「アメリカ観の新しい展開」(十四)

「大陸介入をことごとく邪魔した日本」(西尾)
「日本は『ワン・ワールド』を理解せず」(福井)

 西尾 太平洋を西へと拡大していったアメリカはフィリピン支配まではストレートに武力を行使しましたが、なぜ中国大陸を目前にしながら軍事侵略をしなかったのか。一つは、大陸には既にロシアやイギリスが入っていて、出遅れたということがあったでしょう。そこに割って入るために、国務長官のジョン・ヘイが「オープン・ドア(門戸開放)政策」を要求してもいます。  アメリカはここで屈折して足踏みしましたが、それでも改めて三つのコースから大陸に迫ろうとします。第一のコースは、満洲進出を手がかりとする北方コースです。アラスカ経由ですからロシアが邪魔で、日本を戦わせて抑えた。ところが、気がついてみると、満洲にはロシアの代わりに日本が居座ってしまった。それでもアメリカは満洲での投資をあきらめません。満洲をめぐる米英ソ、そしてドイツの駆け引きは、多くの史実として残されています。鉄道や橋、道路に投資をして、現地の人々から通行税をとる。これは確実に日銭が入ってきます。そして工場に投資をして、金利を吸い上げる。まさに経済侵略です。

 しかしこれも失敗に終わり、アメリカは第二のコースに乗り出します。この対談の第二回でも紹介しましたが、中国の中央部上海を中心とした文化侵略、教育侵略です。教会や学校を建て、そこを拠点に憎い日本の排撃を煽って日中離間を策しました。シナ人に日本の商品ボイコットをさせるなどし、満洲事変から支那事変に入るころには日本人が襲撃される事件も相次いでいました。

 排日にはイギリスも同調しましたが、ロシア革命後にはコミンテルンが煽動の主役になりました。そして、英米とコミンテルンは手を結んだ。私はその契機は一九三六年の西安事件だと考えています。そこで第二次世界大戦の構図が出来上がった。

 福井 確かに米英とソ連は、日本を叩きたいということで利害が一致していました。「ワン・ワールド」オーダーを目指すアメリカとしても、その邪魔になるイギリス、ドイツ、ソ連、そして日本のすべてを同時には敵にできず、順番に追い落とすことになります。まずは日独を蹴落とし、その過程でイギリス、大英帝国も没落させる。そして最後はソ連を蹴落として今がある、ということでしょう。

西尾 アメリカが第一と第二のルートで足踏みした後に目指したのが、フィリピン、グアムを拠点に、イギリスやオーストラリア、オランダと南太平洋で組んで、南から中国に入っていくという第三のルートです。いずれのルートでも最大の障害は日本であったわけですが、言うまでもなく第三のコースで日米衝突は決定的局面に至ることになります。

 だから、日本が戦争を始めたのではなく、アメリカが三つのルートから迫ってきて日本を排除しようとして大東亜戦争の開戦に至ったと私は理解しています。これも、従来の歴史学、歴史研究では言われていない視点だと思います。

 福井 ただ、アメリカが中国大陸に介入した理由として経済的動機が大きかったとよく言われますが、本当にそうでしょうか。そうした説明は当時もなされていましたが、実はアメリカにとって親中反日政策に経済的合理性はありませんでした。アメリカの実務家たちは「中国よりも日本との貿易のほうが儲かる」と主張していました。経済的には合理性のない極東政策だったわけです。

 西尾 確かにアメリカは大陸に膨大な投資をしたけれども、満足な利益を上げることができなかった。日本も、一九四〇(昭和十五)年に日米通商航海条約が廃棄されるまでは莫大な貿易量からして日米開戦はありえないと考えていました。経済的動機ではないとすると、アメリカを動かしていたのは別の使命感だということになりますね。

 福井 そうです。「ワン・ワールド」オーダーに照らせば、地域に覇権国が登場するのは困る。そこで日本を叩いたということだと思います。逆に中国が強すぎたら中国を抑えにかかる。今がそうでしょう。

 当時、日本が地域の覇権国になるのをあきらめて、アメリカのジュニアパートナーになると宣言していれば、戦争にはならなかったのかもしれませんが、第一次大戦前の欧州中心秩序の優等生「名誉白人」であった日本はそんなアメリカが理解できなかった。「ワン・ワールド」オーダーは、「バランス・オブ・パワー」、いわゆる勢力均衡による外交に対する革命ですから。

 西尾 日本の政治家や知識人には想像もできなかったでしょう。当時、わが国では「日本のモンロー主義」ということまで言われていました。「南アメリカは北アメリカのもの」というモンロー主義をアメリカが唱えるのであれば、アジアは日本が、アフリカはヨーロッパが管理するという形で棲み分けができると考えていた。しかし、実際にはアメリカはそういう棲み分けも「地域の帝国誕生は許さない」として認めなかった。

 福井 アメリカにも、国際法の泰斗ジョン・バセット・ムーアのように、極東の現状変更を否認したスティムソン・ドクトリンを批判し、日本の東アジアでの優位を黙認する識者もいました。しかし、ルーズベルト政権が日本の屈服を目的としていた以上、 それを真正面から受け止めた当時の日本人は戦わざるを得なかった。

 西尾 そうです。やるべきことをやったんです。立派だったんですよ、日本人は。  

 福井 今の日本人が「負けるに決まっていたのになぜアメリカと戦ったのか」と当時の日本人を批判するのは冒?です。例えばソ連がフィンランドを攻めたとき、フィンランドは負けるに決まっているのに戦った。しかし、そこでフィンランドは戦ったからこそバルト三国と違って戦後の独立を保った。それと同じだと思います。

『正論』25年2月号より

(つづく)

「「アメリカ観の新しい展開」(十四)」への2件のフィードバック

  1. 「鳴くまで待とう」と譬えられた家康は慎重居士で知られているが、よく言われるように、彼の成功の主要原因は大義名分を何よりも重んじたことにあった。ソ連から攻められたフィンランドには抵抗する大義名分があった。しかし日米戦争にはどんな背景や挑発等があったとしても、先に攻めたのは日本であり、米国はそれに反撃したのだから、その限りでは、大義名分は米国側に持っていかれた。そこがフィンランドの場合と決定的に異なる。日本は攻める前に、大義名分で優位に立てる努力に徹するべきではなかったか? それを可能にさせる政治体制でなかったと言ってしまえば、それまでだが。今の西尾氏の役割は、その大義名分の割合を0対10から3対7とか、あるいは逆転させることすら展望しているように見える。そうであればこそ、事実認識は単なるお国びいきや怨念によるのでなく、厳正さが求められる。

  2. 8月22日の本欄8の矢内原著(167頁)に次の一文がある。
     「19世紀の中頃に現れしゴピノーの『人種不平等論』を以って代表せらるる白色人種優越説は当時帝国主義的領土拡張の精神的弁護として援用せられ、先天的に白色人種は統治するもの、有色人種は統治せられるべきものと解せられ、これに基きてアフリカ及び太平洋の征服支配が弁護せられ次いで支那の分割が公然予想せられた。かくの如き帝国主義心理の迷夢を覚醒したるは日露戦争における日本の勝利であって、アジアは必ずしも白人に支配せられるべく造られたるにあらざることを示した。」
     この後に、各地の有色人種の独立機運が強まったことが記されている。私は8月25日の本欄1で、アメリカのインディアンの件に触れたが、そこには、上記のような人種差別が絡んでいただろうことを補足したい。ちなみに、18世紀後半のアダム・スミスは、例外的に人種差別意識を払拭していた。
     

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