小暮満寿雄Art Galleryより

2013年8月16日の小暮満寿雄さんのブログより、許可を得て転載します。

「天皇と原爆」~日本人は宗教に頑固?

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西尾幹二氏の「天皇と原爆」読了しました。

あ@花さんのススメで読んでみましたが、これは大変な名著ですね。
近頃になく感銘を受けました。

西尾幹二氏はニーチェ研究でも知られるドイツ文学者ですが、文字通り知の巨人であり、本書ではその碩学を遺憾無く発揮してるばかりか、ひじょうに読みやすく書かれているます。

「海賊とよばれた男」にもあるように、先の大東亜戦争が石油による戦争だっというのは周知の事実ですが、西尾氏は、欧米の植民地時代まで時間軸を伸ばし、かの戦争はアメリカと日本の宗教戦争だったという見方をしています。

それは天皇を中心にしたわが国の多神教と、キリスト教一神教の戦争という意味であります。もちろん、それが戦争の物理的原因というのではなく、戦争の根底にあったメンタルなものという意味であります。

ここで肝要なのは、わが国の方では、かの大東亜戦争戦争が宗教戦争のつもりはさらさらないということです。
ところが米国側の方は唯一神を頑として受け入れない日本人に対して、苛立ちと憎しみを感じていたというのです。

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さて、以下は本の内容とは少々ズレるところはありますが、よろしければお付き合いのほど。

私たちは日本人というものが、宗教に無関心、無宗教だということを変に信じています。しかし口では「無宗教」と言いながら、正月には初詣に行くし、お社やお寺の前ではキチンと手を合わせる。
挙げ句の果ては結婚式を教会で行い、平気で祝福をするという、一神教の人たちから見ると悪魔の所行に等しい理解に苦しむ行動をします。

これは西洋人の視点から言えば、明らかに無宗教ではなく「多神教」であります。

あちらの無宗教はatheism、無神論であり、「神はいない」とハッキリ否定します。ドストエフスキーの小説にも出てくるような、激しい無神論者は私たちが「無宗教」というのは明らかに違います。

「天皇と原爆」の中には、ある人が米国で宗教について尋ねられたくだりがあります。「何の宗教を持ってるのかね」と聞かれ、「ありません」と答えたら悪魔でも見るような顔をされたというのです。それで、「本当に何も宗教を信じてないのかね?」と聞かれ、仕方なく「仏教です」と答えたら、相手は安心してニコニコしたというのですね。

無神論者は悪魔視されるということですが、これは日本ではありえないことで、ある意味一神教の裏返しとも言えましょう。

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フランシスコ・ザビエルが日本に布教へやってきて、およそ470年になりますが、日本におけるキリスト教徒の数は一向に増えません。

明治時代、人口の1%だったクリスチャンは今でも横ばいと言いますが、それはひとえに日本人の一神教ぎらい、原理主義ぎらいによるものであります。

インドではカーストの苦しみから逃れるために、クリスチャンに改宗した人は多いですが、フィリピンや韓国などは、そういう理由以外で比較的容易にキリスト教化が進みました。
ところがわが国ではキリスト教徒の人口は一向に増えない。

ひとえにこれは一神教に対する拒否反応に加え、日本には古来より天皇という神の存在があったからだというのですね(ただ、天皇の存在に関しては長くなるので、今回は割愛)。

これは本に書かれてないことですが、特定な宗教を信じてない人の中には、新興宗教などに勧誘されると「宗教だ」と引いてしまうのも、そんな一神教に対する拒否感かもしれません。そんな「宗教」に引いてしまう人も、墓参りには行くし、初詣には行くのですから。

ザビエルもアメリカも頑としてキリスト教一神教に染まらない日本人に、苛立ちを感じ不気味さを感じた。それが米国側の憎しみとなって、日本とアメリカが戦争するように方向づけたとありますが、なるほど腑に落ちる話であります。

なわけでこちらは、以前ボツになった仏教本の企画書に使ったマンガです。
いずれ復活させてみせますが、仏教オンリーとはいかんだろうなあ。

今回は本の一部しかご紹介できませんでしたが、「天皇と原爆」は日本人なら一読の価値があります。ぜひお読みくださいませ。

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「小暮満寿雄Art Galleryより」への5件のフィードバック

  1. 日本には宗教を意識しないまでに厳然と存在する日本教なるものがあります。その表徴が天皇および皇室であり神話の時代からの継続性を持ちそれに繋がることによって日本人は自己同一性を感じ一神教を受け入れないのだと思います。

  2. 人間社会に関わることについては、理数系と違って、意見が対立する事柄にはお互い様の側面があろう。和魂洋才と言う場合、洋才だけを利用すればよいとされるが、洋才には洋魂の要因があろう。それが一神教に基づく合理化精神だ。和魂や漢魂からは洋才に匹敵する才を生み出せなかった。だから、洋才を率先して導入したのだが、だとすれば、その基になった洋魂の役割もそれなりに評価するのが大人の対応であろう。一神教に基づく合理化精神(M.ヴェーバー)の果たした役割への理解がかつて不十分だったことが、あらぬ対立を一層こじらせてしまったように思われる。

  3. ずっと以前にある医師が「人は死なない」という著書をだしたので、すぐに入手して読んで感銘を受けアマゾンでコメントも書きましたが、今見たらコメント数がえらい数になっていてベストセラーになっているようです。日本人にとっても魂の追求は永遠のテーマなのでしょう。先日イギリスのホーキンス博士は人間は有機的物質に過ぎない、すべての宗教は迷信だとふたたび断言していました。世界が、特に先進国が、人間が霊的存在かどうかで真っ二つに分裂しています。魂があるかどうかはわからないという不可知論や非科学的思考が社会を混乱させるという自称科学人が間に入って三つ巴の闘いになっています。日本人の統計調査では1958年には魂の存在を信じる人が2割だったのが、2008年には4割と倍増し、しかも若い世代ではなんと5割が魂を信じているそうです。かといって宗教を肯定的に考える人が増えているわけではなく、逆に科学も宗教も人間を救うことができないと考える日本人は増えているのです! 私は魂の存在を信じるというか、信じる振りをしているので、この傾向は良い傾向だと考えます。人間はなにか霊的生き物であるが、特定の宗教に頼らず自分で悟るべきであると考える日本人は素敵だと思います。そういう日本人が熱狂的信者にならずに正月に初詣をしながら仏教で葬式をあげキリスト教式に結婚式をあげるなど平均的日本人となっているのでしょう。そして以前はこういう思考様式を批判する外国人が多かったですが、最近はネットや出版物を見ても世界的に見直されているように思われます。

  4. 東京裁判における中国への侵略罪の対象は中国ではなく、欧州諸国の支配地域つまりそれら欧州諸国への侵略罪だそうである。インドのパール判事がその侵略罪に対して無罪を主張したのは、そういう背景があったからだろう。そうだとすれば、それは確かにおかしい。しかしその判決は講和条約で確認されている。今さら後戻りできない。「悪法も法なり。」これが実定法だ。こういう形で過去の植民地支配は正当化された。にもかかわらず、植民地の大部分は解放されてしまった。ということは、植民地支配に正当性が無かったことを結果的に証明している。
    法思想には実定法の根底に自然法を認める。つまり悪法が法であっても、それは自然法によって是正されうる。それを為しうるのは学問である。カントは「批判」の場を法廷になぞらえた。アジアでの植民地化の発端はインドだが、これを告発したのはスミスである。しかしその告発はJ.S.ミル(東インド会社員)によって黙殺され、スミス経済学は曲解され、棚上げされてきた。私がスミス経済学の復位を唱えるのはそういう根拠に基づく。

  5. 8月20日の本欄8で、J.ミルがリカード著(1817)の出版に尽力したとき、「東インド会社勤務」と記しましたが、これを「その2年後に東インド会社に勤務」に訂正させていただきます。8月22日の6にも関連します。
    なお、J.ミルは10年以上かけて『英領インド史』を執筆し、1818出版の翌年に同会社に入り、中枢の通信審査部で働き、息子のJ.S.ミルも同部に所属します。彼らのインド文明化の尽力を疑うものではありませんし、学界でもそのように見られてきましたが、結果的には、反乱⇒制圧で終わってしまいます。彼らが余りにも良心的であるがゆえに、彼らが擁護・継承したリカード説によるスミス理論克服を疑う者は拙著を除き今日まで現れず、近来のミクロ・マクロ経済学の軌道が設定されたわけです。ただし、この経済学をスミス市場視点から批判している学派は、ハイエク以降、大きな流れとなっています。

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