの方により興味があります。とくに、今後の憲法改正での歴史観論争が焦眉の急だと思います。 その意味では、指導的立場の人の去就に注目しできるだけ影響を与えることを急ぐべきかと思います。もちろん、より広く日本の物語を浸透させ伝承させることはベースワークとして続けるのは必須だと思います。
以上 定年退職研究者62歳男性=楽秋庵の庵主