いま私の生活の最大部分を占めているのは全集の刊行と正論連載である。この二つを仕上げるために他の小さな仕事は次第に縮小せざるを得ないと思っている。
全集は資料蒐集つまりテキストの確保にはじまり、編成、校正、関連雑務とつづく。正直、息が抜けない。
今月20日にようやく第8巻『教育文明論』が上梓される。何のかんのと言っているうちに8巻まで来て、三分の一を過ぎた。
月報は天野郁夫氏(東大教授)と竹内洋氏(京大教授)の二人の教育社会学者におねがいした。このご両氏と侃侃諤諤の議論をし合った往時(1980年代)が懐かしい。
まず目次をご覧いたゞきたい。私の45歳から55歳にかけての脂ののり切った10年間の全エネルギーが「教育改革」の一点に注がれたのである。
目 次
Ⅰ 『日本の教育 ドイツの教育』を書く前に私が教育について考えていたこと
今の教師はなぜ評点を恐れるのか
九割を越えた高校進学率――もう一つの選別手段を考えるべきとき
教育学者や経済学者の肝心な点が抜けたままの教育論議
わが父への感謝
競争回避の知恵と矛盾
文明病としての進学熱――R・P・ドーア氏の講演を聞いてⅡ 日本の教育 ドイツの教育
第一章 ドイツ教育改革論議の渦中に立たされて
第二章 教育は万能の女神か
第三章 フンボルト的「孤独と自由」の行方
第四章 大学都市テュービンゲンで考えたこと
第五章 世界的視座で見た江戸時代以降の教育
第六章 進学競争の病理
第七章 日本の「学歴社会」は曲り角にあるか
第八章 個人主義不在の風土と日本人の能力観
終 章 精神のエリートを志す人のために
あとがき
主要参考文献Ⅲ 中曽根「臨時教育審議会」批判
自己教育ということ――『日本の教育 智恵と矛盾』の序
どこまで絶望できるか
「中曽根・教育改革」への提言
経済繁栄の代価としての病理
矛盾が皺寄せされる中学校教育
校内暴力の背後にあるにがい真実
臨教審、フリードマン、イヴァン・イリッチ
「教育の自由化」路線を批判する
「競争」概念の再考
教育改革は革命にあらず――臨教審よ、常識に還れ――
再び臨教審を批判する
臨教審第二部会に再考を求める
臨教審第一次答申を読んで
なぜ第一次答申は無内容に終わったか
「自由化」論敗退の政治的理由を推理する
文教政策に必要な戦略的思考
「臨教審」第二次答申案を読んで
大学間「格差」を考える
飯島宗一氏への公開状
臨教審最終答申を読んでⅣ 第十四期中央教育審議会委員として
講演 日本の教育の平等と効率
西原春夫前早大総長への公開質問状
大学審議会と対立する中教審の認識
中教審答申を提出して
有馬朗人東大学長への公開質問状Ⅴ 教育と自由 中教審報告から大学改革へ
プロローグ
第一章 中教審委員「懺悔録」
第一節 指導者なき国で理想の指導者像は描けず
第二節 「教育改革」論議はなぜ人を白けさせるのか
第三節 答申から消された文部省批判
第二章 自由の修正と自由の回復
第一節 「 格差」と「序列」で身動きできない日本の学校
第二節 文部省文書のスタイルを破る
第三節 公立学校と私立学校の宿命的対比
第四節 入学者選抜は「大学の自治」か
第五節 なぜ地獄の入口に蓋をするのか
第三章 すべての鍵を握る大学改革
第一節 混沌たる自由の嵐を引き起こすために
第二節 私の具体的な大学改革案
第三節 “競争の精神(アゴーン)”を忘れた日本の学問
終 章 競争はすでに最初に終了している
第一節 誰にでも開かれているべき真の自由
第二節 効率から創造へ
付 録 学校制度に関する小委員会審議経過報告(中間報告)抄録Ⅵ 大学改革への悲願
大学を活性化する「教育独禁法」
講演 大学の病理
有馬朗人第十五期中教審会長にあらためて問うⅦ 文部省の愚挙「放送大学」
後 記
大学時代に旧制松本高等学校の名物教授だった蛭川幸茂先生のご自宅によく遊びに行っていました。先生ご夫婦は手塚富雄先生の仲人で結婚されたようです。人生に悩んでいた私の愚痴を聞いていただきました。あるときヒルさんが「日本はアメリカの植民地だよ。沖縄に行けばよく判る」とおっしゃいました。私は学校の歴史教科書や新聞等でアメリカの都合のよい情報でプロパガンダされていましたからそのお言葉が奇異に聞こえ、強く印象に残りました。こうして西尾幹二先生と書籍やブログで真実を知ることが出来、私は幸せです。
私は教育問題のまったく門外漢の専門馬鹿ですが、実体験だけで言わせて頂ければ、男女間には10歳代前半の頃には肉体的・精神的な平均成長度にかなりの格差(1年以上?)があるのではないかと感じています。こういう条件の下で男女共学が行われた場合、同年同士は当然に同格と考えているのに、平均的には諸々の格差が生ずるとすると、その期間に比例して、優越者側は自ずと劣等者側を見下す性癖が身についてしまう。この最後の部分は私の専門領域で言えることですが、前半の部分は私的な実感にすぎません。しかしそれが事実だとすると、最後の部分の危惧が現実化してしまいます。この疑問は成立しないのでしょうか? 成立しなければ、それは幸いですが。
小学生の一男一女の親です。
うかつにも西尾先生がこれほど教育論を書かれているとは知りませんでした。全集のご刊行ありがとうございます。学ばせていただき、親として社会人として少しでも向上したいです。
親の影響か、息子は日本史フリークで、世界史で大学受験した私をはるかに超え、最近、親は相手にならずの風を増してきました。この前、西尾先生のことを話したら、本棚の御著書を手にとってながめていました。さすがに息子にはちょっと無理だったようで、この時ばかりは『大学いったら読めば』と言ってやり、優越感にしたることができました。
男女の発育段階の違いが孔子の言った男女7歳にして席を同じゅうせずかと思います。
専門馬鹿を自認した手前、もう一つ初歩的疑問を言わせてもらえば、8月4日の本欄21,23の福原氏によれば、東京裁判の侵略罪は中国へのそれでなく、列強の支配地域へのそれだそうです。当時の国際法では多分そうでしょうが、それが事実だとすると、なぜそのことが周知されていないのか?ということです。同裁判に批判的な方は数多くいらっしゃるのに、先の件が伝わってこないのはどうしてでしょうか? そこに何か不都合かタブーでもあるのでしょうか? それとも単なる私の不勉強でしょうか? 同裁判は「勝者の裁き」として度々耳目に触れますが、それだけではごまめの歯軋りにしか聞こえません。だが、その侵略罪の内容を一言言えば、それは即刻理解されるのではないでしょうか? 外野的な、勝手な意見で甚だ申し訳ありませんが、恥を忍んでお尋ねした次第です。
それが事実だとすると、今度は植民地のあり方が問われることになります。そうすると、それはわが身に跳ね返ってきます。同裁判批判者はそのことを恐れているのでしょうか? そうなら、その批判はインパクトに欠けますね。
西尾先生の教育分野の著作は内容の深いものが多かったですね。「日本の教育 ドイツの教育」もそのひとつで傑作ですね!
個人的には「わたしの昭和史Ⅰ(少年編)」も教育問題に関するいろいろな示唆と問題提起にあふれていると思います。
時代は昭和24年でしょうか。「青い山脈」に2週間で5百万人の国民が殺到した時代です。「偉人をあげなさい」という学校の授業で先生は秀吉をあげた。すると先生が「西尾、お前は秀吉がどういう人間か知ってるか」「秀吉は独裁者じゃないか。民主主義的人物ではない。これからの人類が模範にできるような人が偉人ではなかったのか」と指摘した。
西尾先生は当時の日記から「僕は秀吉の持つある精神が立派だと思うからいいと言ったのです。民主主義だからどうとか、封建主義だからどうというのではなく、そういう主義は関係ないと思います・・」と答えたとのこと。
それに対して、この教師は引き下がらない。「西尾、秀吉は何人もの女性を自分のものにした人物だぞ。先生は秀吉が嫌いだ。人間として勝手なことをした独裁者的な男なんか偉人でもなんでもない」「西尾に言っておく。お前はいつも我を通す。素直ではない。そんなことでは伸びるものも伸びない」。
時代背景がよくわかります。戦前までの教育が全否定され民主主義が万能と思われた時代ゆえの非喜劇ですね。民主主義は国家の近代化のために必要な要素ですが、民主主義だけで国家や社会という共同体ができるわけではない。そこには共通の歴史共同体的な精神基盤があり、それにより社会の安定がもたらされるのだということが重要です。それが直覚できない人間には、現代の価値基準にあわない歴史上の偉人どうのこうのはすべて過去の残滓のように思うわけです。
中曽根さんの教育改革のための臨教審もおぼろげながら記憶に残っています。なんでまた中曽根さんは日教組の槙枝氏などを臨教審にいれたのか。ほんとに滑稽なことです。本来日教組など排除すべきだったが、あまりに左翼の勢力が強くて無視できなかったのでしょう。世界的には共産主義左翼は解体されていたのに日本では左翼が日本の中枢を支配していた。異常な時代を象徴しています。
訂正します。本欄5の2行目 21,23 ⇒ 22
東京裁判で日本国軍部は「侵略罪」を犯したとして裁かれ、その後、日本政府は講和条約の冒頭で改めてこれを受け入れた。細部はともかく、大局的にはこれが厳然たる事実だ。「侵略罪」は歴史上初との事で、甚だ不名誉なことだが、政府と共に国民はこれを受け止めていかざるを得ない。その罪を犯した相手が当時の支配国であっても、そしてその国が撤退して支配者が変わっても、先の講和条約の条文を変えない限り、国際法上、それは有効である。対象国が中国でないということは当時の混乱の反映だが、だからと言ってその地域に日本軍が侵略した事実は変わらない。これこそ、敗者が負うべき歴史の宿命というものだろう。もしこの判決に瑕疵があるとすれば、それはすでに過去となった歴史評価の中で検証していくほかはない。その決着がある程度付くまでは、日本国は先の罪を負っていかざるを得ない。
では、なぜこういう結果を招いてしまったのか? その責任をその直接的当事者だけに負わせることはできまい。これも、細部は別にして大局的に見れば、明治維新以後の文明化が遅きに失したということであろう。とすれば、徳川幕府時代の早期から外国文明を導入していれば、より早く文明化できていたはずだ。そうすると、江戸時代の後進性=自虐史観ということになるのだろうか? しかし明治以降の文明化を否定しない限り、それがもっと早いに越したことはなかったという見方はごく自然ではないか? これをも自虐というのは不当だ。江戸時代に先進文明の導入を妨げてきたことの付けが、その後の敗戦に導いた内在的理由であろう。もちろん、その他の外在的理由も多々あろうが、他国のことを言っても詮無いことだ。こういう自己解明を教訓にして、今後の日本の発展のために最善を尽くすほかはあるまい。
日本がより早期に、よりベターな文明化の途を歩んでいる過程で、どこかの外国から不当な干渉を受けたと想定されるような場合に、初めてその外国のあり方が問われるのではないだろうか? そのプロセス、つまり自己反省を抜きに、かの戦乱の責任の多くを他国に転嫁してしまうのは如何であろうか? 私自身は上記のような想定をした場合でも、諸外国に戦乱の責任を問うことができると考えている。それがすなわち、植民地体制ということだ。とくにその主導国はイギリスであり、その発端はインド支配である。A.スミスは重商主義批判(1776)の一環として、インド貿易の自由化を主張し、その書の評判は上々だったが、約40年後にその理論が誤解され、そのインド論も一蓮托生に葬られてしまった。私はここに世界史の重要な分水嶺があったと見なしている。
19世紀末ごろから、この植民地縄張り争いを「帝国主義」と呼ぶようになり、それが資本主義発展の必然的帰結であるかのような議論が支配的となったために、日本政府も含め、それへの対応が混乱を極めてしまう。元来、その縄張り争いは「重商主義」=独占精神として17世紀以来行われてきたもので、これを A.スミスが厳しく批判して解決済みと見なされたが、それはインド支配としてしぶとく継続されてきた。その後19世紀来の植民地化はその継承に他ならず、重商主義の成れの果てだった。したがって、それはスミス的資本主義像でもって克服可能な脆弱なものだった。そういう認識が主流となっていれば、植民地化の歴史もかなり変わっていたはずだ。ところが、スミス説を棚上げしたJ.S.ミル(東インド会社員)以来の主流派経済学が植民地化を黙認し、帝国主義論とそれに伴う混乱を助長してしまった。もちろん、これはお坊ちゃまミルにとっては思いもよらないことであったろうが。
スミス経済学は人間学的かつ内生的だ。東インド会社は武力を併せ持つ企業だが、その構成員は同社を否定したスミス経済学に密かに抵抗した。同社はミル父子を抱え込み、スミス経済学をリカード⇒ミル経済学にとって代えることに暗躍し、インド支配の維持に成功した。また、スミス経済学は人間能力の伸長によって内生的成長を見通すが、それを退けたリカード=ミル経済学は人間能力一定と想定する。そうすると、成長は人口増・資源増など外生的要因に支えられる。ここから、植民地の必要性も論証される。時代の泰斗ミルは社会主義にも好意を寄せながら、植民地化を推奨した。そしてその後の経済学はこれを継承する。この成長要因を外生的なものに見る認識では、マルクスやレーニンも同様だった。植民地制度が崩壊した大戦後に、ハイエク等がスミスの内生的成長論を評価し始め、今は改変の過渡期にある。
上記の私見は基本的には拙著等で論じてきた独自の理論的新説なので、賛同者は極めて限られているが、これに対し未だ根本的な異論は寄せられていない。ただし、インド植民地をめぐる議論は、頭の中にはあったが、本欄連続投稿中に図らずも言及した新説である。これらは先の理論的新説を踏まえないと、提起できない。しかも、そこには道徳哲学視点やそれを踏まえた法視点が関わってくるから、雑念にとらわれず、よほど素直にスミス全体像を理解してあげないと、すっきりした結論は導き出せない。私は様々な雑念にとらわれてきたが、それらを潜り抜けて上記のような結論に達した次第である。私は西尾氏の諸著書の9割程度には目を通してきたが、その見解に社会科学畑から応えることをこれまでの課題にしてきた。ここでの一連の投稿にもそういう含意がある。
J.S.ミルは父に次いで東インド会社に就職し、通信文書の審査部長という要職を担当していた。彼は当時の代表的な経済学者(1848)となったが、その理論は父のそれを次いで、リカード経済学(1817)を継承するものだった。リカードはスミス基本理論(1776)を誤謬として退けたが、それはスミス理論に支えられた東インド会社批判を根底から突き崩す意味を内包していた。そうすると、ミル経済学はリカードの肩を持つことを通して、スミスの東インド会社批判を無効化する判断を下したことになる。スミスの判断論では、「公平な」判断は利害関係の無い立場からなされるべきだと言われていたが、この場合のミルは自らの利害のある立場から、それに関わる判断を行使したことになる。もちろん言論は自由だが、問題はそういう不公平が経済学に混入していたにもかかわらず、それが不問に付されてきたということだ。こうして、スミス経済学は棚上げされ、ミル経済学が主流として継承されていく。しかしリカードのスミス理論批判は誤解であることを、拙著(2002、2010)がはじめて明らかにした次第である。この最後の点について、最近、イギリスとイタリアの各学者が同様の見解を表明し始めた。
訂正です。本欄11の最終文中の「お坊ちゃま」を削除します。
ハイエクはオーストリー人で、ロンドン大学教授としてイギリスに帰化し、戦後シカゴ大学、晩年にフライブルグ大学に就いたが、戦後の滞英中に、功利主義のベンサムとJ.S.ミルを痛烈に批判し、A.スミスをこの上なく評価した。彼はインド論については言及しなかったが、前述の私見と余りにも一致しているのは偶然であろうか? もちろん、私見はハイエクのそのような観点はよく承知はしていたが、それを知る以前からそのように見なしてもいた。
星野さんのご高説もっともなれど、このブログにコメントするのは場所柄が異なると思います。あくまでもブログの趣旨に沿うコメントをお願いしたいと思います。
ご指摘了解です。ただ、一見関係ないようでも、次回の本欄のような落ちもありますので、ご理解いただければと思います。したがって、本件については次回で一段落しました。